深爪エリマキトカゲ
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普段の食生活を誤解させる程度の能力
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by chee-choff | 2012-05-31 22:52 | 社会人 | Comments(0)
書くこと。
今日は久しぶりに駅前へ.
色々あって一月ほどご無沙汰していた.
(色々と言うのは…友人の結婚式とか?)
今読んでいる本に刺激されて「科学の本質」系の本を探しに有隣堂に寄ったのがイレギュラで,
その後はいつも通りブックオフで立ち読み→ベローチェで読書.
カフェではいつも手持ちの本を読むのだけど,
今日は少し気が変わってついさっき手に入れた古本を読み始める.

きりのよいところまで読んで,本を閉じる.
ふと前を見ると,高校生(恐らく3年生だろう)が受験勉強をしている.
何気なく眺めていて,ふと,自分の高校時代を回想し始めることになった.

「回想し始めることになった」経緯は以下のようなものだ.
下地には読中の2冊のとある文章もあるのだが(後述),
きっかけとしては,その高校生の「今勉強してます」という一心さを見て,
「そうだ,高校当時は自分もあのように勉強していた」と思い,
「でもそのかわり(?)何も考えていなかった」と思い,
(このことは僕が思い出すたび後悔を催すテーマとなっている)
それからいつもと違う方向に考えが行って
「当時の自分は何を見ていたのだろうか」と思い,
非常に細かい,そして遅々とした回想が始まったのだった.

手始めには目の前の高校生そのままの絵の自分が,
すなわち高3の時に授業をサボって学校の裏のスタバで日がな一日自習していた姿が出てきた.
Dr.グリップのシャーペンと「まとまる君」を同志に,
数学や物理の問題集をこりこり解いている.
(表紙の絵柄(青&桃や緑&橙色の残像を伴う横向き矢印)は浮かぶが名前がもう思い出せない)
幾何の証明問題ではみえみえの補助線を引いて「錯角」や「同位角」のツール(定理)を使い,
力学で物体のある地点にかかる力を求めるために反力や摩擦力の合力を求める.
その実際の解答をノートに書く自分は,何も考えておらず,そして充実している.
その充実の源は,正しい答えが書けているからかもしれないし,
間違っていても模範解答を見てその間違いを正せるからかもしれない.
その個々の充実を全体の達成感たらしめる拠り所は,今思えば,
「(受験生として)今やるべきことをやっているという正しさ」と,
「(正しい方向に)前進していることが確信できる充実感」にあったと思う.
だから,当時の僕はその正しさのために,そうあるべくして「何も考えていなかった」のだった.

そういった「ノートに書き連ねられる解答」の回想はほんの数十秒のことで,
続いて自分の学ラン姿を思い浮かべ(きっと卒業アルバムの写真だろう),
そこから「家を出てから高校に着くまでの通学路」に思いを馳せた.
この細部の回想のどこかで意味の分からない感動が訪れたのだけど,
その理由の簡単な一つは「卒業から今まで思い出したこともなかったことを思い出した」からだ.

ここまで何度か「細かさ」を強調してきたが,それはこれまでの僕自身の「高校時代の回想」が,
特別なイベント限定でしかもいいとこ取りの不徹底なものだったからだ.
(もちろん軽い気持ちで行う回想のだいたいがそんなところだろう)
しかし細部というだけに,描写できない箇所が多々あり,
また回想が進むうちに先に浮かんでいた回想が高校でなく中学のものであったと気付いたりもした.

・実は(と言うのは今の自分が「意外」だと思うからだが)家から駅まで自転車で通っていたが,
 それは(乗れるようになってから今まで自分が何度も乗り継いできた中の)どの自転車だったのか?
 また駅前の駐輪場(外壁が白地に黄緑の幾何模様だった)の2階の一箇所を借りていたはずだが,
 その駐車スペースはどうなっていたか?(これは今書いている間に思い出したが,
 今ある「自転車止め」(前後輪をレールに乗せるやつ)はなく通路を区切るポール以外は何も無かった)
・自分はどのような鞄を使っていたか?(ランドセルでないことだけは確かだ)
・定期券は「定期入れ」に入れていたが,その定期入れは自分のどこに身につけていたか?
 (ちなみに思い浮かべた最初は定期入れを改札にタッチして通っていたが,その記憶は明らかに捏造で,
 ほんとうは定期入れから定期券を抜いて(抜きやすいようにケース表面が長円形にくり抜いてある)
 改札の投入口に入れていた.そのやや硬質な通過感(?)も覚えている)
・当時の京阪は急行までしかなかったが,通勤時の急行の停車駅はどこだったか?
 (確か枚方公園と守口市は止まらなかったような…と書いて実はここは記憶が特に曖昧で,
 高2か高3の時に特急や通勤特急も走るようになって,「上り」の通勤特急は
 私市から枚方市までは各駅で枚方市からは一気に京橋に行けたのではなかったか)
・高校ではどのような上履きを履いていたか?
 (これも最初は「学年ごとに色の異なるサンダル」(と言ってカラフルなわけではなく,
 二つ上が青緑で一つ上が抹茶に近い黄緑で自分の学年がメタリックな緑だった)を思い浮かべたが,
 確かこれは中学校の時で,そこから想像し直してはいるが高校の時のは浮かんでこない)

といった感じでこれはカフェのテーブルの木目を見つめながら20分ほどやり,
途中から目のピントが合わなくなって去年の恐ろしい出来事をちらりと連想したりした.
そこは今触れる必要はないのだが…
上で書いた「意味の分からない感動」には別の意味もあって,
それは「このような細微にわたる回想は今の自分に欠けているものを取り戻すきっかけになる」
とその時同時に思ったことをも指している.

その感動が訪れた瞬間に「スイッチ」のイメージが浮かんだのだけれど,
何か精神的なフェイズが変わる時によく「スイッチが入った」などと言うのだけれど,
僕の今回の場合はその逆で「スイッチが切れた」のだと感じた.
(より正確には「スイッチを切るきっかけを見つけた」ということなのだが)

なんのことかと言えば,簡単に言えば,どっぷり読書に浸かってこのかた
「万事に過剰に意味を見出し続けていた」のだった,僕は.
何か自分を振り返って気付く時にはいつも思うのだけど,
やはり自分は何かにつけて極端なのだ.
 「ネジ」のイメージで言えば,
 「ネジが緩んで」いてその緩んだ箇所を締め直せば不都合が解消する,のではなくて
 「ネジが足りない」からどこかから締めるべきネジを探して来なければいけないのだけど,
 ネジ穴が噛み合なかったりそれでも無理やり締めようとして「なめて」しまったりする.
という思いつきがしっくりくるかはよく分からないけれど(ぽいっ),
要するに「阿呆」(「アホ」ではなく「あほう」)なのだ.
(さらに形容を許してもらえるなら「森見的阿呆」と言いたいところだが)

閑話休題.
上を少し言い換えて「意味に過剰に価値を見出す」ことの意味するところは,
ある意味で実体を軽視することでもある.
ある物が未完成でも完成していても同じ意味を見出すことができれば,
それが完成していようが未完成であろうが変わらない.
僕はそういう,いや,そう言える(しかも心底)ようなスタンスに憧れ,
「旅行記から想像できれば実際に現地に行く必要はない」と豪語し,
「想像力のある人間ならそれができる」と思っていたのだった.
(自分でこれを省エネ志向と呼んで持ち上げたこともある)
が,こんなことは敢えて言わずとも誰もが思うはずなのだが,
やはり極端である.
やはり阿呆である.


つまり何が言いたいのか.

つまり本記事は
「もう少し実体を大切にしてみてはどうか」
という自分自身へのアドバイスである.

そして現状から少しずつ価値観をシフトしていく具体策として,
文章を書く際に「細部の描写を大切にする」ことを提案する.
何か閃いた時に,その抽象化された内容さえ記せればよいと思って
閃いたきっかけやら過程やらをなおざりにしてしまうのが常であった.
それはそれで要点だけ押えられてよいのだが,
その時に失われてしまうものにも目を向けるべきなのだ.

自分がなぜ文章を書くのか(それは目的であり手段でもある),
ときどき原点に立ち返って考えることも大事だ.

+*+*+*

といったことを考えるきっかけになっただろう文章たち.

>>
言語化の領域を広げていく作業は遅々たる進展しかしてこなかった。これからもそうだ。(…)遅々たる言語化領域の拡張に比べて、テクノロジーによって人間の感覚の未知の領域を広げるような方法は次々に作り出される。(…)
 そのとき、<至福>とか<おぞましい>というような、感覚に基づいて経験の程度を形容する言葉は空疎になる(本当は昔からずっと空疎だった)。形容するだけの言葉は絶対に経験のリアリティを再現できない。言語はそこで起きたことを正確に記述しようとしなければならない。「読む」「書く」(と、それによる思考であるところの文学)が生きのびる可能性の一つは、言語がいまよりもっとずっと解析的に使われることのはずだが、人はそれを望んでいるだろうか
保坂和志『アウトブリード』p.33

僕がスケッチを書き始めたそもそもの目的は、ひとつには、異国にあって知らず知らずどこかぶれていってしまいそうになる自分の意識を、一定した文章的なレベルから大きく外れないように留めておくということにあった。自分の目で見たものを、自分の目でみたように書くこと──それが基本的な姿勢である。自分の感じたことを、本当に感じたように書くことである。安易な感動や、一般論化(ジェネラライゼーション)を排して、できるだけシンプルに、そしてリアルにものを書くこと。様々に移り変わっていく情景の中で自分をなんとか相対化しつづけること。これは、断るまでもないことだが、なかなか難しい作業である。うまくいくこともあるし、うまくいかないこともある。でも何より大事なことは、文章を書くという作業を自らの存在の水準器として使用することである。そして使用しつづけることである
村上春樹『遠い太鼓』p.19-20
>>

もちろんこれらの文章だけでなく現実の出来事もきっかけにはなったんですが,
そしてそれは些細な,とてもありふれた出来事ではあるんですが,
それがいつ「書かれる可能性の中におかれる」かを考えてみると,
恐らくそれを書けるようになった状態とはどういう状態なのか,
まずはそれを手の届く未来として想像できるようになるまでの時間が必要でしょうね.

仕事も相変わらず過渡期です.
あと少し..
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by chee-choff | 2012-05-27 00:21 | 書くこと | Comments(0)
ロマン宿りしは
『ダーウィン以来(上)』(スティーブン・ジェイ・グールド)を読了.

>>
適応が進化によって生まれたということをわからせる一番いいお話は、直観からすると奇妙に思われたり変わっていると思われるような種類の生活についてのものである。科学とは「体系化された常識」ではない。科学が最もわれわれを興奮させる側面とは、それがわれわれが直観と呼ぶ古来からの人間中心的な偏見に対して強力な理論を対峙させ、この世界についての見方をまったく変えさせてしまうところにあるのである
p.127
>>

本書で紹介されている理論のどれだけが現代でも正当性を保っているのか分からないが,
グールド氏の透徹した思考様式は科学的な視点を養う格好の見本として未だ色褪せてはいない.
「地学はロマンだ」との名言を残した御仁が確か出身高校の理科教師にいたが,
地学にしろ古生物学にしろ,人間からすればとてつもないスケールのそれらはやはりロマンなのだった.
(思い出した,ハチスカ先生だったかしら…僕は直接教えてもらったことはないが)
やっと気が付きましたよ先生.


さておき,『ダーウィン以来』の上下巻とも古本として手に入れたのだけど(確か別々に買った),
上巻には「全日空スキーメイトカード」なるものが挟まっていた.
青地にニット帽とスキー板を装着したスヌーピーが座り込んでいる絵柄で,
裏には有効期限が1986年3月末とある(おお!)
絵の色使い(というか質感?)が少々古くさくて「昭和だなあ」と思いながら付箋に使って読んでいた.

で,次は下巻だなとさっき手に取ってぱらぱらページをめくろうとしたら,
篆書体っぽい実印が表紙裏に押してあるのを見つけた.
「〜〜蔵書」とあり(読めない),どこかの図書館にあったことをうかがわせる.
かと思うと背表紙の裏にはその実印の横にボールペンで一行の書き込みがある.

「岡山にて旧友に会い,帰途小倉にて」

おそらくこの本は図書館の閉鎖かなにかで一度古書として流通し,
その過程で旅行帰りの某氏の手に渡ったのだろう.
入手の経緯を記してあるところ,本書に少なからぬ思い入れがあったのかもしれない.

ううむ,古書もロマンだなあ.

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by chee-choff | 2012-05-19 18:43 | 読書 | Comments(0)
四度目の祝福
かろうじて思い出した一月前の伏線(さいごらへんの「ちょこっと」)の回収記事です.


二度の地元遠征が終了し,一段落しました.
何かといえば,高校時代の友人の結婚式でした.
その二次会の余興で歌うという話がきたので練習をしていた.
歌うというのは「アカペラ」である.

高校の時に「ハモネプに出よう!」と誰かが言い出して結成されたバンドの,
その一人が今回の結婚式の新婦なのであった.
全員が地元大阪にいるわけではないので合わせの練習は数度限り.
しかも人前で歌うとなっては十年ぶりのこと.

まあ,結果だけいえば大成功でした.
ドッキリに彼女が気付いてなかったかどうかはおいといて,
ボロボロと涙を流しながら「ありがとう」と言われてこっちももらい泣き.
(歌ったのは当時のナンバー「宇宙戦艦ヤマト」に新譜「ありがとう」(生物係)の二曲)

僕は新郎との絡みは当時ほとんどなくて(新郎新婦とも僕と同学年の理数科でした),
二人が当時から付き合っていたこと自体今回はじめて知ったというていたらく(?)でしたが,
そんなことどうでもよくて「あしかけ十年」というのはスゴい.
当時の出会いが運命的であったということですね…末永くお幸せに.

+*+*+*

ということでこの出来事が色んな意味で一つの節目になった.
寒かった大阪から帰ってくると一気にこちらは初夏もよう(でも風はまだほのかにひんやり)で,
仕事も大事な時期で転換期を前に慌ただしくなり始め,
そして僕自身は浮いていた心が少し落ち着く(といって「小休止」だけれど).

 そういえば話がそれるけれど地元から帰ってくる新幹線の車内で興味深いことがあった.
 自分の前の席にいた母親のお子さんが何かの拍子に突然泣き始めたのだけど,
 いつも読書中なら「うるさいな…」と思うところ,なぜかその泣き声に聞き入ってしまった.
 意味を聞き取るというより単純に物質的な,息遣いとかそういうものを聞いていたのだけど,
 赤ん坊は息を吐く(=声を上げる)ことに夢中で息を吸うことを全く意識していないように感じた.
 (吐く息がなくなったから吸う,あるいはしゃっくりのように息を吸っていた)
 生理学用語を使えば「不随意的に息を吸い,随意的に息を吐く」といったところだろうか.
 この呼吸のアンバランスは「母親に訴えかけることの危急さ」によるのかもしれないが,
 もしかすると平常時においても赤ん坊はそれがデフォルトなのかもしれないし,
 あるいは赤ん坊に限らず人は「吐くより吸う方が意識的」なのかもしれない.
 コミュニケーションを形成する「発話」は息を吐くことで成され,
 息を吸うこと(これから意味を読み取ることも可能ではある)は補助的になる.
 また(特に子どもやお年寄りが)喉に異物を詰まらせるのは息を吸う時がほとんどだろう,
 とか連想できることは他にいろいろありそうな気がする.

で話を戻しまして…
「浮いている」時の自分はあまり好きではないのだけれど,
それを好きでないという自分は例えば今この記事を書いている自分に近い存在であって,
つまり「浮いている」自分をその場で見ている自分は浮いていなかったということ.

といったことを実感するには一度「浮上」しなければならないわけで,
その意味でこのふた月ほどはなかなか良い経験になりました.
自分とはやはり他者の他者であり他者なしに把握することはできず,
強度の差ではなく質の差として,本と人は違うわけです.

なんだかわけのわからないことを相変わらず呟いてますが,
簡単に言いますと「自分の立ち位置がわかってきた」ような気がします(飛躍).
何(誰)にとって,またはどういう意味での「(適切な)立ち位置」かというのは,
まだ言葉にできないし,あるいは「言えば消える」ものかもしれない.

もっともっと簡単に言いますと(という言い方が既に胡散臭い),
在りたい状態がわかってきて,それに向かってするべきことが分かってきて,
その「するべきこと」が手段であるとともに目的でもあるような在り方が分かってきて,
まあそんなこんなでわりと好き勝手にやらせてもらいましょう,と.

うん,別に何も変わっちゃいない.
つまり節目というのは当の出来事が一段落した後に意識するものであり,
しかも意識如何で節目かどうかが決まるもので,
人間どこかで一度落ち着かないと「変わらない」のだ.

あれ,言ったそばから矛盾してる?
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by chee-choff | 2012-05-14 14:02 | 思考 | Comments(0)
超遅出タカシ号/四季に対応する頭のなかの何か
今週末も活動的になる予定.
今月の交通費だけで去年一年分に匹敵するんでは…

+*+*+*

で,来週の月火は変則出勤.
もともとシフトのある部署ではなかったのだけど,
いつの間にか部署はそのままで「シフトで回してる部門」に部署の肩書きが変わって,
それでもシフトとは縁遠くて今も縁遠いままで,
つまり今回は「イベント対応」みたいな感じ.
もちろん楽しいそれではない.

シフト勤務では7時出勤の「早出」や13時出勤の「遅出」があるのだけど,
この2日は15時出勤の「超遅出」.
そうなると定時が時計半周分ずれて,なんと23:45.
残業が始まるとともに日が変わる寸法ですね.

通勤5分の身で文句垂れるわけにもいかないが,
2日だけというのが生活リズムを狂わせるには十分でうぬぬな感じ.
就寝と起床の時間を据え置きでやりくりできればいいのだけど.
 「お時間据え置き!」…じゃないか,「お値段据え置き!」
 巷で噂のJPNTKTですね.
 …と即席で作ったんですが,もう誰かジャパネットタカタをこう呼んでる人いたりして,
 と思って検索したら一番上でゆっくりに出会ってしまった.
 なぜ(笑)

あ,あと今日事務室で隣席の先輩(♀)に「"壊し屋たかし"(「ののちゃん」(朝日朝刊連載4コマ漫画)主人公ののちゃんのお父さん(下手の横"DIY"好き)の異名)の活躍を朝見るたび先輩を思い出します」って笑顔で言ったら,「月のない夜は背中に気を付けなさいね☆」って笑顔で返されたので残業したら独りで帰れなくなっちゃいました(笑)
という一文の途中どこかから(どこでしょう?)ウソ入ってます,とすかさずフォロー.
「いいキャラクタですね」と言いたかっただけなのだが表現が遠回し過ぎたか..

あと「パーマが1週間でとれちゃう」とお嘆きの別の先輩(♀)に
(しかも最近かけて"とれたてホヤホヤ"らしいので),
頭をじっと見つめながら「諸行無常ですね」と言ってみたい欲求に駆られているのだけど,
幾度となく「学習」した身としてやめといた方がいいような気はしている.
だがここは遂行的KYの名に賭けて…ふふふ.

+*+*+*

 「うそからでたまこと」と表現される通り,言葉はやはり「呪い」である.
 これは言葉の力を信じていようが信じまいが同じで,信じていれば自覚はできるというだけの差.
 自分の言葉であっても,それを受け取る自分の状態が変われば影響も変わる.
 流れそのものを自分でつくれたとしても,流れに乗る行為は受動的でしかありえない気がする.

脈絡はないが,戒めの言葉.
はてさて果して.
這って去って裸足で.
ホフク前進.
次の塹壕は何処?


またタイトルが浮いちゃったな…
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by chee-choff | 2012-05-11 22:00 | 社会人 | Comments(0)
技と道具の分水嶺
久しぶりにポメラで書いたらコラムみたいになった.
起承転結,ではないけれど,
4行でひとまとめにするとリズムがついて良い.
意識し過ぎるとダメなのだけどね(後半はちと失速ぎみ).

+*+*+*


技と道具の分水嶺

2012/05/06 14:00
便利な世の中になった。
その一方で、体力や免疫力の低下が指摘されている。
極端に言えば、今僕らは縄文世界から電脳世界への過程にいる。
縄文は未開過ぎるが電脳だと身体の居場所がない。

ということで利便性とどこかで折り合いをつけたい。
市場は「おせっかいの先回り便利」を押しつけてくる。
言いなりになれば電脳世界へ「猫まっしぐら」だ。
猫はカルカン(古い?)に飛びつく脚力が育つからまだいい。

 僕はコーヒー豆を小分けに冷凍庫に保存している。
 だから豆を挽く前に軽く炙って解凍する。
 その時フライパンからミルに豆を移すのが少々不都合で、
 添えた手が熱かったり豆を数粒落とすのが日常であった。

 この場合漏斗を買えば不都合は瞬時に解決する。
 気を使わずかつ豆を落とすことなくミルに移せる。
 だが面倒臭さが先に立ってぐずぐずしているうち、
 不都合が習慣化し、その後に豆を落とさなくなった。

といった顛末を迎える事が日常には割と多いのではないか。
便利さを求めて買ったモノが余分だったと後で気付く。
最初は不都合に思われたが慣れれば案外そうでもない。
そう、市場に溢れる「便利さ」は自分専用ではないのだ。


生活に何らかの不都合があり、それを解消したいと思う。
その思いは自然「今の自分のままで」を前提してしまう。
それは利便性の獲得が購買行動に因っており、
購買行動の前件が「消費主体の不変性」にあるからだ。

これは消費礼賛社会の「定型」と言える。
上で挙げた自分の例はこれに対置させるためのもので、
つまり「不都合を購買行動で解消しない」、すなわち
「不都合に自分を合わせる」解決方法である。

「不都合に自分を合わせる」には2種類あって、
「自分が変化して不都合を解消する」場合と、
「不都合に慣れて不都合という認識を捨てる」場合。
言葉で分けてみたものの、両者の境界は曖昧ではある。

もちろんこの両者が時間をかけても叶わないこともある。
その時は「道具によって解消すべき不都合」とみなして、
適切な購買活動を行えばよい。
この判断を適切にするのは「時間」である。


「無時間モデル」の横溢する脳化社会への馴致拒否、
あるいはブリコルールの実践と言ってもよい。
ブリコルールとは「ありものでなんとかする」ことで、
ここでは「ありもの」に自分の身体を含めてよいと思う。

自分の例では「変な面倒臭さ」が「技」を選択させた。
(これを変と呼ぶのは、ふつうはさっさと道具を使って
 不都合を解消する方が「面倒臭くない」と思われるため)
この可否はおいといて、駆動源は何でもいいのだと思う。

ここに「ムダなものを買わない知恵」が提示されている。
日常に不都合を感じた時、解消に向けて即断即決しない。
まずはその不都合を「塩漬けする」時間を設ける。
浅漬けでも古漬けでも、美味しければしめたもの。

…話がズレた、「身体に染み込ませる」時間を作るのだ。
不都合が不都合のまま身に染みれば道具を買えばよい。
逆に慣れてしまえば、それは不都合ではなかったのだ。
気がつけば、最初に不都合を感じた瞬間から何かが変わった。
2012/05/06 14:51
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by chee-choff | 2012-05-07 23:05 | 思考 | Comments(0)
可愛さと美しさ【注:草食成分98%】
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by chee-choff | 2012-05-06 21:47 | 妄想
『身体の言い分』池上六朗・内田樹
掘り出してみた.
書いたのは昔の自分なので恥ずかしげもなく.

2010/07/31 23:36
本書も名言がたくさん。
おかげで付箋だらけ。
その中でしっかと形に残しておきたいものを抜粋。

 自分の中で複数の声(=ヴォイス)を出せる人はもちろん相手によっても声を変えることができるわけですね。声も変わるし、態度も変わる。トーンも変わるし、身振りも変わる。場合によっては、言っている内容までも変わる。前に言ったのとは正反対のことを相手が変わると平気で言える。多チャンネルの人の場合は、それが深刻な矛盾にはならないんですね。そういういろんなヴォイスの使い分けができる人の特徴は、メッセージのコンテンツを首尾一貫させることよりも、コミュニケーションの回路を成り立たせることのほうが優先順位が高い、とうことですね。コミュニケーションにおいて重要なのは、首尾一貫して同じことを言い続けることじゃない。「互いの声が届く」ということです。でも、こういうことって、なかなか理解してくれる人がいないんですよ。
 むしろそれとは反対に、どんな場合でも、同じ顔、同じ声で押し通すことがよいことであるという考え方のほうが、今ではコミュニケーションについては支配的なイデオロギーですよね。(…)
 これはね、非常によくないと思うんです。いいことなんか何もないですよ。ありとあらゆる場面で「自分らしさ」を貫徹するということは、「場の特殊性」というファクターをコミュニケーションに際して勘定に入れないということですからね。自分が向き合っている相手がどういうふうに自分と違う立ち位置からこの場を共有しているのか、という自他の「ずれ」を一切考慮しないで、ひたすら「自分らしさ」なるものを押し出してゆくというのは、意図的に自分のコミュニケーション感受性を殺すことに等しいわけですよね
(第1章 今の自分を肯定する p.23-24)
>こういう目で周りの人を見ると、また面白いと思う。例えば、八方美人の人の良さや、筋の通った人の鈍感さみたいなものが見えてくるかもしれない。

 よく「哲学は単純な現実をややこしく表現したものだ」と思っている人がいますけれど、逆なんですよね。現実は哲学で語り切るにはあまりに巨大で複雑なんです。だから「わかりにくい哲学」というのがありますけれど、あれは現実の複雑さになんとかついていこうとして息も絶え絶えになったものなんです。ちゃんとした哲学がわかりにくいのは、それがぼくたちの生きている当たり前の現実にできるだけ近づこうとしているからなんです。
 だから現実を深く生きている人というのは、必ずある種の哲学者になってしまうんです
(第2章 解釈するのは頭じゃない p.94)
>深く染み入る言葉であります。

 体を治すと言っても、どんな状態をめざしているかが患者さん本人にわかっていない場合が多いんです。どうなりたいかがあやふやなんだから、治すとか治さないとか言うのはあまり意味がないな、と思うんですよね。本当に自分が快適に生きようと思ったら、自分で快適だと思うことをやっていけばいい。
(第5章 快適に生きるには p.189)
>なるほどと思った。しんどい時って「元気になりたい」とは切に願うのだけれど、具体的にどういう状態になりたいかは全然想像しないもの。今の状態を脱したいというだけで、その先が何も見えていない。それで当たり前すぎて今回のフレーズを読んではっとしたのだけれど、案外「こういう状態になりたい」と詳細に想像することで回復スピードが早くなったり、回復した時の気持ちよさを実感できたりするのかもしれない。


 「頭で感じる快不快」と「体で感じる快不快」と両方ありますよね。人間は幻想で生きている生物だから、この二種類の快不快がうまく識別できない人が多い。どこが違うかというと、人工甘味料と自然の甘みの違いみたいなものだと思うんですけれど、幻想的な快感、たとえば政治的イデオロギーや宗教的陶酔がもたらす快感というのは「しびれる」んです。がつんと脳に来る。それに対して、自然な快感、生物としての生存戦略にうまく適合した選択をした時にもたらされる快感というのは、「ほっこり」しているんです。じわじわっと腹から温まるような感じで。
(第6章 現実から出発しよう p.217)
>たぶんこの区別はとっても大事なことだと思う。言葉で言われて分からなくても、違いがあること、それが「しびれる」と「ほっこり」であることは覚えておきたい。僕は前者はよくわかる(ライブとかプレーヤで音楽聴いてる時にもあるし、あと何か閃いたり繋がったりした時とかね)が、後者は…なんとなくしか分からない。もっと分かりたいな、と少し思う(ぽっ)
2010/08/01 00:03
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by chee-choff | 2012-05-06 21:17 | 読書 | Comments(0)
移行期的混乱
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何が移行したのか? そして何が混乱したのか?
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by chee-choff | 2012-05-03 23:48 | 社会人 | Comments(0)
ノマドのお仕事
今夕の朝日の論壇ページに小田嶋隆氏が寄稿していた.
ウチダ氏の登場頻度が高いのもそうだけど,最近の朝日は路線が変わったのかしら?
とはいえ内容は大幅添削でも入ったか面白くはなくて(まだまだ時間が必要なのかもしれない),
ア・ピース・オブ・警句の最新号の方がウィットも効いてて百倍面白い.
(日経ビジネスオンラインに登録しないと見れないです)

最近定着したらしい「ノマド・ワーカー」という言葉に対して,
「遊牧民」の“遊”の一文字が現実から遊離した(ここにも“遊”が…)魅力を醸している,
という正確な指摘が凄いし,
実情として「遊牧民」ではなく「遊牧民の家畜」の位置にいる人も少なくない,
という比喩がもう比喩を超えた強度を備えていて恐ろしい.

「遊牧民」のもともとの定義が逐一実情に沿うているのが頼もしくて,
(蓄積をそもそもしない遊牧民と,貧乏デフォルトのノマド・ワーカーの対応とか)
これぞ思考の妙だなあと羨望のまなざし.

ツイッターを見てるとけっこう苦労してはるみたいですが,こっそり応援してます頑張って下さい先生.


p.s.「日本語英語」も発想の源.

 No mad, "NO" work.
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by chee-choff | 2012-05-01 22:38 | 社会人 | Comments(0)