今日は(別件で)有休取って,それからの何かの流れで来し方を振り返っていた.
年末ですね.. 2010/12/22 14:48 あらためて読んで「へー昔の自分こんな文章書けたのね」 と思ったのでブログに載せてみる. 2009/09/28 00:39 二日間で読了。 BGMは…(この辺割愛) わりと正統派だったけれど、BGMの影響で 終始ミステリアスな雰囲気が漂ってしまっていた。 わりとオールマイティというか盛り沢山というか、 上で正統派と書いた通り、今まで読んだ中では 高村薫に一番近いんじゃないかな。 と言って人には通じないだろうけど。 会社のみに生きる人間。 自分のために周りを構わぬ人間。 完全なる無垢な慈悲をもたらす人間。 常に破滅と隣り合わせで生の綱を渡る人間。 知悉で計算高くかつ誠実過ぎる人間。 いろんな人間模様を見せてもらったけれど、 その中で「僕がずっと一緒にいたい人間像」が 少し具体的に浮かび上がったように思う。 一緒にいたくなる人間は…(この辺恥ずかしいので割愛) 僕が気を許せるのは、僕自身に気を許しているのと 同じくらい相手のことを分かっている必要がある。 無理強いを嫌う僕ならではだろう。 あとはまた継ぐとして… 抜粋したい部分があった。 もちろんネタバレしない部分を選ぶ。 著者は主人公の思考場面で幾つか古典から引用するが、 偶然僕の敬愛するW.ジェイムズの引用があった。 しかも、出典は一度通読した『宗教的経験の諸相』。 それをここでもう一度引く。 >> なにか大事が起きたとき、人は自問自答して、多くの人は”誰かがことにあたるだろう”と考えるが、 稀には”なぜ私がことにあたらないでおられよう”と考える人がいる。 この両者のあいだに、人類の道徳的進化の全過程がある >> これはウチダ氏が組織内のフェイタルエラーが明確には責任の所在が問われない問題から発するという話題で、 「そこで進んで解決を引き受ける人間がいないといけない…(細かい文面忘れた)」 と言っているのと同じことだろう。 そしてウチダ氏が橋本治氏のことを言った「公的な人間」が備え持つ資質のことでもある。 ついでに近くにあったもう一つの引用も紹介。 多分実在の古典だと思うが(僕は知らないの意)、 『歴史の研究』(アーノルト・トインビー)より。 >> 生の最中、我々は死の中にいる。誕生の瞬間から常に人間は、いつ死ぬかわからない可能性がある。 そして、この可能性は必然的に遅かれ早かれ既成事実になる。 理想的にはすべての人間が人生の一瞬一瞬を、次の瞬間が最後の瞬間となるかのように生きなければならない。 >> これはその通りなのだろうが、 表だって言われることは少ない。 要するに「いつ死んでもいい」くらい精一杯生きるのが理想ということだが、 それは不謹慎と言われるのだろう。 だが、それが不謹慎であることを常識(常態)としてしまった現代社会において、 引用のような「生の躍動」は確実に失われている。 人々は昔から生命の保全を願い、社会はその生命維持システムを発展させてきた。 通念・常識もそのシステムの一つだ。 太古の昔は儚い願いでしかなかったそれが、科学・工学・法・社会通念の発展により現実化、 そして強化されていくのと引き替えに、私たちは「死と隣り合わせの生の躍動」を、 社会合意としては完全に脳的・身体的に馴染まないものにしてしまった。 今やその躍動は個々の内に宿るものとしてしか機能せず、 抱えて生きていくためにはほとんどの場合、孤独も背負わなければいけないのだ。 それは悪いというものではなく、ウチダ氏も言うように「平和の代償」なのだ。 ふと思ったけど、「ウチダ氏も言うように」ってかなり使い勝手いい言葉だなと。 もちろん彼がルーツというわけではなく、彼は昔の偉人のみなさんの金言を 僕らにわかりやすく翻訳してくれているに過ぎない。それはまぁ関係ないが、 彼は論の次数を上げるのが好きなので彼の言葉はいろんなシチュエーションを包含してしまう。 で道理からいって内に含むものが多ければ多いほど限定は外されて実際語っていることは少なくなる。 結局なにが言いたいって、「ウチダ氏も言うように」ってのは、 そう書いてもウチダ氏の文章に(筆者つまり僕が)ある程度通じていることの アピールとなる以外に何も意味はないのだ。 でそれが当てつけに見えたりもするんだろうなと思うと少し辟易。 以上。
by chee-choff
| 2010-12-22 16:42
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