深爪エリマキトカゲ
cheechoff.exblog.jp
Top
<   2013年 01月 ( 4 )   > この月の画像一覧
「流されの作法」について(ゆくくる5)
そして寮に戻ってきたのは昨日の24時半。
今回はもう少し早く戻れるはずだったのが、小田急でまさかの(というほど珍しい話でもないとは聞くが)人身事故で、小田急で足止めをくらう。
復旧予定時刻まで20分ほどあったので、駅前の商店街をぶらぶらしていた。
考えてみれば小田原駅は6度は来ているはずだが、毎度なにかと時間がなくて素通りしていた。
錦通りと銀座通り(へえ?)をきょろきょろするりと通って、上下にきちんと分かれた下弦の月に見とれて、弦が下にあるから下弦のはずだけど確か逆だったような…(と考えた時に気付かなかったのは弦と弧を間違えていた点で、弧が下に描かれ弦は上に張り出しているからこの時見たのは上弦の月だ…と思う←意地でも調べない人。しかしこういう基本的な対概念(「弦と弧」のことね)がどっちがどっちか分からなくなることが自分にはたびたびあって、「帰納と演繹」とか「東と西」とか。昔から抽象バカやったんかしら)とか考えながらぽつぽつ歩いて戻ると「相模大野行き〜最終出まーす」と拡声器の声が聞こえてきたので慌てて走る。
危うく小田原にお泊まりになるところだった。
まあ目ざとく24h営業のネカフェを見つけてたけど。
しかし社会人になってからネカフェ行かなくなったなあ。
通勤で電車を使ってないのが大きいと思うけど、あの空間の時間の流れ方は社会人生活と相容れないなと今の自分は思ってしまう。
でもブックオフも似たようなものではないのか…そうか、ブックオフは立ち読み(=身体のリラックスを伴わない娯楽)だからこそ許容されるのか。
ストイックだなあ。。

+*+*+*

さて、この記事でゆくくるを締めたい。
最後に書こうと思うのはタイトルのこと。
今まで書いてきたことと重複する部分もある。
というか包括(総括ではない)するテーマ。

前に「自分に素直になることにした」と書いたのだけど、自分は流れをつくる人でなくて流れにのる人で、この認識はまず疑いないと思われたので「時々は流れをつくっちゃおうかな」などといったさもしい発想を捨てることにした、という意味で書いた。
そういう考え方によって、流れにのる方法というか作法(という表現を使うには歴史が要るらしいが…無ければつくればいい)のようなものを真面目に考える機制が生まれる。
いちおう書いておくと、ここでいう「流れ」は流行とは程遠いものだ。
それはとても多くのものを意味しているが、ここでは「人とのやりとり」に限定する。

自分は「流される人」である。
人に流されるのだけど、「自分が流されたいと思う人」あるいは「流されておくべきだと予感される人」は選べるし、流され方の選択もできる。
(選択できないのは一連の流れを(恐らく事後的に、であることが多かろうが)想定した時の「ひとつの起点」だけである。これを選択しないというただ一点において人をして主体性がないと言わしむる風潮は脇に置く)
「流されの作法」とは、これらの人や方法の選択の際に活用されるべきものである。


…面倒臭くなってきたので書きたかったことだけを書く。
それは「うつろな人々」への対し方について。
(「うつろな人々」とは表記の通り人を指すが、僕は「人に備わる性質」という捉え方もアリだと思っている。そのようにも考えると、「うつろな人々」は自分の注目する性質に応じて周囲に幾人かずつ存在していることになる)
この表現の使用はとある西洋古典文学作品を嚆矢とするが、知りたい方は検索して頂くとして、僕は、もう何度も引いているが『海辺のカフカ』で(たしか上巻の最後の方だったはず)大島さんが「図書館を訪れた某権利推進団体の女性二人」を表現するのに用いていたことしか知らない。
けれど雰囲気は分かっており、おそらく間違ってはいないと思う。


「うつろな人々」には、なるべく近づかない。
近づかざるを得ない時は、耐える。
沈黙によって。
それは彼や彼女と相対する間は終始無言でいるということではなく、自分を出さないでいるということ。
そしてそれは「鏡になること」だと僕は思っている。
僕の沈黙によって時に彼や彼女は苛立つが、彼や彼女を苛立たせるものは僕ではなく、彼や彼女自身である。
そしてその苛立ちが、彼や彼女の「場の違和感」に繋がったと思われた時、僕は沈黙を解く。
その違和感を形にするため、あるいは手触りのある言葉として現前させるために。
あわよくば、彼や彼女の「うつろさ」が解除されることを願って。

「うつろであること」は、幸福や不幸とは関係がない。
ただ、「うつろな人々」のそばに僕みたいな人間がいると、僕が不幸になるだけだ。
あるいはそれと同時に、「うつろな人々」であるところの彼や彼女も不幸になるかもしれない。
だから、それは基本的に避けられねばならない。
基本的にと言うからには、例外もある。
「不幸になるべき時」が、それだ。
意識的であれ無意識的であれ、不幸を望む人は確かにいる。
「不幸を望む人」が僕の大切な人である限りにおいて、かつその人と僕が一緒にいることで僕を包み込む不幸が僕の精神ひいては肉体を破壊しない限りにおいて、僕はその人と共にあることを厭わない。

そして今書いたことを、「その時」に自分に自信をもって判断できるように、感受性を研ぎ澄ませていたい。
そして、これが一番重要なのだが、そのこと(=普段から感受性を研ぎ澄ませておくこと)自体を楽しみたい。
その方法を、僕は知っている。
方法が作法に昇格するかどうかは分からないが。

今年も、どうぞよろしく。
(更新はこちらの方が多くなると思います)
chee-choff
[PR]
by chee-choff | 2013-01-04 22:21 | 思考 | Comments(0)
ゆくとしくるとし('12→'13)4
続かなかった(ぴしゃり)
この「ぴしゃり」は座敷の襖を(正座して一礼の後、両手で)閉める音ですね。
いらない解説。

先に謝辞をば。
今「年末年始」も良き音楽に和みながらこの文章を書き進めることができました。
まず、毎年ホントにお世話になっているneko氏のピアノ演奏による「撫子ロック」。
→ [pop'n music15]<撫子ロック>-凛として咲く花の如く-をピアノで弾いてみた
そして昨年読んだ『ジョン・レノン対火星人』に絶妙な雰囲気を与えてくれた不始末氏の第一作。
今の僕の「静謐のイメージ」そのままです。八幡さんに行ってる間もずっと頭の中を流れていた。
→ 【初音ミクインスト】ちいさい音ダイアル
そしてそして、この年末に偶然出会ったスズナリ氏カバーの「秘境系カフェインJazz」。
動画コメントを拝借した「秘境」の、僕のイメージは『水惑星年代記』(大石まさる)だろうか。
「大地には床暖房がある」。いいなぁ。
→ ふわふわハサミ (カバー)
みなさま、ありがとうございます。

+*+*+*

さて、シメにとりかかろう。
と言いたいところだが、書きたいと思っていたことをいくつか思い出したので最初に列挙しておく。

①物理時間と生理時間
②「多様性の話」の続きというか枝葉
③「感受性を下げない」ために

ひとつめ、これは先月読み終えた『毒にも薬にもなる話』(養老孟司)にあった話。
物理時間tとは時計の刻む時間のこと。
生理時間Tは体感時計のことで、「思ったより時間経ってるなあ」という時の「思った」の部分。
経済動向の指標(というか目盛か)にも科学実験にも当然のように使われる物理時間は、誰しもが客観的な指標として共有可能であるためにそうなっている。
その目的そのものを疑う必要はないし、その客観的な指標はその使用を前提としないと現代社会がまわらないほど重要な要素である。
養老氏が指摘していたのは「客観化可能でない分野にまで物理時間を適用してもよいのか」という点だ。
「経済の動きは脳の動き」という言い方もしていたかと思うが、つまりお金の動きは人の思惑によって動くということで、お金の流れを支配する時間はtではなくTだろう、と。
数学的な表現では生理時間はT(x,y,...,t,...)と様々な変数の関数であって、もちろん物理時間も含んでいる。
時間はあらゆる関数の変数であり時間そのものが関数であるべきではない、という性質は物理時間のものだ。
その感覚からすれば生理時間などという関数を式に組み込む意味なぞありゃしない、と思うのはまあ自然な思考で、なにしろ「客観的でない時間」と銘打って生理時間を導入しているのだからそれは当然なのだ。
だから数式を簡便にするための概念でなくて(だから敢えて関数式で書くのは本質ではなく雰囲気だけの話)、「ものを具体的に捉えるための抽象概念」として生理時間はある、と考えてよいと思う。
「何かに夢中になっていたらいつの間にか長い時間が経過していた」
この時間感覚が生理時間で、それを物理時間に換算するのではなく(しかし当の言明に実はもう換算というか比較が含まれていたりするのだが)、この感覚を軸に「生理時間を生きる」コツを掴んでいけるのではないか。
(逆に「物理時間を生きる」例には、腹は減っていないが12時だから昼飯を食べるといったことが挙げられよう)
とはいえ会社はもちろんのこと街中での社会的生活を律するのが物理時間であるから、日常的にそれを実践することはまず不可能である。
(ラオスやミャンマーで虫取りに励んでいる時の養老先生なら可能かもしれないが)
だから抽象から入らざるを得ないというか、まあ「そういう話もある」と念頭においといて、要所で生活の方向を微修正する安全弁(?)にでもなればいいかな、というのが正味の僕の感覚。

ふたつめは、2つ前の記事で展開した多様性の話の派生的話題。
と、上に列挙したときは内容が頭にあったのだが、はて。
…思い出した、「多様性を守ることを第一に考える選択」のメタファーを思いついたのだった。
それはすなわち「R&D」です。
研究開発、だけど技術に限らず発明というのは一般的な感覚として「万に一つが当たればオッケー」である。
研究開発を主とする企業が、自社で扱う分野を本命テーマだけに絞ることは自殺行為である。
というのも「どれが当たるか分からない」からこその革新的技術なのだからして。
もちろんこれは通常というか平時の経営指針であって、「選択と集中」の局面は別に必ずある。
で、これをメタファーと言っているのは、自分の人生…は言い過ぎかもしれないが、ある一時期の生活指針をこの平時R&Dの1テーマになぞらえてみてはどうかということだ。
(「人生は実験だ」というのと通ずるところがあるな、これ)
当たればめっけもん、外れりゃまぁしゃあないか。
で、生活指針を1テーマになぞらえつつもその生活をやりくりする個人の視点は「R&D企業経営者」なのである。
視野を常に広く保っておく、健全な経営状態を続けるために、本命テーマのまわりには数多くの博打的な、ある意味遊び半分の、またある意味使い捨ての小テーマが独自の活動を営んでいる。
そして健全な経営状態と言った通り、「一発当ててガバっと儲ける」ではない経営方針のR&D企業の主なのである、僕らは。

みっつめは、「感受性を下げない生き方」の具体例をいくつか書いておこうと思った…のか?
あまり自信ないけど過去の自分には聞けない(もはや他人の領域やし)のでとりあえずそれを書こう。
ざっくり言って、まず「脳の活動領域」と「身体の活動領域」をきちんと見分けること。
前者を言い直すと「脳の活動によって場が制御されている生活領域」で、後者は脳を身体に変えればよし。
会社は前者。
近所の散歩は後者。
満員電車は前者。
読書は前者(と、定義上はそうなるはずだけどきっとこれは考え始めると難しい。後回し)。
人と喋る時は、どちらも混ざっているのだけど、人によってあるいは場によって両者のバランスが変わる。
このバランスの見極めはまあ当然難しくて、見誤ってどちらに振れても相手の不快感と場の違和感を引き起こす。
そしてもっとややこしいことを言うと「全ての人に対して見極めたバランス通りに喋る(やりとりをする)必要はない」のも大事なことで、前に認知的KYと遂行的KYの違いについて書いたことがあったけど、ここでの話は「遂行的KYでいこうじゃないか」ということで、これまたざっくり言えば「好きでもない人に好かれてもしょうがないでしょう」という。
だから大切なのは認識で、「分かっててやる(=行動する)」こと。

それはもちろん結果が予測できる行動しかとらないのではなくて、もちろん予測が外れても構わなくて、自分の人に対する振る舞いにきちんと意思をもっておくということ。
(「自然な何気ない振る舞い」ができなくなる? と書きながらふと思ったがそれは多分違う話。後でできれば…)
その意思を持った振る舞いとフィードバックの経験を通じて、自分の感覚を信頼できるようになると思う。
そうか、何気ない振る舞いというのは、それをあまり意識せずにできている状態、なのではないかな。
「誠実な態度」という時、それが「相手のことをよく考えていること」そのものでなく「相手のことをよく考えており、それがうまく表面からは隠れていること」を指していることと同じ。
相手のことをよく考えているそのことを前面に出すとどうしても相手は「こいつ押し付けがましいな」という思いを抱かずにはいられない。
これは実際そう思う人がどれだけ自分の周りにいるかという話(を考えることは実際的に意味があるにしても)ではなく、原理的な話をしているのであって(←あ、そうなんだ)、コミュニケーションにおいて言葉のやりとりが情報のやりとりとイコールになっていない限りにおいて当然起こりうる事態なのだ。
人と人との面と向かっての言葉のやりとりは、その言葉の意味だけでなく「言葉を発する身振りの意味」も同時にやりとりしている。
僕は後者の抜け落ちた会話が健全でないという認識でいて、その認識が健全であるかはともかく(これをアナクロだと指摘することもできよう)、このような認識を共有できる人(を見極める判断はもちろんこんな堅苦しい話を面と向かってやる必要は全くなくて(というかその必要性を感じてしまう感覚こそが一種の「言葉を発する身振りの意味」が抜け落ちている状態と言えるのだが)、当のコミュニケーションを通じて言語を介さずに感得できるものだ)とは最低でも誠実なやりとりを通じて仲良くなりたいと思う。
で、ちょっと戻って上の「もっとややこしいこと」の続きなのだが、遂行的KYというのは周り(というか僕が距離をおいておきたい方々)からはKYに見えてしまうもので、所属する集団によっては簡単に孤立することができる。
だから「孤立してあたりまえ」という認識がそこには必要となる。
誠実に対応したいと思える人間を限定しておきながらその彼らを探そうともしないのだから。
まあ、さびしくなったら、探せばいいんじゃないかな。

…さて、具体例をいくつか、と上では言ったのだけど、他に何かあったかなーと。
あ、これにしよう。
「意味の価値関数は身体の状態を変数にとる」
しんどい時に重いこと考えるのはやめましょうね、と。
もう何度も書いてきたけどつい書いておかずにいられないのは、この真理(って言っていいと思いますホントに)がしんどい時には全く実感として響かないからで、こういう時に格言の役割ってあるんだなあと健康が回復した時にいつも振り返って思うからだ。
「思考停止を嫌う」が基本姿勢の考える人には格言を格言とする(通じるかなこれ)ことに忸怩たるものがあるのだけど、身体への信義を誓うものとしては清濁併せ呑む(?)しかないのである。

だんだんてきとうになってきた(笑)
そろそろ実家をおいとまする時間なので。
後で読み返して修正するところはしよう。
もう「ほぼ満足」なので最後の〆は寮のPCで書くとしましょう。
では、帰る前にうまいもんもうひと食いしてきます。 17:48
[PR]
by chee-choff | 2013-01-03 13:55 | 思考 | Comments(0)
ゆくとしくるとし('12→'13)3
2の続き。

「感度を下げない生き方をしたい」という話だった。
しかしそれは大自然の中でワイルドに生きたいわけではない。
街中に住む以上、人目を気にせず無法に振舞うわけにはいかない。
人と社会的に接しながら、感度を下げないでいられる方法があると思うのだ。
 一緒にいると、心を開きたくなるような人。
 そこにいれば、五感を研ぎ澄ませてのびのびとしたくなる場所。
理想を言えばそのような場所に暮らし、そのような人と一緒にありたい。
もちろんその理想を実現することは大変難しく、膨大な努力を要することだろう。
生き方として言うならば、「今いる場所」でそのような理想に近づける努力をしたい。
そしてその努力は、とても抽象的なものだ。

どうも抽象的な話は脳の専売特許というイメージがつきまとう。
けれど僕は、抽象的な思考が身体の感度を上げることにつながると思っている。
ただそれが直接つながるわけではない。
脳-身体間の重心が脳に偏っている時、そのバランスを整えるのは脳の仕事だということだ。
そしてその仕事を日常的にこなしつつ、生活圏の大部分を占める「ああすればこうなる」をルールとする領域から時には距離をおく必要がある。

話が戻ってきた。
つまり、通常の社会人一般の生活を保ちながら、(その価値観の全てを自分の生活に適用すると感度を下げざるを得なくなるという個人的な危惧のために、)どこかに感覚を開放できる回路(アース?)を通しておきたいのだ。
…どうも話が分かりにくい。
維持すべき「感度が高い状態」を語るのではなく、なるべく避けたい「感度を落とした状態」を語ったほうが分かりやすそうだが、それはやめておこうと思う。
恐らく、その先が続かない。
というより、単純に面白くない話になりそうだから。

簡単に言えば、自分なりに気分良く生きたいということだ。
この「自分なりに」の意味は、あまり心地よくない場所に自分がいたとして、その場所に居続けて自分が気分良くなれるよう努力するのではなく、さっさとその場所を離れる解決法をとるということ。
場合に応じては自分から環境を変える努力をする可能性ももちろんあるだろう、と思いたいところだが、過去に同じことを言って、その通りに振舞って、何度か失敗した経験が僕のその認識を揺さぶっている。
極端な表現を使えば、僕は「気分良く過ごせる場所を求めてひたすら逃げ続けたい」と言っている。
(この「逃げる」も抽象的に使っている。例えば簡単に会社を辞めるようなことはしない)
けれど、字面を眺めるに極端だと思えるだけで、実際やってみると案外そうでもない気がするのだ。
逃げるという言葉がネガティブに響くが、感度を上げてこそ自分が今いる場所の居心地について自信が持てるのだし、囲まれている価値観が通念的であればあるほど、そこから逃げるためには勇気がいる。
その勇気は、現に居場所を移す際の行動力の源でもあるし、逃げおおせた後に自分の感覚を正当化する源でもある。
話が循環しているが、この勇気は「自分の感覚に対する信頼」と言い換えられる。
五感の感度と、この信頼は正の相関関係にある。
結局のところ、気分良く生きたいとは自分の感覚を信頼できる状態でありたいということ、自分の感覚が信頼できていればたいていの場所で気分良く過ごせるということかもしれない。

すっきりしない展開になったがこれはこの辺でおしまい。


読書のこと。
本を読む時間は去年一年間では安定していたと思う。
一方で読むスピードは、だんだんと遅くなっている。
読む本のジャンルで速度は変わるのだが、遅くなったのは小説を読むスピードだ。
森博嗣氏のエッセイに何度も出てくる話だが、森氏は読むスピードがとても遅い。
本人曰く、小説を書くスピードよりも遅い、らしい(書く方は確か10分で原稿用紙1枚分だったはず)。
その理由として「文章を映像に起こすのに時間がかかっている」ことを挙げている。
小説を書くのは、頭の中に描いた映像を文字に変換するだけだから速い、と。
そういうものなのかなと読みながら思ったが、そこで僕は文章のイメージ化の大切さを感じた。
今まで自分が読んできた小説で、印象的だった場面は全てイメージとして自分の中に定着している。
それは断片化されて脳内のイメージ保管庫に雑然と散らばっているようなのだが、そのイメージの断片の「強度」は、自分がその場面の描写を文章で読む時に想像したイメージの強度そのものだろうと思った。
だから、小説を読んでいて「ここぞ」という場面ではたっぷり時間をかけようと思ったのだ。
 追記)速く読めるほど良いという価値観は以下に続く話以外にも結びつくところがある。
 その一つは「効率主義」だ。
 何かを得るとき、それを得るためにかかる時間は短い方がよい。
 これも、得るものが最初から分かっていれば疑念をさしはさむ余地はない。
 (学生の頃に速読法を会得しようと試行錯誤したことがある。フォトリーディングとか。ダメだったけど)
 ある種の読書で効率主義が邪魔をする時というのは、読書を通じて「謎」と相対している時だ。
 単語の意味を調べる時は紙の辞書よりは電子辞書が速く、周辺情報も欲しければ検索がより適している。
 それは手に入れたい情報が明確である時のこと。
 小説を読む理由は情報を得るためではないし、速く読み終えることでももちろんない。
 けれど実際のところ、「速く読み終えないと」という思いに囚われることがある。
 単に積ん読量が膨大だからかもしれないが…
 と、これは下にも書いてるな。

去年のゆくくるでも読むスピードが遅くなったことを書き、それは量(冊数)をこなす義務感から開放された(というか「量が質に転化する」という価値観の束縛が解けた)からだと書いた。
しかしそれは、完全には解けていなかった。
おそらく完全に解けることはないと思う。
なぜなら「量が質に転化する」経験を幾度となく積んできて、そこから得られたものが今の自分の一部を構成しているから。
例えば受験勉強。
いや、義務教育のほとんどがそういう価値観を原理としているかもしれない。
だからそれが悪だというのでなく(という言い方もなんだか消極的だが)、その価値観の拘束を逃れたいと思った時には長い時間と大変な努力を要するという認識を確かめておきたかったのだ。

その価値観はメリトクラシー(努力至上主義、だったかしら)とほとんど等しい。
努力をすれば、した分だけ技術が身につき、恩恵が受けられる。
努力の開始条件が平等である限りにおいて、平等な概念である。
(遺伝的要素もあるだろう、と言われればそうかもしれない…ええと)
メリトクラシーは努力を正当化し、努力する者に意欲を与える。
それ自体は善でも悪でもない(無条件で善とされることも多いけど)けれど、「何によってそうなるか」を失念してしまうと厄介なことになる。
つまり、この価値観が努力に価値を与える根拠について忘れてはいけない。
その根拠とは「結果」だ。
よってメリトクラシーは成果主義と容易に結びつく。
この両者のタッグが教育現場(また大きく出たな)における盲目を作り出すというのは、つまりは過程がなおざりにされてしまうということ。

…自分の話をしていたはずだが、何が言いたかったかといえば、本は読みたいように読みたいし、読みたいという自分の欲求(の内容というか詳細)にきちんと目を向けるということ。
だから、時間をかけて本を読むことはもちろん悪いことではないし、「自分はこの本をどう楽しめばよいのだろう」という思考に落ち込んで読書が中断されることも、時には必要なのだ。
後者はパッと見で「何もしていない状態」に思われてしまうことになっていて、それは空白の時間をなんとか作るまいとする現代人特有の宿痾(=持病)によって忌避される状態とされている。
その宿痾の根源は消費至上主義だと思われるがまた話が無闇に広がりそうなのでおいといて、結局のところ「今自分は何をしたいのか」を常に把握できている限りにおいて無為の時間も消費行動も健全なものとなる。


そしてまた話は違う所へ向かうが、「今自分は何をしたいのか」を知るにはどうすればよいかについて。
これは僕自身については、「今自分はどういう状態でありたいのか」という問いにシフトさせてよいと思っている。
今まで何度も書いてきたが、人は何かをする時、「何かをすること」自体を目的としているわけではない。
その行動の過程に重きをおく場合、あるいは結果を重視する場合があるが、「過程」も「結果」も行動そのものではない。
それらは状態なのだ。
つまり、人はある(安定した)状態に至るために行動する。
この、状態を直接志向するのではなく、行動を媒介させて迂回的に求める理由とは何だろうか。

まず一つの簡単な解としては、「(消費)社会の要請」がある。
 金は天下の回り物。
 経済が成り立つためには、「回転」そのことが必要とされる。
 行動が全て回転に寄与するわけではないが、「行動の伴わない状態の志向」は回転に結びつかない。
社会の要請であるということは、それは個人の意図とは別に考えなければならない。
また、社会の要請は「(身近な)他者の要請」とイコールでもない。
社会の要請と呼ぶものが具体的でないと言うのではなく、それは消費社会という「数ある社会の一つのあり方」に過ぎない。
「金が無ければ何もできない」という表現が拝金主義の魔力を帯びるのは、ここから連想させる対偶が間違っているからだ。
論理学(だっけ?)の対偶の定義は、「AならばB」に対する「反B(=Bでない)ならば反A」である。
「お金がない(A)」の否定は「お金がある(反A)」で、「何もできない(B)」の否定は「何でもできる(反B)」である。
すると定義通りに対偶を言えば「何でもできればお金はある」となる。
これは「お金があれば何でもできる」ではない。
命題の対偶は常に真だが、命題の逆は真とは限らない。
つまり上で「連想させる対偶が間違っている」と書いたのは正確には、「命題の対偶」だと認識しているはずのものが実は「命題の対偶の逆」であって真ではない、ということ。
最も身近な話(つまりカネの話)に抽象からのアプローチとなっているが、この時点で実感が伴うかどうかはおいといて、ここでまず「なるほどね」と思えるところから、拝金主義の呪縛を解くプロセスを始めることができる。

何の話をしているのだろうか…
まあいいや。話をちょっと戻して二つ目の理由としては「状態を直接志向することが抽象的だから」を挙げる。
18:31
[PR]
by chee-choff | 2013-01-02 00:23 | 思考 | Comments(0)
interlude ~「16歳の佐伯さん」~
今年の八幡さん


23:10に家を出る。
時間がない、と言いながら例年より早い出発だった。
近畿は北部は雪とのことだが、内陸たるここ大阪-京都の府境は快晴。
出る前は「雲がないと(空模様が)面白くない」と父に言いながら、覆うもののない空はやはり清々しい。
月の光で空気が満たされ、特別な夜を思わせる。
しかし軽快に歩き始めると、身体は何も考えなくなる。
いつもの年末、「いつもの特別」。
それは特別ではない。

今年は歩きやすい革靴だった。
踵からつま先までバランス良くクッションが効いており、一歩を踏み出せば自然に足が回る。
ズボンが薄くて寒くないかと心配したが、すぐにポカポカしてくる。
身体が喜んでいるのがわかる。
 底の固い革靴はアスファルトを歩くと「コツコツ」と音を立てる。
 音の響きを確かめ、リズムに乗ってくると、歩きの記憶が呼び起こされる。
 社会人としての日常、駅前の大通りを歩くリズム、寮近くの住宅街を歩くリズム。
 京都と神奈川が地続きで繋がっていることを想像する。
 地続きなのは紛れもない事実だが、それとは関係のない空想。
 つまり、今京都を革靴で歩く音は、神奈川の大地にリズムとして伝わっている。
 八幡さんへ向かって歩く自分のリズムが、厚木の夜の住宅街を歩く自分と同調している。
 歩くことは、記憶なのだ。
 今歩く自分が、かつて歩いた自分を呼び覚まし、混ざり合い、記憶の一部となってゆく。
 意識下にすら遠い過去の自分が現れるのならば、潜在意識で律動する「歩きの記憶」は誰のものか?

いつもと同じ道を歩き、坂を上る。
去年はなかったところにツタヤが建っていた。
が、それ以外に大きな変化はない。
 新築の家がいくらか増えたかもしれない。
 機能的なコンクリート塀で囲われた新しい家。
 無慈悲に屹立する壁は不審者を寄せ付けない機能をしっかり果たしている。
 一方で、開放的に見える生垣は隙間が多く、手入れがなされている形跡がない。
 家の主が頓着しないのか、そもそも人家ですらないのか。
整然と区画がなされた住宅街の、個々の家は個性を遺憾なく発揮して雑然としている。
そこに借景という発想はない。
 これは所有の権利を追求した一つの結果だ。
 所有の意識は、「自分のものか、そうでないものか」という目線をあらゆるものに向ける。
 曖昧さは排除され、所有権の及ばないものの存在が見えなくなる。
 そこに節度が必要というのは、所有意識の追求は必ず途中で行き詰るからだ。
 土地を買った。家を自分で建てた。では家の前の通りは? 最寄駅までの道は?
 自分の家を借景に組み込む発想は、所有を占有という極端から遠ざけることができる。
 景色を借りることは、お金を借りることとは違う。

家を出た時間のせいか、単に寒いからか、道すがら参詣客に会うことが少ない。
住宅街の奥へ抜け、八幡さんに通じる山道に入る。
月の光が竹薮の隙間を抜けて地面を照らす。
危なくはないが、一歩ごとに確かめるように踏み進める。
後ろから若いグループの笑い声と、左右に揺れる懐中電灯の光がやってくる。
先に行ってもらおうかと思い、脇道に逸れる。
逸れた先には小さな畑と納屋があり、空が円形に開かれていた。
名前の知らない数々の星座が夜空を構成している。
星の瞬きは大気の揺らぎ。
顔を真上に向けながらしばらくの間、天然プラネタリウムを堪能する。

我に返り、時刻を確認して、再び登り始める。
段差のあるポイントは身体が覚えていた。
月を見上げつ青白く照らされた竹肌を左右に眺めつ歩いていたが、躓くことはなかった。
山道を抜け舗装道に合流し、駐車場を抜け、八幡宮の敷地に到着する。
休憩所の時計を見ると、新年となる1分前だった。
そのまま参拝客の列に並び、わずかなカウントダウンの声を聞いた。


人の列の歩みが止められる。
境内の門前で警備員が誘導灯を掲げ、入場制限をかけている。
参拝客は若者が多いが、警備員の脇をすり抜ける者はいない。
けたたましく笑う声が聞こえるが、あまり不快感はない。
そういえば、この身体も触れ合うほどの混雑の中で落ち着いている自分がいる。
 人混みが嫌いで、たまに乗る満員でもない電車内ですら居心地の悪さを感じる自分が。
 周囲への気配りに欠ける騒がしさに、気が滅入らずにはいられない自分が。
そうか、正月だからか。
警戒感がない。良い意味で緊張感がない。
無防備で無邪気で、そしてみんな、どこか落ち着いている。
もしかすると、この騒がしさ自体は日常のそれと変わらないかもしれない。
それを感じる僕だけでなく、ここにいる人みんなの心の底に、落ち着きがある。
これはいい、と思った。
この落ち着きの感覚を忘れずにいたい。
やかましさ、騒々しさに隠れた、静かな心を。
波立つ水面に目を凝らせば、水底でたゆたう海月がすまし顔をしている。

これも例年通り、境内に入ってからは賽銭箱に並ぶ列から逸れて、目立たない暗がりにひっそりと立つ。
すぐ横の小さな座敷舞台(とりあえずそう呼んでおく)で、横笛と太鼓に合わせて4人の巫女が舞をしている。
その両手には鈴をつけた棒と矢があるが、矢は舞台前の通路で参拝客から先に受け取っていたものだ。
舞が終わり、祈りを捧げ、巫女は参拝客に矢を手渡す。
舞の空間で、巫女を媒介して矢に霊気が宿る。

参拝客の表情をしばらく眺めてから、本殿の周りを順路に従って歩き、お守りの販売所まで行く。
途中で八幡さんに寄贈された灯篭がずらりと並んでいて、引き寄せられるように近づく。
その一つひとつの作りが異なっていて、興味深い。
多くの灯篭に「永代○○○」(忘れた。ずっと灯を絶やさずという意味の語だったと思う)と彫ってある。
そして「石清水八幡宮」と。
「石」の書き方の違いが恐らくは作られた時代の違いを表している。
中に一つだけ、「天壌無窮」と彫られたものがあった。
(壌とは土のことで、窮は極のことらしいが、後者の意味は「貧窮」に近い)
 「無」の点4つのうち、中2つが真下に伸びている。
 「はらい」と違い、「点」の止め部分の彫りは丸みを帯びている。
石を穿って文字を彫る時に使われた道具のことを想像する。

お守りの販売所で、参拝客に面して並ぶ巫女とそれを監督する長を観察する。
 もちろんのことだが、参拝客と神社の関係者は同じ場にいても表情が異なる。
 神社の面々は無防備な顔をしていない。
 いないがしかし、緩んだ表情の参拝客に相対する巫女は、土産物屋の販売員と同じ顔をしてはいない。
 周りに気を配りつつ、無邪気に和みきった参拝客の雰囲気に同調させてもいる。
 客がお守りを見ているだけの時と、客に話しかけられている時の巫女の表情の変化に見入ってしまう。
 冷たい顔と温かい顔がころころと入れ替わる。
 二つの表情はかけ離れ、そのつなぎ目が見出せないにも関わらず、そこにはなめらかな変化がある。
6人ほどが並ぶ中に、頭一つ抜き出た背の高い巫女がいた。
髪を後ろで束ねてすっきりとした首筋を覗かせながら、凛とした佇まいで参拝客の応対をしている。
その表情の、なめらかな不連続とでも言えそうな不思議な変化に見とれていて、なにかが繋がる。
頭の中を流れる音楽が変わる。
ああ、彼女は「16歳の佐伯さん」だ。
もっぱら内なる想像の産物に違いはないのだが、小さな感動が訪れる。
 「佐伯さん」は『海辺のカフカ』(村上春樹)に出てくる、私設図書館の館長さんだ。
 50歳を過ぎている妙齢の淑女だが、カフカ少年は16歳の彼女と、夢と現実のあわいで邂逅する。
 作品中の細かい人物描写はここでは書けないが、僕の中の彼女のイメージは「透明な人」だ。
その顔を目に焼き付けようと思うが、おそらくそれは叶わない。
現実のやりとりと関わりとがなければ、顔も姿もディテールは容易に抜け落ちる。
だから、その表情の変化を心に染み込ませようと試みる。
経験そのものではなく、その経験の不思議さを記憶に留める。
それは可能なことなのだろうか。


体が冷えてきたところで、境内を出たところでやっている焚き火にあたる。
炎が繰り出すエネルギィをその身に受けながら、去年やっていたことを同じように試してみる。
眼鏡を外し、左目で炎をしばらく見つめ、そして右目で炎をしばらく見つめる。
左目はぼやけているが、視覚と肌感覚は正常に連関している。
右目の方が炎の猛り方が繊細に視認できるが、その像は肌感覚から乖離しているように思われる。
 少しは成長したのだろうか。
 左目の衰えと右目の成長は、何かを求めているのだろうか。
 双方の変化は歩み寄りなのか、ひとつの平衡へ向かっているのか。
 矛盾を生きるという決意は、その平衡をより複雑にするのだろうか。
すぐ隣に女子中学生らしきグループがいて、そのうちの一人がくるくると回転していた。
「こうしたら体ぜんぶあったかいで!ほらほら!」
賢いな、君は。

十分温まったところで移動し、休憩所前の自販機で缶お汁粉を買い、冷める前に飲む。
(手で缶の温もりを味わい過ぎるとその後の喉の満足が得られない経験も覚えていた)
外灯に照らされた時計は1時を指している。
こんなものかなと思い、下山を始める。

行きと同じく山道を通り、住宅街に戻ってからは別の道を選ぶ。
市民プールの横を下り、そのまま大通りを横切って、高台の際をはしるかつての「裏」通学路を歩く。
ひらけたところからは通っていた中学校が見え、遠くにはくずはタワーシティがそびえ立っている。
昔はあれがまるごと無かった、と言えばそれは確かなのだが、その映像記憶はない。
強いて取り出すほどのものでもないのだろう、今は。
「地元の感じ」について、所々懐かしい家々を見渡しながら考え、しかし終始軽快な歩みにて家路につく。
[PR]
by chee-choff | 2013-01-01 17:41 | その他 | Comments(0)