深爪エリマキトカゲ
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再会にして際会
土日月,と今日まで地元に帰ってました.
用向きはいろいろあったんですが,主に元高の人々に会いに.
もう,みんな顔がそのまんまで,これを懐かしいと言うのか,まあ高校ならそんなもんでしょうか.

うーん,そして中身は変わったのかそのまんまなのか,と言えば,
正直こっちも「そのまんま」という印象でした.
理数科のメンツは大体みんな世渡り上手なので元々スれて(「世間擦れ」の意)いたんですが,
さらに角が取れてまんまるつるぴか☆

というのは嘘で,みんな苦労してるみたいですね.
そんな彼らを見て「がんばれ!」とエールを贈りたくもなるんですが,
その後に続く言葉が…ここは本音になっちゃうので伏せますか(笑)

本音と言えば850氏&ぽ氏と飲んだ日曜の夜では僕はほんとうに本音ばっかり呟いていて,
明らかなウソは「社員寮の最寄りバス停は毎時1本」とかいう瑣末なものだけ.
日中は2〜3本あるし,路線も3種類くらいあってバスの便は非常によいです.
「田舎だしねー」と言えば自動的に「バスが一時間に一本でね」と口からこぼれてしまう時は
僕が地元にいる時ならではの「スキだらけ状態」なのであって,
スキだらけだと現実的な頭が回ってないのでしょうもないウソをついてしまうことになる.
まあ,そこはご勘弁下さい…後に引きそうなウソがぽろっと出た場合はその場で訂正しますので.

で,会社から離れてこそ会社についての本音が語れるということで
日曜の夜は好き勝手言い過ぎて2氏も時に理解に苦しまれたようだけど,
その事実がその場で語られた本音を本音たらしめるという「メタ視点」が理解のヒントです(何の?)

まあ分かりやすい話をすれば,
帰省中も風邪が治らず人といればぽわぽわし一人でいれば憂鬱な状態だったのだけど,
社会の趨勢に抗って脳を身体に従属させてる僕が正直に語る話というのは,
「ぜんぜん客観的でないし計画的でもないし共感を呼ばない」代物だということ.
むしろ共感できたら…あ,ここも伏せよう(笑)


さて,今回の帰省はなかなかいい刺激になったのだけど,
戻ってきてから溜まった家事をしてる間に身体の調子も良くなってきて,
(これは家事のおかげでもあり,下駄のおかげかもしれない)
脳みそ君も身体につられてくるくる回り始めたようで,
いくつか気付きがあったのでメモしておきましょう.
まあ自分の話なんですけど…

まずひとつは,自分の行動原理は「現状肯定」の一言で表せそうだなということ.
一人でいる時は「一人って楽だなあ,幸せだなあ」と思い,
でもみんなでわいわいやってる時は「一人だと寂しいなあ」と思うのだけど,
これは後者が前者を否定しているように見えるけれどそうではなく,
後者は「みんなでわいわいやっている“その時”」を肯定しているのだ.
だから落ち着いた時に両者を並べれば矛盾しているように見えて,
どちらも「その思いを抱いた場面」を思い浮かべればしっくりくる.
これはある程度身体に生活(の中での思考)を委ねてこそ気付けることではないのかな,とか.
だから「僕が本当に誰かと一緒にいたいと切実に思うだろう状況」というのも,
ここから類推することができる.
ま,それを今採用してはいるけれど成果が出てないので詳細は控えますが.

「現状肯定」のいちばん根っこには「じぶんのからだの存在」がある.
シェイプアップとか筋トレとか「身体改造」とか言ったりするけれど
それは身体を所有物とみなしてこその発想で,
実は身体を所有していると思っている脳は身体の一部で,
その身体は「所与のもの」であって発生に何ら主体性は関与していない.
起源と現在の効果(意味)の同一視は「そもそも論」が時に暴走する考え方でもあるのだけれど
(それは進化論の教えるところだ),
それは思考のゴールにした時に暴走と見なされることがあるのであって,
思考のスタートとするにはむしろ王道と言える.

つまり何が言いたいかといえば,
過去は単に過ぎ去ったものではないよ,と(かなり飛躍したな).
昨日の朝日書評に鶴見俊輔氏のこんな言葉が引いてあった.
現在の中に未来の種子として生きつづけている過去を、ほりおこすこと
僕はここに,鶴見氏とハシモト氏の深いところでの繋がりを感じる.


あ,タイトルの話書いてない…まいっか.
また当人と会った時にその時の驚きを伝えることにしましょう.
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by chee-choff | 2012-04-30 23:38 | 思考 | Comments(0)
すがわらのダフンダフン
今週末は久しぶりにかなり活動的になる予定.
そして間の悪すぎることに昨日から風邪をひく.

野口晴哉氏の本をこの前読み終えたのだけど,
その中に「風邪のとき身体の左右の体温が違う」という話があってびっくりして,
(「左右の顔の大きさが違う」とか書いていた)

普段の入浴温度+3℃くらいで脚湯または足湯をすればよくて,
(呼吸器系の風邪なら脚湯,消化器系の風邪なら足湯らしい.そんな違いもあるのね)
まず両足を6分つけると左右の足で赤みのさし方が違うから(!),
赤みが弱い方の足をもう2分つけてしっかり両足を拭いてからさっさと寝る.

と寝汗をぐっしょりかいて一日で風邪が治ると書いてあって昨日早速試したのだけど,
左右の足の赤さの違いが微妙で確証の持てぬまま左足を2分追加したのだけど,
これ逆の足やっちゃうと余計バランス崩れちゃうんじゃないかなというもっともな不安に対する
回答は本には書いてなくてネットで調べりゃ出てくるんだろうけど面倒だったので寝た.

ら確かに久しぶりに寝汗をかいたのだけど,
(ここ最近は風邪時に水分大量摂取しても汗ではなく下へ抜けていた)
たっぷり汗を出す前に一度着替えてしまったので十全な効果が得られなかったもよう.
昨日はひきはじめだったのが今日は治りかけみたいな感じで,
足湯のおかげかもしれないしまったくの気のせいかもしれない.

まああまりテキトーなことを書くもんでもないんですが,
この書き散しが後悔を呼んで次回の風邪引き時に再実験してまともなレポートが提出されることを
ここに祈念するものであります.
疲れているのか浮き足立っているのか,
身体の落ち着き具合はその両者の均衡の再現になっていて,
でも脳にとってはその両者は正負にきっちり分けられることはなくてぐちゃぐちゃしていたり.

関係ないけど朝日夕刊連載小説の主車行(しゅじんこう)の隣車(りんじん)のザッパって,
「雑把」じゃないのかな.
ザッパに兄弟がいたら大雑把と小雑把,とか.


最近交通事故多いですね…

ハイネケン.
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by chee-choff | 2012-04-27 23:34 | 社会人 | Comments(0)
そして世界は動き出す
 動いている世界の上に自分がいるのではない
 もともとある地に自分が加わったのではない

 自分が生まれたと同時に世界が始まった
 きっと自分が死ぬと同時に世界は終わる

 だが自分の見える聞こえるものが自分の全てはなく
 自分の想像もつかないものが自分の一部を構成する

 想像外のものは内にも外にもあり
 想像及ばぬ点で共通である以上に

 自分を形作る点で共通である


 自分が存在し初めることを起点に世界の全てが変わった
 それは実感できるもので実感できるのは自分しかいない

 起点はここにあり
 帰点はここにある

 視点はここにあり
 詩点はここにある


 点は線になるためにあり
 線は面になるためにあり
 面は間になるためにあり
 間は時になるためにあり

 時は間に分かたれ
 間は面に分かたれ
 面は線に分かたれ
 線は点に分かたれ

 点は時を構成し
 時は点を包含し
 時は点を構成し
 点は時を包含す

 ただ意識のみが 点と時を往還する
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by chee-choff | 2012-04-22 19:33 | ことばあそび | Comments(0)
Not wanna do, but wanna be/モダンウゴウゴ
『キッチン』(吉本ばなな)を読了.

今の自分に自然と溶け込む本だった.
紹介してくれたM氏に感謝.
おりにふれて他の著書も借りてこうと思います☆

最後の短編「ムーンライト・シャドウ」を読む前に偶然聴いたこの曲が,
頭の底をずっと流れ続けていた.
 【猫村いろは】ヨルに帰る花【オリジナル曲】
喪失の.

+*+*+*

最近言葉を綴る意欲が減退している.
読んだ分吐き出したいと,思う時もあったが,
今は思わない時,らしい.
どうも書こうとして前に同じことを書いた予感がすると書きたくなくなるようで,
別に無理に書く必要はないのでそれはそれでいいのだが,
そこから「自分は優しい人ではない」と以前思ったことを思い出した.

「やさしい人だね」と言われる時はたいていホめられているわけではないニュアンスで,
僕は何度もそのニュアンス(つまり「優柔不断」とか「意志薄弱」)で言われたことはあって,
でも上で言ったのはその「やさしさ」ではなくて,
良い意味での,人と長く付き合う上で大切な「優しさ」がない.
それはその「優しさ」を(さりげなくしかし確固と)持つ人と出くわすといやおうなく感じるもので,
でも昔の自分にそれはきっとあったもので意識して時間をかければ取り戻せなくはないと思うものの,
「でも今はいいや」とバッサリ切り捨ててしまえる自分はやっぱり「優しさ」がない.
そうやってどこかに追い込もうとしているのかもしれない.

 ああ…書く気がないと言いながら書き始めるとズバる言葉がどんどん出てきて困るのだけど,
 (ズバリ言う,本質を衝くという意味「ズバる」と書いてみました)
 そしてそれをボカすと途端にズバらなくなって(それを面白いと思う僕以外は)困るのだけど,
その「追い込み先」に至る過程を自分は良しとしていて,
それは「のっとわなどぅばっとわなびー」な自分の価値観に則った流れで,
それを「追い込まれた」と思った時にはそこからの脱出が切実となり駆動力となって
自分だけでなく人をも動かす力となりうると期待するいっぽう,
「追い込まれた」が「来るべくして来た」になってしまうと凄いが怖い.
どちらへ転んでも今の自分とは違う存在になっているという想定なのでどちらがよいとも言えず,
成り行き任せと言いつつ任せているのが成り行きではない何者かという混沌.

自分がどういう場面にいるかで同じ日の中でも「わなびー」の内容ががらりと変わっているというのは,
ある意味狂気かもしれないですね.
僕はそれを素直と呼びたいですが.

+*+*+*

「ウゴウゴ文学賞」で検索したらModern Livingというサイトに行き着いた.
(という一文の因果関係は「経験的事実」以外に何もありません)
とってもシュールで久しぶりの種類の感激を味わったのだけど,
たしかにモダンだと思って,でもそれはきっと「モダン・タイムス」のモダンなのだと思う(つまり?).
全部は見てないけど,僕は87の射的みたいなのが好きです.
あと94の隊列行進の「有無を言わさぬ」感とか…COPPELIONの「死の行軍」を連想した.
紹介がてらにスクリーンショットを載せておきます.

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by chee-choff | 2012-04-22 18:55 | 思考 | Comments(0)
光は可視光のみにあらず
仕事環境が安定していなくて,
というのは以前にもまして「境界人」ちっくになっていて,
人からは所属意識が薄くて気楽にやってると思われてそうだけど,
本人からすると地に足着いてない感じがして心許ない面はある.
その状況を愛さねばならないというか,
愛せるような人になりたいという未だ願望レベルであって,
(このテの話に熟練なんてあるのだろうか?)
なぜそう思うかといえば要するに「血」ですね(笑)
と言って血液型と一緒に思われるのは心外だが案外その通りかもしれない.
嘘だけど.

なんにせよ状況が状況なのでただ呑まれるばかりではある.
この自覚がなくなると楽だけど大変なので,大変だけど楽に流れないよう頑張る.
…?
つまりどう足掻いても大変.


まあまあ,仕事の話はぼかせばいくらでも書けるのでこの辺にしておいて.
最初に書こうと思っていた「ある人」について.

とても分かりやすくて顔に全てが出ていて,
でもその「出てるもの」を鏡で映し返すと不機嫌になって,
恐らく僕が悪いと思われているのだろうけれどそれは仕方がないとは思っていて,
きっと「出てるもの」を取りなしてくれる優しい人が今まではその人のまわりにいたのであって,
その優しさは現状維持にしかはたらかないという非社会的なことを考える僕が確かに悪いが,
僕が鏡であることに気付いた時のその人の「変わり方」に勝手に可能性を感じていて,
その秘めたポテンシャルを常識に埋もれさせるのは勿体ないという妄想甚だしい余計なお世話.

まわりから白く浮き出る人も黒く沈む人も僕には同じように見えて,
それは「同類の匂い」をそこに感じるからなのだけど,
別に仲間意識を持つとか友好を深めたいと思うわけではなく(たまにそういう例もある),
ひとつの「同じ」からどんな「違う」が出てくるかな,
という興味に他ならない.

 「同じ」からはじまる「違う」があり,
 「違う」からはじまる「同じ」があるが,
 「野ウサギ」でいるためには両者とも漠然としていた方がよい.
 (実は昨日『野ウサギの走り』(中沢新一)を読み始めました)

まあ,迷惑かけない程度に,仲良くやりたいですね.


ホント,何言ってるか全然分かんないねこれ(笑)
きっと来週あたりに読み返して「で,何が言いたいの?」と思うに違いない.
ま,それ狙って書いてるんで当然なんですが.

というこれはメモというか迷惑投稿.
どうも失礼しました.
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by chee-choff | 2012-04-18 22:44 | 社会人 | Comments(0)
脱⑨
院生の時に買った『現代思想入門』(仲正昌樹ほか)を最近読み始めていて,
「なんだかすげーなー」と思って,
「もう色々分かってんじゃないの?」と思って,
「あとはじっさいどうするかだよな」と思って,
つまり現代思想と(一般人の)日常とを架橋する作業が急務だなと思って,

例えば京橋(大阪)の風月で

 「すみませ〜ん、ポスト・モダン焼き一つ。」

とか頼んでみたり,

(…)この「生成変化」は決してマイノリティがマジョリティになったり、非権力者が権力者に成り代わることではない。フーコーのパノプティコンの監視塔に誰が入ってもかまわないように、権力闘争や権力奪取は権力構造そのものを変えはしない。肝心なのは、この権力構造自体を脱⑨させることなのだ。(p.154)

といった読み替えを一つひとつ積み重ねていくことがこれから必要なのだと思う.

つまり,間違っても「あたいったらサイキョーね!」などと口走らないことである.

….

春ですね.

「春ですよ〜」

….

しょうがない.
「脱構築祭り」でもやるか(かわ嘘)
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by chee-choff | 2012-04-15 23:17 | ことばあそび | Comments(0)
「なんとでもいえる」のよしあし
ウチダ氏は自分の書いた『ためらいの倫理学』について
「同業者から見れば禁じ手」と自分で昔ブログにコメントしていたが,
たしかにその話の展開方法は万能包丁であれ諸刃なのだと思った.

のはウチダ氏ブログが最近あげた追手門大学の講演録を読んだからなのだが(長いですよ),
この途中のある箇所を読んで久しぶりに,初めてウチダ氏著作を読んだ時の印象を思い出した.
それはたしか学部生の頃実家で見つけた『おじさん的思考』で,
なんか構造(←と今でこそ言えるのだが)を語る語り口が今までになく独特やなあと,
でも「気分屋」というか記事の当たり外れが大きくて,
"ズバッと本質ひと突き"と"ごりごりの牽強付会"の差が極端だなと思って,
話に「強度ある実感」が伴うか「ひたすら置いてけぼり」を感じるかの差は
同じ構造について語っていても「はいり」の掴み如何に依っているのだと気付いた.

ウチダ氏はよく「当たり前」「常識」という言葉を使うが,
それは「古き(?)良き(??)日本の価値観」に照らし合わせて大体その通りだと思うのだが,
同じようにその言葉を使って語り始められた時,
読み手のこちらがその「当たり前」に全く実感が伴わなければどうなるか?
いくらその先で面白い話が展開されても「うーん?」と入り込めずにわだかまりを抱えたまま
読み終えることになる.
(書き手と読み手が同一人物でない以上当然起こることではある,
 ウチダ氏は「自分が読んでみたいと思ったことを書く」のだからなおさら)

きっと大学人としての枷がとれて言いたいことをそれなりにそのまま言えるようになって,
つまりウチダ氏はいつも「その場の勢いであることないことしゃべる」人なので
その「勢いの殺し方が緩んだ」ことで当たり外れが大きくなったのだと思う.

氏の著作はほとんど面白く読んでいるし,その頭の回り方や身体との折り合いの付け方(お伺いの立て方)も
間違いなく尊敬しているし「私淑」してるとここに何度も書いているけれど,
当たり前だけどだからといって氏の言うことを無思考(あるいは無感覚)で全て真に受けることはなくて,
「うさんくさけりゃ(←身体反応)まずはまゆつば(←脳の試行錯誤)」も氏の教えるところであるので,
変だと思ったら素直に自分の感覚を信じてその変を形にしておく.
もちろん自分の早とちりもある(てか殆どそれだろう)ので今後ひっくり返ることも大いにありうる.

というわかりにくいこれはメモです.
具体的にどこがどの辺,というと…
上のリンクの文章の中に「松本内閣参与のオフレコ発言」についての話があって,
そこで「『最後の言葉はオフレコだよ』と松本氏の指す言葉は実は『頑張れよ』なのである」
という「まくら」から独裁者の不可解な振る舞いの実効性について語られていくのだけれど,
この話は僕は新聞で読んだだけでその前後の発言の詳細だとか状況は詳しくは知らないのだけど,
「それはへんじゃないか?」と素直に思った.
「最後の言葉」の前には「意味のある」が省略されていると思うのが普通だろう.
独裁者が戦略として不可解な振る舞いをすることそのものは理解できるのだが,
その例として松本氏の発言はどうもしっくりこない.

…書き出してみるとあまり面白くないな.
途中から頭で書いちゃったかしら?

+*+*+*

「諸刃」とは「愛情の対蹠点は無反応」のこと,だろうか.
無反応を恐れていては愛情は得られない.
(と書いてから気付いてしまったことは書かない.「千里の径庭」ですね)

あれ,諸刃って,矛盾の体現(ありうべきひとつの形)では?
つまり片刃は脳の産物なわけだ.

+*+*+*

最近ベースラインにハマっています.
という「これ」は布石.
およそ一月後に回収予定.
ふふふ

【original】 ナイトスプレッド 【雪歌ユフ】
【original】 月の歌 【雪歌ユフ】

tom atomさん素敵☆
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by chee-choff | 2012-04-13 22:26 | ウチダ氏 | Comments(0)
安心毛布と独裁者
スヌーピーと仲間たちの心と時代―だれもが自分の星をもっている
広淵 升彦
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黄色にひかれて「犬」にひかれ,装幀にひかれてあまり中を見ずに買った.
奥付(「おくつけ」と読んでたけど「おくづき」なんですね)だけは手に取る本全部で確認はしていて,
「テレビの人かぁ」とは思って,読んでみたらしごくテレビ的で,
「装幀通り」だけでよかったのに想定通りでもあったというオチ.
しかし思い返せばコーンフレークの表紙絵と小学校時の文房具でしか見たことなかったので,
僕みたいに原作を知らない人にとっては良い紹介本かと思います.

「心の相談室」の猛烈少女ルーシー・ヴァンペルトとか,
3メートル以上高く飛ぶと鼻血を出して失速する小鳥ウッドストックとか,
みなさん愛らしいキャラクタですね.
スケッチ風の描線で簡素に描かれてこそ,無表情に近い表情にも深みというか
こちらの受け取り方に幅が出てくるのだなとあらためて思って,
はて何か懐かしいなと思ったら「マザー2」が浮かんだ.
まあそれはよくて.

安心毛布(security blanket)とはルーシーの弟ライナスが肌身離さず持っているもので,
天才少年もこれがないと手が震えて夜も眠れない(って麻薬かいな).
なるほど役割としてはもっともで,
リトル・アリョーヒン(@『猫を抱いて象と泳ぐ』)の祖母でいう布巾のような,
(あ,というか小森霧(@絶望先生)がまんまやな)
高校時代の自分でいうカラータオルのようなものだろう.
 たしか卒業文集のクラス別写真の一言コメントのお題が「これがあれば生きていける」で,
 「バスケ」と書いたバスケ一筋のT雅氏の隣の僕は「カラータオル」と書いて,
 100円ショップで買えるそれを確かに自分は年中肌身離さず持っていて
 (アルバムを見ると集合写真で頭にタオルを巻いている頻度が異常に高い),
 夏の授業日に忘れたと気付いた時にゃ絶望で頭がくらくらしたものだった.
 何せ微動だにせずとも汗が噴き出る汗かきだった…って今も大して変わってなくて,
 そろそろ社食でみそ汁を飲むのが苦痛になり始める季節だ.
 夏にあれ飲むと飲んだ分は全部汗で出てるんじゃないかってくらい…いや冗談でなく.
この安心毛布という名前がなんだかステキだなあと思って,
思ったそばから別のところでこの言葉を見かけてびっくりしたのだった.

というのは今日から週末用に読み始めた『キッチン』(吉本ばなな)の表題作でのこと.
「ライナスの安心毛布」と書くだけで一般に通じるんですね.
なるほど僕はばなな氏の文章が好きな気がする(唐突)
別の文脈もあるのだけど…まあ,それも楽しみながら続きを読んでいきましょう.
もちろん秘密です☆

あ,ひとつ気に入ったセリフがあって,たしかこんな感じの.
「本当に一人立ちしたいのなら何かを育ててみるといい」
その育てる対象は頭の中のことものではなく一言でいえば「自然のもの」で,
今の自分には全く欠けているのであった.
これは目を背けず,ありのまま「欠如」と認識しておきましょう.
きっと(←どころじゃないよ)身体性とも深く関わりのあることだから.

+*+*+*

いっしょに並べる言葉でもなかったんですが,
いつも通り過去のウチダ氏ブログを読み返していてタイムリーな話を見つけたので.

>>
私はまえにこう書いたことがある。
「独裁的な権力者は、理不尽な暴政を行うほど呪術的な威信を帯びる。殷の紂王からスターリンに至るまで、独裁者はその理不尽さゆえに畏怖され、憎まれる。もっとも独裁的な権力者とは、定義上、その没落を彼以外の全員が切望するような権力者のことである。」(『現代思想のパフォーマンス』)
独裁者の権威は、その「理不尽」さ、つまり「彼が次に何をするか分からない」ことを淵源とする。
(…)
今回の行動で、彼はむしろ北朝鮮金王朝の玉座を継ぐ資格が十分にあることを内外にアピールできたのかもしれない。
何を考えているか、何をするのか分からない人間」が、東アジア政治情勢の「鍵」を握っているという「恣意性の恐怖」こそ、金正日が手持ちの政治的リソースを国際政治で最大限効果的に発揮するために見出した奇策だからである。
夜霧よ今夜もクロコダイル(内田樹ブログ2001年)5月5日
>>

これはこの頃あった,金正日の長男(らしき人物)が偽造パスポートで日本に入国しようとして拘束された,
という事件についてウチダ氏が書いたもの.
最近のミサイル騒ぎが念頭にあってこれを引いたのだけど,
北朝鮮のふるまいはわけがわからないがその「わけのわからなさ」は
「独裁者の政治的駆け引き」という文脈におけば常道であるという話.
これを「理に適う」と言えるためには,論理の自己言及性を頭に入れておく必要がある.
…というか逆に言って,
「合理的な行動」と呼ばれるものが時に空疎で現実的でないのはこれが抜け落ちているせいかな,と.
予件のない正義論は「きれいごと」でしかない.
「ケースバイケース」が「そりゃあたりまえ」で終わってしまう人も抜けている.
投げやりな言葉ではなく,戒めの言葉として使われてこその「文脈次第」だろう.


ウチダ氏記事を肴にマジメに考えていると説教調になるのは偶然ではないな…
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by chee-choff | 2012-04-08 23:08 | 思考 | Comments(0)
変化の名
『リヴィエラを撃て』(高村薫)を読了.

やはり高村薫の描く主人公は境界人であった.

関西と関東のはざまに合田雄一郎は生き,
宗教と政治のはざまに福澤彰之は生き,
そして今作の手島修三は日本とイギリスのはざまに生きた.

秩序と秩序の境界では,摩擦が起こる.
境界人は,その摩擦に吸い寄せられる運命にある.
その運命を甘受してこその境界人.

うん,憧れました(あんたそればっか)
憧れた時にいつも悩むのは,読み手としての自分が既に俯瞰する位置にいること.
「同一化したい」という思いは,抱いた瞬間に構造的に叶わぬと決められた願い.

だから,次元を上げねばならない.
読み手としての己はいかなる境界に立つか.
それは「現実と物語」.

己がその境界人として甘受したる認識とは何か.
「物語は現実を包含すると共に現実の一部であり、現実は物語の一部であると共に物語を包含する。
 両者は渾然一体となりながらも同一にはならず、その姿を静的に定めることはけっして叶わない」

両者を一つ名で呼ぶとして,「ウロボロス的永久機関」はどうだろう.
科学で実現できないものも,意識はいともたやすく実現できる.
つまり「永遠」は意識の夢.

+*+*+*

と書きながら及んだ連想.
きっと「同じ話」.

>>
進化は「種分化」──一つの系統が母種から分離すること──によって進行するのがふつうであって、この大きな母種がゆっくりとしだいに変化することによってではない。種分化が何度もくり返されると、一本の灌木が生ずる。
(…)
エルンスト・マイアによってひろめられた異所説では、新種は母種の分布範囲の周辺部で母種から隔離されるにいたった非常に小さな個体群から生じる[E. Mayr, 1942]。この小さな周辺隔離個体群における種分化は、進化の標準から見て非常に急速で、数百年ないし数千年(地質学的年代からすればほんの一瞬)でなされる。
スティーヴン・ジェイ・グールド『ダーウィン以来 上』「6章 ヒトの進化における灌木と梯子」p.84-85
>>
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by chee-choff | 2012-04-06 23:14 | 読書 | Comments(0)
遊歩道。散策の道、回遊の道。
『「聴く」ことの力』(鷲田清一)を読了.

旅に出たいと思った。
いや、この本を読みながら、すでに旅に出ていたのだった。
「いま、ここでしかありえないところ」に、いくつも立ち会ってきた。
そして読みおえた。
だが、読みおえて「かえってきた」わけではない。

 「臨床哲学は始まったばかりである。」

ことばをたずさえて。
ふれる(振れる)ことをおそれずふれる(触れる)。
<わたし>を「あなた」とよぶ<あなた>を、<わたし>も「あなた」とよぼう。
そうしてぼくたちがともに<わたし>であるために。

>>
(…)ランドネ[遊歩道]の道は、風景と折りあいをつけながら、ときに風景のその襞のなかに紛れ込んだり、社を迂回したり、別の道に通じたりして、うねうね進んでゆく。この「長く、曲がりくねった、ぎざぎざした、雑多な」ランドネの道で、ひとは寡黙なものにふれる。思いがけないものと遇う。用がないものにも目を向ける。じぶんが方法の道の上にいればぜったいにふれられないものに、ふれるのである。
第八章 ホモ・パティエンス
>>

未知に充ち満ちる道を。
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by chee-choff | 2012-04-05 00:26 | 読書 | Comments(0)