深爪エリマキトカゲ
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桜は夜に感じよう
おととい書いてから「あれ」と思うことがあったので追記。

「最近の受動性の示唆」について。

昨日読み始めた山岸俊男の新書に「囚人のジレンマ」の話があった。
この人は4回生で吹田図書館に籠ろうとしていた時期に『信頼の構造』を開架棚で読んで驚いた記憶があって、名前は覚えていたので先週のブックオフで中身に構わず買った新書だ。
その話というのが、二者間での囚人のジレンマ状況で継続的に勝負を行う時に利益を最大とできる戦略は何かというので世界のゲーム理論家にその戦略を募ってシミュレーションで競わせる実験の話で、専門家の考案した複雑な戦略を差し置いて優勝したのが「応報戦略」というもので、これは相手がした選択を次に繰り返す(ある回の勝負で相手が協調行動をとれば次回に自分は協調行動をとる、逆も然り)という単純な戦略なのだ。
この勝負が想定しているのは二者間で信頼関係を築く時間(機会)が十分にあるという状況なのだが、相手の出方によらず強気で押す(=ずっと非協調行動をとる)又は無限の優しさを発揮する(=ずっと協調行動をとる)よりも応報行動に効果があることが実験で示されるというのは個性とは単純なものではないという意味の良い示唆を与えてくれる。
とは別の文脈で(つまり個性云々ではなく(というかなぜいきなり個性という言葉が出てきたのか?)、おそらく「道徳が廃れても暗澹たる未来が待ち受けているわけではない」というような)、たしか吉本隆明との対談で糸井重里がこの実験結果に「人類の希望を見た」みたいなことを言っていた記憶があって(日刊イトイ新聞の企画だったような)、前にこれを読んで僕も共感して上に書いた『信頼の構造』を読んだことを思い出していたのだけど、今読んでる親書はここからさらに展開があって、「この十年の間に社会心理学でめざましい発展があったのが本書を書くきっかけになった」という記述に「おおお」と先を読むのも待ち遠しい所(3章の終わりだったかな)で続きを来週に持ち越したのが昨日のベローチェでの読書タイムのこと。

言いたかったのは、「応報戦略」というのは要するに相手の出方を勘案するということで、自分の行動には常に相手の行動が先立っていることを前提としていて、「あ、これは受け身そのものじゃないか」と。
というつながりを見つけられたのが、昨日読み始めたこの本を選んだのがなんとなくだったところもあってなんだか興味深いなと思った次第。(急になげやり)

あと、おととい書いた花粉症の話で「鼻をかむ回数が最近は一日一桁台」と言ったけど、昨日の朝に鼻をかみ始めてそのこと思い出して「本当かな…?」と思って数を数えていたら、やっぱりそんなことはなかった。
どうも「しょうもないところでは嘘をつく癖」みたいなのが真面目じゃなくなりだしてから(いつだ?)時々顔をのぞかせていて、それは事実を書いている意識が薄いというか「事実を書く所とは別の部分で面白さを見出している」からで(と書いて、森博嗣のせいだと気付く)、ブログでつらつら綴るうえでは大して人に迷惑はかけないのだけどこの癖が仕事で文章を書くときに発揮されるとマズいな、とこの事を考えているだけの頭ですぐ発想してみたけれど、仕事で文章を書くときを実際に思い浮かべてみると、実験結果の事実やら解釈やらはもちろんのこと言葉の表現や語尾にまで気を配る始末で(ぱっと思い浮かんだ単語の意味があやふやだとweblioですぐ検索をかけてしまうのだがそこに達するまでの早さが今ブログを書いているような時に比べて断然早いのだ)、じゃあ別に支障ないのかなと思いきや「マジメな文章を書くスピードがめっぽう遅い」という形で仕事に差し障っていることは確実で、そのせいもあって報告書あんま書いてないのでつい最近あった人事考課の自己評価では「報告書の作成」の項目だけ5段階評価で2をつけておいた。

で話を戻せば、鼻をかむ回数は「片手で数えられるほど」と訂正しておきます。
あ、もちろん5回ではないですよ?
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by chee-choff | 2013-03-24 17:52 | 社会人
今年もどうやら「粋・のび太」
まだちょっとしんどいけど、そろそろ終息宣言してもよいかと思う。
花粉の話。

先週末から症状が和らぎ始め、会社で花粉メガネをかけずとも仕事ができるようになった。
まだ会社ではマスク、家では花粉サングラスを使用しているが、もう辛くはない。
一日に鼻をかむ回数も一桁台だし、目ヤニは朝と晩に顔を洗う時だけ取って十分である。
これが最盛期は、ティッシュ箱が仕事中も手放せず、一日中異物と目ヤニで目に涙を湛えていた。

しかし、今年は例年の5〜7倍と聞いていたほど酷かった印象はない。
時期になる前から恐れて早めに薬を飲み始めたのが良かったのかもしれない。
という解釈が妥当だけれど、自分としては「生活のやりくり」のおかげかなと思ってみたい。
それは広い話でもあるのだけど、まずは花粉症との付き合いに限った話をしよう。

いつから始めたかもう記憶が曖昧だが、毎週土日は散歩をしている。
土曜は駅前まで往復(90分くらい)、日曜は寮の近所をてくてく歩く。
その日曜のコースを、今年から長くした。
川沿いを歩いて、途中で車通りを横切って林道を上り、住宅街に抜けてスーパに寄って帰る。

だいたい2時間はかかるのだが、この日曜コースを歩かなかったのは実はこの時期1回だけだった。
花粉症の症状が出ている時も、歩き始めると症状が和らぐことが分かったからだ。
その時は家に帰ってから、待っていたかのように目と鼻に同時にくるのだけど、
それもどうも散歩中に蓄積されたというより自分の身体の状態の変化に因るものかと思える。

同じことは土曜にブックオフで立ち読みしてた時にも感じていた。
目がグジグジでもマンガを読み始めて集中すると、いつの間にか目の違和感が薄れているのだ。
あるいは仕事中の日中よりも帰宅してからの夜の方が辛かったのも同じことだろう。
要は「病は気から」で、緊張しているほど症状が抑制されるのではないか。

そういった「症状の強弱と自分の身体(精神)状態の相関」をとろうという実験的な心持ちも、
実は症状の緩和に寄与していたかもしれない。
これが人間の面白いところで、人間に対する観察はその観察そのものによって対象が変化する。
測定のための微弱なエネルギー照射で系が影響を受けてしまう量子力学がそのメタファーである。


花粉症の時期は仕事も生活も全てが受け身になってしまうことは発症した時から分かっていた。
最初の頃はその受動性を「諦め」に近い形で発揮していたが、それもだんだん変わってきた。
去年は花粉症という苦しい状況を前提に「今でこそ考えられること」を考えようとしていたらしく、
去年の3月初旬に作られたカテゴリ「(T-T)」を読み返してみて壮絶だなと思った。

今年はどうだったかといえば、花粉症の苦しみを前提とするところは同じで、
そのうえで快適な生活をつくろうという方向に創造性が向いていた。
それを言葉としてアウトプットする意思はほとんど湧いてこなかった。
きっと「生活をつくる」ことを非言語的、感覚的にやろうとしていたのだと思う。

その一例が上で書いた「症状と自己との相関実験」なのだけど、
これが成果を挙げることよりも実験そのものに対する興味深さがあったように思う。
言い換えれば「現状が実験に組み込まれる」ことを楽しんでいた。
そしてそれが計画的でなく思いつきで行われ、言葉通り受動的に行われることを。

そういえばこの受動性について、最近いくつかの示唆を受けた。
自分の身体は発祥として自分のものではない(元になったのは両親だがそのさらに元は…)という話。
あるいは、異物が侵入して初めて自己が参照される(TcRだったかな)という免疫の話。
考えれば考えるほど、能動性は受動性に包含されているという確信が深まる。

もちろんこれは抽象性の高い話で、日常の具体的な行動と直接結び付けることはできない。
できないが、常に念頭に置きながら人と接していきたいとは思う。
村上春樹氏の小説に導いてくれた内田樹氏に改めて感謝しておくが、
「全てはメタファーである」というカフカ少年(@海辺のカフカ)の認識は僕の深くに根を下ろした。

少し話が飛んでいるかもしれないが、あるものを別のもののメタファーと見ることは、
その両者になにか抽象的な繋がりを見つけることなのである。
そしてその繋がりが形成される瞬間の、脳の躍動感。
いや、潜在的に繋がっていたリンクを脳が意識した瞬間、と言った方がよいか。


話がズレた。
花粉症の話をしていて、今年は時期中にあまり何かを書こうと思わなかったことを書きたかった。
今日書こうと思ったのは区切りをつけておこうという思いだけによる。
表立ってはそれ以外に意味はない。

年度末は、別れの時期。
気が向けば、何か書きましょう。
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by chee-choff | 2013-03-23 01:32 | (T-T)