きっと、つながっている。
>> 簡単に言うと、教師と学生のギャップの問題。(…)教師にとって、この闇の部分の問題を取りだし、光の部分を告発することは、その光の領域での使命感の発露であると同時に、生活の糧を得る手段でもあるのですが、これに対し、学生にとっては(…)それは、二重の意味で、自分の世界を否定し、それから隔てられること、この世界からの隔離の可能性なのです。学生は、光の領域で生活しつつ、その自分のあり方を否定、告発する形で闇の問題を考えるよう促されますが、それは彼らの生活の糧を得る手段とはなかなか結びつきませんから、現実との分裂が生じます。この現代社会像の描き方の中にある光と闇の分裂の問題性が、実は、環境問題における食物連鎖のような連関の果て、これを学ぶ学生の中で先鋭化されます。その結果として、真面目でかつ感性豊かな学生の一部が、非常に悩んでしまうという問題が起こっていることに、いまわれわれは、意識的であるべきだと思うのです。 「二つの視野の統合」(加藤典洋『可能性としての戦後以後』p.268-269) >> >> 生きていることが素晴らしいとかつまらないとか思うことが、どうしてできるのか、それが僕にはわからない。だって、それを思うことができるのは、僕が生きているからなんだけど、僕には、僕が生きているということがどういうことなのかが、わからないんだ。でも、それがわからなければ、生きていることが素晴らしいとかつまらないとか思うことが、どうしてできるんだろうか。(…) たぶん、多くの人は、彼の言っていることがうまく理解できずに、元の賑やかな議論へ戻ってゆくだろう。でも、素晴らしいとも、つまらないとも、どっちともわからないとも言っていないこの彼の考え方こそ、この議論では一番大事で、一番必要なものなんだ。なぜだと思う? この議論の中で、彼だけが、自分ひとりだけに正しいことではなくて、誰にとっても正しいことを、考えようとしているからだ。 (…) だから、「誰にとっても正しいこと」というのは、「みんなが正しいと思っていること」ではないということも、もうわかるだろう。「みんな」、世の中の大多数の人は、当たり前のことを当たり前だと思って、わからないことをわからないと思わないで、「考える」ということをしていないから、正しくないことを正しいと思っていることがある。でも、いくら大勢で思ったって、正しくないことが正しいことになるわけではないね。だから、たとえそう考えるのが、世界中で君ひとりだけだとしても、君は、誰にとっても正しいことを、自分ひとりで考えてゆけばいいんだ。なぜって、それが、君が本当に生きるということだからだ。 「3 考える」(池田晶子『14歳からの哲学 - 考えるための教科書』p20,23) >>
by chee-choff
| 2013-12-03 00:12
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