この文章を高校生のうちに読んでおけば、
その当時から歴史に興味を持てたかもしれない。 僕は中学に入り個人塾に通い始めてから、 典型的な「受験生」になった。 とにかく周囲の影響(空気)を吸収せずには いられなかった中学生の僕にとって、 徹底的な成果主義はたやすく身体化された。 伸びれば褒められを繰り返し、伸びること自体の 快感を覚えた。逆に期待に沿わなければ(自分は 褒められず他人が褒められるという意味で)相対的に 存在価値が低められることを理不尽だとも思えず、 素直に恐怖と捉える以外の方策を持たなかった。 筆記試験という形式において、数学や物理などの 計算系は昔の僕には適性があったようである。 (昔の、と付けるのは、大学で工学部を選んで しばらくしてついていけなくなり、何度も転部を 目論んでいたからである。それでいてなぜ今自分が このような職業についているかについては、 未だに疑問であるが、この疑問を解決しないことが 今の生活の安定のために必須であることは分かっている) だから、受験戦争が終わる(=大学に入学する)までは、 幼き頃から周囲環境により形成された快感原則によって、 計算系の学問に対する嫌悪感(とっつきにくさ)が 構築されることはなかった。 が(やっと本論)、そのような後ろ盾がない状態で、 しかも学校で教えられる学問に対する姿勢が徹底的に 受験生であった自分に歴史(というか社会全般、更には 国語もそうだが)を体得する(=受験科目としても、 広い意味での学問としても)可能性は開れていなかった。 (後ろ盾、と言ったのは筆記試験の適性の主要素の 一つである「暗記力」に欠けていたという意味である。) 歴史は今の日常生活にも将来的にも使えない、と 浅薄な功利的思考を当時の自分がしていたかもしれない。 もしそうだとすれば、「使えないなどとは大嘘であり、 その根拠もしっかり示されている」この文章を読めば、 「今の自分と地続きな歴史」の存在を知り、 一気に開眼した可能性もなきにしもあらずなのだ。 (もっとも「歴史っておもろ!」で終わって知識の 増大には全く寄与せず、むしろ夢中になって他の 受験科目にも悪影響を及ぼした可能性の方が ありありと想像できてしまうが。) とにかく中学生にもそういった変革をもたらすには 十分な力を備えた文章であり(いや当時の読解力の なさはもはや再現(想像)できないからそうと断言を するわけにもいかないのだけれど)、読めば確実に 今と変わった人生を歩んでいただろうとは言えても、 つまりはただそれだけの話である。 今の自分には↑のような想像をかき立てる文章であった、 ということを結局は言っているだけである。 なむさん。 >> 歴史教科書のことが問題になるたびに思うのは、「教科書ってそんなに有効か?」ということです。(…) 教科書のあり方を問題にする人達は、まるで教科書以外のところに歴史は存在しなくて、教科書が歴史のすべてであるかのように考えていますが、中学生や高校生は、果たしてそう感じているのでしょうか? (…) 史観とは、教えられ強制されるものではないでしょう。それは人生と同じで、各自が構築するものであるはずです。それがなければ、歴史を学ぶ必要は生まれません。歴史とは、未来を引き出すためのデータとなるもので、そのためには、歴史への入口がいたるところになければならないのだと思います。 (…) 現在がそのまま肯定され、未来を志向する必要がなくなった時、歴史は消滅するのだと思います。だからこそ現在は、学校ばかりが歴史を教え、それが意味のない暗記の強制に落ちているのです。史観の強制が歴史の教育と錯覚されてしまうのは、これまでの歴史教育が暗記だけでよしとした結果だとしか、私には思えません。歴史を構築するということは未来を構築するということであり、それがない歴史教育は無意味でしょう。歴史の教科書に必要なのは、「正しい歴史」ではない。歴史を構築しうる知識の体系なのだーーそれが学問なのだということを、改めて明確にすべきだと思います。 p.121-122『歴史教科書 何が問題か』岩波書店 2001年6月 >> 抜粋してから追記。 この文章から「受験勉強の(それ自体の、人生に対する) 意味のなさ」を感じ取ることは簡単だけれども、 そこからすぐに「押しつけでない教育」「ゆとり」 という発想にとびつくのはやはり短見である。 (もっとも、高校生の自分が読んでいれば「おおお! 勉強しなくていいんだ」と短絡解釈していただろう ことは間違いない) あくまで「自主性を発揮するために最低限必要な基礎」 が必要であることを忘れてはいけない。 そこは、強制してでも習得させるべきである。 人間の成長段階において普遍的に必要とされる能力は 何か、ということは歴史が散々失敗を重ねながらも 営々と積み上げてきたものではないのだろうか。 それが「ゆとり教育」の一言で一蹴されてしまうのは、 やはり氏の言う通り「歴史の消滅」であり、 「現状の肯定」による「未来を志向する必要」の消失に あるのかもしれないと思う。 この「現状の肯定」が現代社会の停滞を解明する キーワードの一つであって、表面化している様々な 問の底流ともなっている。 やはり氏の論展開は、「全てが普遍に通ずる」 点において、あなどれない。 2011/01/21 00:51 「模型」の意味については『数奇にして模型』(森博嗣)を読まれるべし. 好きにしても… →WW-09へ
by chee-choff
| 2011-04-01 00:25
| ハシモト氏
|
ファン申請 |
||