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深爪エリマキトカゲ
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◆ 『ものの考え方 - 合理性への逸脱』 O.S.ウォーコップ 深瀬基寛訳
やっと読み終えた.


2010/03/19 10:40
最後のアレゴリーが面白かった。
難解な用語に埋もれていても、
言わんとすることが良く分かった。
そこに至るまでの記述を我慢強く読み続けた報酬だろう。
またその難解な用語と登場人物描写の可愛さの
ギャップに吹いた。レンちゃんてあんた…
(「善玉の妖精」ローズボーンと「悪玉の妖精」エレンチャスが
人間世界にちょっかいを出す仕事を通してお互いに無いものを
発見し恋に落ちつつ善でも悪でもない「第三の種類の活動」を
見出すというまことにフィロソフィカルロマンス(?)溢れるお話)

訳本たる本書の第一刷は昭和59年。
原書の初版はロンドンから1948年。
古書の中ではかなり読みやすい方だったと思う。
古い本を読む時に「今にも適用できる話かどうか」を
よく考えるのだが、現実的な行動処方ではなく
思索の仕方(というか「一思索の実践的提示」か)についての
記述であるため、時代を超えて普遍的に通じる話題であるという点で
その心配はなかったようだ。
(思考の必要性は人に理性が生まれてから共通だろう)
そして読みながら考えていたこと。
文体なぞは似ても似つかぬものではあるが、
(もちろん最近の僕自身の流行から)橋本治を連想した。
それは「同じことをくどくど繰り返す」共通点がある
ということについてだが、加えて「反復の中で
少しずつ表現を変えて本当に言いたいことに
極限まで(とは言い過ぎだが)近づけていく意欲」が
感じられる所も共通している。
読者としては、そのある一つのトピックについて並べられた沢山の表現に対し、
気に入った一つを見つけて自分のものとするのもよいし、
全て汲み取る努力をしてもよいし、
全てを汲み取る意識に(足り)ないものを生み出す姿勢を介在させて
新たな表現を自分なりに見つけだしてもよい。
…非常に楽しい本である(燃料切れ)。
思考の方法、あるいはものの考え方なる本を
これまで何冊も読んできたが、本書は「普段考えない
ことをとことん掘り下げる」点で最も哲学的だと思う。
そしてその普段考えないことの最たるものとして「合理性」を
主題として論じているのだ。
(あらゆるトピックについてしっかり論じるというのはつまりは
「合理的に」論じるわけだけれど、そもそも合理性っていうのはね、
が本書のスタートなのである)

前にグレイリング先生の本に対してやったように抜粋&コメントを
わさわさ書きたい衝動はあるのだけれど、
さすがに燃料切れなのと(3時間くらいかけて抜粋しまくってたので)
こんな忙しい時期でもあるので(引越しは25日、新生活は26日から)、
訳者の後記と解説を抜粋するにとどめようと思います。
いやホントいっぺん読んだ方がいいです、
地域の図書館に蔵書があればぜひ(古書は高いです)。


訳語の記
p289-290
…そうしてまたこの問題の重要契機として現実化し来った西洋の運命、科学を中心に発展し来った西洋近代の運命、またその問題から呼び起された西洋と東洋の問題、またそれらの問題の特殊化されたものとしてのデモクラシーの将来、あるいは原子エネルギーを中心とした米ソの対立──これらの諸問題のどれ一つとして本書の言外のインプリケイションとして切実に捉えられないものは一つもない。問題を哲学的に煎じつめれば、それらの問題の一つとして、可知性をそのうちに包む主体的了解(リハビリテイション)の再興、主体的了解の対象化の頭でっかちなアンバランスの修正、生における死─回避と真に生きることとのあいだの消極、積極の両極性の識別、われらの現代的生命を例外なく生ける屍として洞察することの必要、物質と死との厳密な等式化の必要、厳密にパターンとして了解された実在の観念、美の、リズムの、生命の根源性の確認──これら本書の中心課題と無縁なものは一つもない。
 現代ではすべての問題がすべてといってもいいほどにも集団的、客観的、対象化的解決に放任されているように見える。これは私の半生の疑問であった。私は、著者と共に、問題は各個人が各個別的に取り上げられ、各個別的に解決せらるべき地点にまですでに深刻化していることを信ずる者である。面従後言の現代の世界的シニシズムを克服する道は他にないことを信ずる者である。
>>最近同じ話を目にしたような…
   この訳語の記が書かれたのは1951年.

深瀬基寛先生とO・S・ウォーコップ (源了圓)
p297
…ウォーコップの意図は、近代人の生き方が本来的には「したい」行動ではなかった、「死なないために」やむを得ず、せざるを得なかった「死・回避的行動」を、その本来のあり方から逸脱して自己の第一義的行動としてしまって、それを合理化し意味づけている誤りの指摘と批判であったと思う。「合理性への逸脱」(Deviation into Sense)という原題はその意味であろう。この点D・H・ローレンスの問題意識とまったく同じである。だがそれはまた第一義的に生きることばかり望んで、「死・回避的行動」を知らない小数の若者への警告にもなる。自己の要求に従って真に生きるということから出発しつつ、真に生きることを欲するが故に状況によっては「死・回避的行動」も避けない、しかし「死・回避的行動」を第一義とし、それを合理化することは断固として拒否するというのがウォーコップの説いた「生のパターン(図柄)」であろう。



さて引越し準備の続きをば…

の前に通信教育を終わらせないと会社にサボり通達が行ってしまう…

あうぅ.
by chee-choff | 2010-03-19 16:33 | 読書