深爪エリマキトカゲ
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◆ 「マナー」と「いい加減」<併読リンク12>
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かつてわたしは『<弱さ>のちから』(講談社)と題する書物のなかで,臨床における「専門性」というのは,事態の推移のなかでいつでも「専門性」を棚上げする用意があることだと書いたことがある.──「じぶんを他者の存在にインヴォルヴすることで,逆にじぶんが『乱れて』しまうということ.これを,他者本位と,留保付きでだが,呼んでもいい.他者本位に思考と感受性を紡ぐということ.そのためには,専門家ですらじぶんの専門的知識や技能をもいったん棚上げにできるということ.それが,知が,ふるまいが,臨床的であるということの意味ではないだろうか
鷲田清一『老いの空白』p.203-204
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「臨床=現場」という認識を持つ僕には,これらは「上位の臨機応変」の言い換えではないかと思われた.
その場の事態を勘案し,その都度の最適な行動をとる.
しかし,「これまでの経験」を活かしはすれど,それに囚われてはいけない.
経験が裏打ちする「事態の分類把握」とは別次元で,緩衝材を挟まない「剥き出しの勘」を駆動させる.
そのために,「自他の別」を取っ払う,境界をぼやかし曖昧にする.
「他者のことを他者のほうから見る(p.204)」.

 ケアとは無縁な生活をする自分が臨床に興味を持つ所以はこのあたりにあるのだろうな,と思う.
 ケアの場とは,自己の弱い所を他者に開示せざるを得ない場である.
 その自己は,老いるまで他者の目からは徹底的に秘匿されてきたものだ.
 しかし,このような「自己の覆いを外される経験」はケアの場だけのものではない.
 程度差はあれ,人が他者と関わる以上,必然的に起こる.
 その意味で自分の想像力(この駆動源は「引きつけやすさ」だ)の範疇にある.

この後ろに,さらに興味深い記述が続く.

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 天田城介が先の著書[『<老い衰えゆくこと>の社会学』]のなかで,きわめて示唆的な語源考をそのケア論のなかに挿入している.「知る」というのは「領(し)る」(=支配する)ということだというのだ.「知る」(=他者を理解すること)が「領る」(=他者を支配すること)へと反転するという落とし穴,それが「専門性」の理念にはある
同上 p.205
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この話の構造と「専門性」という言葉から,「アマチュアの物書き」を自称するウチダ氏の言葉を連想した.
ちょっと長いが一つのまとまりをそのまま抜粋してみる.

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「早い話」をしながら、かつオープンエンドで謎は謎として残しておくというのは、むずかしい。
本を読むことのむずかしさは、ある程度「分かったつもり」で読まないとそもそも話にならないということと、「分かったつもり」で読むと、自分のフレームワークではとらえきれない深い部分を見落としてしまうということのバランスを取ることである。
「分かっちゃいるけど、分からない」という理解のあり方を伝えるのはほんとうにむずかしい。それは要するに、自分の「頭の悪さ」をできる限り正確に、かつ雄弁に語るということに等しい。
でもね、「自分の頭の悪さ」を正確かつ雄弁に語るのは大変だよ。
だって、そうでしょ。「自分の頭の悪さを正確かつ雄弁に語ることが出来る」というかたちでたちまちそれは権能の語法に転化しちゃうんだから

私はこのように自分の知性の不能を言語化できるんだ、偉いだろ、というのはマナーとして最低だ。(だって不敗の語法じゃないか)
方法としては有効だろうけれど、マナーとしてはよろしくない。
ほんとうに大事なのはマナーだ。
これは原理原則があるわけではないから、むずかしい。
「読み手になんとなく信じられる」文体というものを探し出す他ない。
たぶん、その人の人間性の厚み以外に頼るものがない

11月19日(2001年 内田樹ブログ「夜霧よ今夜もクロコダイル」
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(似たようなことは氏は何度も書いているけれど,前にも抜粋した箇所だからかここを連想した.)

どちらも,
「物事を二元論的にとらえて一方を悪と措定し,もう一方に突き進むとどうなるか」
について書かれている.
価値観が一方向に偏り過ぎると,良かれと思われた価値が「反転する」のだ.
これに気付かないことがあるのは,色々言い方はあると思うが,
一つには「安心してしまう」からだろう.
 ある仕事をするにも,逐一「その仕事をする意味」を考えながらするのは相当疲れる.
 札束を数える銀行員が「お金って何だろう」と考え始めれば手が止まるし,
 マグロを捌かんとする板前が「魚も俺と同じ生き物だよな…」と思えば包丁は手から滑り落ちる.
 …なんか喩えが違うな(笑)
「水を得た魚」というけれど,「その水の出所を問わない魚」のようなものだろうか.

だから偏り過ぎるのは良くない,とは簡単に言えて,
しかしそれを実践するのはやはりとても難しい.
「こうすれば大丈夫!」という即効薬(ウチダ氏抜粋でいえば「原理原則」)はなくて,
しかし「その方向性でこつこつやれば見えてくる」という,
それこそ過去の人々の経験に裏打ちされたスタンス(姿勢)のようなものはある.
ウチダ氏の話の中でのそれは「マナー」であり,
ワシダ氏の話の中でのそれは「いい加減」である.

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聴くひとの前で話すひとは,聴かれるひとという受動者でもある.聴くということも,無謬性の理念のなかで極限化してはならないということ,である.「いい加減」ということが,だらしないという意味,そしてこれしかないという絶妙のバランスという意味,そうした対極にある二つの意味のぎりぎりの両立のなかでなりたつときに,「あれでよかったんだ」と後でおもえるケアがなりたつのだろう.「完全なケア」とか,「共感」の要請という,ケアの場での一種の強迫観念がもつ息苦しさも,こうした「いい加減」が視野に入っていないところからくるのだろう.
同上 p.203
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実は二つ目の抜粋(「知る」が「領る」へ反転するという話)を打ち込んでいる時に,
別の連想が働いてしまったのでここに同時に書いておく.

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「最も深く,最も個人的に苦悩しているとき,その内容は他人にはほとんど知られず,窺い知れないものである.そのようなとき,人は最も親しい者にさえ隠された存在である.(中略)だが,苦悩する者と知られたときには,苦悩は必ず浅薄な解釈をこうむる.他人の苦悩から,その人に固有の独自なものを奪い去ってしまうということこそ,同情という感情の本質に属することだ.──『恩恵をほどこす者』は,敵以上に,その人の価値や意志を傷つける者なのだ」
ニーチェ『悦ばしき知識』三三八
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(この抜粋は『これがニーチェだ』(永井均)からの又引き)
これは「自分を他者に委ねる気の全く無い者の謂い」にも聞こえるが,
そういう思考もあり得ることはとてもよく分かる.
独りでいたいと心底願って止まない人間,
「おまえと今日という時代のあいだに,少なくとも三世紀の皮膜を張れ」(同上)と宣う人間からは
自然に発せられる言葉なのだと思う.

まあ,理解と共感はまた別次元の話.

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「措定(そてい)」の類語の多さにびっくり.
それだけ使いにくい語なのだと思う.
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weblioには毎度お世話になっております.
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by chee-choff | 2011-11-27 19:36 | 併読リンク