これは修論もろもろ全て終わってから書いたもの.
だからはっちゃけ全開かというと全然そうでもなく, 修論執筆時と同じ雰囲気を引き摺り続けている. ホント散歩以外何もしない生活が習慣づいてしまうと, 束縛から解放されても何もしないのねといういい実例. それで本人が満足してるなら何の文句もないがね(と他人事). だから,「苦悩」ではないのだけど当時の思考全般を「悩み」とするなら これも含まれるだろうということで加えた. タイトルから想像できるほど大したこと書いてないのが迷惑千万. しかも何が言いたいのかも汲み取れないというw 思いつきって無責任ね. 100314散歩 2010/03/14 20:54 早朝に2泊4日のスノボから帰ってきて、 昼まで寝て飯を食べると、 体はあまり疲れていないことに気付いた。 そして出発前は完治していなかった風邪もどうやら ほぼおさまったらしい。 というわけで、夕方から西の方に散歩に行ってきた。 烏丸今出川から北に少し行った所にブックオフを 見つけてしまった。また行かねば。 それはおいといて… 風景を取り入れる意識をもって歩いていると、 ほんとにいろんなことが取り込める。 いや、取り込むというよりは風景を認識した時に 自分で意味づけた(あるいは連想した)ものを 印象として脳に刻み込む、といった感じ。 >もっと詳しく言えば, とある意味によって関連づけた二者が刻み込まれるのではなく, その「関連づけた意味」が前面に出て刻まれる. 本来(というか「特別考えることをしなければ」)結びつくはずもなかった 二つの事柄がネットワーク線で繋がれた,という経験が まず強い印象として残り,その意味が記憶の奥底から前面に出てくる際に 「ひとつの意味で繋がれた二者」も同時に顔出す,という印象がかなり近い. ひととおり歩いてから出町の王将で食べている時に 散歩時を思い返してみたとき、 出てくるものはやはり何かしら想像した時に 一緒にいた風景であった。 その何かしらの想像の中身はあまり定かではなかったが… 多分覚えている風景を浮かべていれば思い出せるはず。 というわけで思い出す。 >ここから意味不明な言葉の羅列が続くけれど, まぁ「関連づけた意味」から「関連事象」の再構成の イメージが分かってもらえれば幸い(かなり無理言ってるけどね). ・飛行機雲のエックス字。 時間差。 交差部分が消えるとまた別の形に。 よく見ると二筋の線、 時間経過で一筋にまとまる。 >たぶん直角に近いエックス字ではなく, 平行に近い方のエックス字であったのだと思う. ・いつもの出町商店街前のT字交差点。 車の列と隣の交差点、 これらに合うBGMとは。 あるいは、これらとは別に決定されたBGMと これらをつなぐ「印象」とは。 (「車の列」という絵がわりと普遍的なのかも) >「この風景に合う曲がありそう」とこの時思った. こういうことはたまにある. ここではその風景に合った曲の名前は書いていないが, 後に同じような風景に遭遇した時に(まさに)「再生」されることが多い. また,「あるいは」で続く言い直しが少し気になる. …今ちょっと考えてみてもよく分からないのでこの案件は 「違和感の断片入れ」なる脳内ボックスに放り込む. ・どこかの寺の表札の字。 達筆でなく、幼げな字体。 単に下手だとも場違いとも 気遣いが全くないとも言えるし、 こういう字体に親しみを持つ人々を 対象としたお寺なのかもしれない。 >失礼千万w ちなみに僕は書道2級,硬筆2段(小6時). ネタにする以上のプライドなど欠片も残っていない. ・おなじみ同志社の寒梅館。 初めて見るアングルから見たので、 最初はそれと気付かなかった。 ・葬儀会場を囲む白黒の幕。 あまり凝視できない。 口が動く独り言もはばかられたので、 もごもごしていた。 何をもごもご言っていたかは不明。 多分「そういうことだよな」とかそんなの。 なにがそういうことなのかは不明。 >その葬儀会場の雰囲気に取り込まれたくなくて, 客観的な立場を保ちたくてもごもごしたのだと思う. 心の中まで無言でその白黒を見つめていると, 多分「勝手に引き込まれていた」のだろう. 普段からそういう「没入力」みたいなのを培っているので, その無意識の発動を抑えたのではなかろうか. きっとこの当時も「そういうこと」の中身をちゃんと想像していて, それを再現時にも覚えていたにもかかわらず「不明」と書いたことは 何となく分かる気がする. 自分の中ではいくらでも何でも明らかにしてやると決意していても, その決意が外に向かう(=他者に分かるように出力する)までには 大きな壁があり,それは時が来るまで(それは墓場までかもしれないし, そこまでぶっちゃけれる近しい人の登場時かもしれない)越えてはいけない 壁でもある. …訳わかんない書き方ですみませぬ. ・古本屋を発見。 店頭のセール本だけ眺める。 須原一秀の本があった。 100円だし一瞬買おうかと思ったが、 立ち読みするに口調がアレなのでやめた。 遺本で印象に残ってた人ではあるんだが。 >ここでいう遺本とは『自死という生き方』のこと. 類い稀なるテーマであったので前に読んだことがあったのだけれど, その時は「こういう話を文章にするのは至極難しいことであるのだな」 という程度の感想しか持たなかった. 読む前はある種の憧れがあったのだけど,それが読後に消えたのは確実に言える. 僕は人に勧めようとは思わないけれど…興味があればAmazonで検索してみては. ・帰りの夜道。 右側の家並みに既視感を覚え、 「これは出町商店街を抜けた所の家並みと同じでは?」 との印象が、道を進んで裏付けられた。 単に同じ道であったというだけだが。 この既視感を言葉で表すのは難しいと思われる。 >「裏付けられた」とは,道を進んで思った通りの場所に出たということ. 町並みが一辺で整っているのなら至極ありきたりなことではある. なんだか普通の日記のような気もするが、 主に風景に特化して書けているとは思う。 これを何度か繰り返して慣れたとすれば、 記憶の掘り起こしが楽にできるようになる気がする。 気が向けば試そう。 コメントを足しながら何か足りんなーと思っていたら, 「記憶を掘り起こした過程」が書かれていないことに気付いた. ぽこっと生まれたその日の風景が何に依って出てきたのか, その「きっかけ」であり,「ぽこっ」の膨らみが大きくなる 瞬間前の「萌芽」を,今の自分は見たかったのであった. ここにはそれは書かれておらず,「ぽこっ」がきちんと形になったのを 見届けてさらにそれを整形したものしか書かれていない. まぁその「整形後」から「萌芽」を再生あるいは類推することも できるとは思うのだけれど… 今日はもう疲れたのでまた気が向けば. …またひとつ支離滅裂に磨きをかけてしまったw
by chee-choff
| 2010-08-16 21:41
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