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by chee-choff
| 2021-01-02 10:52
| 書くこと
今年もはや年末。
今年はあまり書くことがありません。 書く気が起きない、です。 その理由を、書く気を起こさないように書いてみましょう。 難しいですが。 × × × 6年半勤めた研究所を、第三四半期末に退職しました。 会社を離れるとその記憶も急速に薄れ、今では遠い過去のことです。 辞める一歩を踏み出した時のことをこのように↓書いていました。 お遍路天狗のデタッチメント 2016-08-10 粛々と一歩 今は仕事はしていません。 × × × 待つことにしたのでした。 今までは言わずとそうしていましたが、今ははっきりとそう意識しています。 何を待つという言い方はそぐわない。 待つとは、聴くことでもあります。 気持ちを鎮めて、淡々とした表情で、何を見るでもなく、でも目は閉じず。 自分の中の湖に、波紋を立てず、月がそのまま映り込むように。 働いていた頃は、波紋の分析をしていました。 当たり前に風が吹き、当たり前に地が揺れ、当たり前に水面が揺れていたからです。 でも湖が静かになると、分析する必要がなくなりました。 すると意外なことに、前よりも、想像が生活に対して身近に感じられるようになりました。 × × × 無為、ということについて考えています。 たぶん無為であるときは、そうでないときと時間の流れ方が違います。 そしてその時間は、そのときにしか流れない。 × × × 時計を見ない生活をしています。 目覚ましはスヌーズ付きでかけますが、時計は手前にぱたりと倒れています。 決まった用がなければ、その日一日時間を見ることはありません。 × × × 書けることそのものの楽しみ、に区切りがついたのだと思います。 何かを書けることは、ただそれだけで素晴らしいこと、だった。 それだけ上達したのでもなく、飽きたのでもなく、ただ離れられると思った。 静かでいたくて、言葉ともそれに合うように触れていたい。 僕が文章を書く動機が、このように変わったのかもしれません。 波風が立たないように、読み、ときどき書く。 × × × 来年の春かその前に、一本歯(天狗下駄)で四国遍路に行きます。 今はそれに向けた生活をしています。 何が起きるかはわかりません。 自分がどうなるかもわかりません。 ただ、帰ってはくるでしょう。 それが始まりかもしれないし、通過点かもしれません。 わかっていることはほんとうに、何もありません。 × × × × × × 今日も例年どおりはちまんさんへ行ってきます。 では今年はこれにて。 みなさまどうぞよいお年を。 chee-choff × × × 紅白見ました。 心持ちが変わって見方も変わりました。 椎名林檎だけ別世界でしたね。 何の服喪でしょうか。 #
by chee-choff
| 2016-12-31 15:52
| その他
『大切にしたいものは何?』(鶴見俊輔と中学生たち)を読みました。
わたしの哲学の流儀は、自分で問題をつくって自分で答えをだすということなんです。哲学は自問自答するものだと思うんですね。今日、だした問題と答えをおぼえていて、また、次の機会にもう1回答えをだす。そうしながら、一生がすぎていく。そういう考え方なんですね。(…)自分で問題をつくる。そして、自分で答えをだす。どのくらい答えをだすか。どうも答えが決まらない場合は、その問題をもちこす。この、もちこす、ということがとても大切だと思うんです。もちこす、ということが習慣になり、癖になることを望みます。わたしは、そうしています。 p.11-12 たとえば、「どうして自分は生きているのかな」。こういう問いが、「親問題」[もともと、自分がとりくんでいる基の問題のこと、自分がくらしているとでてくる問題のこと]なんです。すると、「そんなことを考えると気がめいるから、今夜はマンガでも読んで寝ようか」ということを考えるでしょう。これは、「親問題」から派生してでてくる「子問題」なんです。「なぜ生きているのか」。こうした「親問題」というのは、だいたい解決することができないんですが、その問いは、ふとしたときに、何回もあらわれてくるんですね。 p.12-13 「なぜ生きているのか」 この問いに対して、今は納得のいく答えを持っているし、「その答えはその都度変わっていくものだ」と思っている。 でも、今持っているその答えが、自分を冷静にする、心を平らかにすることはあっても、生きる意欲の推進力となるかといえば、そうとも言い切れない。 納得すればよいというものではない。 変化したい時に妙に落ち着いていると、そういう冷静な自分に呆れてしまう。 腹が立つというのではない、冷静なのだから、「自分はこういう人間なんだよなあ」という、諦めの混ざった呆れ。 また、自分の中で哲学的に重要な事柄について言葉にすることは、その文字にした言葉が自分を縛るかもしれない、という恐れを感じてもいる。 感覚や感情、あるいは考えていることでも、言葉にすることで、言葉になった以外のものは削げ落ち、捨てられる。 それが単純にもったいないという気持ち、それから、いま急いで言葉にせずに熟成されるのを待っていれば、いずれはちゃんとした、つまり言葉にする前の感覚に沿った言葉にできるかもしれない、という気持ちもある。 逆に言えば、急いで言葉にして、それが口から出任せで本来思っていたことと違っていて、それでも「自分はこう考えていたんだ」と納得してしまう、つまり言葉にする前と後とで自分の気持ちや考えが別のものになってしまう、という、これが上に書いた恐れのこと。 一方で変化したい気持ちがあって、その他方で気持ちや考えが別のものになる、変化することを恐れる気持ちがある。 変化したいという気持ちは、口先だけのものなのか? あるいは、もう少し複雑に考えれば、「変化することは大切だ」という考えを肯定することで自分は時機に応じて変化していると見せかけているだけで、実は変わりたくないと思っているのか? 「変化することは大切だが、僕の変化は受動的に訪れるものだ」と今の自分は思っている。 どういう行動が受動的で、どういう行動が積極的なのか、その違いがこの考えにおいて重要な点で、きっかけがあって何かを始めるという流れが自分には合っている、一方で、何かやりたいことが最初にあるという状況を自分は想定できない。 厳密に考えれば「何かやりたいことが最初にある状況」はあり得なくて、人がそう思っている場合は、その人がそれをやりたいと思うきっかけに気付いていないか忘れているか、だと思う。 でも、そのことを主体的に行動すると呼ぶとして、きっと、主体的に行動することで生まれる心の躍動は、きっかけがあるかどうかに過度にこだわるよりは大きい。 きっかけは後から気づくものでもあるけれど、運命を感じるみたいに、それが一つのいい形なのかもしれない。 「大切にしたいものは何か?」 この問いは、自分にとってとても重い。 そう問うたことがあったかと過去を振り返ると、少なくとも思い出せないという意味で、社会人になってから数年経つまでは、一度もなかった。 それが、問う必要がなかったからだとすれば、幸せなことかもしれない。 でも、苦しいことがあってこそ楽しいことを心から楽しめるように、不幸あっての幸福だとすれば、それは幸福でも不幸でもないことだ。 苦しみを、不幸を、その因子を先回りで除去する賢い生き方は、楽しみを、幸福を引き立てない。 僕はそのような先回りの、先読みの生き方を上手く学び、それが生きていくことだと留保なしで実行し続けてきたような気がする。 そして、社会人になって数年後に、それは面白くないんじゃないかという考えを得て、その考えを維持したままさらに数年過ごし、今に至るのでないか。 今の自分が思っている「大切にしたいもの」は、自分の身体、身体感覚、感受性だ。 必ずしも健康の維持と同じではない。 一つの見方として、自分は空っぽだと思っている。 自分がやりたいことが、よく分からない。 何かをしていれば、誰かと一緒にいれば、それら周りの人ものの影響を受けて自分がその場でやりたいことが見える。 それがその場だけのことでなく、長い間持続することもある。 でも持続するのは、自分に影響を与えた人ものが、自分から離れていても影響を与え続けているからだ。 その影響がなくなれば、自分がやりたいことはなくなる。 つい最近まで、自分に影響を与える人ものが常に自分の周りにいたから、自分が空っぽだと思うことはなかった。 そしてそれらの人ものがいなくなって、自分が空っぽだと気づいた。 このことについては、気づいてしまったことを、なかったことにしたくない。 他人がいてこそ生きる意味がある、生きる意欲がわいてくると思っている。 上に書いた、自分がやりたいこととして、全くないわけではない。 本を読みたいし、今こうしているように、いろんなことをゆっくり考えたい。 この、今自分がやりたいことは、直接的に他人とは結びつかない。 本は人が書いたもので、その本を読むことで書いた人と言葉を介して繋がる、これも他人との結びつきに違いはないが、間接的である。 自分一人で、自分のことや、社会のことを考える、この考えることも、考える内容は他人との関わりについてのことだが、考える行為自体は具体的な他人と結びつかない。 他人との直接的な結びつき、挨拶や会話をはじめとするコミュニケーション、他人と行動を共にすることなど、は今の自分も望ましいことだと思っている。 でも、今自分がやりたいことの中に、それらは含まれていない。 ずっと一人でいたいと思っているわけでもない。 しばらく一人でいたいのか聞かれれば、いや、どちらでもよいと答える。 ただ、自分の感受性を鈍らせる人と一緒にいたくない。 正確に言うと、個人の感受性を鈍らせることで集団の目的が遂行される場にいたくない。 そういう場には自然とそういう人が集まってくるからだ。 そして、会社とはそういう場所なのだという諦めが、自分の経験から今の自分に刻まれている。 そんなの会社によって色々あるだろう、と頭では分かっていても。 そういう場からいったん距離をおきたい。 そして、そうでない場、自分がいたいと思える場、身体の感度を高めて周囲と相互作用することで仕事が進んだり関係が円滑になる場を選びたい。 そういう場をちゃんと選べるように身体の感度を高めておきたい。 これが、今自分がなりたい状態と近い将来にやりたいことで、今自分がやっていること、今やりたいこととこれがちゃんと繋がっているかどうか。 それをしっかり考えて、今を過ごしたい。 +*+*+* 今は神奈川で有休消化をしており、「やりたくないことをやらない」を念頭に気ままに過ごしているが、人は安きに流れるという格言の通り、少しずつ自堕落の度が増しているように思う。 神奈川にいる間は、その気ままの気持ち次第で自堕落がどう食い止められるか、そして改善できるかを見るに留めようと思っている。 来月始めに京都に移ってからは、自分を律せられるような生活を組みたい。
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by chee-choff
| 2016-09-18 18:17
| 思考
今回の「ゆくくる」では実験の話をよく書いています。
ちょうどよい機会なので、僕が生活の中で「実験してみよう」と思った内容とその経過(結果)について次に書いてみましょう。 明文化することは目的や方針が明確になるという意味はあるのですが、なんとなく始めた実験の方向性を限定してしまう(どちらかといえば負の)効果もあって、格別面白い効果がなければ普段文章にすることはないのです。 なのでテーマ的には「ゆくくる」にふさわしいといえばそんな気もしますが、では、ちょっと思い起こしてみましょう。 ①消灯して風呂(シャワー)に入る …これを始めたのは去年(あ、もう2016年なんで一昨年ですね)のはずで、朝起きて夜寝るという人のバイオリズムがありますが、この「明るい朝・昼」と「暗い夜」という自然現象は太陽を周回する地球の公転と自転によりますが、電気を使うことで「暗い夜」を「明るい夜」にすることができるようになりました。この長年(というのは人類発祥から電灯が点くまで、というヒューマンスケールを遥かに超えた期間です)変わらなかった身体のリズムが数百年かそこらで変われるはずがない、という理論があって、日常生活とこれを関係させれば「寝る数時間前からだんだん照明を暗くしていった方が寝つきがよいですよ」という話になります。 そう言われればそうかもねと思い、「夜に高輝度のライトを直接身体に浴びるとバイオリズムが乱れる(身体が「今は昼か?」と思ってしまう)ので間接照明がよい」とか言われる前から部屋では備え付けの天井照明は使わずアッパーライト(最近バージョンアップしたんですが、「井戸コアラ」の『アッパラ兄弟~』という記事に詳しく書きました)だったので僕の認識が大きく変わることはなかったのですが、そういえば風呂場の照明は明るいなと思い、これは当たり前のこととして育ったから盲点になっていたのですが、寝る前に風呂に入るなら風呂場の照明は暗くあるべきだと気付いたのでした。 書いているうちに前にも書いたのを思い出しましたがまあいいとして(こういう時は特別に頭が回って前に書かなかったことを書こうとするのです。同じ話を「そのまま」繰り返すのはまず(書きながら考えるタイプの)書き手自身にとって面白くないですからね。内田樹氏はこのタイプで、氏はブログの中で「聞いたことのあるような話」を何度も繰り返して書かれるのですが、そう思いながらも面白く読める(実際に一度読んだ記事ですら再読に耐える)のは、氏自身が「(まさに今書こうとしている)自分が読んで面白い話を書く」という方針を貫いているからで、その、テーマが一緒でも細微が前に書いた時と違うという時の違いは、その都度の氏の関心対象や生活状況が文章に織り込まれていることに因っていて、そういう視点で読めば「無限の行間」から意味を汲み出すことができます。理想的には、ですが。以上、挿入がバカに長いので文字色を変えました)、風呂場を暗くすることは体を洗う時に目で確かめずに洗うということで、これは潔癖症の人でなくとも抵抗があるかと思うし僕もこれを考えた時に抵抗を感じたのですが、「生活実験の信条」みたいなことを同時に考えました。 これはちょうど今回の「ゆくくる」のどこかで書いた「習慣実験」に当てはめられる話で、「体をきちんと洗う」ことは深く考えなければ「生理的必要に基づく行動」ですが、じつは「理念的必要に基づく行動」なのです。 清潔という概念がほんとうに複雑というか厄介で、これは「穢れ」という宗教性と強く結びついているのですが、このテーマについては鷲田清一氏のいくつかの著書に大いに啓蒙させられた(「びっくりした」くらいの意味です)記憶があります(書名は何だったかな…こういう時にソーシャルライブラリがとても役立ちます。調べた結果は…『感覚の幽い風景』がタイトル通りこのテーマが主要の一つとして書かれています。『夢のもつれ』は読んだ時の衝撃だけ記憶にありますが、この本にもいくつか書かれていたかもしれません)。 例えば口に入れたものを消毒済みのコップに吐き出してもう一度口に入れることはものすごく抵抗がありますが、衛生面(有害な細菌の有無など、観念を含まない純粋に生理的な側面を指してここでは使っています。ところで「衛生」も日常的な使われ方として観念を含んでいますよね)では何の問題もありません。 この「ものすごい抵抗」を頭で考える以前の生理的嫌悪として人が認識する元をたどれば、「口に入れてから外に出したものは不潔である」という純粋な観念なわけです。 あるいは体の外と内の境界を考えた時に、保健体育で習うところでは肌が境界になりますが、服の上から他人に触れられた場合に「その人が自分に触れた」と感じることから「自分が着ている服の表面」が体の外と内の境界であることを想定できるわけですが、これが観念ではなく生理的感覚に思えるのは「服の上から他人に触れられる感覚」が観念的でないことに因っています。 この二つの例は、観念と生理が分かちがたく入り組んでいることを理解させてくれます。 話を戻しますが、つまり「生活実験の信条」のことですが、ある習慣が「生理的必要」か「理念的必要」かどうかは「とりあえず”抵抗”とか”嫌悪感”みたいなのをおいといて(内田氏は「かっこに入れる」とよく表現します)しばらく続けてみる」ことで判断がつくと考えています。 (他人に勧めたり一般化したりすることに、あまりに直接的に言ってしまうと常識的に抵抗がある(というこれは常識的な判断)から僕は「実験」などと呼ぶわけですが、たぶんテーマとしては深遠で、学問的な体裁を整えれば文化人類学への貢献になるかもしれない、と今思いつきましたが、これは単に「だから何だ」という話で大した意味はありません) そういえば温泉旅館で風呂場の照明が暗いなあと思ったことが何度かあります(逆にスーパー銭湯では例外なく風呂場全体が煌々と照らされています)が、この「暗い」という印象の出所に上記の「理念的必要(上の習慣)」があったと考えることができます。 で、話をもう少し前に戻しまして風呂の話ですが、まずは手元にある間接照明で何かないかと探し、ランタンを使い始めました。 風呂に入る時にライターでろうそくに火をつけて高い所に置き、もちろん防水ではないのでシャワーがかからないようにします。 これをしばらく続けましたが、ろうそくのロウの消耗具合によって明るさが変わるので、変わるごとに「なんだかなあ」と思ったり、あとはろうそくがわりと幅広の円柱形なのですが、底の隅っこにロウが使い切れずに残るのが気に食わず再利用しようとしてろうそくのアルミ容器をコンロにかけたりと便利な器具を買う発想が全くないばかりに面倒なことをやったりして、しまいに面倒になりました。 今はどうなったかといえば、風呂場の照明は何も点けずに入っています。 リビングのアッパーライトは夜はずっと点けているので、その光がわずかに風呂場に届く程度です。 真っ暗ではありませんが、例えば肌に泡がついているかどうかは見えません。 で、ここからが面白い所なのですが、それに慣れてくると触覚が敏感になってきます。 体を洗うのに前は化繊の汚れがつきにくいウォッシュタオル(というのかな?)を使っていましたが、いつ頃からか肌が荒れることに気付いてからはスポンジも使わず直接手で洗っています。 風呂場が明るい時はそれでどうとも思わなかったんですが、暗い中で洗うようになると「体つき」というか、体の各部分の形やモノ(再表面はどこも肌ですが、筋肉が張っている部分、脂肪が厚くついている部分、骨が表面近くまで突き出た部分、そして今挙げた分類はもちろんゼロイチではなくグラデーションがあるわけで、手で触れて得られるのは表面+奥行き情報だということがよくわかります)を「初めて知る」ような感覚があり、それはつまり言うまでもないですが「視覚でなく触覚で初めて知る」ということです。 1つのテーマが意外と長くなりました。 いろいろ書こうと思っていましたが、あまり時間ないですね。 お昼ごはんを食べます。 12:23 +*+*+* 箱根駅伝を見ていたら時間がすぐに経ちます。 かみのだいち君(なんと神々しい名前!)のゴール前、最後に曲がる前の直線で見せた「気力みなぎる表情」が印象的でした。 どれだけ身体が疲れていても、あのような表情ができるのですね。 +*+*+* そろそろまとめます(まとめられるような話をしていませんが…)。 どう生きていくか、と言えば重いテーマに見えますが、つまりは先に書いた「思想」のことです。 一つは、最初の方に書いた、 「必然に従う」ということ、 それからもう一つは、 「自分で選択しようが流れに身を任せようが、充実した生活を送る」ことです。 充実とは、幸福・不幸の別も、健康・不健康の別も、富貴・貧乏の別も、喜怒哀楽の別も、関係はしますがどれか一要素が満たされれば同時に満足されるものではありません(これは「否定を続けて行った先に残ったものが(あくまで暫定的な)結果として肯定される」という語法で、限られた枠あるいは文字数での表現が要求される広告の語法とは対極にあります)。 保坂和志氏の、自分で考える、考え続ける思考方法と通じるものがあると思いますが、これを絶やさないような生活をすること。 ああ、ひとつ否定でない表現がありました。 充実とは、プロセスです。 そしてプロセスには変化が不可避的に含まれます。 どれだけ具体的なことをしていようが、あるいは抽象的なことを考えていようが、このことは念頭においておきたいと思います。 生活に「厚みをもたせる」思考も、このベースがあってこそ生まれることでしょう。 14:27 +*+*+* まあこんな感じで、今年もゆるりと充実して過ごせればと思います。 読んでくだすった方とまたここでお会いするのは年末になりますが(年始に年末の話をするのは文字通りの「離れ業」って感じがしますね。そしてこれは表現としては「年末年始」ではなく「年始年末」ですね)、僕の普段の「生活実験」等に興味がありましたら以下の「井戸コアラ」にお越しください。 ミ☆ 緩い井戸コアラ鳩詣 ☆ミ それでは、今年もどうぞよろしくお願いいたします。 chee-choff #
by chee-choff
| 2016-01-02 11:43
| その他
昨日は、結局間に合いませんでした。 +*+*+* 初詣の時の話を書こうとしていました。 そうだ、和歩で歩くと(西洋歩きの時と比べて)頭の回り方が違うという話を最初にしようとしたのでした。 石清水八幡宮に着いてからの話。 #
by chee-choff
| 2016-01-01 22:15
| その他
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