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深爪エリマキトカゲ
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ここ数年の「ゆくくる」は
はてなブログの方に書いています。

https://cheechoff.hatenadiary.jp/

今年もちょこちょこ書いています。
よければ、どうぞ。

# by chee-choff | 2021-01-02 10:52 | 書くこと
ゆくとしくるとし('16→'17)
今年もはや年末。

今年はあまり書くことがありません。
書く気が起きない、です。

その理由を、書く気を起こさないように書いてみましょう。
難しいですが。

 × × ×

6年半勤めた研究所を、第三四半期末に退職しました。
会社を離れるとその記憶も急速に薄れ、今では遠い過去のことです。
辞める一歩を踏み出した時のことをこのように↓書いていました。

お遍路天狗のデタッチメント 2016-08-10 粛々と一歩

今は仕事はしていません。

 × × ×

待つことにしたのでした。
今までは言わずとそうしていましたが、今ははっきりとそう意識しています。
何を待つという言い方はそぐわない。

待つとは、聴くことでもあります。
気持ちを鎮めて、淡々とした表情で、何を見るでもなく、でも目は閉じず。
自分の中の湖に、波紋を立てず、月がそのまま映り込むように。

働いていた頃は、波紋の分析をしていました。
当たり前に風が吹き、当たり前に地が揺れ、当たり前に水面が揺れていたからです。
でも湖が静かになると、分析する必要がなくなりました。

すると意外なことに、前よりも、想像が生活に対して身近に感じられるようになりました。

 × × ×

無為、ということについて考えています。
たぶん無為であるときは、そうでないときと時間の流れ方が違います。
そしてその時間は、そのときにしか流れない。

 × × ×

時計を見ない生活をしています。
目覚ましはスヌーズ付きでかけますが、時計は手前にぱたりと倒れています。
決まった用がなければ、その日一日時間を見ることはありません。

 × × ×

書けることそのものの楽しみ、に区切りがついたのだと思います。
何かを書けることは、ただそれだけで素晴らしいこと、だった。
それだけ上達したのでもなく、飽きたのでもなく、ただ離れられると思った。

静かでいたくて、言葉ともそれに合うように触れていたい。
僕が文章を書く動機が、このように変わったのかもしれません。
波風が立たないように、読み、ときどき書く。

 × × ×

来年の春かその前に、一本歯(天狗下駄)で四国遍路に行きます。
今はそれに向けた生活をしています。

何が起きるかはわかりません。
自分がどうなるかもわかりません。
ただ、帰ってはくるでしょう。

それが始まりかもしれないし、通過点かもしれません。
わかっていることはほんとうに、何もありません。

 × × × × × ×

今日も例年どおりはちまんさんへ行ってきます。

では今年はこれにて。
みなさまどうぞよいお年を。

chee-choff



 × × ×

紅白見ました。
心持ちが変わって見方も変わりました。

椎名林檎だけ別世界でしたね。
何の服喪でしょうか。
# by chee-choff | 2016-12-31 15:52 | その他
大切にしたいものは何?
『大切にしたいものは何?』(鶴見俊輔と中学生たち)を読みました。

わたしの哲学の流儀は、自分で問題をつくって自分で答えをだすということなんです。哲学は自問自答するものだと思うんですね。今日、だした問題と答えをおぼえていて、また、次の機会にもう1回答えをだす。そうしながら、一生がすぎていく。そういう考え方なんですね。(…)自分で問題をつくる。そして、自分で答えをだす。どのくらい答えをだすか。どうも答えが決まらない場合は、その問題をもちこす。この、もちこす、ということがとても大切だと思うんです。もちこす、ということが習慣になり、癖になることを望みます。わたしは、そうしています。 p.11-12
 たとえば、「どうして自分は生きているのかな」。こういう問いが、「親問題」[もともと、自分がとりくんでいる基の問題のこと、自分がくらしているとでてくる問題のこと]なんです。すると、「そんなことを考えると気がめいるから、今夜はマンガでも読んで寝ようか」ということを考えるでしょう。これは、「親問題」から派生してでてくる「子問題」なんです。「なぜ生きているのか」。こうした「親問題」というのは、だいたい解決することができないんですが、その問いは、ふとしたときに、何回もあらわれてくるんですね。 p.12-13


「なぜ生きているのか」

この問いに対して、今は納得のいく答えを持っているし、「その答えはその都度変わっていくものだ」と思っている。
でも、今持っているその答えが、自分を冷静にする、心を平らかにすることはあっても、生きる意欲の推進力となるかといえば、そうとも言い切れない。
納得すればよいというものではない。
変化したい時に妙に落ち着いていると、そういう冷静な自分に呆れてしまう。
腹が立つというのではない、冷静なのだから、「自分はこういう人間なんだよなあ」という、諦めの混ざった呆れ。

また、自分の中で哲学的に重要な事柄について言葉にすることは、その文字にした言葉が自分を縛るかもしれない、という恐れを感じてもいる。
感覚や感情、あるいは考えていることでも、言葉にすることで、言葉になった以外のものは削げ落ち、捨てられる。
それが単純にもったいないという気持ち、それから、いま急いで言葉にせずに熟成されるのを待っていれば、いずれはちゃんとした、つまり言葉にする前の感覚に沿った言葉にできるかもしれない、という気持ちもある。
逆に言えば、急いで言葉にして、それが口から出任せで本来思っていたことと違っていて、それでも「自分はこう考えていたんだ」と納得してしまう、つまり言葉にする前と後とで自分の気持ちや考えが別のものになってしまう、という、これが上に書いた恐れのこと。

一方で変化したい気持ちがあって、その他方で気持ちや考えが別のものになる、変化することを恐れる気持ちがある。
変化したいという気持ちは、口先だけのものなのか?
あるいは、もう少し複雑に考えれば、「変化することは大切だ」という考えを肯定することで自分は時機に応じて変化していると見せかけているだけで、実は変わりたくないと思っているのか?

「変化することは大切だが、僕の変化は受動的に訪れるものだ」と今の自分は思っている。
どういう行動が受動的で、どういう行動が積極的なのか、その違いがこの考えにおいて重要な点で、きっかけがあって何かを始めるという流れが自分には合っている、一方で、何かやりたいことが最初にあるという状況を自分は想定できない。
厳密に考えれば「何かやりたいことが最初にある状況」はあり得なくて、人がそう思っている場合は、その人がそれをやりたいと思うきっかけに気付いていないか忘れているか、だと思う。
でも、そのことを主体的に行動すると呼ぶとして、きっと、主体的に行動することで生まれる心の躍動は、きっかけがあるかどうかに過度にこだわるよりは大きい。
きっかけは後から気づくものでもあるけれど、運命を感じるみたいに、それが一つのいい形なのかもしれない。



「大切にしたいものは何か?」

この問いは、自分にとってとても重い。
そう問うたことがあったかと過去を振り返ると、少なくとも思い出せないという意味で、社会人になってから数年経つまでは、一度もなかった。
それが、問う必要がなかったからだとすれば、幸せなことかもしれない。

でも、苦しいことがあってこそ楽しいことを心から楽しめるように、不幸あっての幸福だとすれば、それは幸福でも不幸でもないことだ。
苦しみを、不幸を、その因子を先回りで除去する賢い生き方は、楽しみを、幸福を引き立てない。
僕はそのような先回りの、先読みの生き方を上手く学び、それが生きていくことだと留保なしで実行し続けてきたような気がする。
そして、社会人になって数年後に、それは面白くないんじゃないかという考えを得て、その考えを維持したままさらに数年過ごし、今に至るのでないか。


今の自分が思っている「大切にしたいもの」は、自分の身体、身体感覚、感受性だ。
必ずしも健康の維持と同じではない。

一つの見方として、自分は空っぽだと思っている。
自分がやりたいことが、よく分からない。
何かをしていれば、誰かと一緒にいれば、それら周りの人ものの影響を受けて自分がその場でやりたいことが見える。
それがその場だけのことでなく、長い間持続することもある。
でも持続するのは、自分に影響を与えた人ものが、自分から離れていても影響を与え続けているからだ。
その影響がなくなれば、自分がやりたいことはなくなる。
つい最近まで、自分に影響を与える人ものが常に自分の周りにいたから、自分が空っぽだと思うことはなかった。
そしてそれらの人ものがいなくなって、自分が空っぽだと気づいた。
このことについては、気づいてしまったことを、なかったことにしたくない。

他人がいてこそ生きる意味がある、生きる意欲がわいてくると思っている。

上に書いた、自分がやりたいこととして、全くないわけではない。
本を読みたいし、今こうしているように、いろんなことをゆっくり考えたい。

この、今自分がやりたいことは、直接的に他人とは結びつかない。
本は人が書いたもので、その本を読むことで書いた人と言葉を介して繋がる、これも他人との結びつきに違いはないが、間接的である。
自分一人で、自分のことや、社会のことを考える、この考えることも、考える内容は他人との関わりについてのことだが、考える行為自体は具体的な他人と結びつかない。

他人との直接的な結びつき、挨拶や会話をはじめとするコミュニケーション、他人と行動を共にすることなど、は今の自分も望ましいことだと思っている。
でも、今自分がやりたいことの中に、それらは含まれていない。
ずっと一人でいたいと思っているわけでもない。
しばらく一人でいたいのか聞かれれば、いや、どちらでもよいと答える。


ただ、自分の感受性を鈍らせる人と一緒にいたくない。
正確に言うと、個人の感受性を鈍らせることで集団の目的が遂行される場にいたくない。
そういう場には自然とそういう人が集まってくるからだ。
そして、会社とはそういう場所なのだという諦めが、自分の経験から今の自分に刻まれている。
そんなの会社によって色々あるだろう、と頭では分かっていても。

そういう場からいったん距離をおきたい。
そして、そうでない場、自分がいたいと思える場、身体の感度を高めて周囲と相互作用することで仕事が進んだり関係が円滑になる場を選びたい。
そういう場をちゃんと選べるように身体の感度を高めておきたい。
これが、今自分がなりたい状態と近い将来にやりたいことで、今自分がやっていること、今やりたいこととこれがちゃんと繋がっているかどうか。
それをしっかり考えて、今を過ごしたい。

+*+*+*

今は神奈川で有休消化をしており、「やりたくないことをやらない」を念頭に気ままに過ごしているが、人は安きに流れるという格言の通り、少しずつ自堕落の度が増しているように思う。
神奈川にいる間は、その気ままの気持ち次第で自堕落がどう食い止められるか、そして改善できるかを見るに留めようと思っている。
来月始めに京都に移ってからは、自分を律せられるような生活を組みたい。

# by chee-choff | 2016-09-18 18:17 | 思考
ゆくとしくるとし('15→'16)2
今回の「ゆくくる」では実験の話をよく書いています。

ちょうどよい機会なので、僕が生活の中で「実験してみよう」と思った内容とその経過(結果)について次に書いてみましょう。
明文化することは目的や方針が明確になるという意味はあるのですが、なんとなく始めた実験の方向性を限定してしまう(どちらかといえば負の)効果もあって、格別面白い効果がなければ普段文章にすることはないのです。
なのでテーマ的には「ゆくくる」にふさわしいといえばそんな気もしますが、では、ちょっと思い起こしてみましょう。


①消灯して風呂(シャワー)に入る

…これを始めたのは去年(あ、もう2016年なんで一昨年ですね)のはずで、朝起きて夜寝るという人のバイオリズムがありますが、この「明るい朝・昼」と「暗い夜」という自然現象は太陽を周回する地球の公転と自転によりますが、電気を使うことで「暗い夜」を「明るい夜」にすることができるようになりました。この長年(というのは人類発祥から電灯が点くまで、というヒューマンスケールを遥かに超えた期間です)変わらなかった身体のリズムが数百年かそこらで変われるはずがない、という理論があって、日常生活とこれを関係させれば「寝る数時間前からだんだん照明を暗くしていった方が寝つきがよいですよ」という話になります。

そう言われればそうかもねと思い、「夜に高輝度のライトを直接身体に浴びるとバイオリズムが乱れる(身体が「今は昼か?」と思ってしまう)ので間接照明がよい」とか言われる前から部屋では備え付けの天井照明は使わずアッパーライト(最近バージョンアップしたんですが、「井戸コアラ」の『アッパラ兄弟~』という記事に詳しく書きました)だったので僕の認識が大きく変わることはなかったのですが、そういえば風呂場の照明は明るいなと思い、これは当たり前のこととして育ったから盲点になっていたのですが、寝る前に風呂に入るなら風呂場の照明は暗くあるべきだと気付いたのでした。

書いているうちに前にも書いたのを思い出しましたがまあいいとして(こういう時は特別に頭が回って前に書かなかったことを書こうとするのです。同じ話を「そのまま」繰り返すのはまず(書きながら考えるタイプの)書き手自身にとって面白くないですからね。内田樹氏はこのタイプで、氏はブログの中で「聞いたことのあるような話」を何度も繰り返して書かれるのですが、そう思いながらも面白く読める(実際に一度読んだ記事ですら再読に耐える)のは、氏自身が「(まさに今書こうとしている)自分が読んで面白い話を書く」という方針を貫いているからで、その、テーマが一緒でも細微が前に書いた時と違うという時の違いは、その都度の氏の関心対象や生活状況が文章に織り込まれていることに因っていて、そういう視点で読めば「無限の行間」から意味を汲み出すことができます。理想的には、ですが。以上、挿入がバカに長いので文字色を変えました)、風呂場を暗くすることは体を洗う時に目で確かめずに洗うということで、これは潔癖症の人でなくとも抵抗があるかと思うし僕もこれを考えた時に抵抗を感じたのですが、「生活実験の信条」みたいなことを同時に考えました。

これはちょうど今回の「ゆくくる」のどこかで書いた「習慣実験」に当てはめられる話で、「体をきちんと洗う」ことは深く考えなければ「生理的必要に基づく行動」ですが、じつは「理念的必要に基づく行動」なのです
清潔という概念がほんとうに複雑というか厄介で、これは「穢れ」という宗教性と強く結びついているのですが、このテーマについては鷲田清一氏のいくつかの著書に大いに啓蒙させられた(「びっくりした」くらいの意味です)記憶があります(書名は何だったかな…こういう時にソーシャルライブラリがとても役立ちます。調べた結果は…『感覚の幽い風景』がタイトル通りこのテーマが主要の一つとして書かれています。『夢のもつれ』は読んだ時の衝撃だけ記憶にありますが、この本にもいくつか書かれていたかもしれません)。
例えば口に入れたものを消毒済みのコップに吐き出してもう一度口に入れることはものすごく抵抗がありますが、衛生面(有害な細菌の有無など、観念を含まない純粋に生理的な側面を指してここでは使っています。ところで「衛生」も日常的な使われ方として観念を含んでいますよね)では何の問題もありません。
この「ものすごい抵抗」を頭で考える以前の生理的嫌悪として人が認識する元をたどれば、「口に入れてから外に出したものは不潔である」という純粋な観念なわけです。
あるいは体の外と内の境界を考えた時に、保健体育で習うところでは肌が境界になりますが、服の上から他人に触れられた場合に「その人が自分に触れた」と感じることから「自分が着ている服の表面」が体の外と内の境界であることを想定できるわけですが、これが観念ではなく生理的感覚に思えるのは「服の上から他人に触れられる感覚」が観念的でないことに因っています。
この二つの例は、観念と生理が分かちがたく入り組んでいることを理解させてくれます。

話を戻しますが、つまり「生活実験の信条」のことですが、ある習慣が「生理的必要」か「理念的必要」かどうかは「とりあえず”抵抗”とか”嫌悪感”みたいなのをおいといて(内田氏は「かっこに入れる」とよく表現します)しばらく続けてみる」ことで判断がつくと考えています。
(他人に勧めたり一般化したりすることに、あまりに直接的に言ってしまうと常識的に抵抗がある(というこれは常識的な判断)から僕は「実験」などと呼ぶわけですが、たぶんテーマとしては深遠で、学問的な体裁を整えれば文化人類学への貢献になるかもしれない、と今思いつきましたが、これは単に「だから何だ」という話で大した意味はありません)
そういえば温泉旅館で風呂場の照明が暗いなあと思ったことが何度かあります(逆にスーパー銭湯では例外なく風呂場全体が煌々と照らされています)が、この「暗い」という印象の出所に上記の「理念的必要(上の習慣)」があったと考えることができます。

で、話をもう少し前に戻しまして風呂の話ですが、まずは手元にある間接照明で何かないかと探し、ランタンを使い始めました。
風呂に入る時にライターでろうそくに火をつけて高い所に置き、もちろん防水ではないのでシャワーがかからないようにします。
これをしばらく続けましたが、ろうそくのロウの消耗具合によって明るさが変わるので、変わるごとに「なんだかなあ」と思ったり、あとはろうそくがわりと幅広の円柱形なのですが、底の隅っこにロウが使い切れずに残るのが気に食わず再利用しようとしてろうそくのアルミ容器をコンロにかけたりと便利な器具を買う発想が全くないばかりに面倒なことをやったりして、しまいに面倒になりました。

今はどうなったかといえば、風呂場の照明は何も点けずに入っています。
リビングのアッパーライトは夜はずっと点けているので、その光がわずかに風呂場に届く程度です。
真っ暗ではありませんが、例えば肌に泡がついているかどうかは見えません。
で、ここからが面白い所なのですが、それに慣れてくると触覚が敏感になってきます
体を洗うのに前は化繊の汚れがつきにくいウォッシュタオル(というのかな?)を使っていましたが、いつ頃からか肌が荒れることに気付いてからはスポンジも使わず直接手で洗っています。
風呂場が明るい時はそれでどうとも思わなかったんですが、暗い中で洗うようになると「体つき」というか、体の各部分の形やモノ(再表面はどこも肌ですが、筋肉が張っている部分、脂肪が厚くついている部分、骨が表面近くまで突き出た部分、そして今挙げた分類はもちろんゼロイチではなくグラデーションがあるわけで、手で触れて得られるのは表面+奥行き情報だということがよくわかります)を「初めて知る」ような感覚があり、それはつまり言うまでもないですが「視覚でなく触覚で初めて知る」ということです。


1つのテーマが意外と長くなりました。
いろいろ書こうと思っていましたが、あまり時間ないですね。
お昼ごはんを食べます。
12:23

+*+*+*

箱根駅伝を見ていたら時間がすぐに経ちます。
かみのだいち君(なんと神々しい名前!)のゴール前、最後に曲がる前の直線で見せた「気力みなぎる表情」が印象的でした。
どれだけ身体が疲れていても、あのような表情ができるのですね。

+*+*+*

そろそろまとめます(まとめられるような話をしていませんが…)。
どう生きていくか、と言えば重いテーマに見えますが、つまりは先に書いた「思想」のことです。

一つは、最初の方に書いた、
必然に従う」ということ、
それからもう一つは、
自分で選択しようが流れに身を任せようが、充実した生活を送る」ことです。

充実とは、幸福・不幸の別も、健康・不健康の別も、富貴・貧乏の別も、喜怒哀楽の別も、関係はしますがどれか一要素が満たされれば同時に満足されるものではありません(これは「否定を続けて行った先に残ったものが(あくまで暫定的な)結果として肯定される」という語法で、限られた枠あるいは文字数での表現が要求される広告の語法とは対極にあります)。
保坂和志氏の、自分で考える、考え続ける思考方法と通じるものがあると思いますが、これを絶やさないような生活をすること。

ああ、ひとつ否定でない表現がありました。

 充実とは、プロセスです
 そしてプロセスには変化が不可避的に含まれます

どれだけ具体的なことをしていようが、あるいは抽象的なことを考えていようが、このことは念頭においておきたいと思います。
生活に「厚みをもたせる」思考も、このベースがあってこそ生まれることでしょう。

14:27

+*+*+*

まあこんな感じで、今年もゆるりと充実して過ごせればと思います。
読んでくだすった方とまたここでお会いするのは年末になりますが(年始に年末の話をするのは文字通りの「離れ業」って感じがしますね。そしてこれは表現としては「年末年始」ではなく「年始年末」ですね)、僕の普段の「生活実験」等に興味がありましたら以下の「井戸コアラ」にお越しください。

ミ☆ 緩い井戸コアラ鳩詣 ☆ミ

それでは、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

chee-choff

# by chee-choff | 2016-01-02 11:43 | その他
interlude -京都和歩と憑依想像遊戯-

昨日は、結局間に合いませんでした。
着替えたり持ち物を探したりと出発準備をしているうちに23:20くらいになり、もうこのあたりから「例年通りだなあ」とあきらめつつも、ずんどこ勢いよく「和歩」で歩いて石清水八幡宮へ向かい、それでも歩くのが早かったのか、本殿より手前にある休憩所に面した広場に着いたところで新年を迎えました。


去年の秋くらいだった気がしますが、平尾誠氏の三島社HP連載記事を読んで歩き方を変えようと思い立ち、半年ほど試行錯誤を重ねながら「私家版ナンバ歩き」がなんとなく形になるまでに至りました(その経緯は「井戸コアラ」ブログの”身体論”タグ記事にたくさん書いてあります。平尾氏の記事の中で紹介されていた安田登氏の「和のウォーキング」が僕の歩行法開発のベースとなっているので「和歩」と名付けました。ブログ内でキーワード検索してもらえれば和歩の要点がつかめる…ほど整理して書けてはいませんが。最近は新しいひらめきがないので一旦の完成の域にあるのかもしれません)。
で、年末に京都・大阪に戻って(実家が大阪と京都の本当に境目にあり、家から1分も歩かない所に府があります)、まあ気のせいかもしれませんが足腰の強さを実感しています。

30日は午後一に小田原から新幹線「ひかり」に乗ったんですが、自由席が混んでいるのはわかっていたので最初から指定席の車両前に並び、すいていそうな自由席車両から離れた指定席車両の連結部に立つことにしました。
毎週BookOffの立ち読みで鍛えているのでこれは平気で、たぶん3時間半くらいは立ちながら、時々ストレッチをしながら、また昼食にパン1個と紅茶花伝ミルクティーをちょこちょこ摂りながら『風土』(和辻哲郎)を読んでいました。
『風土』は普段読まないものを、という方針でのチョイスなのですが、実は3,4年前のGWに「3泊4日くらい一人で普通列車ふらり旅」のお供に持って行って挫折した本でもあるんですが(その時は数ページだけ読んですぐやめてしまったのか、今回あらためて読み始めた時に記憶に残っている文章は全くありませんでした)、今読むと内容が断片しかわからないとはいえ面白く読めるのがまた面白い(つまり読み方、本のどこに面白さを感じるかが変わったのですね)なと思いました。
まだたぶん30ページも読んでないですが、僕が面白いと思っているのは本の内容そのものというよりは「その内容を論理的に示そうとしている著者の書きっぷり」の方で、内容の価値や正しい間違いはさておき(この本に関してそれは僕には判断不能です)、和辻氏のこれを書いている間の頭の中を想像しながら(というほどの自覚はなくて、「想像しているという体(てい)で」という表現がしっくりきますが)読むと、内容の要点と関係ないちょっとした言葉の選び方や比喩の使い方に感心したりして、(内容を理解しようと読むと同じところを何度も読み返すことが多くて大変ですが)なにやら面白いのです。

この年末に帰ってくる前日に読み終えた『喜嶋先生の静かな世界』(森博嗣)はある研究者の内的世界について、彼のそばで接していた主人公が語る小説なのですが、この本にはひとつの「理想の研究者像」が描かれています。工学部の研究室に3年いた僕には想像しやすい内容(大学のキャンパスや研究室の雰囲気は肌で知っています)で、この「理想の研究者像」に、当時の自分と引き比べながら強い憧れを抱いてしまうのですが、その僕自身の経験がさせる撞着から離れる努力をしてから、これは大学の研究者に限定される話ではないと気付きました。
その研究者像のひとつに「一つの専門を極めていくと、他の専門分野の研究の要点も見抜けるようになるし、ひいては他者を尊重できるようになる」というものがあって、これは僕の普段の専門家のイメージとは反するもので(端的にいえば僕は「学問の専門分化、要素還元主義の推進が統一的(ってなんでしょう、「生活的」かしら)な人間性の価値を下げ続けている」といった認識を持っています。他分野の人間には理解できない重箱の隅をつつくような研究に公的資金が下りることもあるわけです(もちろんそのすべてがムダではなく、一方でわかりやすい成果にしか予算がつかない費用対効果重視の評価基準も研究の本質からすれば問題です)。学部生の頃に何度も文転しようとしたり(経済、文学、法とずいぶん目移りしました)、学部4回生の研究室で最適設計工学という「次数の一つ繰り上がった専門分野」に入ったのもこの認識がベースにありました)、読んでいて最初は反発したのですが、森博嗣氏の書く文章に意味のない文章はなくて(「意味なしジョーク」にすら明示化できない意味…じゃないから印象かな、があります)、この認識を念頭に考えてみるに氏自身がこの「専門の深化がたどり着ける普遍」を体現していたのでした(氏は昔は建築学科の助教授でコンクリート材料の専門だったはずです)。

話が進まないので飛ばしますが、僕は「専門家にはなりたくない」という漠然とした認識を持っていて、でもこれをちゃんと言えば「視野が狭くなって他の専門分野に興味を持たず、他者の思考を尊重しない専門家にはなりたくない」であって、そうならない道として昔は「(狭く深く、ではなく)浅く広く」しかないと思い込んでいたのですが、「狭く深く」を追求していってあるところで視界が一気に(だんだん、かもしれませんが)広がるということもあるなあと、たぶんちょっと前からわかってはいたのでしょうが言葉にしたことがなかったことを、『喜嶋先生~』の「喜嶋語録」に触れて言葉にしたくなったのでした。
そして、話が戻っているのか話を単純にしているだけなのかわかりませんが、「浅く広く」もやり方次第では「一つの専門」になりうると思います。たとえば「雑学クイズ王」みたいなものかもしれません。僕の今の興味からすれば「生活の専門家」と表現すれば言いたいことが言えていることになるのですが、実際的な面と同時に思想的な面もフォローするには「生活」という言葉は実際側に傾きすぎているように思えます(鶴見俊輔氏の「限界芸術」にならって「限界生活」とかどうでしょうか…なんか限界集落みたいな響きがしますね。ふと「電波少年」の”なすびの懸賞生活”を思い出しました)。

『風土』の話から逸れて何が言いたかったのかというと、昔は興味を持てなかった本に興味がもてるようになったこと(を認識したこと)から、『喜嶋先生~』にあった「専門の深化がたどり着ける普遍」を連想し、そこから、僕自身が距離をおいていると思っていた何かしらの「専門性」を僕が持ちつつあるのではないか、ということも考えてみたのでした。
このことは連想しただけで、それを今掘り下げてみようと思いませんが(なんとなく、今「生活」としてやっていることが「仕事」に結びつきそうな気がするのです。これもまた今の僕が避けようとしている認識です)、とても大事なテーマだとも思うので、今書いているこの文章を読み返す未来の自分に期待するとしましょう。

15:38

+*+*+*

初詣の時の話を書こうとしていました。
今年は特に何もなかった気がしますが、とりあえず書いてみましょう。

そうだ、和歩で歩くと(西洋歩きの時と比べて)頭の回り方が違うという話を最初にしようとしたのでした。
歩き方に向ける意識の割合が多い分、込み入ったことを考えられないのです。
はちまんさんに着くまでで覚えているのは、3,4年前くらいにできたらしいTSUTAYAが閉店していたこと、道中で夜中のドライブについてしゃべっていた若者の集団がいたこと、アスファルトの上り坂から砂利と土の山道にたどり着くまでに足の疲れを感じたこと、それから山道を登っている間にその疲れを忘れたこと、くらいです。


そうだ、足腰の話も最初にしようとしていました。
30日の夕方に京都駅に着いてから、新町通りを丸太町くらいまで北に歩き、下鴨神社まで行くつもりが時間がなさそうだったので東に折れると京都御所があったので御所のだだっ広い砂利道を歩き、現在位置がわからなくなったのでとりあえず鴨川を渡ってみたら御池通だったので神宮丸太町駅に向かい、京阪で実家へと向かったのでした。

京都御所の敷地の広さと砂利道は急いでいる時に歩くにはうっとうしい以外の何物でもありませんが、僕はまだ急いでいなかったし、和歩研究の恰好の場所であることを思いついたのでそれはそれで興味深く歩けました。というのは普段歩く時に安全なまっすぐの道では目をつむりながら歩くことがあって、それは視覚情報があるとないとでは身体動作に割ける意識量がだんぜん違うからです。視覚情報がない状態でまっすぐ歩けるかどうかというテーマもあって、これについては御所で実感できたことですが、目をつむって歩いている間に「歩行を成立させるために身体が集める情報(歩行情報)」の種類がだんだんと変わっていくようです。もちろん目を開けていれば視界がその歩行情報の最たるものになり、あとは副交感神経(と言っていいのか正確には知りませんが、要するに意識できない領域)として平衡感覚を司る三半規管があるでしょうか。それが目を閉じると、最初のうちは閉じる前の視覚情報の残像を頼りに歩いていて(その残像を脳内で歩行に合わせてスクロールさせる想像をしたこともあります。その効果はよくわかりませんでした)、また意識的に聴覚を使って歩行を安定させたりもできます(反響定位というやつで、そばに建物が並ぶ道や屋内の廊下などでは効果があります。また道を目を閉じて歩いていて、何か違和感を感じて目を開けると横に自動車が止まっていたりすぐ近くに電柱があったりする経験を何度もしていて、訓練を積めば視覚障害者が必要上獲得するような鋭敏な感覚が得られるのだろうなと思います)が、目を閉じて歩く時間がある程度経つと急に不安度が増してきます。あ、そういえば目を閉じていてもまぶたは光を完全には遮断しないので、日なたから日陰に入ったり照明に照らされたりすると顕著に影響を受けることはわかっていて、目を閉じていても情報量が少ないだけで視界は視界だなあと今あらためて思います(調べてはないですが、目を閉じている間に茶色がかったグレーの地に赤と青の粒が乱れ舞うさまは寝入る前に「目をつむった状態で”見ようとする”」ことで見ることができますが僕はあれは桿体(地の方)と錐体(赤と青)だと考えています。細胞がそのまま見えているのか何なのかわかりませんが、これらはある程度意識的に動かせる気がしていて、これを上に書いた「歩行時のスクロール映像」として再構成できたら面白いなと思ったことがあります。実感として途方もない話ですが)。何の話を…そうだ、御所で目をつむって歩いていて、その「歩行情報の収集先」が切り替わる瞬間を実感したという話でした。こういった実験は目をつむっていくら歩いても安全な場所でやればじっくり考察ができると思います。空港の滑走路とか?


足腰の話に戻りますが、要は新幹線で3時間以上立ちっぱなしのあとに京都の市街地を1時間半くらい歩いて、その日はあまり疲れを感じずに終わったんですが次の31日に初詣に向かう時に道中一時疲れを意識したものの面白いところ(身体が躍動するところ、の意味で、アスファルトより山道の方がでこぼこしていたり地を踏む感覚にもバリエーションがあるので身体にはうれしいわけです。後でもっと疲れるという面もありますが、疲労にもすがすがしい疲れとすっきりしない疲れがあるわけで、山道を歩く疲労は前者ですね)を歩き始めると疲れを忘れて、結局初詣では本殿での立ちっぱなしが1時間弱と、行き帰りの歩行が2時間弱の運動をして、帰って風呂に入ってさっぱりして翌日は通常通りという経過で、数年前は新幹線の立ちっぱなしだけでひいひい言ってたのに比べると強くなったなあということが言いたかったのです。

で、それが単純に足腰が鍛えられたというだけでなく、和歩によって疲労が足(足首、ふくらはぎ、ふとももなど)だけでなく全身に分散できているからかもしれないなと思っています。
それを実際にどうやってるんだという話になるととても言葉にするのが難しいのですが、僕は和歩を開発するなかで「なるべく全身を使って歩く(方法を探求する)」ことを心がけています。例えば…多田容子氏の武道関係の新書(タイトル忘れました…すみません)に書いてあった、腰と尻が分離するような歩き方をしていると着地の衝撃が尻より下(ほぼ足ですね)にだけかかる、という表現にはなるほどと思って僕も実践していますが、このことを多田氏は「尻を(腰に)収納する」と呼んでいました。

話が変に飛びますけど、いつか将来「天狗下駄で四国遍路を踏破したい」という他の(常識的な分野の)将来設計に比べればかなり明確な目標があるんですが、その時に和歩が実力を発揮できそうな気がして、これはなかなか楽しみです。

18:02

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石清水八幡宮に着いてからの話。

例年通り(という言葉はこの文全体にかかります)、本殿に向かう石畳の道に並ぶ人の列に並び、列が進んで門をくぐると賽銭箱にたどりつくまでがすごい人だかりなのでそこで列を左に離れ、矢の願掛けをしている雅楽隊と巫女さん達の演をしばらく眺め、その舞台の横の、御籤の番号を引く六角形の鉄の箱が置かれた台と挟まれた地点に佇んで「乗り移り想像遊び」をしばらくやり、敷地内を時計回りにゆっくり歩いてからお守り売り場の手前からちょっと離れた地点に佇んで「売り子さんの応対観察」をしばらくやり、敷地を回り切って門を出て、手水場の通路を挟んで反対側に設けられたたき火にしばらくあたり、休憩所まで下りて屋台やら自販機やらを一通りひやかして、(たぶん)八幡駅側へ向かう道を手洗いの前で左に折れて「誰も通らない(曇りの日は本当に)まっくらな道」を暗闇に目が慣れるまで一歩ごとに立ち止まりながら歩いて下り、もときた道に合流してそのまま下山しました。


「乗り移り想像遊び」は今また命名しましたが(タイトルはもっと仰々しくしてみました)、何年か前の「ゆくくる」に同じ話を書いた時には「盗眼」と呼んだ覚えがあります。
正月の混み合った神社ほど人が無防備になるTPOはなくて、そこで人の表情をガン見して、その人が何を考えているかを想像するという多少趣味の悪い(見方を変えれば極めて高尚な)遊びで、僕がそれをやりながら頭の中で文章を組み立てるわけではなく、イメージが浮かんでいるかも微妙なところで、ただただ期の赴くままに凝視するだけです。
恐らくこの遊びによって得られる想像の糧は計り知れないものだという…なんだろう、妄想的観測があって、日々の読書生活に意識できない(直接の関連を見いだせない)レベルで潤いをもたらしているものと推察されます。

で、今年これをやっていて新たに気付いたことなんですが、美男美女カップルというのはどれだけ自分に関係なかろうが(芸能人なんてその最たるものだと思いますが、テレビを見る人にとっては関係大ありなのかもしれません。僕は知りません)見ていると羨望が入ってしまうものだと思うんですが、これは「(直接的な人物描写がなければ)小説の登場人物(主人公、だったかな…)はみんな、読み手が勝手に美男美女だと想像してしまう」(これは集英社文庫(たぶん)の「読者の名言集」が一節ずつ載ったしおりに書いてありました)という仕組みと関係がありそうだ、ということです。
「絵に描いたような」という言い方(形容詞的用法)があって、「映画(ドラマ)に出てきそうな」はそのバリエーションなんですが、これも「美男美女前提」の認識がベースになっていて、それでいて映画やドラマを観る時に人は登場人物に感情移入したりするわけです。で、もちろんそれは頭の中で行われるわけで、しかも頭の中で「簡単に」行われるわけです。この(あまりにありふれていてあらためて意識なんてしない)経験(に伴う機制)が街中で美男美女カップルを見かけた際にも発揮されるのですが、その時に「私(僕)もああいう風になれる」という意識される前の認識がまず浮かび上がり、それを現実的な思考がすぐ否定する(実際に当人が意識するのはこの「否定」が最初となる)ことになります。

この仕組みの話は今考えたことで、神社で立っている時はより実践的なことを考えていて、つまり「”その時”に羨望を抱かない方法(論理的解決法)」を思いついたという記憶は残っているのですが、はて何だったかな…?

ああ、美男美女というわかりやすい性質だけにとらわれない、だったような気がします。
要するに初対面の(あるいは初めて見かける)人を見る時にどの部分をどれだけ詳しく観察するかという話で、羨望を招く性質にだけ目が行くとその性質がその人の全体的な印象を決定してしまう(その人の性格やら趣味やら他の情報に対してすべて色眼鏡がかかってしまう)ので、そうならないように人間観察を(見かけ、ふるまい、会話内容はじめその人の個人情報などに対して)公平に行えばよいのです。
で、神社でこの実践に成功して、「乗り移り想像遊び」の間にあまり余計に気が散らなかった記憶がなんとなくあるんですが、これはまあそうだったと思っておけばいいことですね。


あとはたき火の話を少し書いておきましょう。
暖をとりながら火をじっと見つめるのですが、右目が弱視の遠視、左目が近視の僕にとって初詣の神社のたき火は視覚実験における好適条件が整った場なのです(実験ばかりしてますね)。
毎年なにかしら火の見つめ方を変えて納得したり感心したりするのですが、今年は「ピントを外した状態の左目で火をじっと見る」をやってみました。
僕の目は左右で一緒にピントが合うことがないので、右目にピントを合わせれば左目は自動的に(より近くを見る方、すなわち目のレンズが厚くなる方に)外れます(左右のピントを独立して合わせることができればそれはそれで凄いことなのですが、特にやろうとしたこともなく、アプローチ方法も全く思いつきません…まあここでこの話を書いたことを縁ととらえて興味はもっておくことにします。これができちゃうとまともに目が見れなくなりそうで怖いですが)。
そうすると、火はぼやけて見えるわけですが、火の粉の一つひとつが「ニュース番組のエンドタイトルで夜の都市が移されていて、カメラのフォーカスが移動した時に車のヘッドライトや道路灯が円状に滲むような」円状に見えて、その滲んだ円状発光体がそのような動き(つまり火の粉が飛び散る動き)をするのを見たのが生涯初めてで、その絵から何を連想したかといえば「シューティングゲーム(「グラディウス」とか。懐かしいですね)」で、しかも普段僕が連想という時ほど遠くない連想で、つまりシューティングゲームのゲーム画面そのものを見ているような感覚がありました。

ゲーム画面が現実に、現実感覚として(画面上でなく、という意味です)現れる体験もなかなか興味深いですね。
ニコニコ動画で、3Dキャラクタのモーション像を実写動画に貼り付けてARを表現した動画を見たことがありますが(確か「MMD」というソフトを使って作るのだと思います)、あの動画の中に自分がいてモーション像を目の前に見ている感覚のようなものでしょうか。

晩御飯です。

19:32

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晩御飯を食べながら格付けチェックと「相棒」(途中まで)を見ていました。
Gacktのチーム連勝記録が途切れちゃいましたね。
「怒ってるんじゃない、悲しいんだ」は名言ですね。
僕も同感です(何が?)。
あと「相棒」の相棒がまた変わっていて、反町だとはすぐわかったんですが、なんだかGacktに見えてしまいました。
反町が「白Gackt」ならGacktは「青Gackt」ですね、黒じゃなく(何が?)。


今年のinterludeはいろいろ混ざってしまいました。
毎年気ままに書いているので、これも一つの変化の証ですね。

項を改めまして、引き続き「ゆくくる」を書いていきます。

22:15


# by chee-choff | 2016-01-01 22:15 | その他