昨日も今日も2時前後に「いつもの朝食セット」を食べたのだけど,
昨日は昼過ぎに起きて食べた「まんま朝食」なのに対し, 今日は6時半に起きて二俣川に免許更新行って横浜に花粉メガネ(JINS)にレンズ入れに行って 帰って来てから食べた昼食だったのであり,この二日で 一日の始まりと(外出日としての)一日の終わりに同じ時間に同じものを食べたことになる. それを食べてから寝るまでの活動は昨日と今日で全く同じ(いつも通り)だったのだけど, まあ当然だけど今日の疲労度がハンパない. もう寝ようかしら… +*+*+* 『敗戦後論』(加藤典洋)を読み始める. 「敗戦後論」は今日一日で一気読み. 「改憲論者と護憲論者は双生児的」というウチダ氏の論理のルーツはここにあるようだ. 戦後は「無垢が本質的に汚れとなった」として己が生において汚れを全うした大岡昇平. 「きみは悪から善をつくるべきだ/それ以外に方法がないのだから。」 という言葉が「転向」の前後を体験できない自分に切迫してくることはないが, もはや無垢ではいられないのは僕でもよく分かる. が,それが「敗戦国日本の事後処理がもたらした二重のねじれ」に因ることに関しては 本書によって論理的に納得はできたが「分かる」といったのはこちらではなく, 情報化社会がもたらした「増大するエントロピーの詳細内訳の可視化」に因ることの方. 格差社会や二極化現象がその分かりやすい例えになるが, (マスコミの言うそれらが実際存在するとして)その存在を知らないでいられるのは 無垢なのではなく無知でしかない. 別に無知が悪いと言いたいわけではなく,情報化社会における成員は無垢を装うことしかできず, それは同時に無知という後ろめたさを抱え込まざるを得ないということ. そして後ろめたさを排除するために全力で鈍感になる機制が肯定的に促進されること. その仕組みが社会の駆動に組み込まれることで「生活のためだ」といった免罪符が発行されること. …何を書こうとしているのか? 「敗戦後論」を読んで思ったのは, 言論の表面だけを見ていてはいけないということ. 語られていることが正しいか正しくないかが大事な時もあるが, 語られる内容ばかりを見ていては抜け落ちてしまう視点がある. 「なぜその内容が語られているのか?」という階層を上げた問いを常に怠らない. そう問う機制を「話がすっきりし過ぎている」といった勘に求めるのも悪くないが, そうでしかないと勘が鈍ったらおしまいである. 人間と言葉の関係,「言葉は言い過ぎるか言い足りないかのどちらかである」などの 「ことばのやりとりの仕組み」を視野に入れておくならば, 「階層を上げた問い」はごく自然に自分のうちに生じるはずだ. 書くにしても読むにしても,ことばと「生成的に」付き合っていくためにも. +*+*+* しかし毎日毎日鏡で顔見て何も思わなかったのに, 新しい免許証の顔写真を見て「大丈夫かこいつ」ってなくらい頬がこけている. 不健康にますます拍手が(パチパチ)いや薄謝が(ケチ!)…発車オーライ. あと5年間無違反でゴールドになりました. (前は2回生の時に原付で60km/s超過でネズミ取りに引っかかったので) 運転せずに違反起こすの至難の業だもんね(つか無理). で講習が年配の人ばっかでまぁそうよね,とか. 講習ビデオで斎藤さんが2回も人轢いちゃっててスゴク可哀想でした(学習しようよ). マジメに見ちゃってますます車に乗りたくなくなった…田舎住めんなこれ. まあ徒歩で我慢しましょう.
by chee-choff
| 2012-02-12 22:52
| 読書
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