思っても見なかったある共通点を見つける.
あるいは,ありふれた共通点であってもそれが不意を突いて現れる. その,何を共通とするかは認識主体に任される. (共通の型が借り物であった場合,その発見に対する驚きは少ない) すなわち程度の問題はあれど, 「シンクロニシティの感得」の独りよがり性は免れない. その感覚を他者と共有したいという願いは, 傲慢な自己拡大欲求の成せるわざか, 他者との共通部分を増やし他者理解へ向かう優しさの発露か. これはタイトルをつけてからその文字を見て連想しただけの話. +*+*+*+*+*+*+*+* 『大人への条件』(小浜逸郎)を読んだ. 「社会人」というものを意識し出してから(それは就職活動を始めた頃だ), 自活性・責任の有無などで学生と社会人が対比される, その同じ枠組みとして見た時,子供と対になる「大人」にも興味が向いた. まぁ興味を持つのも妥当なところかなぁと自分では思うけれど, その文脈とは別に「教育に対する興味」も同時にある. 常に変化を渇望する身としては自身の位置づけは年齢に関わらず「被教育者」であり, 義務教育のように先生(人)と生徒(人)という枠組みにとらわれることはない,というのが一つ. 一方で,「過去の(義務)教育体験に対する解釈」を行うためにも教育論は欠かせない. 義務教育の当事者であった当時に自己を相対化できる児童・生徒はほぼ存在しないと言っていい. 当時に受けた教育内容が将来社会でどう役立つのか,くらいは連想できるとして, 例えば「”生徒”というのは教育における一つの形式的な役割である」といった (「学内」ではなく広い意味での)社会における自分の位置づけとなれば, 相当なマセガキでない限り想像が及ばないだろう. 例えばそれを社会人になってから理解することは, 子供であった学校時代に相対していた教師の意を酌めるようになること, 自分が子供を持った時に「子供」の視点で我が子と触れ合えることにつながる. そんな後付け的興味から読み始めたのだが, 小浜氏自身の特殊な経験から説得力ある一般論を導く言葉の強さに触れて 「これはいい本だ」と素直に思った. 扱うジャンルとしては面倒臭いという印象を持たれるかもしれないが, 新書だけあってほどよく簡潔にまとめられている. かといって読み切って納得してハイ終わり,ではなく 自分の過去を思い返して意味付けせずにはいられないといった 「尾を引く読後感」を残してくれる所も僕好みである. で,連想が膨らんだ記述が多くあったのでそれらが風化しないうちに 紹介がてら書き留めようと思ったのだけれど, ネットを立ち上げて日課を思い出し先にウチダ氏ブログを覗いたら 本書と同じような記述を見つけて「シンクロニシティ」というタイトルをつけたのであった. ウチダ氏もこの言葉を良く使うが,それに連なる運命論的な物言いはもちろん その当否はおいて「そのように想像が及ぶ自分の頭の回転」を楽しんでいるのだと思う. 自分の行動指針がかなり深い(=メタな)所にあって, かつ構造的な視点が極度に発達していて共通点を見いだす眼力が肥えていれば, シンクロニシティなんぞ日常にごろごろしているという感覚ではなかろうか. そしてその日常感覚は通念としてのその語の孕む「ルーティン」とは程遠いものなのだ. というわけで本題の小浜氏著作紹介の前に. << 親が育児のために注ぐ物理的精神的エネルギーは,肯定的な表現としては「愛情」と呼ばれている.しかし,その「愛情」を適切なかたちで注げば注ぐほど,そのぶんだけ子どもは「すくすくと」育ち,親からうまく離れて自立の道を歩んでいくという背理の関係にあるのが親子関係の本質である.(…)子どもは,かつて親に完全に依存しなくては生きていくことができなかった幼年期という歴史を背負っている.そこでは,親に自分の心身のすべてをあずけ,そして,それは文字通り,すでに彼の骨肉となって彼自身を作ってしまっている.子どもが成長するとは,そのような既存の絶対的な関係性から,しだいに自らをもぎ離していくことを意味する. したがって,精神的な意味での「親殺し」は,まっとうな親子関係の力学としてひとつの避けがたい必然であり,不可欠なプロセスでもある.子どもはどこかで親を殺さなければ大人にはなれないのだ.そしてそれはまた,ある意味で,既存の「自己」を殺すことでもある. (小浜逸郎『大人への条件』p.72-73) 「父親」の最終的な仕事は一つだけで、それは「子どもに乗り越えられる」ことである。 この男の支配下にいつまでもいたのでは自分の人生に「先」はない。この男の家を出て行かねば・・・と子どもに思わせればそれで「任務完了」である。 だから、「よい父親」というのがいわゆる「よい父親」ではないことが導かれる。 (…) 言い遅れたが、人類学的な意味での親の仕事とは、適当な時期が来たら子どもが「こんな家にはもういたくない」と言って新しい家族を探しに家を去るように仕向けることである。 これが「制度設計」の根幹部分である。 それができれば親としての仕事は完了。 なまじ親のものわかりがよく、愛情深く、理解も行き届いているせいで、子どもがいつまでも家から出たがらない状態はむしろ人類学的には「機能不全」なのである。 2010年05月19日 父親のかなしみ >>
by chee-choff
| 2010-05-22 22:25
| 読書
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