薀蓄を語るのであった.
でも,その前に「薀蓄を語る前の薀蓄」を語る. そしてその前に「本論の前の序論の前の導入」を語ることも可能で, やはりその前にも(ry というマトリョーシカの上半身をどんどん取り除いていく作業は (実際には極小のマトリョーシカをそれより少し大きいそれで どんどん覆っていく作業,といった方が(言語)空間の拡がりとして的確な表現だと思う. 話は全然逸れるけど,これがヴォイスを割る(@ウチダ氏)ことではないのかなと思う) やればやるほど本人にとっての楽しさが増すのだけれど, それに反比例して読者の追従意思と本人の体力が減る仕組みである. というトレードオフを勘案して「薀蓄の薀蓄」を語るにとどめることにする. +*+*+*+*+*+*+ すなわち,「音楽の批評」について. 人に自分の好きな音楽を紹介するうえで最もシンプルなのは 「とりあえず聴いてくんろ」の一言とともに曲を提示することである. その曲と紹介した彼との相性が良ければ追記は不要であり, 一方「どうもちょっとねぇ…」となれば推薦終了か説得継続かの二択になる. そこで「言葉としての楽曲の批評」が初めて効果を発揮する場合もある. だが,楽曲を聴く前から何かしらの抵抗を持つ人もまた別枠でいらっしゃる. 例えば「ロックはなんだかやかましいから」「演歌はどうも古臭いし」などのそれ. 単なる人聞きの偏見の場合もあるが,何度か(それこそジャンルで括れるような) 苦い体験を経て構築されたスタンスなのかもしれない. しかしそれらの理由はどうあれど,その楽曲を一度として聴かぬまま, その存在自体を知らぬままという無経験は,楽曲に感動を覚えた者にとっては 勿体無いと思うし,なんだか寂しいなぁとも思う. この寂しさの埋め合わせは自己満足であり, 初段落で述べた提示→推薦終了の流れを優先する意思は他者と楽曲との 出会いの機会の提供の一方で強要はせず表向き時間浪費の体をとる拘束もかけず (つまり本音としては「首突っ込んだ時の一切は自己責任ですぜ」)という「おせっかい」を 最小限にとどめた振る舞いに謙虚さを見る意識も自己満足である. つまりどう足掻いても「音楽批評」は自己満足の域を出ない. 要約すると(というかここまで書いた話は別論ってことでw), とりあえず曲を一度聴いてみてもらえれば僕の意図は完全に達成されます. 何かしら良く分からないものを含めた抵抗があって足を踏み出せずにいる人が もしいるとして,彼らが踏み出すきっかけになればいいなぁという思いを込めて 紹介文を書いたり砂上楼閣的薀蓄を弄したりしています. (ちなみに僕自身は吹奏楽とジャズやってましたが, 音楽理論の方はからっきしプーですw) 楽曲リンクに付随した文章たちの主な役割はそれであり, (つまり読む必要はほとんどの人にとってほとんどありません) かつ副次的な目的として,僕の音楽的言語表現(音楽→言語への変換)が どの程度のものなのかを見てみたくもあったりします. それを晒すあたりやはり気質としてマz(ry ごほんごほん. で,何を隠そう音楽批評なるものを初めてするので 語彙が凄まじく貧困な状態からスタートすることをご了承頂いて, (会話では「かっけー」「すげー」くらいのレベルですww) それでいて最近ジャンルの定まらない哲学本を読んで奇妙なレトリックを醸成しつつあり 「言語変換時の元感覚との乖離度」が甚だしいことを僕自身自覚したうえで, 言葉を紡いでいくつもりです. +*+*+*+*+*+*+*+*+* 「薀蓄を語る前の薀蓄」を語ったところで力尽きた(笑)ので, 本記事本論であるはずの「薀蓄」は要点だけ箇条書きにとどめときます. またその気が起これば詳しく書こうかなと(→逃げ口上). +*+*+*+*+*+*+*+*+*+* 楽曲を楽しむのとはまた別方向の議論. 人の声を模したものだけに(というか声をサンプリングして調整したんですが), 再現度はどうなのか,とか色々考えたくなるもの. 僕もその一人なんですが,まぁそっち方面の議論に手を出すのは後の方がよろしいかと. 以下に考えてみようかなーと思われる事柄を. ・音楽を創る行為の一般化に貢献 (つまり作り手がどばっと増えてよりどりみどり,と) ・「無償の創造」の可能性 (これはまだ流行り出してから日が浅いから言えるのかもしれない. 「価値を秘めた無価値」の芽を摘むのはいつもビジネス・市場原理だ) ・「人の声みたいなもの」というより「感情表現が可能な楽器」 (僕の聴き方に由るところが大きいのだけれど) ・「無機質性」と相性の良い「聴き手のストーリー構築可能性」 (一つ上の項目とリンクします)
by chee-choff
| 2009-06-26 11:56
| V概論
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