深爪エリマキトカゲ
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ゆくとしくるとし('14→'15)2
忘れていましたが、「ゆくくる」記事を書く間はずっと不始末さんのこの曲を聴いています。
毎年お世話になっています。
この時期にだけ聴こうと決めて数年経ち、もうすっかり、「この曲を聴けば気分は年末」が定着しました。

【初音ミクインスト】ちいさい音ダイアル

+*+*+*

今年は、一年が経つのがとても早かったように思います。
一年が、とても短調に、あるいは平和に過ぎていきました。
短調の意味は、一年を通してほぼ習慣通りのことをしていた、ということ。
その習慣は、自分で試行錯誤して組み立てたものです

平日は会社から帰ったら夕食を食べて読書して、ブログを書いたり書かなかったりして、シャワーを浴びて寝る。
土曜は朝か昼前に出てブックオフまで歩き、数時間立ち読みしてから「日高屋」でニラレバ炒め定食を食べ、ベローチェで本を読み、歩いて帰路のフードワン(というスーパー)で一週間分の食糧その他を買い込み、帰宅して夕食を食べ、マンガあるいは本を読み、たまにブログを書き、寝る。
日曜は一日中マンガあるいは本を読み、たまにブログを書き、合間に棒を振るかステップを踏むかをし、シャワーを浴びて寝る。
シャワーの前には天狗下駄を履いて剣を振り、ステップを踏み、あるいは丹田に意識を集中させて直立不動の姿勢を維持します。
大枠はこのようなものですが、この大枠も今年の間に少しずつ形を変えながらいつの間にか安定しました。
そして細かいところでは、変化が続いていたり、一定の変化を含めての習慣に定着させたりしています。

たとえば、朝食のグラノーラにトッピングするジャムときな粉の種類は、ひとつを使い切る周期が長いので銘柄をいろいろ変えていて、まだ一種類に定着はしていない。
これはウィスキーも同じです(ウィスキーは読書時の「気付け薬」として毎晩ちびちび飲みますが、2,3月に一本ペースです)。
また、土日の夕食は何かしら肉を食べるという習慣については、「2日で使い切るパック肉」という縛りで土曜の買い物時にいろいろ選んでいました(味のついた牛肉、ラム肉、なにかのステーキ、カツレツ風味のなにか、鶏のつみれ等々)が、これは「カツレツ風カレー風味の鶏肉」にほぼ定着しました。
一方の平日の夕食は「肉と魚を交互に食べる」というルールを設けて、それに沿って買い物をするのですが、買い物が週に一度なのでこちらは日持ちするものが選ばれることになり、肉は(昔はウィンナーも買っていたのですが)個包装で3つ入りの「チーズ入りハンバーグ」が定着し、魚はいわし等の煮付けかなにかの干物かじゃこあたりをぐるぐるしています。

これらの習慣は、明確な効果を期待して決めたわけではありません。
習慣をつくろうとしたときに、その場の勢いや偶然起こった出来事(たとえば「その食べ物をスーパーで眺めていて何かが閃いた(連想された)」など)によって始められたものです。
そしてその偶然性(偶然というぐらいだから中身ではなく、その形式として)は僕自身が意図したもので、偶然が偶然のまま活かされるのはその内容には因らない、という経験を身体に刻み込むという目的をもっていました

もちろん、内容を全く意識しない選択はありえないのですが、それでも何かしら長期的に未知な方向性を含んだままで選択をするので、失敗はありえます。
僕自身はこの失敗の経験はあって、それは一昨年のある時期に一日二食(朝・晩)で晩にたらふく食う生活が肝機能の低下をもたらした(健康診断で「なんたらGPT(GBT?)」の数値が高く出て備考欄に注意書きがなされた)というものです。
これは食生活だけが悪かったわけでもないですが(去年の暮れに異動する前の部署ではけっこう苦労した)、自分で考えて設定した食習慣には違いなくて、そしてそれは1年か2年か続けてみて自分には合わなかったという結果が当時の身体的不調にも出ていて(その頃は自覚はなし)、それを健康診断の結果で裏付けられたのでした。
これは、今思えばですが、よい経験だったと思っています。
「自分で変な習慣をつくらなければよかった」とは思わなくて、自分で決めたことが引き起こした結果なのだから引き受けるしかなかった、と思います

この失敗があったから、去年の暮れから始めた生活習慣(主に食習慣)の改善が今度はマシな方向に進んだ(現時点では、ですが特筆するほどの不調はありません)ともいえますが、「よい経験」という意味の第一はこれではありません。
その第一とは、結果がどうあれ、「自分が決めたことの結果を自分の身に引き受ける」という経験ができたことにあります

生活習慣と健康の関係について考える時にいつも思い起こすのが、日光浴の話です。
何年も前に読んだ本で出典が思い出せませんが、その本によれば、昔の日本(戦後すぐくらい?)では日焼けは健康の証として推奨され、学校でも「健康優良児コンテスト」みたいなものでいつもこんがり焼けた子どもが選ばれていたらしい。
そういえば一昔前(これはそんな前ではなくて、たぶん80~90年代でしょうか?)の飲み屋に貼られたアイドルの水着のポスターなんかが真っ黒に日焼けした人(そして片手にはビールジョッキ)だったりするのも「日焼け=健康」志向のあらわれのような気がします。
日焼けサロンが流行った時代もあるようですが、それらは単なる流行として認識されていますが、今は日光の浴び過ぎは皮膚に良くないというのが常識になっています。
オゾン層が薄くなったとかはよく分かりませんが、これは昔は健康だと思われていた習慣が実は(やり過ぎは)体に毒だった、という話の一例になるかと思います。
(ここまで書いてうっすら記憶が…西部邁の自伝か何かに書いてあったかもしれません。『サンチョ・キホーテの旅』かな…?)
科学が進歩する以上はそんなことは(スパンは長いですが)日常的にあるはずで、このようなある選択がある結果をもたらすまでにとても長い時間がかかることに対しては誰かに責任をとってもらうことができない。
できなければ、その結果はもう自分の身が引き受けるしかないわけです。
僕はこの日光浴の話を読んだ時にこのようなことを考えて、「その結果を”自分の身に降りかかった不幸(災厄)”と考えて後々まで引きずるのはイヤだな」と思いました。
つまり、自分の身に起きたことはちゃんと自分のこととして引き受けられるようにしたい、と思ったのです。
これは自分が選択した行動についてだけではなく、誰かから強制されたのだとしても同じことです

強制される、という言い方はある限定状況の中で成立するもので、それはどんな状況であっても「強制の外」に出てしまえば強制でなくなるということです。
所属する会社が社則で社員を厳しく律する場合は、社則という強制はその社員が社員である限りにおいてしか機能しません。
たとえば家族を養う社員がその会社に所属することを「不問の前提」とすることはよくありますが、彼にとってはその前提を問おうと思わない限りは社則が絶対的な強制になるわけです
強制されることは平時にはむしろ推進力となるので、「不問の前提」は社員が余計な疑問を持たずに会社のために働き、また会社員としての自分と家族の一員としての自分を安定的に両立させることができます。
僕は、いや今の僕はということですが、この「不問の前提」を立てる気はありません。

話が変な方向に逸れました。
僕が習慣を自分で作るのは上でも書きましたが、少し言い方を変えれば「どんな習慣でも自分なりの文脈を見出して引き受けられるようにする」ためかもしれません。
受け身の人間がその特性を活かすための一つの方策です

もちろん僕の「受け身」は、「受ける前に逃げる」ことも選択肢に含まれます。
何にせよ、降りかかる出来事に対する意識以前の初動があり(それは(瞬時に思い至らないほどの)長期的には知りませんが、短期的には身体の望むところではあるはずです)、その初動を意味付けできる知的体力は身につけて(あるいは維持して)おきたい思いはあります
この「意味付け」は決して肯定には限られません。

晩ご飯食べます。 
今外は雨のようですが、今年ははちまんさん登れるかなぁ… 18:53

+*+*+*

紅白見ていてふと思ったんですが、今のJ-POP(特に若い女性グループの)はほとんどK-POPのノリなんじゃないかと。
歌も化粧も。
で、K-POPというのは現代的な和洋折衷(顔はアジアでスタイルは欧米、という)なのかな、と。
折衷できているかは知りませんけど。
あと、細々とした感想を…
・水樹奈々とTMRの組み合わせは去年も見たような
・郷ひろみはもう声出てないですね。舞台を恥ずかしがったらどうしようもない
・徳永英明は声が太くなったような…声変わり?(笑)

ああそういえば、これは橋本治が広告時評の連載(つまり『ああでもなくこうでもなく』シリーズ)で書いていたことですが、テレビが楽屋オチに手を出し始めたらもうプロではない、ということはたとえば「失笑なしに紅白を見れない」ところに現れるのだなと思いました。
舞台裏がちらりと見えて微笑ましいのは学芸会までで、テレビのそれは最初だけ「これはそうなってたか」という仕掛けに対する驚きやら意外性が楽しめるものの飽きてしまうともう正気では眺めていられない代物になる。
さっきの話ではないですが、「テレビは茶の間(リビング)で家族で(あるいは一人で)食事中に見るもの」みたいなのが不問の前提になっていると、正気でいるという選択肢がなくなります。
狂気は時々には必要でしょうが、「常に狂っている」のは、まあそれが正常になるしかないという意味で狂気の沙汰ですよね。
縮小していく社会の中で経済成長を目指すというのも「バブルの再来を望む狂気」なのかなと思いますが、これは別の話ですね。


さて、話を戻しますが…どこに戻ればいいかは不明ですね。
雨は止んだようなので石清水八幡宮には今年もなんとか登れそうです(寒さからして降るなら雪だと思うんですけどね)。
さて。

今年はあまり書くことがないような気がします。
これは生活が落ち着いたことと関係していて、僕は昔から昇華で成果を出すタイプなのです。
どういうことかといえば、ちょっと前に別のブログで引用した保坂和志氏のエッセイに「僕は軋轢を墓碑銘としよう」というタイトルの一節があります
そのエッセイでは保坂氏が小説家になる経緯のようなものが少し書かれていて、詳細はちょっと忘れましたが(出典は『魚は海の中で眠れるが、鳥は空の中では眠れない』…ちょっとタイトル違うかもですが、こんな感じの本です)、自分に降りかかってきた数々の軋轢が今の小説家の(あるいは思考の)スタイルを形作った、という話がありました。
これを読んだ時に「僕も同感だなー」と思ったのは、僕が身を捨てて(と書くとオーバですが、つまり自分のことを考えずに)何かに取り組む時はいつも、「乗り越えるべき壁がある時」だったからです
受験勉強が典型的にそうですし、文化祭の時の文化委員だって、音楽フェスの実行委員長だって状況でいえば同じです。
役割が与えられて、厳格な使命と多少の手段の自由が与えられて、僕自身にそれらを与えた主体は(僕自身の力では如何ともし難い)「権威」のようなものです。
受験勉強については実は自分自身の問題であって、自分の考え(たとえば将来像)次第で手を抜くことも止めることもできたはずですが、たぶん「受験戦争」という表現そのままに(自分のためではなく権威のために)一兵卒として闘っていたのでしょう

本当に自分だけのためにあんなに頑張れるはずがない、と今の僕なら思います。
睡眠時間を削って栄養ドリンクやビタミン剤で身体を「駆動」させていたわけですから。
受験勉強というのは、マジメにやればやるほど、中学生(あるいは高校生)の「自然な(成長の?)方向性」をねじ曲げる作用があると思います。
その意味では、勝利した者は変わってしまった自分に泣き、敗北した者はその敗北に泣く、「誰も得をしない勝負」でもある。
唯一の勝利者は「勝負に勝ち、なおかつ自分が変わったことに気付かない者」で、彼はそのことに気付くか、どこかで負けるまで「終わらない受験戦争」を闘い続ける、という…
図式化してもしょうがないですね。

話を戻しまして。
つまり、僕は(自分でいうのもなんですが)「おお!」と感心するようなことをたまにポンと書くことがあって、それはいつかといえば「会社や生活で苦労があった時」なのですね。
異常時にハイな状態で書いた文章を平時に読めば自分でも他人事のように読めるし、「ホントに自分が書いたのか?」とすら思うこともある。
そんなことができるのはきっと「昇華症」(また命名してしまいましたが、前に書いた「ついで症」と似たところがあります)だからで、ある意味貧乏性の応用なのですが、「転んでもタダでは起きない」ですね。
というか、より正確には「転んだらタダでは起きない」でしょうか

転んだらその後の展開も合わせた収支は必ずプラスになるが、転ばなければマイナスがないかわりにプラスもないという。
しかしこれは自分から打算的に転ぶと転びっ放しになったりもするので、利便性は薄いというかコンビニエンスに欠けるというか。
まあこういう性質の人間は「思い通りにいかないこと」をすんなり受け入れられたりもするのですが、そうすると「思い通りにいくのが当たり前」の社会(例えば会社でやる仕事なんてのは予定通りにやるのが普通なわけです)の中では浮いてしまうことになる。
その性質を自覚し続ける限り、社会の中で浮き続ける。
あるいは沈み続ける

話が別の所にいきますが、「まわりから浮く」が悪目立ちの表現として使われますが、川や海のメタファで「浮きも沈みもしない」のはどういう状況なんだろうとふと思いました。
「出る杭は打たれる」とも言いますが、「出ない杭」というのは「既に打たれて頭が地面に埋まっている杭」ということで、まあモグラでもなければ息苦しくてかなわないですよね。
地位や順位の変動が頻繁なことを「浮き沈みが激しい」と言った気がしますが、これはやはり水に浮かんでいるもののメタファのはずで、(浮かんでいる媒体の水に)「波がある」と一緒です。
そうか、浮き沈みがしない状態というのは波がない状態であって…あれ、でもやっぱり通常状態が「浮いている」ことになりませんかね?
まあきっと、「水に浮かんでいることが不安定」という考え方ではなくて、「水に浮かぶのは当たり前だが、(波があったりして)上下にぐらぐら揺れるのはみっともない」という考え方なのでしょうね。
しかし位置が安定しているとはいえ、なぜ水に浮いた状態をデフォルトと考えるのか…少しでも潜っていれば息はできないし、顔を水面から出して口や鼻でスーハーやるのも何だか品がない。
…もしかしてメタファの元は忍者なのでは。
あの「水遁(すいとん)の術」ってあるじゃないですか。
あれは隠れてるわけで、「窓際社員」的な…。

話を戻しまして。
つまり、生活が平穏無事だと僕の指も鈍るというわけですね。
それはありがたいことでもあって、そしてなんだかつまらないことでもある。
「物事にはなべて表と裏がある」を地で行く、ということでしょうか。
まあそんな時はあまり自分のことを考えずに本をひたすら読めばいいのだと思います

あはは、なんか今年の分、終わっちゃいそうですね。 22:13

+*+*+*

空が見えていて雨は降らなそうですが、風が強い…そして寒い。
まあ、登りますよ、雨じゃなければ(雪でも登ります)。
というわけで、今から準備です。
今年は年が変わるまでに門につけるかも…
あ、でも「和歩」で歩くようになってからスピードは落ちたからなんともいえんな。
(和歩はまあ自主開発の「ナンバ歩き」みたいなものです)

というわけで(どういうわけで?)、皆様よいお年を。 23:07
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by chee-choff | 2014-12-31 18:54 | 思考
ゆくとしくるとし('14→'15)1
スタートが少し遅くなりましたが、今年も「ゆくくる」を書きます。
まずは年の暮れの話を少し…

会社の長期休暇は、いつもちょっとした事情で期間がずれることがあります。
今年は工場のラインの立ち下げ・立ち上げ予定の都合上、29日が年末最終出社日となりました。
日程がそんなぎりぎりなので、飛行機で実家に帰る人などは29日に有給をとって26日から休みにする人も多かったらしい。
きっとその影響で、納会の参加者がいつもより少ない気がしました。
それはそれだけで、他に変わったことはありませんでしたが…

僕は29日もちゃんと出て大掃除にも参加しました。
掃除時間が2時間もあって、しかし今年は事務室や会議室の掃除なので共有場所はすぐ終わり、自分の机まわりの掃除をずっとしていました。
知財に来て仕事が完全にデスクワークになったので、仕事で使った紙の整理が大変でした。
僕はディスプレイを長時間凝視する目の体力がないので、自分が文章を書く時以外はたいてい印刷して紙媒体で読みます。
その印刷した書類が、一年で3~4センチはあったでしょうか。
とっておく分といらない分をより分けてシュレッダーにかけるだけでけっこう時間がかかりました。
これがオフィスワーカか…という感じでした。

そういえば知財に異動した時から目の具合がぎりぎりで、ディスプレイが見れないとなれば仕事にならないのでどうなることかと心配したのですが、1年経ってみればなんとかやってこれたようです。
ぎりぎりでつらいと思っていた期間がある程度続けば、それが通常になってしまう、ということかもしれません。
肩こり(肩よりは首にきてますが)も悪化はどこかの段階で踏みとどまって、こりの感覚はとれませんが「このままでもしばらくは大丈夫かな」というくらいに安定してはいます。
この点は、こりの自覚が全く無くなればよいとは思っていなくて、何度も書いていますが、オフィスワーカの宿命てあり引き受けざるを得ない症状である一方で、自覚がなくなることは麻痺でしかないからです。
「麻痺してこそ一人前」というのが(この表現では語られませんが)常識でしょうが、その意味でなら僕は一人前になりたくはない
人は身体を動かしたくなるのが自然で、動かせば身体感覚は鋭敏になるし、動かして疲れた後の睡眠は純粋に回復として機能する。
脳と身体のバランスという時に、身体側で維持すべき最低限のウェイトはそこではないかと思います。
だから、身体を使っていなくて全身がだるい、あるいは局所的に使うことでこりや痛みがあるというのは僕は「引き受けるべき不調」だと認識しています

体調の話で思い出したのですが、風邪などの体調不良の「発症から回復までの過程」が、昔と比べて曖昧になったという感覚があります。
たとえば子どもであれば、風邪を引けばとたんに熱が上がり動けなくなって寝込むが、一晩寝ればあらスッキリ、といったように状況の切り替わりが早いしシンプルです。
僕の今の感覚は最近自覚したというわけでもないですが、たぶん社会人になって何年か経った後のことで、それは「いつの間にか風邪を引いた」「いつの間にか風邪が治った」と自覚が遅れてやってくる感じで、そして症状が軽いのか寝込むほどではなく(会社を休むほどでもなく、じっとしているより仕事をした方が治りが早いとすら思う)、症状の移り変わりも境目がなくゆっくりしていて、治った時の爽快感も特にない。
ただ、治った時には「なんとなく身体の全体が好調かなあ」と思うこともある。
まあ年相応の変化だとは思います。

もう少し体調の話を書こうと思いますが、昼食のようなので一旦中断。 13:12

+*+*+*

さっきは何を書こうとしたのか…
体調の話はまた思い出したら書くとして、思い出そうとして出てきた別の話を書きます。

たぶん「ミラーニューロン」の話です。
事務室の自分の席のそばにはよく喋る先輩がいるのですが、まあ本当によく喋るのですが、仕事が追いつめられていたり眠かったりすると静かな時もあります。
それで僕はその喋りに参加する気は全くないのですが、そして僕は外乱に弱いので僕自身の仕事効率も落ちるのですが(これはもう「そういうものだ」と思っています。その中身も考えてはいるのでまた後で書ければ…)、なんというのか、その人の喋りが耳に入ってくると、「お喋りをしたい」という僕自身の欲求が低下するようです

あまりにも静かな事務室でずっと仕事をしていると喋りたくなることはあります。
これは気詰まりというか、人はずっと黙っているよりは時には喋る方が自然だから(と書きながら自分には当てはまらないのではと思っていますが)と思います。
一方で、そばでなされる会話に自分との関連があったり混ざれそうな雰囲気があれば、これもまた喋りたくなるものだと思います。
また、そばでなされる会話が自分と全然関係のないものであっても、それが聞こえるうちに「自分も喋りたいなあ」と思えてきて、何かきっかけがあれば別の場所で知り合いと話に花が咲く、というこれは昔はそう思っていた気がするという話です。

僕が感じたのはこの3つの状況のどれとも違うなあというもので、もしかすると会話が耳に入るだけで僕自身も会話しているような感覚を得るのかなあとその場で想像したことがあるのですが、別の解釈もあって、ひどい話なんですがそばで聴いている会話があまりにつまらないと「会話ってのはつまらんなあ」と思ってしまい意欲が削がれる、ということかもしれません。(この文の前者がミラーニューロン的解釈ですね)
その「つまらない」の対象はこれを読んで最初に思われるような「会話の内容」ではなくて、むしろ形式というか機能の方です。
会話の内容がどれほどつまらなくても、複数の人が会話することの機能はちゃんと発揮されます。
たしか「交話的コミュニケーション」という言い方だった気がしますが、「こんにちは」「やあ、こんにちは」といった挨拶には内容もへったくれもなくて、でも挨拶すれば元気になります。
ただ、では挨拶すればなんでもいいのかと言われればそんなことはなくて、逆に気を滅入らせるような挨拶もあるわけで、たとえばこのような挨拶を僕は「つまらない」と思っています。
挨拶にしろ会話にしろ相手がいて始めて成り立つもので、そして会話はそうなんですが情報交換以前に「相手のことを見ている」ことが全てのコミュニケーションに本来は含まれています
「相手のことを見ないコミュニケーション」もそれはそれで「僕は君のことなんてはなにもかけない」といったニュアンスを相手に伝える意味で一つ繰り上がったコミュニケーション(メタ・コミュニケーション)になるのですが、これはそばで見ていてあまり気持ちの良いやりとりではありません。
るいは「お互いが独り言のように喋る」ような形式もあって、自分が知っている内容だけ、あるいは気が向いた時にだけ返事をするような言葉のやりとりは、それがお互いでその形式(でコミュニケーションを行うこと)を了承しているのだとしても、やはり第三者からすれば気味の悪いものに見える
そういう分析をしておかないと自分も染まってしまう、という危うさがあり、そばでその会話を聴いていて何も感じなくなるのはそれで仕事の効率が上がったとしても断固望むところではない、と思っている
だからあまりこの解釈に固着していてもよくなくて、要は今の状況に落ち着きたくないということですが…
あ、でもこの話はひとつの具体例の中の話であって、全体としては今の仕事と生活はとても落ち着いています。

いつの間にか話が重くなっていますが、この「全体として」の方を少し掘り下げたいですね。
小休止です。 15:37

+*+*+*

話ががらりと変わるようで実は続きなんですが、僕はほぼ毎晩夢を見ます。
夢の内容自体は様々で、内容にはここでは触れません、というか再現できるほど記憶に残ってもいないのですが、でも「沢山見たなあ」という経験の記憶は残っています。
夢を見る時と見ない時の違いは自分ではある程度分かっていて、たぶんその日に読む本に因っています。
そしてそれは本の内容というよりは「本の内容の様々さ」に因るのだと思います

夢を見る仕組みについて解釈はいろいろあるようですが、僕がなるほどなあと思うその一つは、「その日に起こった出来事を整理する」というものです
その日一日が整合的に、あるいは思った通りに過ぎたとすれば、夢を見ることはあまりない。
逆に、一日で色んなことが起こったり、予想もしなかったことが起こったり、出来事の間につながりが見出しにくい複数の出来事が起こったりすると、それらの文脈をつけるために夢を見ることがある。
単純に対比させればこのようになりますが、だからといってその日に起こった出来事に関する夢をその夜に見るわけではない。
寝入る前に考えていたことや想像した人が夢に出てきたこともありますが(これもその経験だけで、いまいち中身の方は記憶にない)、割合でいえばほとんどありません。
今は関わることがほとんど(全く)ないかつての知人が出てくる割合が多いようでもあるし、現に今関わりのある人(ほぼ会社の人しかいませんが)が夢に出てくることもある。
夢の内容自体に意味を持たせることはもう不可能と考えた方がよくて(何しろ覚えていないのだから…いや、朝起きた時に書き留めれば残すことも可能ですが、これはたぶん社会人である間はやらないと思います。なんとなく)、「なんだかよくわからんが夢を見ることで頭の中を整理しようとしている」という機能効果を最初に認めてそこから考えていく方が面白いような気がします。
一人でいる時に起こるのですが、考え事ではなくて、炊事や体操など、部屋で何かをしている時にふと昔の記憶の断片が一瞬だけ頭に浮かんでくることがよくあります
これが自分の見る夢と関係していないはずはなくて(確信)、でもやっぱりその内容を分析しようとは(今のところ)思っていなくて、むしろそういうことが起こるのはなぜかと考えていると、「過去の経験は(記憶がその明示的な一形態として)常に現在に繰り込まれている」ことの実感に繋がります
これは、「後悔するかどうかはその過去の出来事(行動)の内容よりは現在の状況にかかっている」という言い方もできます。
昔の自分の失態あるいは偉業が、後にその自己評価を変えることがあるのは当然で、それは「思い出すごとに変わる」と言っていい。
偉業を偉業のままで留めたいのはそう思う現在の自分の希望であって、それはとりもなおさず固着であり(自分のある一面の)変化の否定でもあります。
そうしないと切り抜けられない現在の状況がある場合もあるし、あるいはその変化の否定の姿勢によって周りの状況から取り残されてしまうこともある。
例えばそのどちらがいいか、というのは現在の自分が選ぶしかないわけです。
そして、自分が何か大きなことをしようとしている時に、「この経験が将来に苦難を前に切り抜ける力となってくれる」という思い(端的に「打算」ですねこれは)をもってするとすれば、それは「大きなこと」をやる前から結果に対する評価を決めてしまっている、ということになります(もちろんやってみてからそれが覆されることも大いにあります)。
僕が大学3回性の時に大阪から北海道(宗谷岬)までチャリ旅行をしていた間のモチベーションはまさにここにありました。
この意味では、チャリ旅の道中でもっと「今現在の経験」に目を向けていればよかったのかな、と正直に思います。
が、そういう「打算先行の経験」をひとつしてみて(当時はもちろんそんな意識はかけらもありませんでした)、それがもたらしたものも振り返ることができれば、最初は「偉業」と思っていたものが(機会を十分に生かせなかったという)「失敗」になり、その身に染みた失敗が次の成功を呼び込むかもしれない「良い経験」になる、という風にまあ意味付けがどんどん変わるわけです。

自分の中であれは良い、これは悪いという価値観は、確かにあります。
人に押しつけるほどのものでなくとも、行動の選択が考える以前になされる時には、その価値観が無意識に反映されるわけです。
それを「なぜ自分はこれを良い(悪い)と思うのか」と客観的な分析ができることは、ひとつ、自分が落ち着いている状態と考えることができる。
自分に余裕がなければ、自分が良いと思うもの(価値観)に対して「実は全然良いものではなかった」といった認識を呼び込むような思考に手を出すことはないからです

その意味で、今の自分は落ち着いていると言ってもいい。
いや、ここはそんなに掘り下げたい話ではないのですが…

あ、途中で見失った書きたいことを思い出しました。
毎日本を何冊か併読していて、これはいつの間にか整った時間割に則って進められています(一日の時間割としては、平日に2通りと、土曜と日曜とで計4通りですね)。
ある程度は会社生活を意識した本の選択になっています(たとえばSFは週末に読む、とか)が、それでも一日に読む3~5,6冊(もちろん「読み終える」ではありません。遅読なのでちびちびです)の間に単純な統一性はありません。
会社で起こったことよりは恐らく読んだ本の散漫さによって夢を見ていると上でも書きましたが、このことは読んだ本の話が自分の中である居場所をもったことを意味しています
その居場所というのが、自分が自由に出し入れして利用・活用できる情報ボックスではなく、何に使うのかよくわからんのでとりあえず放り込む「合い切り袋」なのです。
(「一切合切」という言い方をしますが、「合い切り」はたぶんこれの部分と同じ意味で、「ごちゃっと(混沌と)している」のですね)
「ムダな知識を詰め込む」というニュアンスではなくて、この表現はたぶん知識に一定の形を与えているはずで、そうではなく「合い切り袋に放り込まれるもの」は形をなす前のものです
(この文脈に従えば、頭の中における「形」というのはつまり決まった意味とか、ある基準に従って下された評価とか、と考えていい)
僕は併読する本の内容同士やそれらと自分の経験とが思いもしなかった形でリンクすることに非常に喜びを見出す人間なのですが、「合い切り袋に放り込まれたもの」はすべて、その喜びの可能性を秘めた断片でもあるわけです
こう考えると非常にロマンチックな話にも聴こえるし(僕だけ?)、あるいは「なにムダなことしてんだか」という話でもありますが、まあ大事なことといえば、両者はイコールだという点ですね。
何にせよ「自覚は暴走を抑制する」ものですが、この自覚もご多分に漏れず、ですね。


さて、「この一年を振り返る」という話になるかは分かりませんが、こんな感じでしばらくつらつら書いてみようと思います。

下の写真は実家にあった「フクロウ君ライトスタンド」です。
電池式で、頭を押せば身体全体が光ります。
光っても表情を変えないところがいいですね。
あたりまえですけど。

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by chee-choff | 2014-12-31 13:12 | 思考