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深爪エリマキトカゲ
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◆ 『走ることについて…』村上春樹
この記事とこれを繋ぎ合わせて書評を書きたい.
書きたい,と思っている,と言っておく.

抜粋が多すぎるなあ…よほど「そのままの形で再見したい」と思ったのか.
「小説の書き方」的な本(本書の全体がそうではないが)を読んだのが初めてだからか.
そういう本を読んでいる間は「自分にも書けるのでは」と思わせる罪深さ(え?).
別に小説を書きたいとは思わないが…


2011/09/04 11:45
タイトルからわかるとおり、
本書で語られるのは「走ること」だけではない。
…。

抜粋をば。

(…)僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。そのような空白の中にも、その時々の考えが自然に潜り込んでくる。当然のことだ。人間の心の中には真の空白など存在し得ないのだから。人間の精神は真空を抱え込めるほど強くないし、また一貫してもいない。とはいえ、走っている僕の精神の中に入り込んでくるそのような考え(想念)は、あくまで空白の従属物に過ぎない。それは内容ではなく、空白性を軸として成り立っている考えなのだ
 走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲ににている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。でも空はあくまで空のままだ。雲はただの過客[ゲスト]に過ぎない。それは通り過ぎて消えていくものだ。そして空だけが残る。空とは、存在すると同時に存在しないものだ。実体であると同時に実体ではないものだ。僕らはそのような茫漠とした容物[いれもの]の存在する様子を、ただあるがままに受け入れ、呑み込んでいくしかない。p.32
>「空白性の従属物」という考えが新鮮。
 歩いていて降り積もる雑念を振り払おうとしたことは
 幾度もあったが、あれは悪路を形成する豪雪ではなく
 冷ややかな空気を構成する粉雪のようなものなのだ。
 歩きながら浮かんでくる物事を、その場(だけの)
 空気として感受する。そうだ、戻ってきてから
 何を考えていたのか、忘れてしまったこともあった。

(…)考えてみれば、他人といくらかなりとも異なっているからこそ、人は自分というものを立ち上げ、自立したものとして保っていくことができるのだ。僕の場合で言うなら、小説を書き続けることができる。ひとつの風景の中に他人と違った様相を見てとり、他人と違うことを感じ、他人と違う言葉を選ぶことができるからこそ、固有の物語を書き続けることができるわけだ。そして決して少なくない数の人々がそれを手にとって読んでくれるという希有な状況も生まれる。僕が僕であって、誰か別の人間でないことは、僕にとってのひとつの重要な資産なのだ。心の受ける生傷は、そのような人間の自立性が世界に向かって支払わなくてはならない当然の代価である。p.35
>今の僕の耳には心地よい言葉。
 「考える人」として、僕は賛成する。

(…)しかし僕は思うのだが、そもそも職業的小説家が誰かに好かれるなんていうことが原理的に可能なのだろうか? わからないな。(…)しかし少なくとも僕にとっては、小説家として長い歳月にわたって小説を書き続けながら、同時に誰かに個人的に好かれることが可能であるとは、なかなか思えないのだ。誰かに嫌われたり、憎まれたり、蔑まれたりする方が、どちらかといえばナチュラルなことみたいに思える。そうされるとほっとする、とまで言うつもりはない。僕だって他人に嫌われることを楽しんでいるわけではないのだから。p.37-38
>同上。
 昔と比べて僕は、受動的に(=恐らく発端が相手発)
 嫌われることをあまり厭わなくなった。
 嫌われ、憎まれ、蔑まれることでも、自分は際立つ。
 そしてそれと同時に心に受ける幾ばくかのダメージを
 甘受する、あるいは諸ともしない自分への信頼。
 これがあれば、それほど恐くない。

(…)まわりの人々との具体的な交遊よりは、小説の執筆に専念できる落ち着いた生活の確立を優先したかった。僕の人生にとってもっとも重要な人間関係とは、特定の誰かとのあいだというよりは、不特定多数の読者とのあいだに築かれるべきものだった。僕が生活の基盤を安定させ、執筆に集中できる環境を作り、少しでも質の高い作品を生み出していくことを、多くの読者はきっと歓迎してくれるに違いない。それこそが小説家としての僕にとっての責務であり、最優先事項ではないか。そういう考え方は今でも変わっていない。読者の顔は直接見えないし、それはある意味ではコンセプチュアルな人間関係である。しかし僕は一貫して、そのような目には見えない「観念的な」関係を、自分にとってもっとも意味あるものと定めて人生を送ってきた
みんなにいい顔はできない」、平ったく言えばそういうことになる。p.58-59
>最後の言葉を恐らくこう言い換えていいと思う。
 「自分の信念を持ち続けていたい」。
 「観念的な」関係というのも、読者の顔が見えていない
 というわけではないと思う。読者が読んでくれたら、
 好評を寄せてくれたらやはり嬉しいのだ。
 だが、そのことと「こう書いて欲しい」という要望に
 応えることとは雲泥の差がある。
 あるいは読者自身が気付いていない、しかし村上氏は
 うっすらと感得できている「人の琴線」に振れることを
 目指して小説を書いているのかもしれない。
 もしそうなら、村上氏が信じるのは「読者の具体的な
 感覚や評価」ではなく「村上氏自身の感覚」だ。
 これを「開かれた自分との対話」と呼べるだろうか。
 いいんじゃないかな。

 そう、ある種のプロセスは何をもってしても変更を受け付けない、僕はそう思う。そしてそのプロセスとどうしても共存しなくてはならないとしたら、僕らにできるのは、執拗な反復によって自分を変更させ(あるいは歪ませ)、そのプロセスを自らの人格の一部として取り込んでいくことだけだ
 やれやれ。p.96
>これは「ブリコルール」の教え。
 現場で生きる人々がみんな導き出す結論の一つ。
 結論にして、方法論。
  そしてもう一つ気付く.
  ハルキ小説の本質はこの「やれやれ。」だと.
  この言葉を呟く,やるせない表情をした(という勝手な想像だが)主人公がとても好きだ,
  と『ねじまき島クロニクル』を読み始めてすぐに気付いた.
  僕は実はハルキ本3冊目にしてやっと小説という「ハルキスト」(ではないが)としては
  邪道な立ち位置.
  過去のちょっとした勘違いが原因でこういうことになったのだが,
  それはまた別の機会に触れるとしよう.

 このような能力(集中力と持続力)はありがたいことに才能の場合とは違って、トレーニングによって後天的に獲得し、その資質を向上させていくことができる。毎日机の前に座り、意識を一点に注ぎ込む訓練を続けていれば、集中力と持続力は自然に身についてくる。これは前に書いた筋肉の調教作業ににている。日々休まずに書き続け、意識を集中して仕事をすることが、自分という人間にとって必要なことなのだという情報を身体システムに継続して送り込み、しっかりと覚え込ませるわけだ。そして少しずつその限界値を押し上げていく。気づかれない程度にわずかずつ、その目盛りをこっそりと移動させていく。これは日々ジョギングを続けることによって、筋肉を強化し、ランナーとしての体型を作り上げていくのと同じ種類の作業である。刺激し、持続する。刺激し、持続する。この作業にはもちろん我慢が必要である。しかしそれだけの見返りはある。(…)
 長編小説を書くという作業は、根本的には肉体労働であると僕は認識している。(…)机の前に座って、神経をレーザービームのように一点に集中し、無の地平から想像力を立ち上げ、物語を生みだし、正しい言葉をひとつひとつ選び取り、すべての流れをあるべき位置に保ち続けるーーそのような作業は、一般的に考えられているよりも遙かに大量のエネルギーを、長期にわたって必要とする。身体こそ実際に動かしはしないものの、まさに骨身を削るような労働が、身体の中でダイナミックに展開されているのだ。もちろんものを考えるのは頭(マインド)だ。しかし小説家は「物語」というアウトフィット[装備、装飾]を身にまとって全身で思考するし、その作業は作家に対して、肉体能力をまんべんなく行使することをーー多くの場合酷使することをーー求めてくる。p.110-111
>小説を書くにおける具体的な描写。
 これはきっとよい参考になる。
 小説執筆に限らず、深く考えたり細微にわたる想像を巡らす時にも当てはまるはず。
 
 小説を書くのが不健康な作業であるという主張には、基本的に賛成したい。我々が小説を書こうとするとき、つまり文章を用いて物語りを立ち上げようとするときには、人間存在の根本にある毒素のようなものが、否応なく抽出されて表に出てくる。作家は多かれ少なかれその毒素と正面から向かい合い、危険を承知の上で手際よく処理していかなくてはならない。そのような毒素の介在なしには、真の意味での創造行為をおこなうことはできないからだ(妙なたとえで申しわけないが、河豚は毒のあるあたりがいちばん美味い、というのにちょっと似ているかもしれない)。それはどのように考えても「健康的」な作業とは言えないだろう。(…)
 しかし僕は思うのだが、息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むなら、我々はそのような危険な(ある場合には命取りにものある)体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システムを作り上げなくてはならない。そうすることによって、我々はより強い毒素を正しく効率よく処理できるようになる。言い換えれば、よりパワフルな物語を立ち上げられるようになる。そしてこの自己免疫システムを作り上げ、長期にわたって維持していくには、生半可ではないエネルギーが必要になる。どこかにそのエネルギーを求めなくてはならない。そして我々自身の基礎体力のほかに、そのエネルギーを求めるべき場所が存在するだろうか? (…)
 真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。それが僕のテーゼである。つまり不健全な魂もまた、健全な肉体を必要としているわけだ。逆説的に聞こえるかもしれない。しかしそれは、職業的小説家になってからこのかた、僕が身をもってひしひしと感じ続けてきたことだ。健康なるものと不健康なるものは決して対極に位置しているわけではない。対立しているわけでもない。それらはお互いを補完しい、ある場合にはお互いを自然に含みあうことができるものなのだ。往々にして健康を指向する人々は健康のことだけを考え、不健康を指向する人々は不健康のことだけを考える。しかしそのような偏りは、人生を真に実りあるものにはしない。p.133-135
>この記述になるほどと思いながら、今の自分は
 少々身体が不健康の方が思考が捗っている現実がある。
 この答えは簡単で、それは僕がサラリーマンだからだ。
 「ものを書く」創造性と会社での仕事とは、
 恐らく方向性がかなり違う(会社での経験を創造に
 生かせることもあるので「全く違う」とは言わない)。
 サラリーマンである以上、まっとうな生活を送るには
 「サラリーマン性」を日常的な感覚とする必要がある
 そんな中での「ちょっとした不健康」は、常態とした
 「サラリーマン性」からの短期的な解放であるのだ
 だから、村上氏の指摘と僕の現状とは矛盾しない。
 そしてこのような記述に憧れるところからして、
 いつかは「健康な身体で不健康な"人間の毒素"と
 向き合う」ことをしたいのだと思う。
 いつだろうね。
 
 フル・マラソンを走っていると最後のころには、一刻も早くゴールインして、とにかくこのレースを走り終えてしまいたいという気持ちで頭がいっぱいになる。ほかのことは何も考えられなくなる。でもそのときには、そんなことはちらりとも思わなかった。終わりというのは、ただとりあえずの区切りがつくだけのことで、実際にはたいした意味はないんだという気がした。生きることと同じだ。終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を便宜的に際だたせるために、あるいはまたその有限性の遠回しな比喩として、どこかの地点にとりあえずの終わりが設定されているだけなんだ、そういう気がした。かなり哲学的だ。でもそのときにはそれが哲学的だなんてちっとも思わなかった。言葉ではなく、ただ身体を通した実感として、いわば包括的にそう感じただけだ。p155
>チャリ旅で宗谷岬に到達した時を思い出した。
 同じ感覚だ。僕は同じような言葉を当時綴ったはずだ。
 「終わり」とは、なくてはならないのだが、
 その本質は「とりあえず」なのだ。
2011/09/04 12:39
2011/09/04 13:06(コメ付記後)
by chee-choff | 2011-09-10 19:45 | 読書