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深爪エリマキトカゲ
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◆ 『ウィリアム・ジェイムズ入門』 スティーブン・C・ロウ
Sun.6.20 読了.

 ジェイムズはまず読破すべき哲学者に定めており(というか今定めたw),
 解説本も嬉々として読めるほど好きな人である.

 ロウ氏の本著.
 「ジェイムズと対話してもらいたい」と最初では調子のいいこと言っておきながら,
 後半の著書紹介では独壇場ドリーマブル(夢心地)な話が展開され,
 いささか置いてけぼりの感が残った.
 「こ,これは!」と魂を揺さぶる表現がいくつか散見されたのはよしとして,
 全体の流れが…時々ドリーマーぶりについていけなくなったので途切れ途切れであった.
 ジェイムズの著作も同じ雰囲気だったのでなるほどなぁとは思うのだが,
 彼(=ジェイムズ)の方が「わっし魂の歓喜に打ち震えてますねん」感が出ていた.
 どちらにしても(ジェイムズにしてもロウ氏にしても)そうなのだけれど,
 言葉では到底表しきれないものの表現に敢えて挑戦する努力がにじみ出ていて,
 その気持ちを汲み取った上で彼らの文章を読めば,
 言わんとすることを理解できなくとも受け取れるものがあるはずだ.
 
 この「理解できなくとも受け取れるもの」が彼らの言う「純粋経験」の一つではないかと思う.


 以下抜粋とコメント.
 (読み返して紛らわしかったので追記.
 「…」は抜粋文の途中部分の省略,
 「>>」は抜粋文に対する僕自身のコメント.)



p.34 (復活をもたらす活動)
 一元論にまつわる第二の問題は,「敵対的な主知主義」である.「名前が名づける事実から,その名前の定義に完全に含まれないものを除外する,という立場こそ,私が『敵対的な主知主義』と呼んでいるものです.・・・・ある人をいったん『乗馬をする人』と呼んだなら,その人は永久に自分の足で歩けないことになってしまいます」.「敵対的な主知主義」とは,実生活の複雑さから逃げ出し,生きた経験から新たな洞察や力を得る道を断たれた知性の構築物に引きこもることである
>>ここでの例は笑い話級の不真面目さだが,言っていることはなかなか重い.何を言葉にするにしても,それは元あった曖昧な形(可能性)の輪郭をはっきりさせると共に,グレーゾーンの大部分を削ぎ落として(可能性を狭めて)しまうのである.

p.46-48
 合理論は,経験に対する概念の優位性をもたらしたが,これを克服する手段は二つの要素から成り立つ.ひとつは,概念と経験はどちらも必要であり,互いに補い合うものであることを認識しなければならない,ということだ.
  …もしわれわれが,現象をおおまかにあつかったり,遠くにあるものを展望したり,ちりぢりになっているものを集めたりすることにもっとも関心があるなら,概念的な方法に従わなくてはなりません.しかし,形而上学者として,実在の内的性質や,実在を現に動かしているものに関心があるなら,高慢な概念にはくるりと背を向け,過ぎ行く濃密な時間のなかに身を沈めなくてはなりません.概念は,その表面を見下ろしながら飛び,ときどき個々の点に止まって翼を休めるだけだからです.
…「生の本質は,連続的に変化していく性質にあります.しかし,われわれの概念は,すべて不連続で固定化されたものであり,・・・・実在の部分ではありません.つまり,概念は,実在がとる真の立場ではなく,むしろ仮定であり,われわれの記すメモなのです.どんなに細かく編んであっても,網では水がすくえないのと同じように,概念によって実在の実質を汲み取ることはできないのです」.
 したがって,合理論による支配を克服する方法の第二の要素は,「概念化されていない言葉で考え」られるようにすることだ
>>この部分(=「概念化されていない言葉で考え」ること)を読んでびっくりした.以前僕がブログで就職についての考察を行なったとき,自分の哲学を語る場面で同じ意味の表現を使ったからである(もちろん本書を読む前にブログを書いたのであった).無意識のうちにジェイムズの思想が自分の中で息づいているのであれば,これほど嬉しいことはない.立派なプラグマティストになれる日も近い(?) ちなみにそれまでに読んでいたジェイムズの著作は,『プラグマティズム』,『宗教的経験の諸相(上)(下)』であった.

p.84-85 (On A Certain Blindness in Human Beings)
 さて,これまで示してきたさまざまな考察や引用から,どういう結論が得られるでしょうか? その結論は,ある意味では禁止になり,またある意味では命令になります.つまり,一方では,自分と異なる生き方が無意味だとずけずけ主張するような態度は断じて許されません.また一方では,他人に迷惑をかけずに自分なりに楽しく満足して生活しているような人たちを,その生き方がどんなに理解できなくとも,許容し,敬い,自由にさせよ,という命令が下されます.干渉してはいけません.どの観察者も,それぞれ独自の立場から,ある点では他人よりすぐれた洞察を得るものですが,誰であろうと,ひとりの観察者に,真理や善のすべてが啓示されることはないのです
>>まことに戒めるべき訓である.だがふと打ち込んでいて思ったのだが…この例外がいつ発揮されるかについて:相手が本気で生きていないと思われた時,又は相手から後に益のない後悔をすることが予見されるような堕落を感じ取った時,上記の主張をすべきではないだろうか.すなわち「無意味なことはやめろ」と.もちろん訓を心に留めつつ(他には主観の押し付け,俗に言う「余計なお世話」を認識しつつ),相手の状態(最低限の教育の必要性,覇気の有無,…)をしっかり観察した上での話だと思われるが.干渉してはいけないが,「寸止めの干渉」をすべき時はあるように思う.相手が自分の大切な人であればなおさら.

p.90 (Diary)
 彼[ルヌーヴィエ]が唱える「自由意志」の定義──『別の考え方をしてもよい場合に,ある考えをみずからの選択によって持ち続けること』──
 …自由意志による私の最初の行為は,自由意志を信じることだ
>>美しい言葉だ.「みずからの選択によって持ち続ける」,この表現がプラグマティズムという哲学の真髄ではなかろうか.多くの哲学は一般性の担保に躍起になる(誰もが納得するであろう理論を構築すべく論理をこねくりまわす)が,プラグマティズムはそれらの姿勢とは一線を画しており,その哲学の有効性(真理性)は個人に宿る(すなわち他の哲学を(部分的に)選択する余地も与えられるわけだ.この点で僕は,プラグマティズムは「次数を一つ繰り上げた(@ウチダ氏)哲学」であると認識している).そしてそれは,個人の思考の経験・選択を通じてのことなのだ.

p.128 (What Pragmatism Means)
 私はつい先ほど,われわれにとって信じた方がよいものは,その信念が他のきわめて重大な利益と偶然にも衝突する場合を除き,真であるといいました.では,実生活において,われわれの個々の信念がもっとも衝突しやすい,きわめて重大な利益とは何でしょうか? それは他でもありません,すでに抱いていた信念がもたらす利益とは相容れない,別の信念による重大な利益です.つまり,われわれの真理にとっての最大の敵とは,やはり自分自身が信じているその他の真理かもしれないのです.自己を保存したい,そして己に矛盾するものは何でも消滅させてしまいたい,という欲望──真理は,もともとこのようなすさまじい本能を持っています.得られる利益に基づいて私が絶対者に対し抱いている信仰は,私が持っている他のあらゆる信念から非難を浴びなければなりません
 …もし私が,絶対者についての自分の観念を,ただ道徳的な判断の休暇を与えてくれるという価値にかぎることができれば,それが私のほかの真理と衝突することはないでしょう.しかし,われわれは,そんなふうに自分の仮説をたやすく限定できはしません.そうした仮説には余分な特徴があり,実は次々と衝突を起こすのはそれらの特徴なのです.私は道徳的な判断の休暇をとることの正当性については信じきっていますから,私が絶対者を信じないということは,結局そういう余分なほかの特徴を信じないという意味なのです
 …プラグマティズムにおいて,真理かどうかを定める唯一の基準は,われわれをいちばんうまく導き,生活のどの部分にも最も調和し,経験の要求を一つ残らず含めた集合と結びつくか,ということです.
>>プラグマティズムの良い例が示されている.そして類を見ない真理に対する視点にも目を見張るものがある.

p.175 (訳者あとがき)
 …ジェイムズの思想は,「根本的経験論」「プラグマティズム(実用主義)」「多元論」などの名で呼ばれている.ジェイムズは,思考を経ないもっとも直接的な「純粋経験」によって,世界の意味をとらえようとする(根本的経験論).また行動を重んじ,ある観念が真理かどうかは,それが生活のなかで実際に役立つかどうかで決まると唱える(プラグマティズム).そして,世界が互いに独立した多くの原理や要素から成り立っているという世界観(多元論)に立ち,自由意志の存在を主張する.
>>ジェイムズの思想を上手くまとめられている箇所だと思われたので参考までに.
by chee-choff | 2009-06-22 16:30 | 読書