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深爪エリマキトカゲ
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◆ 『街場の現代思想』内田樹
ウチダ本をずっと読んできた人からすれば

「こんなこと前も言ってたなー」という話に数多く出会いはするのだけれど,

それはウチダ本の常であって(何せ意図的だから),

それが単なる同じ話の繰り返しに終わるのではなく,

同じ「ような」話ではあるがその時の(文章の)勢いや周りの内容との

相乗効果がもたらすものによって「同じであるが違う」感覚を味わうことができ,

それはその以前に読んでいた同じ「ような」話を身体に落とし込んでいればいるほど

(=自分の言葉で再構築まではせずとも,例えば目の前で運動する相手と同じ動きを

することはないが集中して見つめることでミラーニューロンを活性化させるような感覚)

はっきりと感得されるものである.


そして前にも同じような話を読んだ記憶が残っていて,

さらに「あの時は自分はこの辺りに線を引いた」という記憶も残っていれば,

「ああ,まだこの部分は話としては分かるけれど自分の内側に落とし込めていないから

もう一度線を引いておこう」とか,「あの時に納得した部分を今ここで読み直すことで,

あの時は理解できなかったこの(その近くにある)部分の重要性がなんだか

予感されるようになったので(=後々理解できることだろう),今回はここに線を引こう」とか,

進んでいるのか後退しているのか分からないが話を複雑にしていることだけは確かな

「脳のドライブ感」を楽しむことができる.


この「ドライブ中」においては,話の論理やらトピックの離合集散(いや主に結合か)だけでなく,

過去と現在と未来もごっちゃになるのだが,それは例えば

「未来の自分を想定(仮構)したうえでその未来の自分から現在の思考(行動)の価値判断を行う」

という文言を過去に一度目にし(=あるウチダ氏著作を読み),そして今本書でデジャヴに遭遇したとして

(「以前と全く同じ場面に遭遇したように思われる」という意味のデジャヴ(主観)には

その以前と現在の判断主体の違いはもちろん含まれていない),この括弧書きも意識していたとすれば

「過去に想像した,想定した未来の自分から見た今の自分」と

「今想像している,想定した未来の自分から見た今の自分」

との間に微妙な差異を発見するというような「ごっちゃ」である.


なんのごっちゃ(爆)



相変わらず傍迷惑な支離滅裂文章は相変わらず突発的に放置して,

今回は自分の気に入った箇所を一つだけ抜粋しておく.

土日に嬉々として引きこもる生活はそれはそれで充実していて,

でもやはり人に流されやすい自分は会社で同期と楽しく喋っていると

「ちょっと私生活を見直した方がいいのでは…」と疑念に駆られたりするのだけれど,

そんな疑念を吹っ飛ばす(いいのかw)ようなありがたいお言葉.

もちろん吹っ飛んでいく今は引きこもっているんですがね.

>>
 哲学的営為とか芸術的創造というのは,単純な話,肘掛け椅子にすわってじっと沈思黙考しても,寝食を忘れてアトリエにこもっていても,誰からも文句をいわれないし飢え死にもしない,というごくごく散文的な条件を必要とするものである.
 営業マンをやりながら哲学論争を展開するとか,トラック運転手をしながら芸術運動を組織するというようなことが不可能なのは,適性の問題もあるが,主として「時間がない」からである.
 (…)
 扶養家族がなく,定職への固着がなく,ある程度の生活原資が確保されていると人間は必ず「文化的」になる
「衣食足りて礼節を知る」というが,「時間と小金」があると人間は,学問とか芸術とか冒険とかいうものに惹きつけられてゆくものなのである.
文化って要するに暇つぶしみたいなものですよね」というE田くんのことばはみごとに正鵠を射ている.
 そうなのだよ.
 まず「暇」が必要なのだ.
 しかるのちにはじめて,その暇を「つぶす」ために,さまざまな工夫を人間は考え始めるのだ.
(p.61-63)
>>

これは「負け犬」(『負け犬の遠吠え』(酒井順子)にある「三十代,未婚,子ナシ」のこと)が

日本文化の未来を担うのだ,という何とも刺激的な論考の一部分であるが,

これに元気づけられる自分には「負け犬適性」があるのかもしれない.

まぁそれはどうでもいいすね.

まだ二十代やし〜♪

あ,でも結婚したいですよ(え
by chee-choff | 2010-11-13 00:37 | ウチダ氏