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深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし('15→'16)2
今回の「ゆくくる」では実験の話をよく書いています。

ちょうどよい機会なので、僕が生活の中で「実験してみよう」と思った内容とその経過(結果)について次に書いてみましょう。
明文化することは目的や方針が明確になるという意味はあるのですが、なんとなく始めた実験の方向性を限定してしまう(どちらかといえば負の)効果もあって、格別面白い効果がなければ普段文章にすることはないのです。
なのでテーマ的には「ゆくくる」にふさわしいといえばそんな気もしますが、では、ちょっと思い起こしてみましょう。


①消灯して風呂(シャワー)に入る

…これを始めたのは去年(あ、もう2016年なんで一昨年ですね)のはずで、朝起きて夜寝るという人のバイオリズムがありますが、この「明るい朝・昼」と「暗い夜」という自然現象は太陽を周回する地球の公転と自転によりますが、電気を使うことで「暗い夜」を「明るい夜」にすることができるようになりました。この長年(というのは人類発祥から電灯が点くまで、というヒューマンスケールを遥かに超えた期間です)変わらなかった身体のリズムが数百年かそこらで変われるはずがない、という理論があって、日常生活とこれを関係させれば「寝る数時間前からだんだん照明を暗くしていった方が寝つきがよいですよ」という話になります。

そう言われればそうかもねと思い、「夜に高輝度のライトを直接身体に浴びるとバイオリズムが乱れる(身体が「今は昼か?」と思ってしまう)ので間接照明がよい」とか言われる前から部屋では備え付けの天井照明は使わずアッパーライト(最近バージョンアップしたんですが、「井戸コアラ」の『アッパラ兄弟~』という記事に詳しく書きました)だったので僕の認識が大きく変わることはなかったのですが、そういえば風呂場の照明は明るいなと思い、これは当たり前のこととして育ったから盲点になっていたのですが、寝る前に風呂に入るなら風呂場の照明は暗くあるべきだと気付いたのでした。

書いているうちに前にも書いたのを思い出しましたがまあいいとして(こういう時は特別に頭が回って前に書かなかったことを書こうとするのです。同じ話を「そのまま」繰り返すのはまず(書きながら考えるタイプの)書き手自身にとって面白くないですからね。内田樹氏はこのタイプで、氏はブログの中で「聞いたことのあるような話」を何度も繰り返して書かれるのですが、そう思いながらも面白く読める(実際に一度読んだ記事ですら再読に耐える)のは、氏自身が「(まさに今書こうとしている)自分が読んで面白い話を書く」という方針を貫いているからで、その、テーマが一緒でも細微が前に書いた時と違うという時の違いは、その都度の氏の関心対象や生活状況が文章に織り込まれていることに因っていて、そういう視点で読めば「無限の行間」から意味を汲み出すことができます。理想的には、ですが。以上、挿入がバカに長いので文字色を変えました)、風呂場を暗くすることは体を洗う時に目で確かめずに洗うということで、これは潔癖症の人でなくとも抵抗があるかと思うし僕もこれを考えた時に抵抗を感じたのですが、「生活実験の信条」みたいなことを同時に考えました。

これはちょうど今回の「ゆくくる」のどこかで書いた「習慣実験」に当てはめられる話で、「体をきちんと洗う」ことは深く考えなければ「生理的必要に基づく行動」ですが、じつは「理念的必要に基づく行動」なのです
清潔という概念がほんとうに複雑というか厄介で、これは「穢れ」という宗教性と強く結びついているのですが、このテーマについては鷲田清一氏のいくつかの著書に大いに啓蒙させられた(「びっくりした」くらいの意味です)記憶があります(書名は何だったかな…こういう時にソーシャルライブラリがとても役立ちます。調べた結果は…『感覚の幽い風景』がタイトル通りこのテーマが主要の一つとして書かれています。『夢のもつれ』は読んだ時の衝撃だけ記憶にありますが、この本にもいくつか書かれていたかもしれません)。
例えば口に入れたものを消毒済みのコップに吐き出してもう一度口に入れることはものすごく抵抗がありますが、衛生面(有害な細菌の有無など、観念を含まない純粋に生理的な側面を指してここでは使っています。ところで「衛生」も日常的な使われ方として観念を含んでいますよね)では何の問題もありません。
この「ものすごい抵抗」を頭で考える以前の生理的嫌悪として人が認識する元をたどれば、「口に入れてから外に出したものは不潔である」という純粋な観念なわけです。
あるいは体の外と内の境界を考えた時に、保健体育で習うところでは肌が境界になりますが、服の上から他人に触れられた場合に「その人が自分に触れた」と感じることから「自分が着ている服の表面」が体の外と内の境界であることを想定できるわけですが、これが観念ではなく生理的感覚に思えるのは「服の上から他人に触れられる感覚」が観念的でないことに因っています。
この二つの例は、観念と生理が分かちがたく入り組んでいることを理解させてくれます。

話を戻しますが、つまり「生活実験の信条」のことですが、ある習慣が「生理的必要」か「理念的必要」かどうかは「とりあえず”抵抗”とか”嫌悪感”みたいなのをおいといて(内田氏は「かっこに入れる」とよく表現します)しばらく続けてみる」ことで判断がつくと考えています。
(他人に勧めたり一般化したりすることに、あまりに直接的に言ってしまうと常識的に抵抗がある(というこれは常識的な判断)から僕は「実験」などと呼ぶわけですが、たぶんテーマとしては深遠で、学問的な体裁を整えれば文化人類学への貢献になるかもしれない、と今思いつきましたが、これは単に「だから何だ」という話で大した意味はありません)
そういえば温泉旅館で風呂場の照明が暗いなあと思ったことが何度かあります(逆にスーパー銭湯では例外なく風呂場全体が煌々と照らされています)が、この「暗い」という印象の出所に上記の「理念的必要(上の習慣)」があったと考えることができます。

で、話をもう少し前に戻しまして風呂の話ですが、まずは手元にある間接照明で何かないかと探し、ランタンを使い始めました。
風呂に入る時にライターでろうそくに火をつけて高い所に置き、もちろん防水ではないのでシャワーがかからないようにします。
これをしばらく続けましたが、ろうそくのロウの消耗具合によって明るさが変わるので、変わるごとに「なんだかなあ」と思ったり、あとはろうそくがわりと幅広の円柱形なのですが、底の隅っこにロウが使い切れずに残るのが気に食わず再利用しようとしてろうそくのアルミ容器をコンロにかけたりと便利な器具を買う発想が全くないばかりに面倒なことをやったりして、しまいに面倒になりました。

今はどうなったかといえば、風呂場の照明は何も点けずに入っています。
リビングのアッパーライトは夜はずっと点けているので、その光がわずかに風呂場に届く程度です。
真っ暗ではありませんが、例えば肌に泡がついているかどうかは見えません。
で、ここからが面白い所なのですが、それに慣れてくると触覚が敏感になってきます
体を洗うのに前は化繊の汚れがつきにくいウォッシュタオル(というのかな?)を使っていましたが、いつ頃からか肌が荒れることに気付いてからはスポンジも使わず直接手で洗っています。
風呂場が明るい時はそれでどうとも思わなかったんですが、暗い中で洗うようになると「体つき」というか、体の各部分の形やモノ(再表面はどこも肌ですが、筋肉が張っている部分、脂肪が厚くついている部分、骨が表面近くまで突き出た部分、そして今挙げた分類はもちろんゼロイチではなくグラデーションがあるわけで、手で触れて得られるのは表面+奥行き情報だということがよくわかります)を「初めて知る」ような感覚があり、それはつまり言うまでもないですが「視覚でなく触覚で初めて知る」ということです。


1つのテーマが意外と長くなりました。
いろいろ書こうと思っていましたが、あまり時間ないですね。
お昼ごはんを食べます。
12:23

+*+*+*

箱根駅伝を見ていたら時間がすぐに経ちます。
かみのだいち君(なんと神々しい名前!)のゴール前、最後に曲がる前の直線で見せた「気力みなぎる表情」が印象的でした。
どれだけ身体が疲れていても、あのような表情ができるのですね。

+*+*+*

そろそろまとめます(まとめられるような話をしていませんが…)。
どう生きていくか、と言えば重いテーマに見えますが、つまりは先に書いた「思想」のことです。

一つは、最初の方に書いた、
必然に従う」ということ、
それからもう一つは、
自分で選択しようが流れに身を任せようが、充実した生活を送る」ことです。

充実とは、幸福・不幸の別も、健康・不健康の別も、富貴・貧乏の別も、喜怒哀楽の別も、関係はしますがどれか一要素が満たされれば同時に満足されるものではありません(これは「否定を続けて行った先に残ったものが(あくまで暫定的な)結果として肯定される」という語法で、限られた枠あるいは文字数での表現が要求される広告の語法とは対極にあります)。
保坂和志氏の、自分で考える、考え続ける思考方法と通じるものがあると思いますが、これを絶やさないような生活をすること。

ああ、ひとつ否定でない表現がありました。

 充実とは、プロセスです
 そしてプロセスには変化が不可避的に含まれます

どれだけ具体的なことをしていようが、あるいは抽象的なことを考えていようが、このことは念頭においておきたいと思います。
生活に「厚みをもたせる」思考も、このベースがあってこそ生まれることでしょう。

14:27

+*+*+*

まあこんな感じで、今年もゆるりと充実して過ごせればと思います。
読んでくだすった方とまたここでお会いするのは年末になりますが(年始に年末の話をするのは文字通りの「離れ業」って感じがしますね。そしてこれは表現としては「年末年始」ではなく「年始年末」ですね)、僕の普段の「生活実験」等に興味がありましたら以下の「井戸コアラ」にお越しください。

ミ☆ 緩い井戸コアラ鳩詣 ☆ミ

それでは、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

chee-choff

by chee-choff | 2016-01-02 11:43 | その他