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深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし(´15→´16)1
今日はくもりで、雨が降る可能性は低そうですが星は見えないでしょう。
はちまんさんへ登る山道はまっくらですね。
雨が小ぶりくらいなら行くつもりですが、なんとかもちこたえてもらいたいものです。

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さて、この1年を振り返ってみましょう。

さっき書きましたが、出来事としては今年は本当に何もありませんでした。
ちょっとしたことで言えば…GWの時期(会社のGWは世間とズレていて、今年は6月最初でした)に旧友と会いたくなり、3,4人ほど会う予定を組んで実家に帰りました。
なにかの本に影響されてだった気がしますが、そうやって会うことでなにかを確認しようとしたことは覚えています(「なにか」ばっかで何も覚えていない言いぐさですが…)。
で、会ってみて、変わっていない(みんなそれなりに社会に適応している)ことに安心しました。
面白い話を期待したわけではなく、実際マジメな話しかしませんでした(仕事や生活の話)が、なんというか、「ふつう」という言葉は漠然と使われると反発したり、自分が漠然と使うと大した意味もないのに変に意味を持ってしまって持て余すことがあるのですが、友人の具体的な仕事や生活の話を聞くと、その「ふつう」に実質が備わった気がして、そのことに安心したのでした。
まあそのことと、自分もその「ふつう」に倣うことは別問題ですが。

なんだかここでの「ふつう」という言葉の使い方が、旧友の一人ひとりの仕事や生活に特徴がないことを強調しているように見えると困るのですが、僕のいう「ふつう」は彼らの具体的な生活内容に向けられているのではなく、それぞれの個性ある生活を社会と折り合って営んでいることによる彼らの(「社会の成員としてそれなりにやっていますよ」という)安定感に対して僕が抱く印象のことです。
こういう人が一定数以上いないと社会が成り立たないという意味で、とても広い意味で(というのは、例えば会社にとっては彼一人がいなくなってもうまく回るだろうから…という言い方も誤解を招きそうですが、これもその人個人の性質に起因するのものではなく、「よくできた会社」の仕組みとしてそうなっているということです。欠けると社命に関わる人ばかりが成員の会社は長生きできません)「必要不可欠」な存在で、必要とされる人がそれなりに充実して生活できる社会は平和だと思います。

この安心は恐らく会社なりで付き合いがあれば自然と得られるものだと思いますが、僕にそれがないのは会社の人間関係がプライベートにまで及ぶことがほぼないからです。
もちろん一緒に仕事をしているというだけで会社の一員だという安心感があるわけですが、仕事とプライベートが明確に分かたれている場合、仕事上の安心感(「現実感」とも言い換え可能でしょう)がそのままプライベートの安心感にもなるかといえば、「そのまま」ではないだろうと思います。
もし生活上必要最低限の仕事上・プライベート上双方の安心というものがあるとすれば、僕は後者は思考(思想)と習慣作りによって満たしていることになります。


ここで思想の話を書いてみようと思います。

思想とは、一つ前の記事で少し書いた気がしますが、ここでは生活の行動あるいは思考のベースとなるもの、そして気分や身体性(「なんとなく」とか「そのほうが元気になれそう」とかいう理由づけのベースはこれらにあります)よりは理念的な…なんでしょう、行動指針・思考基盤とでも言いましょうか。
ブログ(「緩い井戸コアラ鳩詣」という普段更新している方のブログです)を書くペースが今年の半ばくらいから基本週1,2くらいになりましたが、それは「思いついたら書く」という方針は以前と同じものの、普段の(ブログを書くことを除いた)生活を圧迫しないために自然とそうなりました。
ブログを書くことも生活の一部ではありますが、読書や散歩とは質が違うなと思っていて、読書や散歩は「思想の核をつくる生活要素」であるのに対し、ブログを書くことは「思想の核を(言葉という)形にする生活要素」だと考えることができます
で、たぶんその今年半ばからは、思想の核を育てることを前よりも意識して(今書きながら考えていることなのでこの言い方も変と言えば変ですが)書いているのかもしれません。

だからといって今年ブログに書いてきたことをここで繰り返すつもりはなくて(ここではあくまで、発想元としては今の自分だけをベースに書きます)、だからその書いてきたこととここでこれから書くことが矛盾することもあるでしょうが、それは「(例えば、一貫性がないじゃないか、という意味で)解答が間違った」のではなく「問いが出現した」ことを意味します。
何か導きたい結論なり命題なりがあって、それを目指して論理を展開させていくならば、正しいか間違いかという判断は基準を設定すれば可能です。
でも僕のやっていることは、ブログを書くその時々における自分の考えや想像、連想を書くことであって、その考えが時を経て矛盾を生むことになったとすれば、その矛盾には「自分が新たに考えるべき何か」が含まれているかもしれないのです。

人はいくつも矛盾した考えを自分の中にいくつも持っていて、それを矛盾と思わないのはそれらの考えが同時に意識されないからで、それらが同時に意識された時、「そういうものだから」というそれらより高次の論理(論理じゃないですよね…例え悪いですね)によって共存を許される場合もありますが、共存が許されなければその矛盾は解決すべき問題となります

この「前景化してきた解決すべき矛盾」は、何冊も同時に読んでいてふいに二冊の内容がリンクした時に発生したことが何度かあります。
「井戸コアラ」のどこかに書いたことですが、それはある著者の考え方①に「その通りだ」と思い、別の著者の別の考え方②にも「その通りだ」と思って、ふと考えてみると①と②が矛盾していることに気付く、といった経験です。
これが解決すべき問題である理由は、その矛盾の認識が確かであれば、自分が深く納得したはずの①か②のどちらかが「嘘」になってしまう(例えば、本当は納得していないが著者が好きだからただ鵜呑みにしているだけとか、①は論理的には正しいけど実質が伴っていなくて字面で納得しているだけに対し②は言いたいことはわかるけどうまく言えてないという理解を僕がしていてつまり①と②の「その通りだ」の使い方が違っていて、曖昧な例で断定しにくいですがこの場合は①の「その通りだ」が僕にとっては嘘になることが多い)からで、その「嘘」を放置すると、積り積もって僕自身の読書態度が誠実なものでなくなってしまうことが想像できるからです。


今は亡き鶴見俊輔氏が『思想をつむぐ人たち』の中で書いていた「普通人の哲学」という言葉は、僕の座右の銘の一つです。
(この本との出会いには偶然があって、3,4年前の年末に実家に帰る時に小田原駅(新幹線に乗る前)で車内読書用の本を忘れたことに気付き(いや、最近読んだ本をそうと知らずに持ってきていたのだったか)、駅の本屋であてもなく探していてふと目に留まったのでした)
鶴見氏は思想家という肩書だったかと思いますが、氏の哲学・思想は普遍性を備えていながら「普通人」に寄り添ったものでした。
氏の本として僕が初めて読んだ本なのですが、『限界芸術論』の「限界芸術」とは、芸術家ではなく生活者としての個人が生活の中で生み出す芸術、「芸術から最も離れた芸術」といった意味だと記憶していますが、この本などはテーマ自体が「普通人」の側にあります。

歴史に名前を残すことは義務教育を受けてきた人にとって一度は必ず価値のあることだと思い込まされますが、偉人の伝記を読んだり現存の有名人の偉業を知らされたりする時に、何かのきっかけで(出身が一緒とか、「小さい頃は勉強ができなかった」とか…これはよく聞きますよね)彼らと自分の間に共通点を見つけたりするとついつい「偉業を成した彼」と「何も成し得ていない自分」を引き比べて落ち込むことはありふれてあると思います(逆に発奮できる人もいるとは思いますが)。
その偉業は、成すまでの苦労や才能を要することや現代科学への貢献などが「わかりやすい」からこそ一般人に膾炙できる偉業となり、「手の届かなさ」もまたわかりやすいからこそ上のような比較をした一般人はみな同じように落ち込むことができます。

鶴見氏に伝記作家という肩書があるのかは知りませんが、氏の伝記はとても上手く、読む人を落ち込ませるのでなく発奮させる力があると思うのですが、それは語り口だけによるのではなく、氏は「普通人の取るに足りない(しかし着実で地道な生活に裏付けられた)もの」をとても魅力的に描くことができるからです。
僕は『限界芸術論』を読んだ時に、心の底から「有名人にならなくてもいい」と思ったことを覚えています。
もちろん読んでから今までずっと同じ気持ちを維持できたわけではないと思いますが(「思う」と書くのは記憶にないからです)。

晩御飯ができたようなので食べてきましょうか。
19:12

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おせちを食べながら紅白を見ました(前半のみ)。
乃木坂が東京にあることを初めて知りました。
高級住宅街だそうですね。
そのせいか乃木坂46(48?)の衣装もハデハデではなかったような…。
しかし毎年見るたびに思うんですが顔が全員同じに見えますね(オヤジ発言)。
モーニング娘はもっと個性があった気がしますけど、そういう趣旨なのでしょうか。
よく見れば(一視聴者たる)あなただけに見つかる個性が埋もれてますよ、という。

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さて、この1年を振り返ってみましょう。(再)

上では思想の話をしました。
次はその思想がどこに結実されるのか、について書いてみましょうか。
目的が明確にあるというわけではありませんが、どこへ向かっているか、北極星のように生きている間にたどりつかないかもしれないが方向を示す何か(「(指導者の指し示す)指先ではなく星を見ろ」という言葉がありますね。出所は忘れましたが内田樹氏がブログで書いていました)が、あると考えればあるのかもしれません。
…が、まともに正面から取り組むと難しそうなので回り道をします。


ブックオフでは毎週立ち読みをした後に、所場代がわりに最低一冊は購入します。
だいたいは新書か小説(文庫か単行本)か、時々National Geographic日本版(黄色い縁取りの雑誌で、院で火山学を専攻していた同僚に一度借りた時に面白いなと思い自分で買うようになりました。毎週土曜の朝食時にちびちび読んでいます)、という感じで買う本はいつも決まっているのですが、たまに読んだ本や新聞(1年前くらいから日本農業新聞を読んでいます。一度購読をやめようかと思った二月ほど前にちょうど田口ランディ氏の毎日連載エッセイが始まったのでその縁で読み続けています。前はずっと朝日を読んでいましたが、ある時から広告欄(各ページの下1/4ほどにありますよね)に気分を害するようになり、各業界新聞を試し読みして広告が一番「どうでもいい」(つまり自分の生活に関係のない)新聞として農業新聞を選びました。読み始めると面白い記事もあって、週連載の「郷土料理紹介」や「野菜or果物の豆知識ページ(小粋なイラスト付きで1ページ半あります)」、農大講師フクダ氏(ブルーベリーの権威らしいです)による「個人農園術」などは毎週欠かさずに読んでいます)に影響されて、いつもと違うジャンルの本や雑誌を買うことがあります。

たしか秋の始まりくらいに、具体的な経緯は忘れましたが『田舎暮らしの本』なる雑誌を買いました。
まだ読んでいる途中ですが(これも毎週、日曜の朝食時にちびちび読んでいます)、メインは500万円以下で購入できる全国の「田舎暮らしができる民家(空き家)」の紹介記事で、土間にかまどに囲炉裏にと昔ながらのつくりの古民家で農具小屋が横に並び家庭菜園できる土地がついて180万、とか山あいの別荘地で近所の温泉からお湯を引き込みで自宅で温泉につかれて風呂釜は硫黄も大丈夫の石で車で山を下りれば市街地にすぐ出られて400万、みたいな感じで物件情報がずらりと並んだページが続き、それを一つひとつ読んではいろいろ想像を楽しんでいます。

会社を辞めて田舎暮らしをしたいのかというと、まだよくわかりません。
感受性を下げる要因が少ない、むしろ感度を高める喜びすらある(というのは実際を知らない僕の想像ですが)という意味では田舎暮らしは魅力的ですが、今のところ魅力を感じるのはその点のみです。
人が少ないのも自分向きのような気はしますがこれは現状と比較してのことで、本格的に人口の少ない街や村で暮らしたことがないので人の少なさが自分にどういう心境の変化をもたらすかについては、好悪は不明でただ興味だけがあります。
田舎でする仕事などはなおさら何も想像していなくて、むしろ一度仕事を辞めたら「何も仕事をしない生活」を数年くらいは続けてみたいと思っているくらいで、これは明らかに保坂和志のエッセイや小説の影響を受けています。

この辺はしっかり記憶に残っていて、『言葉の外へ』というエッセイ集は最初に図書館で借りて読み始めたんですがあまりに面白くて線を引かずにはいられなくなり新品で購入して読んだ経緯がありますが、『アウトブリード』(これもエッセイ集です。名前からして重厚ですよね)に負けず劣らず重厚で、まだ再読はしていませんが何度読み返しても得るものがたくさんありそうな「思考の原石集」です。
原石という表現は「才能が見え隠れするが素人っぽい」という通俗的な意味でなく…いや似たようなものかもしれませんが、万人受けするかどうかという意味では「厳密ではなく粗削り」な思考が本の中でなされるわけですが、思考のさまが見えるというか、脳がギュルギュル回転する音が聴こえるというか、まさしく保坂氏が紡ぎ出した思考である点と読んでいるこちらもそれに触発されて何か考えずにはいられない点ですごく創発的なのですね。ああ、「読んでいると思わず”磨きたくなる”」という意味で原石という表現がしっくりきそうですね。

で、『言葉の外へ』の中に、小説家は自分のペースで仕事をするから会社みたいに外から強制してくれる手順(朝礼とか掃除とか、昼食休憩とか仕事のノルマとか、いろいろありますね)がなくて、だから自分で一つひとつ決めて習慣を作らなくてはいけないと書いてあり、そのあとにその一つひとつの習慣(何時に起きる、歯磨きはどうする、…)について「なぜそう決めたか」とか「こうすることでこのような思考の実践になる」とか、ささいな行動に対してもものすごい経緯なり理由づけが伴っていて、「自分で習慣をつくる」ことは誰しも生活する中で自然とこなしてはいますが、その「習慣を作ることがどれだけ凄いことか」というか、「ささいな習慣的行動からここまで強烈な思考が生み出せるのか」といった、とにかく自分の個性(身体とか思想とか)をベースに自分で考えることの充実をその部分を読んでいる間に感じました
恐らくその部分を読んでから、エッセイの他の部分や氏の小説の全体に「自分で考えることの充実」が息づいていることを感じるようになったと思います。

それで、この「自分で考えることの充実」は、サラリーマンをやっていて得られるものではないと思っています。
これは意志でどうにかなるものではなく(なることもあるでしょうが、僕はそのような形での実現は「必然に反する」と考えます。「必然」も自分の思想に深く関わるキーワードではありますが、これは後に話の流れが行き着けば書くことになるでしょう)、まずふつうの社会人をやっていてその必要性が生じないからです。
話が逸れそうですが…会社なり仕事なり、集団が生計を立てるシステムが整っていくごとに個人の創発的思考は必要性を奪われていきます。これは仕事とプライベートを区別できるとした上で「プライベートについて」(仕事について、ではありません)の話です。研究開発でも営業でも、仕事上の工夫や発明などを生むための創発的思考は業種に関わらずある(程度の差はあるにしろこれは基本的に本人の意識次第です)のですが、仕事上で自由な思考が展開できる前提にはプライベート(生活)の安定があると思います。
上に書いた「自分で考えることの充実」が、もっと上に書いた「思想」と結びついて実現される場所は、仕事ではなく(あるいは職種によっては仕事を包含する)生活の領域にあると考えています(というか今考えました)。


勢いで書いてると文脈を見失いながらも筆が進んでしまって読み返す時に大変そうな…
もうちょっとしたら初詣に向かうのでここで区切りとしましょう。
今年は余裕のあるタイミングで区切れたので、年を越すまでにはちまんさんの本殿に着けるかもしれません。
まあ、どっちでもいいのですが(とか言ってるからここ5年くらい間に合ってないのですが)。

内容的にわりと大事な地点だったのですが、行って帰ってきて、あるいは寝て起きたら気分ががらりと変わって全然違うことを書くかもしれません。
その時はその時ですね。

それではみなさん、よいお年を。

22:54

by chee-choff | 2015-12-31 22:54 | その他