深爪エリマキトカゲ
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根っこの思想が繋がっているのかもしれないし、
たんにどちらも「朝日新聞社」出版というだけかもしれない。

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Q. この二冊の著者は誰でしょう?

ヒント:どちらも僕の好きな作家で、これまたにタグで載ってる人です。

そしてこれはカバーを外した状態で、カバーを付けるとどちらかが恐ろしいことに…
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by chee-choff | 2013-10-30 00:01 | 読書
狼と箸とバビロン
雑記。

暑くなり始めてから行っていなかった週末の林道散歩を久しぶりに再開した。
ら、登り始めたあたりから子どもの叫び声みたいなのが聞こえる。
もう遅いのに運動広場でなんかやってるのかな…
と思うのだが声は鳴り止まず情緒はあれ単調に続いている。
展望台の手前くらいまで来て声がはっきりしてきて、これは獣だと気付く。
サイレンのような甲高い声に、時々猿かなんかの別の鳴き声が混じる。
しばらく立ち止まって聞き耳を立てていると、
行く先の山道からガサガサと音が聞こえ、こっちにやってきそうな気配もある。
日はとうに暮れ視界はだいぶ暗く、急に出てこられても対応できそうにない。
装備として超軽装で、財布しか持ってない人間に勝ち目はない。
声の高さからしてそう獰猛でもなさそうな動物たちの小競り合いかと思い、
そう危機感があるわけでもなく三脈を聴いても落ち着いてはいるのだが、
得体の知れなさはするし散歩であまり体を張りたくもない(たまに張るけど)ので、
いつもの高松山に向かうコースを諦めて別方向から下山する。
こんな経験は初めてだな…季節の変わり目なのかしら。
このコースを歩き始めてどれくらい経つかな…もうすぐ一年くらいかしら。
危機に遭ったことはないけど(ヒルに襲われたことも自分はない)、
不気味な経験はこれが初めてだ。
街に近いとはいえ山林だしね(小町林道は愛名緑地の一部、だと思う)。
こういうこともある、と最初から頭では思っていたけど(熊いるらしいし)、
実際起こってみると、なんともいえない。
やはり鈍感なんだろうか…

三脈というのは確か甲野善紀氏の著書(いやウチダ氏ブログ?)にあった危機察知の方法で、
右手で左手首の脈を押えながら左手は首筋の脈を押えて、
2つの脈が同期していれば問題はないがタイミングがズレているとあら大変、
危険が自分の身に迫っていることが分かるというスグレモノなのである。
というような話を鵜呑みにして、林道散歩時になにやら怪しげな雰囲気を感じた時に
これを何度かやったことがあって、まあ三脈がズレたことはないのだけど、
これがいいおまじないになって「うん、大丈夫だ」と先に進む勇気が持てる。
単に無謀になってるだけかもしれないが、
何か起こった時に(危機察知が適切にできなかったという)自分の身体のせいにできるので、
良く分からないが安心感がある。
頭の判断が間違うと後悔するのだが、身体の判断が間違うと後悔しようがないというか。
いや多分正しいことを言っていて、
しかし自分のこの言葉を信頼できるほどまだ自分の身体を信頼できていない。
ということを頭は分かっている。
うーん、込み入ってますな。

+*+*+*

最近、左手での箸遣いに挑戦し始めた。
きっかけがまたテキトーで、家ではいつも活字を読みながら食事するのだけど、
机の左に膳をおいて右に新聞や本を拡げていて、
食べるのに箸を持った右手を左に伸ばすことにどうもロスがある、
と思ったのかもしれないがそれよりは食事しながら本を読んでいて線を引きたくなった時に
右手に持った箸をいったん置いてからシャーペンを持つのがどうも美しくない、
と思ったのが本当で発想からしてどうも美しくない(食事の作法として、ね)。
が、どうでもいいなりに切実な必要性を感じてしまったがゆえの執念があり、
がしかし執念などと言うまでもなく初回の挑戦ですんなりと豆腐をキャッチできてしまい、
あれれと思った。
その昔に一度以上は左手での箸遣いに挑戦したことがあったはずで、
その都度ぜーんぜん駄目だった記憶がうっすらあるのだけど、
よく考えてみると昔は右手の箸遣いもめちゃくちゃだったことを思い出した。
何を隠そう約1年前より以前は箸先を一度閉じると再度開くことができなかったのだ。
どうしてそんなテキトーで今までやってこれたのか不思議ではあるが、
そういえばこの箸捌きの稚拙さに恥ずかしい思いをしたことが何度かある。
(祖母の骨を拾う時に何度も失敗した、とか…)
あるのだがその恥ずかしい経験はどれも社会人になってからで、
しかしそれ以前にも「それを恥ずかしいと思わなければいけない場面」はあった気がして、
そうか気付かぬうちに社会人として気負っていたのだなあと感慨深い。
なんてことはないのだが、話を戻せば右手の箸遣いはたしか1年くらい前から修正を始めていて、
そのきっかけが今となっては感慨深いのだが、
とかいうとどうもしみじみばかりしているじじいみたいだがそれはあながち外れでもなく、
じじいというのは遂行的に獲得すべき境地であるという教えを唐突に思い付き、
教わる側が教えを思い付くというのも妙なものだがきっとこれも前世の記憶なのだろう、
という戯言はさておき話を戻すと唐突に聞こえそうだが自分はいつも
「カタログギフト」というものに頭を悩ませる優柔不断な人間であって、
友人の結婚式に出る度に「ああ、今度は何を選べばよいのだろう…」と式を終えて
幾週か経った後に郵送されてくる分厚い冊子のことを思い途方に暮れるのである。
なんてことはないのだが、そうして頭を悩ませるうちに思い付いたことがあって、
他でもないこの「頭を悩ませている時間」こそがカタログギフトのギフトだということで、
つまりカタログに載っているものはどれでも自分のものにすることができるという事実が
その物品を手中に収めてからの生活の充実についての想像にリアリティを付与するのであって、
カタログギフトの存在意義は物品一つを選び取るまでの過程にあるのである。
という気付きはもちろん余談で、しかし心ある友人の幸福が詰まったギフトにはやはり
その物品の機能以上に存在感が溢れ出てくるもので、つまり何を選んだかということなのだが、
もうお分かりの通り、ある時に自分は「箸」を選んだのだ(確か酢酸氏のときだったかしら)。
艶のある漆や素朴にして光ある蜻蛉のデザインに惹かれたのだが、
いざ箸が届いてそれを手に取ってみるとどうも上手く使いこなせず、
当時の生活において箸の数は足りていたので机の隅に飾ってしばらくが過ぎたのだった。
が、ある時普段使っていた箸の一つを噛み割ってしまい、遂に御登場願わずにはいられなくなり、
「そうだ、この際ちゃんと箸を使えるようになろう」と一大決心をしたのであった。
そしてそのようにして右手の箸遣いはマシになり(今なら紅鮭の骨も捌ける)、
そのマシな箸遣いを左手にコピーしようとするとすぐできちゃったわコレあはは、というお話。
うん、面白い。
というのは「生活習慣と付き合うこと」が、だ。
このような経験を重ねることで型に興味が出てくるのだろう。
きっとこれは最初から型を教え込まれた人間とは別の結果をもたらすのだろう。
後者は分岐して前者と一致することもあるだろうけど、前者はそも分岐しない気がする。
いきなり抽象的な話になった。
この型は作法とかのことです。

+*+*+*

靴下とバビロンの共通点に思い至って、
それはホシュウ(補修・捕囚)ですね。
高校世界史の序盤で出てきたバビロン捕囚を当時の自分は「ばびろんほいん」と読んでいて、
クラスメイトに喋る機会なんぞあったものならさぞかし笑われたろうと思う。
ポーキサイトのぽ氏には敵わないけどね笑
それはよくて、なぜに靴下かというに、
五本指ソックスの徹底されてない所は親指部分が小さいことで、
これは下駄を履くと必ず親指の先に穴が空くようになっている。
というのは部屋で下駄を履く自分の経験的事実であって、
この点足袋ソックスは抜かりなく充実した親指スペースが確保されている。
が、五本指ソックスで下駄を履くことが想定されていないことはまず確かで、
(するとこれの発祥は日本ではないだろうか?)
このことにいちゃもんつけてもしかたないので親指の補修でもやろうかな、
と思ったのだった。
今朝やろうと思ったのに、いつの間にかもう夜中になっている。
明日やるか。明日も休みだし。何せ土曜出勤だったから。

さて、この生活がいつまで続きますかね。
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by chee-choff | 2013-10-28 01:08 | 社会人
れんそーめ
最近は書くより読む方に重心が傾いている。

それはそういう時期なのでよいとして。

院生時代の記事を読み返していて、

助教の話とか「今年度ネクラ宣言」とか内容的には散々なんだけど、

ところどころの思考にハッとさせられるところがあって止まらない。

今見つけたのがHP作成構想を練る場面でウチダ氏について語っている記事で、

構造主義に関する話題の例になぜか将棋が選ばれているのだけど、

将棋の必勝法が見つけられた時に(構造主義的思考は)将棋の新ルールを編み出す、

そしてそれは棋士の仕事となるだろう、と書いていて「おろっ」と思ったのは、

ちょっと前に羽生善治が同じ話をしていたのを読んだからである。

(たしか将棋電王戦でプロ棋士が負けた時の新聞インタビュー記事だったかと思う)

この頃は保坂和志を知らなかったはずで、つまり羽生氏を思考的に意識はしていなかった。

別に昔の自分がすごいこと言ったとか言いたいわけではなく、

自分の思考の傾向が過去から連綿と続いており、

(本の中でだけど)会う人には会うべくして会うのだなあと感慨深いのだった。


そういえば最近の朝刊文化面で保坂氏が出ていた。

『未明の闘争』は10年ぶりの小説らしい。

(てことは一つ前は『カンバセイション・ピース』かしら?)

この手の本は書評が難しくて、型に嵌め込んだ書評は自分に読みたいとは思わせない。

ああ読みたいなあ…すぐじゃなくてもいいけど。

保坂小説のストックもあるし、『小説の自由』も未読で手元にあるし。


そう、そういえば町田康のエッセイに「明日は『小説の自由』を読もうと思う」

って普通に書いてあって「あら、ここで繋がんだ!」ってびっくりした。

そも自分が町田氏を読み始めたのはウチダ氏が氏の小説を絶賛していたからで、

そういえばウチダ氏のブログに保坂小説の軽い感想が書いてあったこともあって、

うむむやはり繋がるところでは繋がるのだなあと。

実際に作ろうとすると途中で飽きちゃうだろうけど(と言っちゃうけど)、

作家、というか本を書く人の相関図みたいなのをつくると楽しそうだ。

(検索から拾って自動で作っちゃうサイトが既にあった気がする)

あくまで自分の読書経験から作り上げるところが面白いはずなのだけど、

それが創作に始まってどこかで記録になってしまった時点で飽きるのだと思う。

この創作の意味は、著者同士のリンク基準が自分の主観満載だということで、

例えば内田樹と保坂和志を線で繋いでニヤニヤできるところにこれの存在意義がある。

まあ気が向けばね…多分向かないだろうけどね。


あれれ、メモだけで済ますつもりが長くなった。
やはり筆がノると楽しいなあ。
そこそこ元気な証拠なのでしょう、きっと。
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by chee-choff | 2013-10-27 01:16 | 社会人
J・B
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by chee-choff | 2013-10-23 23:46 | 社会人
目が閉じれば心は前向き
この気温の下がりよう。
夏の再活動は二日でおしまい。

+*+*+*

もうすぐ会社で健康診断がある。
たしか半年ごとにあって、半年前に「ひふびらん」と診断された恐らく溶剤起因の指の皮膚荒れがそのままにしてある。
してある、というか経過観察したり実家でオロナイン塗ってみたりと付き合いが長くなるうち情が移って治すに治せなくなった(かわ嘘
発症時は小指の先だけで「指紋が消えたー完全犯罪!」と阿呆な事を言っていたのに、今は指紋は完全復活した代わり小指と薬指の付け根がカサカサのカラカラになっていて、最近なぞは指を反らすと付け根の皮膚がぱっくり割れかねん状況である。
とはいえこういう「vulnerableな身体部位」はアリス・L・マルヴィンの首筋みたく危機察知センサーとして重宝するものなのでやはり付き合いは続くのかもしれない。
(しかしこの場合の危機は何なのか…旱魃?)

そう、健康診断と書いて思い出したのだけど、ランニングでもしようかと思った。
村上春樹もやってるし。
…がメインの動機ではなくて、どうも日常的にかかる肩・首への疲労を身体全体へ分散させた方がよいのではと最近思って、なぜってここひと月ほどの肩の凝りが今まで経験したことのないほどでその原因は色々あるのだろうけど昨日の大掃除を経ての今日の肩の軽さに閃くものがあったのだ。
うちの掃除は普通の掃除ではなく、他の家事と同じく天狗状態で動き回るために太腿以下脚への負担がなかなかのものになる。
おかげで今日は脚の筋肉痛に加えて「絞り過ぎ」による腕のダルさが手伝って、疲れが全身にそこそこまんべんなく行き渡ったのだと思われる。
という経緯があったにしろなぜ対象が突如ランニングに絞られたかといえば恐らく土曜の朝日beの特集記事のせいで、そこに身体に負担をかけないランニングフォームについて書かれていて「そういえば中高で走り方を教わったこと一度もないな」と思い出し、そういえば自分が長距離が嫌いなのは走り始めてすぐお腹が痛くなるからだったのだがこれもフォームの改善次第で解消できるんではなかろうかと。
しかしあんまり筋肉をつける方向の運動をしたくはないとも思っていて、これは「合気道は筋肉いらない」みたいな話を繰り返し読んで信じ込んでしまってるからだが、もうそんなやる前からぐちゃぐちゃ考えてんといてもうたらどないやねんという声も聞こえてくるので、落ち着いたら始めてみようかしら。

+*+*+*

前を向いて立ち止まり、
目を瞑って歩き始める。
立ち止まって目を開き、
風景にしばし見とれる。

後ろは見ない。
歩く時は前を見ない。
見えるものを信用しないのではなく、
見えるのが「いつ」かに関心を向ける。

目を瞑るのは見たくないからではない。
目を開けるべき時に開けるため。
起きている間は人は無意識に目を開けている。
その逆を、無意識に目を閉じている状態を理想にしてみる。

流れは目に見えないから。
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by chee-choff | 2013-10-14 00:01 | 社会人
バーナードとじゃれ合う夏の終わり
今夏にして最初で最後の掃除をした。

なんか夏が戻ってきたので「今夏」。
けどそれも今日で終わり。
という名残惜しさと、あまりの暑さにダレそうになって「ぬん!」となって一念発起で掃除を始めたのが陽が部屋に差し込み始める午後1時過ぎ。
もしかして何ヶ月ぶりかもしれなくて(もしかして←これ重要)手始めにフローリングを拭こうと思って、いやまてもうすぐ寒くなるからテーブルをしまってコタツを出すことになる。テーブルが退けばいつも尻に敷かれ沈黙して久しいラグを掃除できる。そういえばいつもラグの表面を掃除機で吸い取っていたが剥いだことはない。そうだこの際ラグをはぎ取ってフローリング全体を拭いてしまえと思い立ち、ラグをぺろんとめくるとえらいことになっている。
サラサラの砂というか粉末がうっすらファーって分布し「うおっ」と思わず唸るがどうしてこんなことになっているのか考えてみるが、それよりまずこいつをなんとかせんばなるまいとラグを掃除でなく洗濯することを即断し、風呂桶でジャバジャバやってやろうと思い風呂場を覗くとこれまたえらいことになっている。
というのも当たり前で風呂桶なんて半年以上使わずシャワーばかり浴びていたものだから桶の方はなんだか残念な状態で、ラグより先に風呂桶の洗浄に取りかかる。
これはすぐ終わり早速浅く湯を張りラグを折り畳んでぶっ込み洗剤を投入して人力センタッキを始めるが、最初の「洗い」で早速困難にぶち当たる。重い。なんだこれ。知らぬ間でもないがラグが水を吸ってセントバーナード犬が如きヘビー級に昇格している。これをジャバジャバするのか。ジャバジャバしてるうちに自分が風呂桶に引き摺り込まれてしまうのではないか。という恐れを抱きながらも乗りかかった舟は漕がねばならないように風呂桶に沈めたラグは洗わねばならぬのであって、有無は言わずも「うむ」と言いジャバジャバを続行する。
泡立った湯船でラグを何度か引っくり返しバーナード犬もおとなしくなってきたので「すすぎ」に入る。湯船から出してシャワーをかけながら踏む。踏む。踏む。有機物ではあるがさも有機体が如き軟弱な弾力とおもにぐじゅと言う姿に懐かしいものを感じ、楽しくなる。楽しい。
気が済みかつ気が澄んだところで次の「脱水」なのだが、ようするに絞るわけだが、布とはいえバーナード犬でもあって、これに大変な労力を要する。風呂桶の縁に畳みながらもたせかけ、上からは乗り、横からは圧迫しながら絞る。垂れ下がる布の端を丸めて絞る様はまさに牛の乳搾りが如く、一絞りでコップが溢れるほどの出来に牛の健康が心配される程だが恐らく雑巾を絞るように牛の乳を絞っては後ろ脚で蹴られることになるだろう。さておきバーナード犬は1800x1800でありこの人力脱水では埒が明かず、両腕がプルプルする前に切り上げてベランダに干しに行くがこの時既に3時を過ぎたところで日が沈むまでの乾燥完了は望めないと気付く。
それはまあ仕様が無いので明日の夕方まで干すことにし、風呂場に戻ると湯が焦茶色に染まっている。ラグの色が抜けたかに思われたが排水してみると多量の粉が底面に貼り付いている。また粉か。最初にラグぺろんした時は灰色の粉であり、今眼前には茶色の粉。ラグの表面は茶色の毛で裏地は灰色である。するとこれらの粉はもともと毛や布であったものらしい。どうして繊維が粉になるのか不思議に思ったが、最近読んだものの本によれば有機物は高分子でできているらしく、さてはどこぞの結合が切れよったかと一人合点の疑惑氷解、そらなんやて粉んなるさかい大阪人にはお手のもんや。粉もんの聖地なめたらいかん。

ちうわけで今に至る。
腕がダルい。
プルプルを超えて、腕が嘔吐寸前である。
どこから、何を吐くのか。
想像するだに悍ましい。
つか、想像できへんが。

+*+*+*

最近晩飯中に読んでいる町田康のエッセイの影響かしら。
自分に未経験の文体だったので最初は戸惑ったが、もう慣れた。
がしかし擬音がいまだようわからん。
どうすればよいのか。
うくく。
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by chee-choff | 2013-10-12 23:33 | 社会人