とある違和を違和のまま傍らに留めておくと,
その違和と対置されていたはずの「もの」が違和となっていく. その「もの」とは「意識しなければ意識されていなかったもの」. その遷移過程では違和の数は増えている. ある違和に気を取られていると, 別の違和に気付くことができないことはある. しかし,違和と共に在ることに慣れていけば, 同時に認識できる違和の数は増えていく. それは「一定の器に入れるものが増えれば個々のものは小さくなる」ではなく, 「ものを入れる個数が増えるために被収納物たる器もどんどん大きくなる」. その限界は自分以外には到底分かるものでないし,自分ですら実感も掴めない. つまりは「やりたい放題」だと(またこれか). 例えば,「鏡に映っている自分が自分を見ていない」という違和. この像を見ているとだんだん「誰だこいつは?」となってくるのだが, ふと鏡の自分が自分を見ていても「誰だこいつは?」となってしまう. もちろん現象的な話をしているのではなく,(仄かなる)実感を前面に押し出しての表現. さて,根本が実感として疑えるようになると, その末端たる表象のどれほどに違和を持てるだろうか. これが楽しめれば,あなたの違和感もステキな「いーわ感」に. お粗末. +*+*+*+*+*+*+*+*+* 「四肢で鹿はね疲労も能無し」 お,意味通じるぞこれ.
by chee-choff
| 2010-09-30 00:22
| 思考
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