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深爪エリマキトカゲ
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ゆくとしくるとし(´15→´16)1
今日はくもりで、雨が降る可能性は低そうですが星は見えないでしょう。
はちまんさんへ登る山道はまっくらですね。
雨が小ぶりくらいなら行くつもりですが、なんとかもちこたえてもらいたいものです。

+*+*+*

さて、この1年を振り返ってみましょう。

さっき書きましたが、出来事としては今年は本当に何もありませんでした。
ちょっとしたことで言えば…GWの時期(会社のGWは世間とズレていて、今年は6月最初でした)に旧友と会いたくなり、3,4人ほど会う予定を組んで実家に帰りました。
なにかの本に影響されてだった気がしますが、そうやって会うことでなにかを確認しようとしたことは覚えています(「なにか」ばっかで何も覚えていない言いぐさですが…)。
で、会ってみて、変わっていない(みんなそれなりに社会に適応している)ことに安心しました。
面白い話を期待したわけではなく、実際マジメな話しかしませんでした(仕事や生活の話)が、なんというか、「ふつう」という言葉は漠然と使われると反発したり、自分が漠然と使うと大した意味もないのに変に意味を持ってしまって持て余すことがあるのですが、友人の具体的な仕事や生活の話を聞くと、その「ふつう」に実質が備わった気がして、そのことに安心したのでした。
まあそのことと、自分もその「ふつう」に倣うことは別問題ですが。

なんだかここでの「ふつう」という言葉の使い方が、旧友の一人ひとりの仕事や生活に特徴がないことを強調しているように見えると困るのですが、僕のいう「ふつう」は彼らの具体的な生活内容に向けられているのではなく、それぞれの個性ある生活を社会と折り合って営んでいることによる彼らの(「社会の成員としてそれなりにやっていますよ」という)安定感に対して僕が抱く印象のことです。
こういう人が一定数以上いないと社会が成り立たないという意味で、とても広い意味で(というのは、例えば会社にとっては彼一人がいなくなってもうまく回るだろうから…という言い方も誤解を招きそうですが、これもその人個人の性質に起因するのものではなく、「よくできた会社」の仕組みとしてそうなっているということです。欠けると社命に関わる人ばかりが成員の会社は長生きできません)「必要不可欠」な存在で、必要とされる人がそれなりに充実して生活できる社会は平和だと思います。

この安心は恐らく会社なりで付き合いがあれば自然と得られるものだと思いますが、僕にそれがないのは会社の人間関係がプライベートにまで及ぶことがほぼないからです。
もちろん一緒に仕事をしているというだけで会社の一員だという安心感があるわけですが、仕事とプライベートが明確に分かたれている場合、仕事上の安心感(「現実感」とも言い換え可能でしょう)がそのままプライベートの安心感にもなるかといえば、「そのまま」ではないだろうと思います。
もし生活上必要最低限の仕事上・プライベート上双方の安心というものがあるとすれば、僕は後者は思考(思想)と習慣作りによって満たしていることになります。


ここで思想の話を書いてみようと思います。

思想とは、一つ前の記事で少し書いた気がしますが、ここでは生活の行動あるいは思考のベースとなるもの、そして気分や身体性(「なんとなく」とか「そのほうが元気になれそう」とかいう理由づけのベースはこれらにあります)よりは理念的な…なんでしょう、行動指針・思考基盤とでも言いましょうか。
ブログ(「緩い井戸コアラ鳩詣」という普段更新している方のブログです)を書くペースが今年の半ばくらいから基本週1,2くらいになりましたが、それは「思いついたら書く」という方針は以前と同じものの、普段の(ブログを書くことを除いた)生活を圧迫しないために自然とそうなりました。
ブログを書くことも生活の一部ではありますが、読書や散歩とは質が違うなと思っていて、読書や散歩は「思想の核をつくる生活要素」であるのに対し、ブログを書くことは「思想の核を(言葉という)形にする生活要素」だと考えることができます
で、たぶんその今年半ばからは、思想の核を育てることを前よりも意識して(今書きながら考えていることなのでこの言い方も変と言えば変ですが)書いているのかもしれません。

だからといって今年ブログに書いてきたことをここで繰り返すつもりはなくて(ここではあくまで、発想元としては今の自分だけをベースに書きます)、だからその書いてきたこととここでこれから書くことが矛盾することもあるでしょうが、それは「(例えば、一貫性がないじゃないか、という意味で)解答が間違った」のではなく「問いが出現した」ことを意味します。
何か導きたい結論なり命題なりがあって、それを目指して論理を展開させていくならば、正しいか間違いかという判断は基準を設定すれば可能です。
でも僕のやっていることは、ブログを書くその時々における自分の考えや想像、連想を書くことであって、その考えが時を経て矛盾を生むことになったとすれば、その矛盾には「自分が新たに考えるべき何か」が含まれているかもしれないのです。

人はいくつも矛盾した考えを自分の中にいくつも持っていて、それを矛盾と思わないのはそれらの考えが同時に意識されないからで、それらが同時に意識された時、「そういうものだから」というそれらより高次の論理(論理じゃないですよね…例え悪いですね)によって共存を許される場合もありますが、共存が許されなければその矛盾は解決すべき問題となります

この「前景化してきた解決すべき矛盾」は、何冊も同時に読んでいてふいに二冊の内容がリンクした時に発生したことが何度かあります。
「井戸コアラ」のどこかに書いたことですが、それはある著者の考え方①に「その通りだ」と思い、別の著者の別の考え方②にも「その通りだ」と思って、ふと考えてみると①と②が矛盾していることに気付く、といった経験です。
これが解決すべき問題である理由は、その矛盾の認識が確かであれば、自分が深く納得したはずの①か②のどちらかが「嘘」になってしまう(例えば、本当は納得していないが著者が好きだからただ鵜呑みにしているだけとか、①は論理的には正しいけど実質が伴っていなくて字面で納得しているだけに対し②は言いたいことはわかるけどうまく言えてないという理解を僕がしていてつまり①と②の「その通りだ」の使い方が違っていて、曖昧な例で断定しにくいですがこの場合は①の「その通りだ」が僕にとっては嘘になることが多い)からで、その「嘘」を放置すると、積り積もって僕自身の読書態度が誠実なものでなくなってしまうことが想像できるからです。


今は亡き鶴見俊輔氏が『思想をつむぐ人たち』の中で書いていた「普通人の哲学」という言葉は、僕の座右の銘の一つです。
(この本との出会いには偶然があって、3,4年前の年末に実家に帰る時に小田原駅(新幹線に乗る前)で車内読書用の本を忘れたことに気付き(いや、最近読んだ本をそうと知らずに持ってきていたのだったか)、駅の本屋であてもなく探していてふと目に留まったのでした)
鶴見氏は思想家という肩書だったかと思いますが、氏の哲学・思想は普遍性を備えていながら「普通人」に寄り添ったものでした。
氏の本として僕が初めて読んだ本なのですが、『限界芸術論』の「限界芸術」とは、芸術家ではなく生活者としての個人が生活の中で生み出す芸術、「芸術から最も離れた芸術」といった意味だと記憶していますが、この本などはテーマ自体が「普通人」の側にあります。

歴史に名前を残すことは義務教育を受けてきた人にとって一度は必ず価値のあることだと思い込まされますが、偉人の伝記を読んだり現存の有名人の偉業を知らされたりする時に、何かのきっかけで(出身が一緒とか、「小さい頃は勉強ができなかった」とか…これはよく聞きますよね)彼らと自分の間に共通点を見つけたりするとついつい「偉業を成した彼」と「何も成し得ていない自分」を引き比べて落ち込むことはありふれてあると思います(逆に発奮できる人もいるとは思いますが)。
その偉業は、成すまでの苦労や才能を要することや現代科学への貢献などが「わかりやすい」からこそ一般人に膾炙できる偉業となり、「手の届かなさ」もまたわかりやすいからこそ上のような比較をした一般人はみな同じように落ち込むことができます。

鶴見氏に伝記作家という肩書があるのかは知りませんが、氏の伝記はとても上手く、読む人を落ち込ませるのでなく発奮させる力があると思うのですが、それは語り口だけによるのではなく、氏は「普通人の取るに足りない(しかし着実で地道な生活に裏付けられた)もの」をとても魅力的に描くことができるからです。
僕は『限界芸術論』を読んだ時に、心の底から「有名人にならなくてもいい」と思ったことを覚えています。
もちろん読んでから今までずっと同じ気持ちを維持できたわけではないと思いますが(「思う」と書くのは記憶にないからです)。

晩御飯ができたようなので食べてきましょうか。
19:12

+*+*+*

おせちを食べながら紅白を見ました(前半のみ)。
乃木坂が東京にあることを初めて知りました。
高級住宅街だそうですね。
そのせいか乃木坂46(48?)の衣装もハデハデではなかったような…。
しかし毎年見るたびに思うんですが顔が全員同じに見えますね(オヤジ発言)。
モーニング娘はもっと個性があった気がしますけど、そういう趣旨なのでしょうか。
よく見れば(一視聴者たる)あなただけに見つかる個性が埋もれてますよ、という。

+*+*+*

さて、この1年を振り返ってみましょう。(再)

上では思想の話をしました。
次はその思想がどこに結実されるのか、について書いてみましょうか。
目的が明確にあるというわけではありませんが、どこへ向かっているか、北極星のように生きている間にたどりつかないかもしれないが方向を示す何か(「(指導者の指し示す)指先ではなく星を見ろ」という言葉がありますね。出所は忘れましたが内田樹氏がブログで書いていました)が、あると考えればあるのかもしれません。
…が、まともに正面から取り組むと難しそうなので回り道をします。


ブックオフでは毎週立ち読みをした後に、所場代がわりに最低一冊は購入します。
だいたいは新書か小説(文庫か単行本)か、時々National Geographic日本版(黄色い縁取りの雑誌で、院で火山学を専攻していた同僚に一度借りた時に面白いなと思い自分で買うようになりました。毎週土曜の朝食時にちびちび読んでいます)、という感じで買う本はいつも決まっているのですが、たまに読んだ本や新聞(1年前くらいから日本農業新聞を読んでいます。一度購読をやめようかと思った二月ほど前にちょうど田口ランディ氏の毎日連載エッセイが始まったのでその縁で読み続けています。前はずっと朝日を読んでいましたが、ある時から広告欄(各ページの下1/4ほどにありますよね)に気分を害するようになり、各業界新聞を試し読みして広告が一番「どうでもいい」(つまり自分の生活に関係のない)新聞として農業新聞を選びました。読み始めると面白い記事もあって、週連載の「郷土料理紹介」や「野菜or果物の豆知識ページ(小粋なイラスト付きで1ページ半あります)」、農大講師フクダ氏(ブルーベリーの権威らしいです)による「個人農園術」などは毎週欠かさずに読んでいます)に影響されて、いつもと違うジャンルの本や雑誌を買うことがあります。

たしか秋の始まりくらいに、具体的な経緯は忘れましたが『田舎暮らしの本』なる雑誌を買いました。
まだ読んでいる途中ですが(これも毎週、日曜の朝食時にちびちび読んでいます)、メインは500万円以下で購入できる全国の「田舎暮らしができる民家(空き家)」の紹介記事で、土間にかまどに囲炉裏にと昔ながらのつくりの古民家で農具小屋が横に並び家庭菜園できる土地がついて180万、とか山あいの別荘地で近所の温泉からお湯を引き込みで自宅で温泉につかれて風呂釜は硫黄も大丈夫の石で車で山を下りれば市街地にすぐ出られて400万、みたいな感じで物件情報がずらりと並んだページが続き、それを一つひとつ読んではいろいろ想像を楽しんでいます。

会社を辞めて田舎暮らしをしたいのかというと、まだよくわかりません。
感受性を下げる要因が少ない、むしろ感度を高める喜びすらある(というのは実際を知らない僕の想像ですが)という意味では田舎暮らしは魅力的ですが、今のところ魅力を感じるのはその点のみです。
人が少ないのも自分向きのような気はしますがこれは現状と比較してのことで、本格的に人口の少ない街や村で暮らしたことがないので人の少なさが自分にどういう心境の変化をもたらすかについては、好悪は不明でただ興味だけがあります。
田舎でする仕事などはなおさら何も想像していなくて、むしろ一度仕事を辞めたら「何も仕事をしない生活」を数年くらいは続けてみたいと思っているくらいで、これは明らかに保坂和志のエッセイや小説の影響を受けています。

この辺はしっかり記憶に残っていて、『言葉の外へ』というエッセイ集は最初に図書館で借りて読み始めたんですがあまりに面白くて線を引かずにはいられなくなり新品で購入して読んだ経緯がありますが、『アウトブリード』(これもエッセイ集です。名前からして重厚ですよね)に負けず劣らず重厚で、まだ再読はしていませんが何度読み返しても得るものがたくさんありそうな「思考の原石集」です。
原石という表現は「才能が見え隠れするが素人っぽい」という通俗的な意味でなく…いや似たようなものかもしれませんが、万人受けするかどうかという意味では「厳密ではなく粗削り」な思考が本の中でなされるわけですが、思考のさまが見えるというか、脳がギュルギュル回転する音が聴こえるというか、まさしく保坂氏が紡ぎ出した思考である点と読んでいるこちらもそれに触発されて何か考えずにはいられない点ですごく創発的なのですね。ああ、「読んでいると思わず”磨きたくなる”」という意味で原石という表現がしっくりきそうですね。

で、『言葉の外へ』の中に、小説家は自分のペースで仕事をするから会社みたいに外から強制してくれる手順(朝礼とか掃除とか、昼食休憩とか仕事のノルマとか、いろいろありますね)がなくて、だから自分で一つひとつ決めて習慣を作らなくてはいけないと書いてあり、そのあとにその一つひとつの習慣(何時に起きる、歯磨きはどうする、…)について「なぜそう決めたか」とか「こうすることでこのような思考の実践になる」とか、ささいな行動に対してもものすごい経緯なり理由づけが伴っていて、「自分で習慣をつくる」ことは誰しも生活する中で自然とこなしてはいますが、その「習慣を作ることがどれだけ凄いことか」というか、「ささいな習慣的行動からここまで強烈な思考が生み出せるのか」といった、とにかく自分の個性(身体とか思想とか)をベースに自分で考えることの充実をその部分を読んでいる間に感じました
恐らくその部分を読んでから、エッセイの他の部分や氏の小説の全体に「自分で考えることの充実」が息づいていることを感じるようになったと思います。

それで、この「自分で考えることの充実」は、サラリーマンをやっていて得られるものではないと思っています。
これは意志でどうにかなるものではなく(なることもあるでしょうが、僕はそのような形での実現は「必然に反する」と考えます。「必然」も自分の思想に深く関わるキーワードではありますが、これは後に話の流れが行き着けば書くことになるでしょう)、まずふつうの社会人をやっていてその必要性が生じないからです。
話が逸れそうですが…会社なり仕事なり、集団が生計を立てるシステムが整っていくごとに個人の創発的思考は必要性を奪われていきます。これは仕事とプライベートを区別できるとした上で「プライベートについて」(仕事について、ではありません)の話です。研究開発でも営業でも、仕事上の工夫や発明などを生むための創発的思考は業種に関わらずある(程度の差はあるにしろこれは基本的に本人の意識次第です)のですが、仕事上で自由な思考が展開できる前提にはプライベート(生活)の安定があると思います。
上に書いた「自分で考えることの充実」が、もっと上に書いた「思想」と結びついて実現される場所は、仕事ではなく(あるいは職種によっては仕事を包含する)生活の領域にあると考えています(というか今考えました)。


勢いで書いてると文脈を見失いながらも筆が進んでしまって読み返す時に大変そうな…
もうちょっとしたら初詣に向かうのでここで区切りとしましょう。
今年は余裕のあるタイミングで区切れたので、年を越すまでにはちまんさんの本殿に着けるかもしれません。
まあ、どっちでもいいのですが(とか言ってるからここ5年くらい間に合ってないのですが)。

内容的にわりと大事な地点だったのですが、行って帰ってきて、あるいは寝て起きたら気分ががらりと変わって全然違うことを書くかもしれません。
その時はその時ですね。

それではみなさん、よいお年を。

22:54

# by chee-choff | 2015-12-31 22:54 | その他
生活だけがあった年
年の瀬です。

なんだかあまり書く気が起きません。

理由はふたつあって、

①実家のPCが新しくなっていたのですが、
 ディスプレイの輝度が下がらなくてまぶしいこと。
 目の弱い自分には致命的です。
 でも前のPCがちょうどよかったという記憶もなくて、
 毎年ひいひい言いながら書いていたような気もします。

②新しいPCの使い勝手が悪くて(Windows8で最初だから仕方ないですが)、
 ブログを開いてしまえばなんともないのですが、
 そこにたどり着くまでにぐちゃぐちゃやっていて疲れてしまいました。

まあ明日になれば復活するかもしれませんが、
とっかかりだけでもつけておこうと頑張ってみます。

12/30 22:44

+*+*+*

Oops!
ノートPCの罠に早速ハマりました。
キーボードを打っている最中に意図せずタッチパッドに触れてしまい、運悪くカーソルが(たぶん)ブラウザの「戻る」ボタン上にいて、さっき結構書いたのに突然画面が変わって、全部おじゃんになっちゃいました。
同じ話をもっぺん書く気にはならんなぁ…書きながら考えているので再現は不能でしょうね。

ふぅ。
まあ、こういうこともありますよ。
同じ失敗を二度しないように気をつけます。
とりあえずこまめに保存と更新をしないと…。

23:38

+*+*+*

とはいえ短めにさっき書いたことをば。

いちおうこの1年を振り返る記事なので、まずは大づかみに書いてみます。
タイトルには(今のところ)仮と書いてますが、今年は特にイベントはなく、仕事上で少し動きはありましたが、仕事を除けば「生活を淡々としていた」という印象です。
本かマンガを読む、散歩する、ブログを書く、味噌汁を作る、くらいが生活の構成要素なんですが、秋くらいから映画鑑賞を始めました。

その映画鑑賞の詳細をさっきちまちま書いたのですが消えてしまったので…要点だけ書けば
 ①毎週1作観る(という習慣が定着しつつある)
 ②ホームプロジェクタを壁に投影して観る(部屋の端に本体を置いているので大画面)
 ③本体のピコピコ音がうるさいので映画の音はイヤホンで聴く
 ④日曜の夜に観るので月曜は大体寝不足
といった感じです。
④は別に夜中まで観ているというわけではないですが、あんまり寝られてないのか眠りの質が違うのか(普段の生活に動きがないので映画鑑賞は月~土の生活内容と比べると「非日常」なのです。慣れれば大丈夫なのかもしれませんが)、たぶん後者だと思いますが、このことは今後適応できるかどうかで習慣を変えねばなりません。
観る映画の選択は、とりあえず邦画と洋画を交互にするという以外は気分で決めています。洋画は特に古い作品を選ぶ傾向がありますが、それは書評で見かけたタイトルに惹かれるからかもしれません(『2001年宇宙の旅』とか『華氏451』とか)。邦楽は今のところジブリ率が高いです(秋から今まで観た5作中の2作。『紅の豚』と『もののけ姫』。どちらも昔「金曜ロードショー」で観て以来ですごく久しぶりでしたが、やはり新しい気付きがあるものですね。後者でいえば「だいだらぼっち」がナンバ歩きだったこととか…これは今の自分が歩き方に関心を持っているからですが)。

映画の話はこれくらいにしまして。


上に書いた通り、振り返るほどの「起こった出来事」がこの1年はなかったので、まあ毎年同じかもしれませんが、主に考えていたこと、あるいは今関心のあることを書いてみようかと思います。
あとは仕事の話(変化があったこと)とか、未来の話(自分は何を望んでいるのか…何がしたいのか?どうありたいのか?)とかも書ければいいなと思います。
一番興味があるのは「淡々と生活を過ごすこと」についてうまく言葉にすることなんですが、生活を抽象化して書くのはとても難しい気がします(「人生の意味とは?」みたいな話はしたくないのです)。
まず堅実な実質、積み重ねがあって、それをある視点のもとに一般化するのですが、それは「生活そのものの一般化」ではなく、「生活から導けるいろんなことについての一般化」なのではないかと、今ちょっと思いつきました。
キィ思考は連想によるリンク生成ですね。

今日はこれくらいにしましょう。

0:08

+*+*+*

大晦日の朝です。

昨日はよく寝られました。
実家のリビングはテレビが点いていて長居できないのですが、別の部屋に移るとようやく家の静けさを感じることができます。
社員寮はふつうのマンションですが、隣室や上階の音がよく響く(無音で部屋にいればなおさら)し、細かな機械音(給湯の稼働音、ドアホンの待機音など出所がわかるもの、それに耳鳴りではないとは分かるが出所不明な周波数の高い音)も気になります。
朝起きてみて、そういった有機的でないノイズが全くないことにまず気付き、心が落ち着くのを感じました。

マンションはコンパクトな空間に機能性を詰め込んであって、特に人口密度の高い都会では他に選択肢のない居住方式ですが、居住者のある感度の低さを前提としていて(というより許容騒音レベルとかを数値で測って決めてるんですよね)、つまり「快適な生活」という環境がまずあって居住者は何も変わらずにそれを享受できるというものではなく、所与の環境に対して居住者が不快を無視できる程度に鈍感になって初めて「(意識の上での)快適な生活」ができるようになっています
僕はその環境に今暮らしていて、感度を下げないままこういったことを時々考え、むしろ感度を上げることが快適になる環境で生活することに魅力を感じ始めています。

そうはいっても現代人ですので、アウトドアライフを初めてすぐ適応できるはずはなくて、虫の音とか川や海の流れなどの有機的なノイズで夜は一睡も寝られず、耐えられなくなって体調を崩すみたいなことも大いにあるだろうと思っています。
ただそれでも時間をかけてやってみたらなんとかなるんじゃないかなとポジティブな気持ちでいるのは、たしか『時代の足音』(宮崎駿、堀田善衛、司馬遼太郎の対談本)で堀田氏が「都会暮らしに慣れてしまっても、2ヶ月もいれば田舎暮らしに慣れてくる」といったことを書かれてたからで、実際にやった人がいるならまずあり得る話だし、環境の適応に時間がかかることや習慣を作り始めてだんだんと身体が覚えていく感覚は僕が(表面的に捉えれば変化の極めて小さい)生活の中で意識的に経験していることなので、縁があればそういう生活をやってみようと思っています。

この「縁があれば」というのは、それほど言葉の綾でもなくて、誰かに巻き込まれて生活方針が勝手に決まってしまう場合は実現しませんが(そうなることも僕や僕のそばにいる人が望んだことであれば反対する理由は何もありません)、そういうことがなければ、自分からは積極的に何もしないという流れに流された結果としてそういう生活を始めることになるだろう、ということです。
…この「自分からは積極的に何もしない」という言葉もこれだけ書けばよい印象を持ちませんが、自分と何かの縁を感じる想像力(思考力)を常に開いておくという意味で、大切なのは何かに導かれている感覚ですね。

行動の決定には自分の意思が強く関わっているが、その行動がもたらした結果は自分の意思によるのではなく、自分の外部のいろいろな力がはたらいた結果であり、その自分と外部との(事実に限定されない)因果についてどれだけ想像できるか。
「後悔しない生き方をしたい」と誰もが思いますが、「後悔するかどうかは、その後悔の対象になる過去の行動の内容ではなく、現に後悔しようとしているその時の自分の状態にかかっている」とはこれまで何度も書いてきて、それに加えて今思ったのは、「後悔したくなる時とは、自分の人生を自分で選んで決められると思っている(自我が過剰に膨らんでいる)時だ」ということです。
逆の表現で「自分に選択肢がなければ後悔のしようがない」とも言えますが、そうはいっても「親は選べない」みたいな嘆き方があるなと今思いましたが、これは後悔ではないのでしょうか?
…責任放棄、ですかね。

+*+*+*

自分の人生を主体的に決めてきた、という意識を持たず、同時に自分の人生に責任を持つこと
なにか矛盾しているように見えますが、考える前から書きますがたぶん、現代的に(資本主義的感覚で)見ればそう見えるというだけに思えます。

いつだったか日本人が中東で武装グループに捕まって政府に身代金が要求された時に、「自己責任」という言葉がとてもイヤな使われ方をしたことがありました。
その議論の内容は覚えてないし、どういう対処や態度が正しいかについて興味はありませんが、その時には「考えることは大事だがこの議論に加わりたくはないなぁ」と思いました。
「払った税金をちゃんとした使い道に振り分けてほしい」という意見は有権者として当然発するべきものですが、できるのはそこまでだと思います。
それが政治を政治家に委任するということです。

僕は政治に興味が持てませんが、それは政治と触れる機会が新聞くらいしかなく、新聞に載る政治は「政治的ゴシップ」でしかないからです。
(そういえば高村薫の『新リア王』を読んだ時には「政治って面白い!」と思いました。現代の話でも、生の情報(仮に新聞記事が生の情報だとして)から思考を組み立てることができる人にとっては面白いと思えるのでしょう)
新聞の政治欄をしっかり読んで「有権者として政治の動向を監視する」という気持ちにはとてもなれません。
けれど政治がどう行われようが関係ない、とは思っていなくて、政治家がどんな政治をしようが、どのような経緯(や歴史との関係)で政治的選択が行われたかを知り、政治の結果を文句を言わずに引き受けられるために政治を理解したいと思っています
というより直接政治に関わらない一般人にとって政治を理解するのはそのため「だけ」のような気がします


なぜか政治の話になってしまいました。
上で「資本主義的感覚」と書きましたが、言いたかったのはたぶん「消費者的主体」です。
お金という(市場においては)全ての価値の基準となるものを使って、自分の意思で商品を買う。
この「お金で買える(と思われる)もの」が増えていく、市場原理ベースの社会領域が広がってくほど、人の価値観は消費者的になっていきます。
ふつうの人は自分の価値観と生活とが密接に関係しているはずで、思想と呼ぶためには生活から少し離れて改めて考えるという作業が必要になると思いますが、そういう思想ではなく「日常生活で自分の行動を判断するうえでのベースとなる考え方」が、どんどん消費者的になっています。

途中の論理は飛ばしますが、その消費者的価値観からすれば、自己責任という言葉を、「自分が責任を負う」ためでなく「他人に責任を負わせる」ために使うことが合理的(すなわち「おトク」)となります
それをモラルがない、というは一つの立場ですが、市場主義社会ではそういう消費者的価値観に沿った考え方こそが「モラルあり」になります。
だから納得した者勝ち、染まった者勝ち(「勝ち」とは違和感なく普段の生活を過ごせるということです)なのですが、僕はそういう勝ち方はしたくありません。
上にも書いた通り、それは感度を落とすこと、鈍感になることだと思うからです。

12:10

+*+*+*

この記事は実家の書斎で書いています。
書斎は本で埋まっていて、帰省するたびにその量が増えているので、部屋にいるだけで本屋を徘徊している気分になれます。

さっき『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』(ルイス・ダートネル)という本を見つけて、興味が湧いて最初の数ページを読んでみました。
帯にはこう書いてあります。
「穀物の栽培や鉄の製錬、印刷、発電、輸送機器、医薬品など、現代生活の基礎となる科学技術をどのように復活させるのか?」
「復活させる」というのは、(構造物だけでなく方法も)一から組み立てなおすということで、その仕組み・成り立ちを知っていなければ不可能です。
つまり現代文明のいろんな技術の仕組みが載っている本だと思うんですが、とても興味深いと思います。


ここ2,3年ほど、「習慣(の力を体感する)実験」を、生活の中でやっています。
生活における一つひとつの行動について、小さい頃からずっと続けてきた行動があり(例えば靴下を履いて寝る。僕は履きませんが)、今の生活の必要上行う行動があり(例えばベランダの窓は開けない、開けても隙間数センチまで。これは換気のためですが、大きく開けないのは神奈川に住み始めてから花粉症になったからです。なんとなくシーズン以外もそうなってしまってますが…洗濯は寮備え付けの乾燥機つき洗濯機(有料です。確か数年以上使えば割高になる計算をしましたが「アウトソーシング」という名目で自分を納得させました)を使っているのでベランダに干す必要もありません)、身体の生理的活動に伴う行動があります(食事、睡眠などいろいろありますね)。

今書きながら考えたこの3つを分類として使ってみましょう。

 ①習慣(的行動)
 ②理念的必要(上の行動)
 ③生理的必要(上の行動)

②を理念的と書いてしまうと花粉症の例が若干合っていないようにも思えますが、対処方法は考えれば他にいくらでもある(シーズンに薬ちゃんと飲んでるから窓開けたって平気、とか換気はちゃんとやってから空気清浄機でしっかり花粉除去、とか)と考えれば問題ないでしょう。

さて、①~③の関係を考えた時、まず②はほぼ①に包含されると僕は考えます。
つまり、理念上の必要性なんて消し飛ばす力を「習慣」はもっているのです。
「発明は必要の母」か「必要は発明の母」か、もともとはどっちだったかなと混同してしまうような現代社会ですが(もちろん後者ですね)、その混同するところの意味は、今では「必要」は後からついてくるものになっているということです。
上に書いた「習慣実験」によってそのことを頭だけでなく身体で理解できるのですが、こんな状況が出現したのは、(先進国においては)厳密な意味での必要性が当然に満たされ、「必要性」を満たすことの市場価値が全くなくなってしまった(「必要性」と関係のない所でお金が回っていることはある時期から(『貧乏は正しい』シリーズの頃からでしょうか?)橋本治が社会批評系エッセイでずっと指摘し続けています。また実体をもつモノから離れて動くお金(金融商品というやつですね。サブプライムローンは確か「信用(の低さ)」に値段をつけて売っていたのでしたっけ?)が国際経済を左右するようになったのもこのことと深く関係しています)からです。

また、③は②と複雑な関係を持っていて、境界が明確でないばかりか共通する領域をかなりもっているというのが僕の実感です。
いや、共通という言い方も微妙で、正確に言えば「②と③はお互いに影響を与えながら境界領域を変化させている」となるでしょうか。
というのも②と③の関係とは脳と身体の関係であって、身体的状況が変われば考え方も変わる(同じ人で若い時と高齢の時とで考え方が違うのは人生経験の多寡だけではありません。また人間の話ではありませんが『ゾウの時間、ネズミの時間』という本もこの例になるでしょう)し、その逆は「プラシーボ効果」が説明してくれる通りです。
「習慣実験」を始めた頃はこの意味をあまり明文化しませんでしたが、今思えばこの実験は、②と③の境界領域を炙り出す目的も持っていると考えられます
身体性の賦活(鈍感にならないこと、五感なり自分の身体動作に対する感度を上げること)がこれからの時代で重要になってくる、とは内田樹氏の著書を読み始めた院生の頃からじわじわ重みを増してきた認識ですが、これは「脳の支配から身体を取り戻せ」という身体か脳かの二分論的発想ではなく、脳の偏重が身体にどういう影響を与えているか、あるいは身体の感度を上げることが脳の活動に及ぼす影響を認識すべく掘り下げていくという方向性を持っていて、抽象すれば身体の束縛を解くと同時に脳がそれを冷静に観察するという「脳と身体の協調」を目指すものです。
これだけ高度情報化し脳化してしまった社会で、脳の支配というか「(身体ではなく)脳が人間を主導していく」生活のあり方を変えるのはよほどの条件が整っていなければ非現実なので、その生活のあり方を前提にして、脳が自覚をもって身体性を賦活していく、身体を解放できる環境を整えていくことがひとつの現実的な(かつ僕がそうしたいと思う)長期的展望という面での生活方針です。

+*+*+*

文章が長くなると途中で自分が何を書いているかわからなくなってきますね。
後で読み返す時大変だろうな…微調整で(意味不明度が)治らない文章だったら放置しますが。

とはいえ筆がのってきた感じでもあるので、ここらでいったん切りましょう。
今年も無事に恒例の「ゆくくる」を始めることができそうです。

16:04

# by chee-choff | 2015-12-31 11:25 | 思考
ゆくとしくるとし('14→'15)3
今日は午後から兄夫婦が子どもを連れてやってきました。
上の長女は4歳で、正月に会うのはたぶん3度目ですが、長男は1歳半で今日初めて会いました。
活発で何よりまず口と全身が動く姪と違い、甥は全く言葉を発せず黙々と「作業」を行う子でした。
話でしか知りませんが、なんとなく甥に親近感を覚えたので、わんぱくな姪をかまいながらも甥にしぶとく構ってあげました(彼にその認識はたぶんないようですが)。
甥はマッサージチェアによじ登り、そばにあったボールを投げ落とします。僕はそれを拾い、彼に投げ返してあげます。彼はボールが(また?)彼のそばにあることを認識し、再びボールを投げ落とします。僕は投げ返します。…という、ひたすらこの往復が続きました。続けるうちに振る舞いにどう変化があらわれるかな、とずっと観察していたのですが、よくわかりませんでした。
この遊びに限らず、総じて甥は自分がやっていることが自分でもあまり分かっていないようで、まあ考えていないのでしょうが、何を考えているのかが傍目に全然分からない不思議な子でした。
まあ、想像力は豊かなのだろうな、と勝手に思っています

一方の姪はプライドが高いお転婆に磨きがかかったようで、疲れるのは疲れますが、こっちが何もしなければ構ってもらいに来るのはやはり嬉しいですね。
そして叔父という立場は子どもを叱らなくてよいので、子どもの…何と言えばいいのか、「手間のかからない部分」だけを味わえる気がします
だから叔父の振るまいは子育てとは別物だと考えるのがよいのでしょう…というこれは当たり前かもしれませんが。

+*+*+*

さて、「井戸コアラ」の方で書いた前振りを引き継ぐのを忘れていたので、少し書きたいと思います。
とはいえ、「謎な文脈」とある通り、何が言いたいのか分かりませんが…
たぶん、これからどう生きていきたいか、という話なのだと思います。
重いテーマですが、気持ちは軽く書くつもりです。

「重い」の意味は、不用意な言葉を使うとその言葉に「言葉にする前の漠然とした思い」がひきずられるということです。
だから大きなテーマを扱う時はあまり単純化しない方がよくて、まあイコールではないのですが「少ない言葉で表現できる」はわりと簡単に「それは単純である」と結び付いてしまうものです。
なので、重いテーマについて書く時はいろいろ留保をつけるというか、そのテーマの何を書くのか(中身の全容ではもちろんなくて、さわりとか、これから考えて行くべき入り口の言葉だとか、そのことについて考える時にいつも念頭にある言葉だとか)をはっきりさせて書いた方がよいように思います。
そうした方が、「自分の言葉に裏切られる」ことがない。
自分の言葉に裏切られる経験はそのまま、自分の言葉に対する信用を落とすことに繋がります
それは、言葉を連ねながら思考する僕のような人間にとっては、やってはならないことです
なんか自分でプレッシャーをかけている気分ですが…


社会人として問題発言でもありますが、簡単にいえば「集団とはあまり関わりたくない」のです
会社に所属することがそのまま集団と関わることなので、生活の基盤のところで既に絶望的な話である、といえばそうですが、ここはやはり掘り下げて書かねばなりません。
今年の「ゆくくる」の前半で書いた「不問の前提」という言葉がありますが、「集団とはあまり関わりたくない」を言い換えると「集団に”どっぷり”所属することによる不問の前提を立てたくない」ということです。
これは、海外で独り暮らし始めた時の「今までの経験や経歴が問われないゼロの自分」の感覚と共通点があるかもしれません。
(この話は最近読了した『やがて哀しき外国語』(村上春樹)に書いてあったのですが、今手元に本がないので抜粋はできません。思い出せば「井戸コアラ」の方にまた、その時考えるであろう話と一緒にのせようと思います)
身分の力というのか、まあ大企業なら威張れるとか学歴による先入観とかそういう総じて人と接する時にかかるバイアスを指すのですが、これを認めないあるいはこれが機能しない場所で生きたいということではなくて(そんな状態はサラリーマンにはありえなくて、だいいち「同じ会社の社員同士」という仲間意識も立派なバイアスです)、これに対する自覚をずっと持っていたい、と思っています
この自覚がない方が、バイアスが当たり前に機能する場面ではことがスムーズに運ぶことは容易に想像できるというか当たり前にありますが、僕はその可能性(というか効率の追求)を捨てるよ、ということです。
この自覚による会社での仕事の非効率を背負うということで、これが非効率に留まらず自分の立場を危うくするような状況もし訪れれば、躊躇無く会社を去りたいと思っています。
その状況の具体的なところは僕自身の振るまいからいくつか想像はつくし、もし想像もつかない文脈からそのような状況が訪れたとして、それがどれほど理不尽であっても、その「理不尽な理」が集団の論理であれば、それに関わりたくないと思う僕は反論をすることもないでしょう。

そして、「その後のこと」はその後になってから考える余裕をもっていたいと思っています

+*+*+*

「何かを否定せずに書く」のはなかなか難しいもので、うまくやらないと何を言っているのか分からない文章になります。
でも、それを当然だと思う気持ちは単に文責の放棄になるというわけではなく、まあそういう風に聞こえかねないニヒリスティックな話なのですが(つまり「それを言えばおしまいよ(あるいは何でもそうじゃないか)」という)、分かりにくく書かないと伝わらないこともあるのです。
その「分かりにくく書かないと伝わらないこと」を言い換えると、それは「万人に分かる(ことを目指す)ようには書かれていない」。
そして「分かる人にしか分からない文章」というのは、きっと宛先のある文章は本来すべてそのはずなのですが、「読む人(の中身・思考・価値観…)を限定する文章」であって、そして一番大事なところでそれは「読み手の自覚が問われる文章」である

宛先のある手紙は「この手紙は特定のあなたに向けて私が書きました」と明示してあるので、その手紙の読み手はその明示内容を了承するだけで「読み手としての自覚」を獲得します。
そうではなくて、読み手にとって宛先が書かれていない文章を読み手が「これは自分に対して書かれたものだ」と自覚するためには、どうしても、その文章の中身と自分自身との間で何かしらの照合が行われなければならない


僕は文章がうまくなりたいとは思っていますが、「”うまい文章”とは具体的に何を指すのか」と言われれば、それは上記のような文章であって、それはとりもなおさず僕が今まで読んできた本の中で、著者が僕自身を知っているはずもないし特定の誰に向けて書かれた本なのかも分かるはずがないのに「この本は僕に向けて書かれたものだ」と思わせてくれた文章です。

この点で、僕の中で「文章を読むこと」と「文章を書くこと」が繋がっているのかもしれません。

+*+*+*

相変わらずとりとめがないですが、「ゆくくる」はこのあたりで〆としたいと思います。
今のところ平和な(仕事・私生活を含めた)生活が維持できていて、しかし僕の中にも、そして会社の方にも「状況ががらりと変わる可能性の核」があるのを僕は感じています。
その可能性の実現(「核」の成長)を望むでなく望まぬでもなく、まあ受け身的になるのでしょうが、どう状況が動いても自分を貫けるように、今年を過ごしていけたらと思います。

今年も、どうぞよろしく。
chee-choff
# by chee-choff | 2015-01-01 23:33 | 思考
interlude ~足裏に汗をかかない女の子と霊道~
今年もはちまんさんに歩いて登り、実家に戻ってきたのは26時でした。
そんなに経ったか…という感じでした。
登っている間のことを少し書きます。

+*+*+*

「和歩」はナンバ歩きの「腰をねじらない動き」をコンセプトに、関連の文章から勝手に想像して自分でつくりあげた歩き方です。
同じ側の手足を一緒に出すのですが、手の振りを歩行のために使わない(振っても振らなくてもあまり変わらない)ので歩くスピードは遅いです。
と、これを始めた最初(2ヶ月くらい前かな)は思っていたのですが、慣れてくるとスピードが出せるようになってきたようで、そうすると別の不安が出てきます。
この不安は昨日歩いていて感じたことで、もとの歩き方(西洋歩き)と似たようなスピードで歩けてしまうと「どこが違うんだ?」という錯覚に陥ってしまうのです。
手はほぼ体の側面につけるとか、脚まわりの複雑なねじり方とか、やり始めた最初は「慣れない違和感」があってその違和感をこそ「和歩」の特徴として実感していたところがあって、その違和感が取れてしまうと、歩行感覚のよりどころがなくなって「これでいいのだろうか…」という疑心が生じてくる。
元々の目標というか、歩行法の変更による到達点をちゃんと決めてはいないし(全身をバランス良く使う、という曖昧な目標はあって、それは日々の身体の状態がアウトプットになるのであって歩行中の身体の状態がどうという話ではない)、これといった見本があるわけでもないので考えてみれば当然の成り行きではあります。
今後どうなるかはやりながら考える、というこれは最初からの変わらぬ方針であります。

「和歩」に慣れてきたとはいえ、まだ歩き方を意識しながら歩く段階ではあって(でも気が逸れた時に西洋歩きに戻ることはほぼなくなりました)、はちまんさんへの道中はあまり考え事はしませんでした。
また普段歩く時はメガネをかけないことにしていて、そうすると周りの景色が全部ぼやけているので、特定の何かが目についてそこから思考が広がるということもありません。
大晦日の夜の道は静かでがらりとしていて、時々通る車以外に動くものがほとんど見あたりません。
それで(いつにもまして)目を瞑って丹田を意識しながら歩いてまっすぐ進めるかを試したりしていました。
やりながらちゃんとは数えていませんが、たぶん10秒くらいは不安が起こらずに歩けます。
この「不安が起こらない状態」は視覚以外のセンサーがちゃんと機能している状態であって、定常的に聞こえていた音の方向の変化や(これはすなわち歩く方向が斜めにズレたことを意味します)、すぐそばに壁や停められた車や電柱などの物体があった時の音の反響の変化に気付くことができます。
その状態だと、ふと目を開けるとそれらの違和感の元のものをちょうど確認できるタイミングになっていることがあります。
一方で、目を瞑る時間をだんだん伸ばしていきたい思いもあって、しかしそれを意識し過ぎると「まだいける、まだいける」と無理して目を瞑り続けることになって、そうなるとセンサーの感度が落ちます。
まだ溝に落ちたことはないですが、歩道の側溝に落ちそうになったり、壁に腕をこすりそうになったことはあって、そういう時は決まって無理をした時で、センサーがちゃんと機能していればそのような状態に至るより前の段階で勝手に目が開く、ようになっています。
たぶんこの「勝手に」といった感覚が大切で、自動運動というか不随意筋的反応というか、意識が介在しない領域の感度の話なのですね、これは。
これはこれで面白いのですが、いちおう目指すところみたいなのを敢えて言えば、「君子危うきに近寄らず」を地でいきたいというもので、君子かどうかはさておき、歩くにしても自然な感覚で道を決めれば勝手に危機から遠ざかれるようになればいいなあ、と。
たとえば歩いて旅に出るようなことがあれば、こういった能力は死活的に重要となってくるでしょう。


話を進めまして…

例年通り、舗装道路から途中で逸れて鬱蒼と竹薮の生い茂る砂利か土の林道(最初の方は道の真ん中だけコンクリートが敷いてあります)に入ります。
雨が少し前に止んでいて空が見えていたので、月の光で林道がわずかに見えていました。
また自分の前後には懐中電灯を持った集団がいたので、それらの光も頼りにしつつ進みました。
この林道の上り坂(帰りの下りでもそうですが)でも実感したのですが、「和歩」はやはり安定感があります。意図せず石ころを踏んで足下が不安定になった時にも、身体全体はあまりぐらつきません。手の振りを使わずに歩行動作のバランスをとるので、もともと足腰で身体全体のバランスをとるようになっているようです。
これに慣れておけば天狗下駄で外を歩けるかな、と(これは書いている今ですが)思いました。
林道を抜けて舗装道に合流すると、もう八幡宮の入り口近くです。

実は新年を迎えたのは林道の途中で、それは前を歩いていた若者の集団が騒いでいたので分かったのですが、つまり門の前には14年内に辿り着けなかったわけですが、まあもう感慨も何もありませんね。
ここ数年はずっと間に合ってないのですが、それより前に門の前で大勢の参拝客と並びながら新年を迎えた時はカウントダウンが自然とわき起こり、笑い声や拍手などでちょっとした一体感が味わえたりもしました。
それを今回も見られたらなあと少し思っていましたが、まあ間に合わなければ、それはそれでかまいません。
そして門の前の警備員の方々を眺め、去年の矢やお守り回収所の売り子(?)さんを眺め(どうも僕は舞台裏を眺めるのが好きなようです)、門をくぐると「矢の願掛けをする舞台」のそばへ行って和楽器の演奏と巫女さんが矢と鈴を手に舞うのを横目にしばらく立ちます。

僕は左右の視力がアンバランスなので(左目が近視、右目が遠視)、焦点の位置が左右で異なります。位置が異なるというのはすなわち左右の焦点が同時に合うことはなくて、それを応用(?)すると、左右の焦点が同じだけズレた所にもってくると左右とも像がぼやけてしかも像が分裂することになります。そういう状態の目で巫女さんの舞を見ていると何かの夢のような幻想的な雰囲気があり、「目に焼き付ければ夢に出てくるかなー」などと思いながらしばらく眺めていました。

その同じ位置に立ちながら、参拝客の観察もします。これも例年通りで、その人の表情や動き、連れや服装など全体的な雰囲気を感じつつ表情に見入ることで「その人になりきる(感情移入する)」という妄想遊びです。何年も同じことをして、去年までは思い付かなかったことがあって、これは『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹)の主人公のようだな、と思ったのでした。ストーリはちょっと忘れましたが、仕事にあぶれた主人公が1週間かそこら東京の繁華街でひたすら人間観察する、といった場面があったように記憶しています。別に小説内に限らず、春樹氏自身も外国旅行(半定住)のエッセイで自分がそのような人間観察をしている内容の記述があります。そういう連想ができれば、自分の妄想もなんだか経路が生まれたというか、自分一人で閉じるものではないような気もしてきます。これはまあ、その人の意識次第ではあります。

人間観察に飽きることはなくて(今年は心的な余裕があったのもあります)、しかし体が寒くなってきたところで再び動き始め、本殿のまわりを順路通りにひとまわりして、お守り売場の近くに居場所を決めて佇み、今度は売り子さんと宮氏さん(というのか、売り子さん達を取り仕切る男の人)を眺めていました。売り子さんは大体が若い女性(年齢制限がどうあるのか分かりませんが、中学生くらいの人もいました)で、少し系統的に眺めていると、誰がバイトで経験がないのか、または何年もやっていて要領が分かっているのか、あるいは参拝客の応対における個性などが分かってきて面白いです。お守りが置かれたカウンターの対面で待機している時と、客と応対している時とで表情がくるりと変わる人と、全く変わらない人がいました。前者の人は営業スマイルの中に素の表情が垣間見えるということかもしれないし、素の表情ではなく「待機中の引き締まった顔」なのかもしれない。あるいは、後者の人は単に愛想がないだけかもしれないし、店頭に立つ間はずっと緊張感を維持できる人なのかもしれないし、肝が据わっている人なのかもしれない。見ている時はそれらのニュアンスまで感じられたのかもしれませんが、今はあまり具体的な印象が残っていません。去年あるいは例年と比べて、と言えるほどちゃんと見てもいないし記憶もありませんが、なんとなくの印象でいえば、今年は経験の浅い人が多かったのか、カウンターの手前と奥とで空気の違いがあまりなかったように思います。神社のお守りの売場ですからそれなりに独特の(神聖な、といえばまあ言い過ぎでしょうが)雰囲気があってもいいのですが、なんだか「一般的なお店」という感じがしました。だから何だという話でもありません。

そしてまた体が冷えてくると、切り上げ時かと思い門を出て、これもいつも通り焚き火にあたります。ここが他の参拝客の雰囲気が一番感じ取れる場所で、別に会話を逐一聴いていたわけでもないですが、しばらくあたっていると隣に数人の女子高生か中学生かがやってきて、足を焚き火の上に出して暖め始めました。一人は靴のまま足を出し、もう一人は靴を脱いで靴下の状態で足を出したのですが、後の子が「ねーねー、足から湯気出てるよ。何でやろ」と言い、連れの子が「それ湯気ちゃうよ、煙やよ。焚き火の煙が移っとんよ」と解説していました。んなアホな。

そして体が暖まってから神社を出ました。去年見つけた「真っ暗闇の道」を今年も通りました。その道は公衆トイレがあって明るい場所のすぐそばから入り口があるのですが、道に明かりがないので本当に真っ暗で、誰も近寄らないところです。そこに踏み入れると、暗闇に目が慣れるまでは本当に真っ暗で、踏みしめる足の感触だけで進んでいく(しかも下りの傾斜がきつい)ちょっとスリルな場所なのです。ゆっくり、ゆっくり下りて、しばらく進むと頭上を覆っていた木々が薄くなる地点があって、その場所からの月が本当に明るく輝いて見えました。半月より少し膨れたくらいだったでしょうか。月にしばらく見とれ、再び道を進み、行きに通ったアスファルトの道(白線で引いた駐車スペースがあるところ)に合流して、あとは行きと同じ道で帰りました。

その帰り道で、林道の途中でコンクリートの敷いてある地点まで戻った時に、コンクリートのぼやけた白っぽい輪郭以外がまっくらな状態を十秒ほど体験しました。それまで後ろにいて懐中電灯で僕よりも先を照らしていた参拝客が僕とは別の道を下っていったので、僕の少し明るさに慣れた目がもとの暗闇にすぐに適応できず、その白の輪郭しか見えない状態がふいに到来したのでした。それが不思議で、下りはメガネをかけていたので焦点が合うはず(とその時は思っていた)が白の輪郭はぼやけっぱなしで、歩みを進めても白の輪郭は全く形を変えないように見えて(進んで大丈夫だ、というのは分かっているのでとりあえず足は動くわけです)、要は目を開けながら進んでいても目に映る景色が全く動かないという体験だったということで、その時に「霊道」という言葉を思い付きました。これもまあ、それだけなのですが。

林道を抜けた後は軽快に歩き、何事もなく家に着きました。そういえば毎年飲んでいた(去年はどうだったかな…)「缶ジュースお汁粉」(屋台でもお汁粉は売っているのですが、なぜかいつも自販機で買っていました)は、今年は飲みませんでした。確かに飲めば温まるのですが、いつも後味に多少の不満があった記憶のためか、あるいは夕食の食い過ぎでこれ以上腹に入れたくないと思ったか、別にそんな大層な話ではないですが下山前に缶お汁粉のことを思い付いた時に「飢餓ベース」という言葉を連想し、まあお汁粉はいらないかと思ったのでした。その言葉には、人類の(文化云々よりもっと昔も含めた)歴史において「食べ物を食べたい時にいつでもありつける時代」よりも「いつも空腹で食べ物にありつける時の方が稀だった時代」の方が圧倒的に長くて、人間の身体の仕組みは有史以前とほとんど変わっていないのだから後者の時代に適応した身体のメカニズムは現代人にも残っているはずだ、といった意味が込められていて、まあつまり缶お汁粉は飲んでも飲まないでもよかったけど飲まなかったというだけの話でした。

そして26時前に家に着き、風呂に入ってすぐに寝ました。

今日になって、足の筋肉痛はそれほどでもなく、身体もまあまあ元気なので「去年よりはやっぱり健康やね」という感じです。
なんだか、どんどん詩的じゃなくなっていくなあ…
(というのは、たとえばおととしの”interlude”の記事を見て頂ければよくわかります。面倒になってきたかな、ははは)

+*+*+*

上を書き上げて、読み返してからサブタイトルをつけてみました。
「女の子」ならなんでもアリだ、というのは今の風潮かな、と思ったりします。
それにのっかったわけではないですが…さてどんな連想が浮かぶでしょうか。
# by chee-choff | 2015-01-01 13:25 | その他
ゆくとしくるとし('14→'15)2
忘れていましたが、「ゆくくる」記事を書く間はずっと不始末さんのこの曲を聴いています。
毎年お世話になっています。
この時期にだけ聴こうと決めて数年経ち、もうすっかり、「この曲を聴けば気分は年末」が定着しました。

【初音ミクインスト】ちいさい音ダイアル

+*+*+*

今年は、一年が経つのがとても早かったように思います。
一年が、とても短調に、あるいは平和に過ぎていきました。
短調の意味は、一年を通してほぼ習慣通りのことをしていた、ということ。
その習慣は、自分で試行錯誤して組み立てたものです

平日は会社から帰ったら夕食を食べて読書して、ブログを書いたり書かなかったりして、シャワーを浴びて寝る。
土曜は朝か昼前に出てブックオフまで歩き、数時間立ち読みしてから「日高屋」でニラレバ炒め定食を食べ、ベローチェで本を読み、歩いて帰路のフードワン(というスーパー)で一週間分の食糧その他を買い込み、帰宅して夕食を食べ、マンガあるいは本を読み、たまにブログを書き、寝る。
日曜は一日中マンガあるいは本を読み、たまにブログを書き、合間に棒を振るかステップを踏むかをし、シャワーを浴びて寝る。
シャワーの前には天狗下駄を履いて剣を振り、ステップを踏み、あるいは丹田に意識を集中させて直立不動の姿勢を維持します。
大枠はこのようなものですが、この大枠も今年の間に少しずつ形を変えながらいつの間にか安定しました。
そして細かいところでは、変化が続いていたり、一定の変化を含めての習慣に定着させたりしています。

たとえば、朝食のグラノーラにトッピングするジャムときな粉の種類は、ひとつを使い切る周期が長いので銘柄をいろいろ変えていて、まだ一種類に定着はしていない。
これはウィスキーも同じです(ウィスキーは読書時の「気付け薬」として毎晩ちびちび飲みますが、2,3月に一本ペースです)。
また、土日の夕食は何かしら肉を食べるという習慣については、「2日で使い切るパック肉」という縛りで土曜の買い物時にいろいろ選んでいました(味のついた牛肉、ラム肉、なにかのステーキ、カツレツ風味のなにか、鶏のつみれ等々)が、これは「カツレツ風カレー風味の鶏肉」にほぼ定着しました。
一方の平日の夕食は「肉と魚を交互に食べる」というルールを設けて、それに沿って買い物をするのですが、買い物が週に一度なのでこちらは日持ちするものが選ばれることになり、肉は(昔はウィンナーも買っていたのですが)個包装で3つ入りの「チーズ入りハンバーグ」が定着し、魚はいわし等の煮付けかなにかの干物かじゃこあたりをぐるぐるしています。

これらの習慣は、明確な効果を期待して決めたわけではありません。
習慣をつくろうとしたときに、その場の勢いや偶然起こった出来事(たとえば「その食べ物をスーパーで眺めていて何かが閃いた(連想された)」など)によって始められたものです。
そしてその偶然性(偶然というぐらいだから中身ではなく、その形式として)は僕自身が意図したもので、偶然が偶然のまま活かされるのはその内容には因らない、という経験を身体に刻み込むという目的をもっていました

もちろん、内容を全く意識しない選択はありえないのですが、それでも何かしら長期的に未知な方向性を含んだままで選択をするので、失敗はありえます。
僕自身はこの失敗の経験はあって、それは一昨年のある時期に一日二食(朝・晩)で晩にたらふく食う生活が肝機能の低下をもたらした(健康診断で「なんたらGPT(GBT?)」の数値が高く出て備考欄に注意書きがなされた)というものです。
これは食生活だけが悪かったわけでもないですが(去年の暮れに異動する前の部署ではけっこう苦労した)、自分で考えて設定した食習慣には違いなくて、そしてそれは1年か2年か続けてみて自分には合わなかったという結果が当時の身体的不調にも出ていて(その頃は自覚はなし)、それを健康診断の結果で裏付けられたのでした。
これは、今思えばですが、よい経験だったと思っています。
「自分で変な習慣をつくらなければよかった」とは思わなくて、自分で決めたことが引き起こした結果なのだから引き受けるしかなかった、と思います

この失敗があったから、去年の暮れから始めた生活習慣(主に食習慣)の改善が今度はマシな方向に進んだ(現時点では、ですが特筆するほどの不調はありません)ともいえますが、「よい経験」という意味の第一はこれではありません。
その第一とは、結果がどうあれ、「自分が決めたことの結果を自分の身に引き受ける」という経験ができたことにあります

生活習慣と健康の関係について考える時にいつも思い起こすのが、日光浴の話です。
何年も前に読んだ本で出典が思い出せませんが、その本によれば、昔の日本(戦後すぐくらい?)では日焼けは健康の証として推奨され、学校でも「健康優良児コンテスト」みたいなものでいつもこんがり焼けた子どもが選ばれていたらしい。
そういえば一昔前(これはそんな前ではなくて、たぶん80~90年代でしょうか?)の飲み屋に貼られたアイドルの水着のポスターなんかが真っ黒に日焼けした人(そして片手にはビールジョッキ)だったりするのも「日焼け=健康」志向のあらわれのような気がします。
日焼けサロンが流行った時代もあるようですが、それらは単なる流行として認識されていますが、今は日光の浴び過ぎは皮膚に良くないというのが常識になっています。
オゾン層が薄くなったとかはよく分かりませんが、これは昔は健康だと思われていた習慣が実は(やり過ぎは)体に毒だった、という話の一例になるかと思います。
(ここまで書いてうっすら記憶が…西部邁の自伝か何かに書いてあったかもしれません。『サンチョ・キホーテの旅』かな…?)
科学が進歩する以上はそんなことは(スパンは長いですが)日常的にあるはずで、このようなある選択がある結果をもたらすまでにとても長い時間がかかることに対しては誰かに責任をとってもらうことができない。
できなければ、その結果はもう自分の身が引き受けるしかないわけです。
僕はこの日光浴の話を読んだ時にこのようなことを考えて、「その結果を”自分の身に降りかかった不幸(災厄)”と考えて後々まで引きずるのはイヤだな」と思いました。
つまり、自分の身に起きたことはちゃんと自分のこととして引き受けられるようにしたい、と思ったのです。
これは自分が選択した行動についてだけではなく、誰かから強制されたのだとしても同じことです

強制される、という言い方はある限定状況の中で成立するもので、それはどんな状況であっても「強制の外」に出てしまえば強制でなくなるということです。
所属する会社が社則で社員を厳しく律する場合は、社則という強制はその社員が社員である限りにおいてしか機能しません。
たとえば家族を養う社員がその会社に所属することを「不問の前提」とすることはよくありますが、彼にとってはその前提を問おうと思わない限りは社則が絶対的な強制になるわけです
強制されることは平時にはむしろ推進力となるので、「不問の前提」は社員が余計な疑問を持たずに会社のために働き、また会社員としての自分と家族の一員としての自分を安定的に両立させることができます。
僕は、いや今の僕はということですが、この「不問の前提」を立てる気はありません。

話が変な方向に逸れました。
僕が習慣を自分で作るのは上でも書きましたが、少し言い方を変えれば「どんな習慣でも自分なりの文脈を見出して引き受けられるようにする」ためかもしれません。
受け身の人間がその特性を活かすための一つの方策です

もちろん僕の「受け身」は、「受ける前に逃げる」ことも選択肢に含まれます。
何にせよ、降りかかる出来事に対する意識以前の初動があり(それは(瞬時に思い至らないほどの)長期的には知りませんが、短期的には身体の望むところではあるはずです)、その初動を意味付けできる知的体力は身につけて(あるいは維持して)おきたい思いはあります
この「意味付け」は決して肯定には限られません。

晩ご飯食べます。 
今外は雨のようですが、今年ははちまんさん登れるかなぁ… 18:53

+*+*+*

紅白見ていてふと思ったんですが、今のJ-POP(特に若い女性グループの)はほとんどK-POPのノリなんじゃないかと。
歌も化粧も。
で、K-POPというのは現代的な和洋折衷(顔はアジアでスタイルは欧米、という)なのかな、と。
折衷できているかは知りませんけど。
あと、細々とした感想を…
・水樹奈々とTMRの組み合わせは去年も見たような
・郷ひろみはもう声出てないですね。舞台を恥ずかしがったらどうしようもない
・徳永英明は声が太くなったような…声変わり?(笑)

ああそういえば、これは橋本治が広告時評の連載(つまり『ああでもなくこうでもなく』シリーズ)で書いていたことですが、テレビが楽屋オチに手を出し始めたらもうプロではない、ということはたとえば「失笑なしに紅白を見れない」ところに現れるのだなと思いました。
舞台裏がちらりと見えて微笑ましいのは学芸会までで、テレビのそれは最初だけ「これはそうなってたか」という仕掛けに対する驚きやら意外性が楽しめるものの飽きてしまうともう正気では眺めていられない代物になる。
さっきの話ではないですが、「テレビは茶の間(リビング)で家族で(あるいは一人で)食事中に見るもの」みたいなのが不問の前提になっていると、正気でいるという選択肢がなくなります。
狂気は時々には必要でしょうが、「常に狂っている」のは、まあそれが正常になるしかないという意味で狂気の沙汰ですよね。
縮小していく社会の中で経済成長を目指すというのも「バブルの再来を望む狂気」なのかなと思いますが、これは別の話ですね。


さて、話を戻しますが…どこに戻ればいいかは不明ですね。
雨は止んだようなので石清水八幡宮には今年もなんとか登れそうです(寒さからして降るなら雪だと思うんですけどね)。
さて。

今年はあまり書くことがないような気がします。
これは生活が落ち着いたことと関係していて、僕は昔から昇華で成果を出すタイプなのです。
どういうことかといえば、ちょっと前に別のブログで引用した保坂和志氏のエッセイに「僕は軋轢を墓碑銘としよう」というタイトルの一節があります
そのエッセイでは保坂氏が小説家になる経緯のようなものが少し書かれていて、詳細はちょっと忘れましたが(出典は『魚は海の中で眠れるが、鳥は空の中では眠れない』…ちょっとタイトル違うかもですが、こんな感じの本です)、自分に降りかかってきた数々の軋轢が今の小説家の(あるいは思考の)スタイルを形作った、という話がありました。
これを読んだ時に「僕も同感だなー」と思ったのは、僕が身を捨てて(と書くとオーバですが、つまり自分のことを考えずに)何かに取り組む時はいつも、「乗り越えるべき壁がある時」だったからです
受験勉強が典型的にそうですし、文化祭の時の文化委員だって、音楽フェスの実行委員長だって状況でいえば同じです。
役割が与えられて、厳格な使命と多少の手段の自由が与えられて、僕自身にそれらを与えた主体は(僕自身の力では如何ともし難い)「権威」のようなものです。
受験勉強については実は自分自身の問題であって、自分の考え(たとえば将来像)次第で手を抜くことも止めることもできたはずですが、たぶん「受験戦争」という表現そのままに(自分のためではなく権威のために)一兵卒として闘っていたのでしょう

本当に自分だけのためにあんなに頑張れるはずがない、と今の僕なら思います。
睡眠時間を削って栄養ドリンクやビタミン剤で身体を「駆動」させていたわけですから。
受験勉強というのは、マジメにやればやるほど、中学生(あるいは高校生)の「自然な(成長の?)方向性」をねじ曲げる作用があると思います。
その意味では、勝利した者は変わってしまった自分に泣き、敗北した者はその敗北に泣く、「誰も得をしない勝負」でもある。
唯一の勝利者は「勝負に勝ち、なおかつ自分が変わったことに気付かない者」で、彼はそのことに気付くか、どこかで負けるまで「終わらない受験戦争」を闘い続ける、という…
図式化してもしょうがないですね。

話を戻しまして。
つまり、僕は(自分でいうのもなんですが)「おお!」と感心するようなことをたまにポンと書くことがあって、それはいつかといえば「会社や生活で苦労があった時」なのですね。
異常時にハイな状態で書いた文章を平時に読めば自分でも他人事のように読めるし、「ホントに自分が書いたのか?」とすら思うこともある。
そんなことができるのはきっと「昇華症」(また命名してしまいましたが、前に書いた「ついで症」と似たところがあります)だからで、ある意味貧乏性の応用なのですが、「転んでもタダでは起きない」ですね。
というか、より正確には「転んだらタダでは起きない」でしょうか

転んだらその後の展開も合わせた収支は必ずプラスになるが、転ばなければマイナスがないかわりにプラスもないという。
しかしこれは自分から打算的に転ぶと転びっ放しになったりもするので、利便性は薄いというかコンビニエンスに欠けるというか。
まあこういう性質の人間は「思い通りにいかないこと」をすんなり受け入れられたりもするのですが、そうすると「思い通りにいくのが当たり前」の社会(例えば会社でやる仕事なんてのは予定通りにやるのが普通なわけです)の中では浮いてしまうことになる。
その性質を自覚し続ける限り、社会の中で浮き続ける。
あるいは沈み続ける

話が別の所にいきますが、「まわりから浮く」が悪目立ちの表現として使われますが、川や海のメタファで「浮きも沈みもしない」のはどういう状況なんだろうとふと思いました。
「出る杭は打たれる」とも言いますが、「出ない杭」というのは「既に打たれて頭が地面に埋まっている杭」ということで、まあモグラでもなければ息苦しくてかなわないですよね。
地位や順位の変動が頻繁なことを「浮き沈みが激しい」と言った気がしますが、これはやはり水に浮かんでいるもののメタファのはずで、(浮かんでいる媒体の水に)「波がある」と一緒です。
そうか、浮き沈みがしない状態というのは波がない状態であって…あれ、でもやっぱり通常状態が「浮いている」ことになりませんかね?
まあきっと、「水に浮かんでいることが不安定」という考え方ではなくて、「水に浮かぶのは当たり前だが、(波があったりして)上下にぐらぐら揺れるのはみっともない」という考え方なのでしょうね。
しかし位置が安定しているとはいえ、なぜ水に浮いた状態をデフォルトと考えるのか…少しでも潜っていれば息はできないし、顔を水面から出して口や鼻でスーハーやるのも何だか品がない。
…もしかしてメタファの元は忍者なのでは。
あの「水遁(すいとん)の術」ってあるじゃないですか。
あれは隠れてるわけで、「窓際社員」的な…。

話を戻しまして。
つまり、生活が平穏無事だと僕の指も鈍るというわけですね。
それはありがたいことでもあって、そしてなんだかつまらないことでもある。
「物事にはなべて表と裏がある」を地で行く、ということでしょうか。
まあそんな時はあまり自分のことを考えずに本をひたすら読めばいいのだと思います

あはは、なんか今年の分、終わっちゃいそうですね。 22:13

+*+*+*

空が見えていて雨は降らなそうですが、風が強い…そして寒い。
まあ、登りますよ、雨じゃなければ(雪でも登ります)。
というわけで、今から準備です。
今年は年が変わるまでに門につけるかも…
あ、でも「和歩」で歩くようになってからスピードは落ちたからなんともいえんな。
(和歩はまあ自主開発の「ナンバ歩き」みたいなものです)

というわけで(どういうわけで?)、皆様よいお年を。 23:07
# by chee-choff | 2014-12-31 18:54 | 思考