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深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし08→09 (3)
昨日書いた文章を今日見返すと、

訳の分からない部分が沢山あった。

そう思い加筆修正を行うと、

前後の整合性に対する疑問が増えた。

…もう知らんw

とりあえず書き切り、正月が明けてから見直した時に

また修正すればよいという甘い考えを採用。

修正作業は当然のことながら筆の歩みを遅らせる。


+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*


志望理由を書くのはやめた。

理由には公私の区別がつくものと考えているが、

(公がタテマエ私が本音、という意味ではなく、

公がある程度通念や常識に譲歩した表現であると考えて用いている)

今のところ私に対し公があまりにも貧弱で、

その差異をここでさらしたいとも思わないので、

もう少し頭の中だけで考えることにした。


ということで少し話題を変え…

工学部にしてなぜこのような考えに至ったかを少し考えてみる。

工学といえばものづくりであるが、新聞も発行される紙を販売する意味で

同じものづくりである、とどこかのフォーラムで聞いたような気がする。

ものづくり云々は多分そうだろうとして(その分類自体にはあまり興味はない)、

問題はその「もの」が何かである。

工学なら例えば機械(以下、モノとする)。形がある、機能をもつ、効果が目に見える。

新聞は情報。それ自体に形はない、機能はない、効果もない。

情報は形のあるものに価値を与える。

もちろん形のないものにも価値を与える。

実感を与えるのは? モノ。

機会を与えるのは? 情報。

欲望を増幅させるのは? 両者。

欲望を抑制するのは? …情報。



この先はまた思いつけば書く。

とりあえず違いを考えてみたかったので並べただけ。


さて。

工学部で様々な講義を受けるにあたり、

自分は恐らく合理的な考え方を学んだ。

科学の緻密さ、正確さ。

 モノがそこにある実感、モノが作られる現場の感覚。


不自由な、又は満足でない生活をする人々に、

どのようなモノを提供すればその生活が改善されるか。

使う側の身になり、開発において試行錯誤を繰り返す。

自分の持つ知識・経験を総動員させ、問題解決に取り組む。

完成した製品を、消費者が使う。

苦しかった生活が目に見えて変わり、それが身をもって体験される。

否定しようのない、幸福の増幅。

消費者の体験談をもとに製品の改善を行う。

よりよいものを作るために。

もっと多くの人の笑顔を見るために。

より便利な製品を通じて、社会生活が少しでも豊かになるように。


この製品の提供・改善サイクルの循環における、

前提とは何だろうか。

問われることのない、大前提。

それは、

「モノづくりを通じて、世の中をよくすること」

 モノづくりは、科学を否定しない。

 科学は、モノづくりを否定しない。

 (科学の在り方を問う科学哲学については、ここでは触れない。

 科学哲学が科学に含まれるか否かを知らないので)


工学部で学ばなかったこともある。

それは、

 「工学を否定する価値観」

これは、当たり前のことかもしれない。

何物かに価値を加え、それを商品として消費者に提供し、対価を受け取る。

その商品を作る企業。

その企業が商品に与える価値は、消費者にとって「いいもの」であるはずである。

そうでなければ商品は売れない。

そして、ほとんどの場合その価値は企業にとっても「いいもの」であるはずである。

要するに、

企業の価値観に即して製品(商品)に価値を与えるにあたり、企業は

 「自己言及」 はするが、

 「自己否定」 はしない。

「この商品、実は使い道ないんですけど、作っちゃったんで買って下さい」

と真面目に宣伝しても、誰もその商品を買わない。

(真面目でない宣伝=ブラックジョーク)


この「自己否定」を厭わない産業があるのではないか。

思うにそれは、マスメディア。

情報を商品とするマスメディアが、

なぜ「自己否定」を成し得るか。
           ネタにできるのか。      09.3.30訂正

それは、「自己否定」自体が情報だからである。

 「自己否定」自体が、商品になり得るからである。

もちろんおおっぴらにメディアの存在を否定するなんてことは

どの媒体もやらかしていない(はず)。

ただ、あからさまでなくとも、メディアの発する情報は

「自己否定」の余地を常に含んでいる。

それは「自浄作用」の一部のようにも思われる。

(もちろん自浄作用の大部分は、自己反省を通じて

公正さを担保するためにある)


ここで「メディア」とひとくくりにしたが、

なぜ自分が新聞に注目しているか。

ここではテレビとの比較のみで済ませることにする。

これらのメディアは自らが得た情報をいかなる媒体に託して社会(消費者)に提供するか。

新聞は、文字(文章)。

テレビは、画像(動画)。

どちらの媒体も利点・欠点を持つが、言いたいことだけを言うことにする。

画像も文字も、作成されたものは全て同じよう(=基本的に視聴者によって

内容・形式に差がない、という意味)に視聴者、読者に提供される。

画像は、見たままの情景を視聴者に伝える。

 あたかも、視聴者がその現場にいるかのように。

 (この際、撮影者の主観が撮影する映像の選択に入るのは周知の事実である)

一方で文字は、読者一人ひとりに違った印象を与える。

 ある小説に対する感想が一人ひとり違うように。

もちろん画像にも視聴者の受け取り方の差異はあり、

文章を書く記者に言葉を選択する主観も存する。


ここで問題にしたいのは、程度である。

メディア側の主観の入り具合はここでは言及しない。

むしろ視聴者、読者の受け取り方の差異に注目する。

情報を受け取る、つまり外界の情報を自らの所有に変換する過程に

いかなる余地があるか。

それは「考える余地」である。

言わずもがな、圧倒的に画像より文字の方が大きい。





疲れたので結論だけ言うが、

考えることに大変大きな価値を見出した自分は、

人によりよいモノを与えて幸福になってもらうのではなく、

モノの多寡に関わらず人が自ら、

モノの価値を見出してもらいたいと思うようになったのである。


あれ…なんか書いてるうちに志望動機っぽいものになってる気がするけど、

…まぁ中途半端だからいいや。

もっと洗練させるべく思考を怠らないようにしよう。


考えさせたいんなら本書きゃいいじゃないか、

という疑問に答える話がこの記事のどこにも書かれていないので、

それもまた考えとこう。
by chee-choff | 2009-01-03 19:08 | 思考