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深爪エリマキトカゲ
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◆ 「流されの作法」について(ゆくくる5)
そして寮に戻ってきたのは昨日の24時半。
今回はもう少し早く戻れるはずだったのが、小田急でまさかの(というほど珍しい話でもないとは聞くが)人身事故で、小田急で足止めをくらう。
復旧予定時刻まで20分ほどあったので、駅前の商店街をぶらぶらしていた。
考えてみれば小田原駅は6度は来ているはずだが、毎度なにかと時間がなくて素通りしていた。
錦通りと銀座通り(へえ?)をきょろきょろするりと通って、上下にきちんと分かれた下弦の月に見とれて、弦が下にあるから下弦のはずだけど確か逆だったような…(と考えた時に気付かなかったのは弦と弧を間違えていた点で、弧が下に描かれ弦は上に張り出しているからこの時見たのは上弦の月だ…と思う←意地でも調べない人。しかしこういう基本的な対概念(「弦と弧」のことね)がどっちがどっちか分からなくなることが自分にはたびたびあって、「帰納と演繹」とか「東と西」とか。昔から抽象バカやったんかしら)とか考えながらぽつぽつ歩いて戻ると「相模大野行き〜最終出まーす」と拡声器の声が聞こえてきたので慌てて走る。
危うく小田原にお泊まりになるところだった。
まあ目ざとく24h営業のネカフェを見つけてたけど。
しかし社会人になってからネカフェ行かなくなったなあ。
通勤で電車を使ってないのが大きいと思うけど、あの空間の時間の流れ方は社会人生活と相容れないなと今の自分は思ってしまう。
でもブックオフも似たようなものではないのか…そうか、ブックオフは立ち読み(=身体のリラックスを伴わない娯楽)だからこそ許容されるのか。
ストイックだなあ。。

+*+*+*

さて、この記事でゆくくるを締めたい。
最後に書こうと思うのはタイトルのこと。
今まで書いてきたことと重複する部分もある。
というか包括(総括ではない)するテーマ。

前に「自分に素直になることにした」と書いたのだけど、自分は流れをつくる人でなくて流れにのる人で、この認識はまず疑いないと思われたので「時々は流れをつくっちゃおうかな」などといったさもしい発想を捨てることにした、という意味で書いた。
そういう考え方によって、流れにのる方法というか作法(という表現を使うには歴史が要るらしいが…無ければつくればいい)のようなものを真面目に考える機制が生まれる。
いちおう書いておくと、ここでいう「流れ」は流行とは程遠いものだ。
それはとても多くのものを意味しているが、ここでは「人とのやりとり」に限定する。

自分は「流される人」である。
人に流されるのだけど、「自分が流されたいと思う人」あるいは「流されておくべきだと予感される人」は選べるし、流され方の選択もできる。
(選択できないのは一連の流れを(恐らく事後的に、であることが多かろうが)想定した時の「ひとつの起点」だけである。これを選択しないというただ一点において人をして主体性がないと言わしむる風潮は脇に置く)
「流されの作法」とは、これらの人や方法の選択の際に活用されるべきものである。


…面倒臭くなってきたので書きたかったことだけを書く。
それは「うつろな人々」への対し方について。
(「うつろな人々」とは表記の通り人を指すが、僕は「人に備わる性質」という捉え方もアリだと思っている。そのようにも考えると、「うつろな人々」は自分の注目する性質に応じて周囲に幾人かずつ存在していることになる)
この表現の使用はとある西洋古典文学作品を嚆矢とするが、知りたい方は検索して頂くとして、僕は、もう何度も引いているが『海辺のカフカ』で(たしか上巻の最後の方だったはず)大島さんが「図書館を訪れた某権利推進団体の女性二人」を表現するのに用いていたことしか知らない。
けれど雰囲気は分かっており、おそらく間違ってはいないと思う。


「うつろな人々」には、なるべく近づかない。
近づかざるを得ない時は、耐える。
沈黙によって。
それは彼や彼女と相対する間は終始無言でいるということではなく、自分を出さないでいるということ。
そしてそれは「鏡になること」だと僕は思っている。
僕の沈黙によって時に彼や彼女は苛立つが、彼や彼女を苛立たせるものは僕ではなく、彼や彼女自身である。
そしてその苛立ちが、彼や彼女の「場の違和感」に繋がったと思われた時、僕は沈黙を解く。
その違和感を形にするため、あるいは手触りのある言葉として現前させるために。
あわよくば、彼や彼女の「うつろさ」が解除されることを願って。

「うつろであること」は、幸福や不幸とは関係がない。
ただ、「うつろな人々」のそばに僕みたいな人間がいると、僕が不幸になるだけだ。
あるいはそれと同時に、「うつろな人々」であるところの彼や彼女も不幸になるかもしれない。
だから、それは基本的に避けられねばならない。
基本的にと言うからには、例外もある。
「不幸になるべき時」が、それだ。
意識的であれ無意識的であれ、不幸を望む人は確かにいる。
「不幸を望む人」が僕の大切な人である限りにおいて、かつその人と僕が一緒にいることで僕を包み込む不幸が僕の精神ひいては肉体を破壊しない限りにおいて、僕はその人と共にあることを厭わない。

そして今書いたことを、「その時」に自分に自信をもって判断できるように、感受性を研ぎ澄ませていたい。
そして、これが一番重要なのだが、そのこと(=普段から感受性を研ぎ澄ませておくこと)自体を楽しみたい。
その方法を、僕は知っている。
方法が作法に昇格するかどうかは分からないが。

今年も、どうぞよろしく。
(更新はこちらの方が多くなると思います)
chee-choff
by chee-choff | 2013-01-04 22:21 | 思考