深爪エリマキトカゲ
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ゆくとしくるとし('12→'13)2
内田樹氏のブログを読んでいて、英文があったので思いつきで発声しながら読んでいた。
英語は大学受験科目としては好きな方だったので、仕事やらの必要性がなければわりと好きに読める。
気楽に読めるのは、書いてある単語の全てを理解する必要がなく、大体の(というか把握できる限りの)文脈をつかめばよいからである。
それで高校時代は英語の発音にこだわっていたので、文章の意味が分からずとも読み上げるだけでちょっとした楽しさがある。
上の記事は日本文のあとに英文が続いていて、もちろん日本文と同じスピードで英文を読むことはできないので、「まあここは読み上げとくか」という気分になったのだと思う。
で、英文がわりと簡単だったのもあるが、読み上げると英文の内容がするすると頭に浮かんできたのである。
あとで下の和訳を読んで、大きく意味を訂正するような箇所もなかった。
これが自分にはなんだか意外な経験に思えて(というのも、読むべきものとして英文を読んだ時はいつも「理解の及ばなさ(勉強すればもっと分かるはずなのに)」ばかりを気にしていたから)、ふと気付く。
そう、日本語を学んでいた時も最初は音読していたのだった。
語学としての英語を学んだのは中学校から大学2回生までの8年で、8年も勉強しておきながら「音読しないと意味が頭に入ってこないレベル」というのもどうかと思うが、たぶんこれは自分だけでなくみんな同じようなものだろうという思いがあって、つまり語学教育に根本的な欠陥があるのだろうなといったことはまあどうでもよくて、「自分の読みたい本を音読しまくれば英語も上達するだろうな」とブログ英文を読んで考えたのだった。
もちろん英会話のためでなく、英文読解のために。

内田氏のブログは日々の更新分をリアルタイムで読んでいるほかに、過去分を紙媒体に印刷して読んでもいる。
大学院にいた頃に研究室のプリンタで印刷しまくった分(99年~08年を時を遡って読んでいた)は読み終えて、最近は(ちょっと公には言いにくい所で紙媒体に起こした)09年分から時系列順に読み進めている。
読むのは部屋でご飯を食べる時でかつ新聞がない時で、だいたい土日の昼間か日曜の夕方である。
著作もさんざん読んでいるので「どこかで読んだ話」がもちろん多いのだけど、内田氏の扱うテーマは「いっぺん読んだらだいじょうび」なものがないというか読むごとに受け取れるメッセージが変わるので、いまでも飽きずに読んでいる。
というか、文章の内容から何かを得るというよりは「頭の調子を整える」ために読んでいる節もある。
実効性のあるお守りみたいなものだろうか。
あまり思考がスムーズに運ばない時に読んだ方が効果があるのだ。

で話を戻せば、内田氏が確か09年分のどこかで「外国語学習の意義」について書いていた。
覚えている部分だけ起こせば、コミュニケーションのための(一例として)英語は伝えることが主眼で文法よりは身振り的メッセージ(伝える内容と意志とその表現)が大事であり、逆に文法をきちんと学ぶべき理由は「膨大な知のアーカイブにアクセスすること」にある(あらゆる他者に開かれた文章はきちんと決められたルールつまり文法に従って展開されているから)、と。
(その知のアーカイブの比喩として「ボルヘスの図書館」と書いていたが、これは古典小説に出てくるんだろうか?それとも実在する?)
外国語を学ぶ目的がはっきりしていて、その目的と学習内容がしっかりリンクしていれば(このリンクがはっきり見えないのが受験英語で、リンクだけはっきりしていて目的の薄っぺらさが意志を阻害しているのがある種の英会話ではなかろうか)、きちんと時間をかけることで外国語を習得できるはずなのだ。
と思ったので、どこかの節目で英語をちゃんと身につけようかしら。
(ほんとうにまとまった時間がとれるなら読むためのフランス語を学びたいのだけど)
どっちにしろ今の会社にいる間は外因がなければやんないだろうな。

ゆくくる本題に入る前に一区切り。
ちょっと大掃除してきます。  17:02

+*+*+*

さっき続きを書き始めて5行くらい書いた時に、いきなりPCがシャットダウンした。
何事?と思ったら「Windowsキー」をシフトと間違えて押してしまったらしい。
運悪くそのすぐ次にU(終了)かL(ログオフ)を押してしまったために、落ちた。
しかし運悪くと言いながら実家でブログを書いていてもう何度かやったことがあるので、キーボードのキー配列が良くないのだと思う。
自分のブラインドタッチがてきとう過ぎるのかもしれないが。
タイプウェルでがむしゃらに鍛えてたからなあ…
そういえば自分の打鍵速度はタイプウェル上では10打/秒でけっこう速いと思っていたのだけど、会社に入ってからみんなふつうに速いことに気付いてから自然とタイピング熱がおさまってしまったのだった。
若い人にとってはスピードタイプも当たり前なのね。
隔世の感ですな…という加齢発言はさておき、本題に戻らねば。
あ、こまめに保存しよ。

+*+*+*

今年の出来事はこれくらいにして。
いきなり話が大きくなるけれど、自分の生き方について書いておこうと思う。
今の自分が思う、これから生活していくうえでの、方針の大枠のようなもの。

 ①多様性を守る生き方
 ②感受性を下げない生き方

まずひとつめ、多様性について。
選択を迫られる機会は生活のいろんな場面においてある。
その選択の結果が個人で閉じる場合と、他人に影響を与える場合がある。
個人で閉じる場合にはこのテーマが問題となることはない。
というか、この問題を考えることが個人で閉じる選択肢を狭めるようなことはない。
複雑なのは後者の場合だ。
会社で仕事をする時はまずもってそうだが集団で行動する時、ある選択に対する価値観は一人ひとりが違っていても集団全体として一つの選択をしなければならないことがある。
例えばワンマンの社長が仕切る会社であれば、社長の経営方針の選択に全社員が同意するということ。
2人以上を集団とすれば、そのような選択はサラリーマンが仕事をするにおいて日常茶飯事である。
その選択の際に、選択権が集団の中の特定の人間に委ねられていることもよくあるが、では権限のない構成員は選択の場にいる意味がないのか? といえばもちろんそんなことはない。
ないはずなのだが、それが建前止まりで実際は意味がないことも多い。
下っ端が何を考えたからといって仕事の方針ががらりと変わるわけではない、結局は上司の気分次第だ云々。
それは事実かもしれないが、それを事実と認めて思考が終わって、得るところは何もない。
人間の脳は「頭の中で考えた通りの現実になる」ことに一定の快楽が得られる仕組みになっていて、その快楽はこの事実認知で確かに得られるだろう。
自分はそれでは物足りないと思う。
考える甲斐がないというか、思った通りのことが起こって何が面白いのかと思う。
想像内容を実際に目で見て確認できることに、価値があるのだろうか(あるのだろうけど)。
技術が未熟であった時代は、ある種の想像が夢と呼ばれ、技術の進歩によって夢が現実となったとされた。
そのメタファーだろうか。
その昔の「ある種の想像」は簡単には実現できなかったからこそ、実現する過程を思い描くことすら困難であったからこそ夢と呼ばれた。
簡単に実現できる、あるいは「ああすればこうなる」と過程が容易に思い描ける想像をそれと並べてよいのだろうか。
「満足感を得るためだ」と言い切れるのなら反論も何もないが、それ以上のものを求めてしかしそれは原理的に得られないから恒常的に不満を感じているのが現状ではないのか。
…この話はちょっと具体的にしにくいし、話が逸れてしまった気がするので戻る。

多様性を守る、という話だった。
この一見抽象的に過ぎる標語をそのまま行動指針にしたいと思っている。
すなわち、「ある選択をする際に多様性の維持を第一に考える」状況をありうるものと想定している。
(たとえば…と例を書こうとして全く思いつかない。ディテールに興味がないとここで躓く、と分かっているのでしょうがないとは思うけど、人に理解してもらおうと思ったら「分かりやすい例示のストック」もせんといかんのだろうな。正味そうさせんとするインセンティブもないのでやっぱり放置するのだけど)
多様性を第一に考えるというのは、極端にいえば「内容そっちのけで」である。
もちろん(合理的な、またはある感覚に基づいた)選択の根拠が必要なのだけど、その根拠についての思索を大事にしたいのだ。
多様性を守る、とは「少数派を守る」と言い換えることもできる。
少数派の意見が、少数派というだけで切り捨てられることのないよう尊重されるのが民主主義の原理だ。
それはつまり、少数派の意見の遇され方によって、民主主義が機能している度合い(「成熟度」とよく呼ばれる)を測ることができることを意味する。
多くの人が考えもしないことというのは、決して考えてもムダなことでも、考える価値のないことでもない。
周りの目を気にしながら意思決定が行われる社会(つまり日本社会ですけど)では、「思考の穴」が、他の社会も同様に存在するかもしれないが、その存在が明確にされない、つまり「なかったこと」にされやすい。
だから、もし市民社会において民主主義が維持(されていなければまずは「確立」)されなければならないというのなら、そのような社会においてこそ少数意見の存在そのものが重要となってくる。
…僕自身はいちおう(と書いてしまうのは「定義を言え」とか言われるとまともに喋れないからだが)民主主義は維持されるべきと考えているのだが、それは「思想の自由」のためだ(もしかすると関係ないかもしれない…うむ、自信がない!)。
 21:44追記 そういえばこの辺で書こうと思っていたことがあった。
 上の話を少し言い換えると「選択の際に少数派の尊重を第一に考える」となる。
 この発想は村上春樹のエルサレムでのスピーチ(「壁と卵」の話)がもとになっている。
  もとは人がつくったが、人そっちのけで膨張を続ける(政治)システムという壁。
  その壁に対し、個人という卵は時にあまりに無力である。
  僕はどれだけシステムが正しくとも、個人が間違っていようとも、個人の側につきたい。
 内容の一部を要約すればこんな感じだったと思う(スピーチの文章は内田氏のブログで読んだ)。
 正しさに関係なく、という部分が一見過激に見えるかもしれない。
 けれど、戦争も虐殺も迫害も、全ては正しさの名のもとに遂行されたことは歴史が物語っている。
 「人の命は何より大事」と言ったその口で、何の違和感もなく人を殺してきた。
 抽象すれば、同じ過ちを人は何度も繰り返してきた。
 その一回一回において「同じ過ち」という自覚がなかったのは確かだ。
 そうであれば、同じ過ちを繰り返さぬためには、同様に抽象的に考えなければならない。
 それは例えば、言葉の正しさ(論理性をその原理とする)を乗り越えることだ。

と、勝手に話が難しいところに向かってきたところで晩御飯の時間となりました。
おせちです。わくわく。
しかしこれ続くのかな…  19:28

続きません(ぴしゃり)
言いたかったことだけ、もう一度言い直しておく。
ある選択の根拠についての思索を大事にしたい、と言った。
それは、とある大きな流れがあるとして、この流れに乗らない方がよいとなんとなく感じた時に、その「なんとなく」を形にしようという努力をまずはしたいということ。
何も考えずこの流れに乗ってしまうのでなく自分が立ち止まりたいと感じている理由を言葉にしようとするのだが、それは言葉にできるまで判断を保留するという意味ではなく、むしろ言葉にしたいという思いを胸にその大きな流れとは別の流れに乗るという能動性に繋げたい。
能動性と言いつつも、これは大きな流れとの対峙がスタート地点であるからして受動的であるとも言える。
とはいえ、たぶんその表現はどちらでもよくて、大切なのは「行動は思考の放棄ではない」という認識。
決断というのは、一連の思考が結論に至ったからできるというような生易しいものでは本来ない。
選択の判断基準が明確でなく、確固とした理由付けが確立できぬままに選ばねばならない時に、それでも「なにか」を根拠に方向性を決めることを決断という。
その「なにか」は、決断して行動してから、事後的に言葉にできるのかもしれない。
その可能性を捨てないこと。
逆に判断基準の明確な選択というのは、結果のフィードバックにたいした意味がないのではないか。
結果が予想通りにせよ外れたにせよ、選択前の水準の思考で話がまとまるのではないか。
「跳躍」がなかったのだから。
つまり、選択の前後で主体はなんら変化しないのだから。
…抽象的過ぎるかな、うん、この辺で。


ふたつめ、いきましょう。
「感受性を下げない生き方」をしたい。
これは分かりやすくて、五感の感度を下げないで過ごせる生活がしたい、ということ。
ざっくり言えば、人は脳が支配的となる活動領域においては感受性を下げる、鈍感になることを強いられる。
まずは都会がそう。
全てが「ああすればこうなる」で設計された場所では、秩序の形成が全ての前提にあり、確実性が尊ばれる。
五感が確実性を嫌う、とだけ書けば分かりにくいけれど、確実性を「一定の入力」と言い換えればいい。
触覚も嗅覚もそうだけど、それらを構成する器官が検知できるのは客観化可能な絶対値ではない。
 裸であれば皮膚が身体の最表面だが、服を着れば身体の最表面は布地になる。
 臭いの異なる部屋に入ってその臭いが気になるのは、部屋に入った瞬間に限られる。
刺激の検出器そのものが可変的であるために、惰性にとても弱いのだ。
違うか、正確に言えば、検出器が受け取る刺激(の次元)が「絶対量」(物理で「位置」と言えばすぐ分かるのだが)でなく「変化量」なのだ。
抽象的な意味で、都会では「絶対量」は乱高下(らんこうげ)までするにしても「変化量」は変わらない。
だから、原因結果の完全なる予測で覆われたシステムの中にいると、五感の閾値はどんどん下がる。
僕は、そのようなシステムを居心地がよいと感じるようになりたくはない。

その理由について、そういえば掘り下げたことがないかもしれないが、恐らく話は込み入っている。

という続きを、書く前に、ケーキを、食べようかな?
山登るんで、エネルギィ補給をば、ね。  22:14


あ、ゆっくりしてたら時間がやば。
永ちゃんはいつまでも若いね(あんましらんけど)
てことで、行ってきます。

みなさま、よいおとしを。 23:05

+*+*+*

無事、下山してきました。
ウデが冷えた。。
下半身の方が薄着やったのに、足はへいちゃら。
腕振って歩かんと上半身はあったまらんのかね。

特に何もなかった気はしますが、気が向けばゆくくるの続きの前に何か書こう。

ということで風呂入ってさっさと寝ます。おやすみです。  26:15
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by chee-choff | 2012-12-31 17:03 | 思考 | Comments(0)
ゆくとしくるとし('12→'13)1
帰ってくる時の話。

普段から時間を気にするという生活をしていないため(朝起きてから出勤前と寝る前以外はほぼ成り行き任せの時間感覚。仕事中も然り。まあそういう職場です)、電車とかバスの時刻表にはめっぽう弱い。
帰阪しようとなんとなく思ってからバスの時刻表を見て、次のバスには時間があまりないと気付いて準備をてきとうにして出てきたせいで、新幹線でと思ったのに読了済みの本を持ってきてしまった。
こういう時にならないと新品で本を買う勢いがつかんのだなあとその時思って、まあそれはブックオフの羽振りが良すぎるから悪いのだけど(費用対効果の話をすると。たとえば105円で1週間が面白く過ごせるなんてこと知ってしまったらもう…ね、いろいろあほらしくなる。もちろんモノサシはたくさんありますが)、小田原駅の三省堂書店で文庫棚を購入前提で眺めることになった。
そうすると「今自分が最も読みたいと思う本」を探さねばと気張ってしまうのが普段の行動パターンなのだけど、今日は何冊も候補を挙げて逡巡するようなことはなく、手にとって「あ、これやな」とほぼ即決したのが鶴見俊輔の『思想をつむぐ人たち』。
軽めの本で、と思っていたのが鶴見俊輔という名前に惹かれてしまった。
そして読み始めてから「今自分が読むべき本だ」と気付く。
考えすぎは良くないね、時によっては。
年末年始はこの本とお付き合いすることになりそう。

+*+*+*

今年一年は、自分にとって、どのような年であったか。
もちろん自分のこと書くつもりだが、本ばかり読んできた生活から出力されるのは「(他)人の話」ばかりになりそうな気がする。
こういう小説を読んで、あるいはこんな評論を読んで自分はこう感じた、こう考えた、というのは読書感想文あるいは書評であって、一部そんな話にもなるとは思うが、やはり個々の作品に対してというより読書生活の総体について、振り返ったり客観化したり、他の生活要素との関連や「その先」について考えたりしたい。

「その先」という言い方は読書の目的とか進む方向性みたいに聞こえるけれど、そんなことは考えていない。
別に考えてもいいけど、それも一つの前提を満たしてからのことである。
なにかといえば、「今の自分の充実に繋がること」。
これを自分は「純粋刹那主義」と呼びたいと思う。
刹那主義とは後先考えずに今現在を享楽的に生きることであるが、「今現在の充実」を追求するという点で純粋刹那主義と刹那主義は共通するものの、「今現在の充実」の中身が両者で異なる。
純粋刹那主義は「今現在の充実」の中に過去の思い出も、将来設計も含んでいる。
つまり、過去と未来を、その形の確定・不確定を問わず現在の充実に繋げるような生き方のことだ。
刹那主義は暗澹たる未来が予測できたとしても、その予測を完全に忘却して今の充実のみに目を向ける。
それを「視野を狭めることによる充実の追求」と捉えた時に、純粋刹那主義はその逆のスタンスとして、すなわち「視野を広げることによる充実の追求」と表現することができる。
 なぜこのようなスタンスに「純粋」とつけるかについて触れておく。
 ある種の人間は、今を純粋に楽しもうと思った時に過去や未来を含めて考えることを避けられない。
 それは自分のことだけを考えようと思って他者を考えざるを得ない人と似ている。
 (後者のような人間にはノブレス・オブリージュという性質が備わっている)
 今の今だけを見ていると不安になってしまう人、彼は今だけを考える技術(気楽さ?)が足りないのでなく、
 未来や過去も含めて考えて初めて安寧が得られる人なのだ、という捉え方もアリだと思う。
 もしかするとそれらは「未来や過去のコト」というだけで、時制は全部現在と考えてよいのかもしれないが。
過去の失敗にしろ、未来の懸案事項にしろ、余計なことを考えて今が塞ぎ込んでしまうこともあろう。
だが、それは「過程」なのだ。
幸福な状態が永続しないことと同じ理由によって、不幸な状態も永続することはない。
しかしその「永続することはない」という事実を素直に受け入れることで、「ひとつうえの静かな境地」に立つことができる。
「それもまた過ぎ去る」
つまり、そういうこと。

常にとまでは言わずとも、然るべき時に、「静謐」とともにありたい。


という書き出しになりました。
とりあえずすき焼き食べてきますーうふふ 21:00

+*+*+*

ふたたびウィスキーにはまりました。
実家にはそれはそれはおいしいお酒があって、「マッカラン13年」というらしいのですが、ストレートで1ショットをちびちびなめるように飲んでおりますと、これがなかなか香りが良くて、スーッときてカーッときてくーっという感じなわけであります。
「ストレートでちびちび」は寮でも濃い目のお酒(生薑と林檎のお酒、老酒など)でやってるんですが、来年からはウィスキーも仲間に入れてやりましょう。
きつけには一番効果がありそうな気がいたします。
「次の日にどれだけ残るか」をまずは実家で試しておきましょうか。
(今『海辺のカフカ』(村上春樹)を読んでるから寮でのウィスキーはジョニーウォーカー氏にしよう)


はい、てなことでレコ大見ながらマッカランをちび飲みして(運び屋ぱみゅ氏は歌手やったんすね)、今はジャックダニエルを飲みながら書いてます。

話を戻して…純粋刹那主義、はもういいか。
今年を振り返るとしましょう。

+*+*+*

今年は何があったか。
上と書いてることと早速違いそうだけれど、まずは読書以外の、主に対人的な出来事を振り返ってみる。
と、一番最初に思い付くのは10月はじめごろ(ちょうど所属グループが変わって仕事が落ち着いてきた頃)から始まった「とある流れ」なのだけど、これについては思うところがたくさんある。
たくさんあってでも書けることがほとんどなさそうだと思うのは、言い直せば「書かない方が良さそうなことがたくさんある」ということ。
それはとても人目に晒せない私秘的な話というわけではなく、言葉として定着させない方がよい曖昧な思いがある、ということ。
曖昧を曖昧のままにしておきたいのは、冷静で客観的な視点に基づいた分析対象にしたくはないということ。
だからほんとうはこの話題にすら触れない方がいいのかもしれない。
けれど、その「とある流れ」は日常的に自分の念頭に一定の位置を占めており、一定と言いながら可変的に膨縮を繰り返していて、読書の時も何か考える時も完全には無視できない要素となっている。
そんな重要な要素を、これまた日常生活で大切でもはや欠くことのできない言葉とのやりとりに、参加させないでいられる道理もない。
 ちょっと逸れるが「言葉とのやりとり」という表現に、言葉は使うものではないというニュアンスを込めている。
 そうでなく「言葉と対話する」のだけど、そうすると僕は何を用いて言葉と対話するのか?
 対話というからには言葉のはずだが、言葉は対話相手であってツールではない。
 用いるのは「イメージ」だ。(続きはたぶん後ほど)
ただ僕が望むのは、その「とある流れ」 のただ中に、まさに現場にいる時は、その流れに余計な思念を介在させず身を浸すことであり、「とある流れ」から少し離れた時にその現場での振る舞いを振り返って後悔しないようにすることであり、現場での自分の自然な振る舞いを妨げないように思考をしていくことだ。
そして後悔しないようにするということは、きっと「結果を口にしない」ことだ。
流れの中にあって、総括なんてできるわけがないし、してはいけない。
その流れの中にいて、自分が苦しいのであれば、別の認識を得るために総括(意味付け)をする意義はある。
しかし、これも確かなことだが、「とある流れ」そのものに対して、僕は心地よさを感じている。
勝手に引き寄せられている、と言ってもよい。
その「とある流れ」のただ中にいる時と少し離れて一人でいる時の思考が、いやそれに加えて身体感覚も全く違っていて、ただ中にいる時の自分はその(全く違うという)認識を経験する毎度ごとに嬉しい驚きを感じるし、少し離れた時の自分には的確に把握し切れない未知のものがそこには溢れている(未知そのものは少し離れた時の自分にとって格好の分析対象ではあるのだが、それは上記の通り自制すべしということだ。未知にも種類があって、「解明すべきでない未知」というか「未知なる未知」とでもいえばよいのか。まあ後者のように言って、では「既知の未知」とは何ぞやと聞かれれば、さあ何でしょうね笑)。
流れには敏感に、決して感受性を閉じることのないように。
(ガッツのある人は何の話題か想像してみて下さい。面倒くさい書き方ですんませんー)

さて、次。
上の話とつながりがあるのだけど、自分に素直になることにした。
この一つ前の記事でさわりだけした話。
なにかといえば、自分の渡世スタンスとして「流れはつくらないが、そこにある流れが自分を巻き込む予感があって、それが面白そうなら流れにのる」というものがあるのだが、この中の「自分を巻き込む予感」が今まで何度か暴走したことがあった。
簡単に言えば、本来自分に関係ない話に「自分がお呼ばれしている」と思ってふらりと顔を覗かせてしまったのだ。
しかも好奇心旺盛な顔で。
飲み会でもそうだが呼ばれてないのに来る奴というのはたいてい鬱陶しいもので、それは本人に自覚がないからこその厚顔無恥なのだが、ご多分に漏れず自分もその一人を演じていたことになる。
それを本気で演じていたかどうかは周りの人には関係がなくて、もちろんそれは本気にしろ冗談にしろ鬱陶しいことに変わりはないからだ。
ここでいう冗談とはおそらく「かまをかける」といったニュアンスになるはず(呼ばれたわけじゃないことは分かってるけど、仲間に入れてもらえるなら加えてよ、という感じか?)だが、これが相手の目に調子良く映るか不誠実に映るかは、ひとえに「もともとの自分と相手の距離感」に因るのであって、この距離感を僕は軽視していた。
だんだんと縮めるべき距離をいきなり飛び越えてやってきた人間に対して、人はまず驚く。動揺する。
その驚きが好意に化ける場合というのは、ほとんどない。
当然。
で、当たり前が面白くないとかほざいていた自分は「流れに乗っただけ」と無責任発言をなんとも無垢にほざきながらびよーんと不誠実な跳躍を披瀝し、何人かの善意の人間を困らせた。
やれやれ。
…これは(ハルキストとして)使い方が悪いな。
反省。そんでこれも含めて重ねて反省。
そう、話を戻せば、なので(ここで順接はおかしいかもしれない)実は↑は全然素直な振る舞いではなかった。
というのも、ありもしなかった流れをつくって乗り込み、ある節目にたどり着いて相手の困惑を目にする前から「あ、これはないな」との自覚を得ていたのだ。
自分の心を冷静に見つめていれば、その展開は予想できたはずなのだ。
そして、ある種の流れの判断をする時の自分がとても「軽い人間」であることが暴露されてしまった。
…これは「素直すぎるといけない」と語っているようにも聞こえるが、実はその方が表現が近くて、そして今思い至ったのだが、この節で言いたかったのは「相手とのコミュニケーションは地道にやる」ことの方だった。
自分と相手との関係は、普段の直接の言葉のやりとりの中で形成される。
大事なところでメールに頼っていた自分は、はっきり言って中学生レベルだ。
普段から想像力を暴走させている人間がメール中心でコミュニケーションをはかればどうなるか。
うん、失敗します。確実に。
ということで、メールはあんまり使わないことにしました(あーほんと中学生レベルだ)。
携帯電話の使いどころは、もっと先にある。
(というような生活をしています笑)

+*+*+*

反省ばっかしてるな自分。
それにとても眠くなってきた。
ウィスキーのせいだろうか。
ということで今日はここまで。  25:00
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by chee-choff | 2012-12-30 21:05 | 思考 | Comments(0)
年の瀬イレギュラ
昨日は遅くなると分かってたので13時出勤のシフトにしたのだけど、案の定というか、現場を知らない上の思いつきで土壇場の仕事が増えて待機時間も増えて、仕方ないから溜まってる別の仕事を片付けようとしたらハマってしまい、要領の悪さも手伝って退勤カードを切ったのが27時。
まあ案の定と言ってるくらいだからあの展開は予測はしていたわけで、こんな無茶なことになったのは8割方自分が悪い。
先の土曜日も出勤していたので渡りに船と今日は振休をとった。
で、このところ単調な生活を目指していたにも関わらず年の瀬のイベントが断続的に発生してリズムを多少乱されていたところにこの半夜勤がきて体調を崩すかなと思ったが、意外と平気で今は元気にゆるゆるしている(今日は一歩も外に出ていない)。
食生活を変えたことと仕事とプライベートの双方を包含する「日々を過ごすスタンス」に忠実になったおかげかと思うが、心身の状態が良い意味で安定している。
身体が健康であることは必ずしも充実した仕事と結びつかないという一般的とは思われにくい認識に至ったことも幸いしているのだが、そのことからも分かるが「心身の状態」というのは脳と身体のバランスのことを指している。

というような考えると何かしら展開されそうなことはたくさんあって、けれどそれは年末の楽しみにとっておこうと思う。

そう、とりあえずあんな遅くまで会社にいたことはなかった、と言いたかったのだった。
社屋が少し離れて二棟あって、自分の所属棟は定常的に夜勤を含むシフトで回している部署が多いので夜中も人はいるのだけど、自分が仕事をするのは大抵もう一つの棟で、そっちは通常は日が変わる前後には人がいなくなる。
昨日はたまたま夜勤してる人がいたから退館処理(セコム的な。最後に帰る人はこれやらないと警備員がきてしまう)をしなくて済んだのだけど、測定室も事務室も人気がなくて新鮮ではあった、と思えるのは今だからでまあ昨日はそれどころではなかった。
しかしあの晩飯でよくもったなあと自分に感心したいところだけど、きっと会社では基本的に「省エネモード」だからで、すなわち基本的に愛想が悪いというかプラクティカルな必要性から外れた領域に割くエネルギが皆無に等しいからで、つまりそんな自分に感心などしてはいけない気がする。
胡蝶だけど。
違うか。誇張の夢。
ドリーム・オブ・オーブロシキ。

+*+*+*

年末は30日に帰阪します。
帰りがてら高校時代の友人の忘年パーティに乗り込んで、(たぶん)大阪で美味しいものを食べて、「おけいはん」にて帰途につく。
大晦日は一日物思いに耽りながら「ゆくくる」をだらだら綴りつつ、八幡宮に登りに行く。
もう何年目かしらね。
このブログを書くようになってから、ではないと思うけどそれに近い気がする。
こういう数を数える楽しみはまだ分からないけど、「カウントダウンの効用」(@内田樹)もナルホドと共感できるところもあって、たぶん「まだ若いけど一部ジジイ化」してるんだと思う。
ま、このへんもあとでじっくり。
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by chee-choff | 2012-12-25 18:32 | 社会人 | Comments(0)