深爪エリマキトカゲ
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工場C…

ということで田中Bさん紹介.
魅惑的な蔭りのある音作りが大好きです.

【鏡音リン】記憶消失【オリジナル】
コロ助!

【鏡音リン】夢少女【オリジナル】
夢.
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by chee-choff | 2012-01-26 22:52 | V概論
ご飯とキムチの不均衡動学

 米を食い

 キムチ頬張り

 米を食い

 キムチ頬張り

 米を頬張り


ちひろ
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by chee-choff | 2012-01-24 23:31 | メモ
「ニコ動」的リテラシー
『括弧の意味論』(木村大治)を読了.

もともと括弧については興味があったのでさらりと読めた.
多少雑学を弄んでいる感があったのと,
ほんの一部の空疎な学術的記述(これが実感と乖離するとわりと興醒めする)が気になったのを除けば
全体的に面白かった.


新刊を読むのが久しぶりだったのでナウい(←死語?)話題に新鮮さをおぼえたが,
その中でニコ動に関する記述におっと思ったのでここにメモしておく.

>>
(…)また最近流行している「ニコニコ動画」では,インターネットの利用者が自由に動画にコメントをつけることができる.そのコメントは,動画を見ていて思わず勢いでつけたものもあるが,じっくり見て,じっくり文章を考えてつけることもできる.見る人にはそれが同時に見えてくる.そこは同時性と事後性が奇妙に絡み合った世界だと言える
p.66-67
>>

再生している動画に上乗せしてコメントを流せる,というニコニコ動画の特徴は
「共時性効果」(みんなで一緒に見ている)としてよく挙げられるけれど,
実はそのコメントは自分が見ている「今の今」に付けられたものだけではない
(むしろそれは全体のほんの一部に過ぎない)ことは意外と見過ごされている気がする.
 とはいえ実際に本当に同時に見ている必要はないのだが,それは
 「同じ場面で自分が感じたものと同じ反応がコメントで流れてくる」ことが
 共時性効果を演出するからである.

話が少しズレたけれど,ここで強調したいのは抜粋で木村氏の言う通り,
動画を流れるコメントには同時性と事後性が共存していることだ.
これは抜粋部の少し前にある「上から見る性」(p.66)の内訳でもあるが,
俯瞰するだけなら新聞でもテレビでも同じである.
そして新聞やテレビにも,提示される情報の「時間軸上の位置」にばらつきはあるのだが,
ニコニコ動画ではそれらと比較して「ばらつきの無秩序さ」と「切迫性」が突出している.
無秩序に流れていくコメントは視聴者の理解を待たずに画面上からすぐ消えてしまうのだ.
(もちろんそれはコメント投稿者が他の視聴者のことを考えているとは限らないからだ)

つまりニコニコ動画の視聴者は左から右に(たまに逆向きもある)大量にそして無秩序に流れる
コメントの階層的な位置づけ(本書でいう「論理階型」@ベイトソン)の判断を迫られることになる.
(コメントを逐一まじめに確認する視聴者の割合は少ないと想像するが,
 その意思がなくとも目の前を通り過ぎるだけでその気になるものである.
 が,コメント非表示設定ができることも言っておく必要はあるだろう)
何の階層かと言えば,前述を言い直しての「このコメントはいつ書かれたものか?」をはじめ,
「どの場面の何に対してツッコんでいるか?」「そもそもこの動画に関係のあるコメントか?」など,
いくらでも挙げられそうだ.
(と言ってこの項目の全部が全部「階層性」に沿わない気がするので,階層性も含めて
 ひろくコメントの「意味」と表現した方が良さそうだ)

そして意識的にしろ無意識的にしろそのような判断を下すことが習慣化すると,
「上から見る性」が強化され,その姿勢がニコニコ動画の視聴に留まらなくなる.
これが何事にも無感動というか常に白けた(人の)性質につながる,
という話ができるけれど,それはタイトルにつけたリテラシーの成長方向が負であって
(そしてこれと同じことはテレビについても昔から指摘されている),
僕が言いたかったのは正のリテラシーを付けられる可能性の方である.
(ここでいう正負は僕の主観です)

ちょっと長くなってきたので簡潔に言うと(ここからが本題のはずなんだが…),
自分の目の前を流れる情報の意味(階層性)の判断能力は
画面上に対してだけでなく広く日常生活で必要とされるものであって,
要はニコニコ動画のコメントと会話相手の発言内容を同一視できれば,
前者の経験を後者に活かすことが可能なのだ.

ここで同一視と書くと妙な誤解を生みそうなので補足すると,それは
後者を前者と同一視するのではなく,前者を後者と同一視するという意味だ.
ここでは生身のコミュニケーションに活かすと言っているので,
例えば画面上の無機質なコメントから個々の投稿者像を立ち上げるわけである.

その場の勢いで書いたコメントとよく考え抜かれて書かれたコメントとは
大抵すぐ見分けがつくものだが(ある場面のネタの背景を説明する「解説コメント」などが後者にあたる),
後者のコメントについては投稿者の立場や意図について考える価値は十分にあると思う.
もちろん前者について考える価値がないことはないが,
それは勢いで書かれたものだけに考えなくても分かるというだけの話.
そして前者と後者の見分けがつきにくいコメントが,
時に自分の価値判断基準を顧みることにつながったりもして一番興味深かったりもする.


うーむ…
論理的に書こうとすると途中で論理が暴走することがあって
(この暴走は悪い意味ではなく,論理発の新たな発想が生まれて,別の方向性が見えるということ),
気がつくと最初に思ってもみなかったことを書いていて基本的にそれは面白いのだけれど,
自分の実感から外れたことが書かれていたりすると「あー,やっちゃったな…」と思う.
まあそれも“書き始めの自分の思うところの”ではあって,
よくよく考えれば新たな実感が湧いて「なるほどー!」てなことにもなりうるわけで,
そこまでいかない(もっていこうと思えない)のは明日が会社だからですね.
サラリーマンだねえ.

何かしら「心残り」があればまた追記したいと思います.
「ニコニコ動画の(人の性質に関わる)機能」というのはもともと興味のあるテーマだったし.
うん,本書に触発されてここまで書けるとは思わなかったので,
4つかなーと思ってたけど☆半分プラスしておこう(ソーシャルライブラリの話です).

ということで(?)久しぶりにアフィって〆.
本書内で「刺激的な論考」と書かれていた本もつけときます.
卒論でプログラムがりがり組んでた者として避けては通れない(?).


括弧の意味論
木村 大治
475714265X


記号と再帰―記号論の形式・プログラムの必然
田中 久美子
4130802518

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by chee-choff | 2012-01-23 00:36 | 読書
ツブラダファミリア
小説家には今の所憧れないけど,
小説家のような日常には少し憧れる.
つまり「高等遊民」というやつ(ちょっと違うか).
 高等遊民といえばかの守田氏(@森見登美彦『恋文の技術』)の
 「しばしば本質を突き過ぎる妹」の将来の夢でもある(なんと殊勝な!).
 しかし優雅な響きだなぁ…コウトウユウミン.
 そう,無我夢中でなく「有我夢中」にして「優雅夢中」なのだ.
 すれば前者は「無我霧中」といったところか.
 ワレナクシテキリノナカ,ワレアリテユメノナカ.

そうか,それを言うなら「小説を書かない小説家」か.
「あー,書く気しねえなあ(笑)」とか言って本を読み漁る日々,とか.

>>
「そう.つまりね,笑うとか,泣くとか,怒るとか,喜ぶとか.それらはどれも何かと何かがつながったときに引き起こされるもんなんだよ.感動とか,感激とか,何かがひらめくのも同じ.アイディアを思いつくとかね.それは決して外からやって来るんじゃなく,どれも,もともと自分の中にあったものが,不意につながりあって引き起こされたものじゃないのかな.若いときにはそれが分からなかった.自分の中に溜め込まれたものがまだ希薄だったから.でも,あるときからそれがつながり始めて,自分の中でいろんなものが意外なかたちで起ち上がってきた.それはさ,もう運命といっていいような気がするんだよ」
吉田篤弘『圏外へ』p.201
>>

つながらなければ,ただ呆然とする.
「見たこともないものを見た」時に,それが自分の中の何ものともつながらなければ,
反応の仕方が分からず,きっと全てが止まる.
車道に飛び出した鹿の如く.

円田氏(「つぶらだ」と読む)が言うように,人との関わりにおいてもそうであり,
「つながった」が生じるには「つながる前の分離された2つのもの」が必要であり,
予定調和はそれには馴染まない.

「分離された2つのもの」のそれぞれが既知であっても,
その2つのものがつながるという「関係」は未知なるもの.
つまり大きく捉えれば,未知こそが喜怒哀楽の源.
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by chee-choff | 2012-01-18 23:25 | 読書
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯(Ⅰ)』
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長い間読むのを中断していたのだけど(日常から記述に入り込む余力がなかった),
今年に入ってからナゼか一念発起して続きを読み始め,なんとか読了.
引き続きⅡ巻に入って,そのまま勢いで次はサイードの『オリエンタリズム』に挑戦予定.

再開した理由がちょっと思い出せないのだけど,
「一文一文を分かろうとしない」と肩の力を抜けばいいことに気付いたのが
再び読み始めた理由(あれ?).

固有名詞が沢山出てくるし当時の自然描写とかされて逐一脳内で再現できる,
って方がありえないのだけど,併読してる本はそういう読み方をしていたので
気付かないでいたのだった.

で,やっぱ本に入り込むには脳内BGMですかねということで,
クロノトリガー(懐かしい!)の「時の回廊」をチョイス.
現代日本から近代の南アメリカ・南アジアに「時を超える」わけです.
ちょっと前に見つけていたリメイク(しようとしていた?)サイトから頂きました.
corridors of Time
(少し下にある「SAMPLE MUSIC」にあります)

ちなみに本書と雰囲気ピッタリな付箋は院生時代にゴウ君に貰ったもの.
(中東かどこかの旅行土産だったかな?)
この方(付箋を指しています)も雰囲気作りに大いに貢献してくれました.
あとはお香(ホワイトムスク)を焚いたりとかしてました.

全然関係ない話だけど,ちなみのちなみに一緒に写ってるメガネは以前買ったPCメガネ.
更に目が悪くなった証なのかもしれないけど,日常に定着してしまった.
しかもPC見る時だけでなく,蛍光スタンドで読書する間にも欠かせない存在に.
今夏に度付きバージョンも発売されるらしく,こちらも是非ほしいところ.
傍目から色が少し入ってるように見えるのだけど,なんとか会社でもかけられないかしら..

+*+*+*

わっふるふわふわ.

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この形状の雲がどう形成されたかについて少しだけ考えたのだけど,
たぶん「ワッフル雲」は粒子でなく波として振る舞っていたのだと思う.

「ぜーまん!ぜーまん!」
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by chee-choff | 2012-01-15 16:19 | 読書
迂回東海阿藤快
阿藤快が関西人かどうかは知らないけど,
阿藤快みたいな関西(から来た)人と一緒に仕事をすることになっ(てい)た.

よろしゅうたのんます,ほんま.
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by chee-choff | 2012-01-12 23:21 | 社会人
目が鯛
 「メデタイ」は「目で鯛を釣る」の略でないのと同様に,
 「メガタイ」は「目が痛い」の略ではない.

ツチヤ教授のエッセイを読んでいると訳の分からないことを言っても
別に構わないような感覚が芽生えてしまうのだけど,
教授の語り口の妙は「訳の分からない感じがなんだか分かる」というもので,
この境地に達するには「対話相手を煙にしか巻かない」長い蓄積を要すると思われる.
つまり即興で真似をしても「訳が分からないだけ」であり,
それがいつもの自分と大して変わらないことを自覚した時に,
彼は自分に才能を見出すのか,危機を見出すのか.

つまり目が痛いです,はい.
自宅PCは控え目週間.
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by chee-choff | 2012-01-10 23:27 | 社会人
paradise lost
凄いベン図やねこれは.

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+*+*+*

思い浮かべる内容は一人ひとりが違って,
でも誰もが「そうそう,そうよね」と納得できてしまう言葉,
例えばこういうのが「普遍へ達した抽象」なのかなと思った.

>>
 そこに居続けて,その結果そこに依存するしかなくなって,「出たくない」と思うようになった人間が,実はその根本において,「ここにいたくない」という矛盾を抱えているのだとすれば,「出るしかない」という危機が,あまり危機にはならない.今の日本の不思議さは,そこにあるのだろうと思う.
「希望がない」ということが,そのまま「希望がある」になる.「出たいけど,出たくない」の矛盾はそれを可能にする.べつに悪くはないだろう──自分の真実を見つめる目がありさえすれば.
橋本治『失楽園の向こう側』p.278-279
>>
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by chee-choff | 2012-01-08 20:33 | ハシモト氏
ゆくとしくるとし('11→'12)3.1
ゆくくる3では勝手に指が動いて書き始めたが何を言いたいかも分からず,

結局まだまだ力量不足だと思われたので仕切りなおして「ゆくくる3.1」です.

(3.1と書くとwindowsですね. 古い?)


身体性について言語化するにおいては,やはり自分の身体的経験をもとにすべきと思われた.

その系統の本は読んでいて,なんとなく感じを掴めてはいても,

それを自分の言葉で伝えようと思うのに「枠組み」の話ばかりをしていては,

読み手に実感は訪れないだろうし,だいいち身体性の要諦は実感なのである.

だから力量不足というよりは,経験不足.

この経験はいくら本を読んでも積み増されるものではないのは分かっている.

が,それでも腰が重いのは,自分の言葉で表そうと思っていないのだろう.

「この本を読めばいいよ」という紹介を人には(普段の会話の少なさにしては)よくするのだけど,

自分の言葉で何か相手に納得してもらおうという気力があまり湧かない.

それは「伝えたいことを自分の言葉で伝えるより本を読んでもらった方が早い」という気持ちが

わずかにはあって,これを掘り下げると「”自分発の”自分の伝えたいこと」が日常の読書を

ベースに構築されたものであること,加えて「自分から”思い通りのコミュニケーション”を立ち上げる」意思が

極めて希薄であることが想定される.

まぁ「草食なのね」と一言で済むのだけれども..


さて,去年を振り返った実質があまりないように見えてそれでも気が済んだのは確かなので,

そろそろ今年の抱負等に移ろう.

社会人になると日々の変化が乏しいことはもう分かった.

もちろん職種にもよるけれど,きっちりと仕事をこなしていればこそ日々の変化は乏しくなる.

それを休日に目一杯遊んでメリハリを,というリズムの付け方はもちろんアリである.

が,もう分かりきってはいるが,僕はそれとは異なる位相でリズムを付ける.


日々の変化が乏しい理由は,実際分けられるものではないが要素として2つある.

簡単に言えば入力が小さいか検知系が鈍いかである.

お手軽なのは「入力を大きくする」方だと思われがちだが,

そのお手軽の意味は「検知系の存在を無視できる」ことだ.

両者は分けられないと言いつつも,少し考えれば原理的には

「入力を大きくする」のと「検知系の感度を上げる」ので同じ結果が得られることは分かる.

原理的にはそうだが実際はどうなのだ,と言われると僕に自信はないので,

とりあえず「自分を被験者にして実験」をしているのである.


つまり「今年も変わらず本を読みまくる」ということなのだけど,

(それで充実が得られるとして)何がいいかといえば,とにかくお金がかからない.

必要なところではバンバン金を使うという点で僕はケチではないはずだが,

多くのものに「必要性を見出さない」という認識レベルでは吝嗇なのだと思う.

そうしてどんどんお金は溜まっていくのだけど,貯めたいと思って貯めるのではない(だから「溜まる」のだ).

そして嘘だと思われるかもしれないが,

「今溜まってるお金が急に価値を失っても何の痛痒も感じない」ようになれればいいなと思っている.

内田樹の言う金持ちの定義は「お金に頓着しないでいられること」であって

(「健康のことを気に揉まずに済んでいる人が”健康な人”である」と同じ論理),

それに従えば金持ちかどうかと所有資金量とは全く関係がない.

ということで,その意味で僕はずっと「金持ち」でいられたらなと思う.


話を戻して(と言って戻す話があるのか?),

まあ会社でお荷物にならないようしっかり仕事はして,

でもプライベート(というか「一人の時間」)はしっかり確保して「考えること」を軸とした日常を過ごしたい.

で,気が向いたら散歩部の活動をしたり何かよく分からない流れを起こしたりして,

それに自分で巻き込まれてテンパるのもたまにはいいかな.


毎年同じことを言っているかもしれないけれど,

今年の心掛けを羅列しておこう.

 「考えることを諦めない,でも身体の言うことは聴く」
 …これが矛盾だと思えたら何かが極端になっている.
  考えるのも肩肘張らずに,しかし快感に溺れることもなく.

 「場の雰囲気に敏感になる」
 …誰かといる時に限らず,街中でも山の中でも,どこにいる時も.
  「空気を読む」もこれに含んでいるけれど,「遂行的KY」を恐れない.
  何かといえば,「空気を読んでも”読んだ通り”に行動するとは限らない」である.
  (巷で言われるKYとは「認識的KY」のことである)
  都市では鈍感にならざるを得ないというのなら,都市には近づかない.
  一気に敷衍すれば「何をしたいか」ではなく「どう有りたいか」を優先する.

 「来る者拒まず、去る者追わず」
 …これはもう言い飽きた.
  ので今年は加えて,「自分にそれと分からないように流れをつくる」作法を身に付けてみよう.
  前半部分の意味するところは,自分がプレッシャーに弱いということ.
  それをプレッシャーに強くなると言わないのは,これは僕の多分な偏見かもしれないが,
  プレッシャーに強い人は大体が「鈍感」なのだ.
  このあたりはよく分からないので深くは掘り下げないでおこう.

このくらいかしら.

あとは,いつも健康でいられたらと思う.

不健康になって健康のありがたみを知るのはいいのだけど,

不健康な時の思考がいかに惨憺たるものかはもう何度も経験した.

(それを考えるとニーチェは凄いなと思ったり…まだ全然読んでないですが)

だから不健康な時は(それでも色々考えてしまうので)考えたことに重大な意味を与えないことにした.

 人が何かしら不幸な時,その人がどんなことを考えようと「今ある不幸から脱したい」思いが

 その思考内容を侵食しているのであり,たいていの場合は思考の射程が極端に短くなっている.

  例えば風邪で寝込んでいる時に「会社を辞めたい」と思ったとして,

  その思いは間違いなく正直なのだけど,だからといって誰も会社を辞めたりはしない.

 すっ飛ばして言うけれど,「思考の射程を延ばす」ことは「個人に留まらず共同体を思う」ことにつながる.


うん,総括すれば「外部に開かれた思考を紡いでいく」ということで.


ではでは,今年も皆さんよろしくお願いします.

chee-choff
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by chee-choff | 2012-01-02 14:56 | 思考
interlude - しじま、つつくら -
紅白を見ていての感想が,

「松山ケンイチが笑い飯にしか見えない」

の一言しか思い付かないままだらだらと大晦日の夜を過ごし,

途中で卒業アルバムを見ようと思い立ち,

いつも高校のを見てるから今年は中学のを見ようと思い(なぜか小学校のは行方不明),

同学年の旧友を眺めていて「あーいたなぁこんなやつ」と嘆息すること多数.

しかし(少なくともクラスメイトになったことのある人の)顔と名前はバッチリ覚えていて,

その声まで再現できるのだけど,その人に関わる出来事が何も出てこない.

既に固定化した印象の強い出来事はいくつかあって,でもそれが登場人物を思い浮かべて

はじめて小学校だったか中学校だったかが分かるところに少し不思議さを感じる.


 体験が記憶としてそのまま残らず,意識化しにくい形に変わって身体の底に沈んでいる.

 僕は昔からたいへん寡黙だったらしいが(実家に戻る度に祖母がそう語ってくれる),

 僕の記憶というのは意識化しにくいのではなく,言語化しにくいのかもしれない.

 そして意識化のしやすさとは実は言語化のしやすさなのかもしれない.

 とすれば,「昔の記憶があまりなく寂しい」と自分の過去について僕が思ったのは

 言葉に触れる機会がぐんと増えてからのことだった(だから学部4回生頃か)はずだが,

 あれは「記憶を言葉に表現することができない」ことを嘆いていたのだろうか.


 言葉を使わずとも,昔の記憶が今に息づく瞬間を感じる手だてはある.

 そしてその手だてを導くことができるのは言葉であることを僕はもう知っている.

 言葉を信頼することで,言葉で表しきれない自分を信じる.

 言葉が,そして言葉と共にある人間が,そのアクロバシーを体現できることを僕はもう知っている.



記憶に残っていた同級生の顔とアルバムに載っている当時の顔との差を楽しみ,

みんなが中学生に見えないのは自分のアルバムだからだろうか…

などと物思いに耽っていると,いつの間にか時計は23時を過ぎていた.

大急ぎで着替えて防寒対策を身体に施し,運動靴を履いて外に出る.



 今年の大晦日はあまり寒くないな.

 空は全国的に曇ると言っていたが,視界の所々に星が見える.

 往復とも山道を歩こうか.


変わったところといえば,

山道の入り口近くの竹籔が切り開かれ,新しい家がいくつか(といっても数十件)建っていた.

そういえば散髪屋のおっちゃんも「人がどんどん増えている」と言っていた.

大阪・京都の両都市圏に電車一本で通えるベッドタウンとしてここらは住み易いと聞いたことがある.


山道は去年と変わりなくあった.

曇っていて月明かりが弱々しく,自分の歩いている道の起伏がほとんど見えない.

どこに段差があったか,どこから舗装されているか,といった道の特徴を,

そのパターン変化に足裏が触れて初めて思い出す.

歩くのが年に1回ではさすがにそこまで覚えられないらしい.

ただ経験から醸される安心感ははっきりとあって,

調子に乗って上を向きながら歩くと幾度か地面の凹凸に足をとられた.


山道の途中で参拝者のグループに追いついたのでゆっくり歩く.

家を出た時刻からするとぎりぎりだったはずだが,もう諦めて時計(携帯)は見ずに後ろをひっそりついていく.

「ここ段差あるよ,気ぃ付けな」

おじさんが母親の後ろを歩く小さな女の子に声をかける.

会話を聴いていると年輩方と親子連れは他人同士のようだ.

女の子の歩みをじっと見守り,声に気配りを隠さないおじさん.

「優しいおとな」だと思う.

 「大人には3種類いる.

 優しい大人はめったにいない.

 優しくない大人には近づくな.

 いちばん危険なのは,どっちでもない奴らだ」

 たしか『優しいおとな』(桐野夏生)で,双子の少年は主人公にこんなことを説いていた.


新年には間に合わないと途中から諦めていたが,

石清水八幡宮の敷地に入り,休憩所を見渡せる砂利の敷かれた広場に着いたところで0時を迎える.

どちらかといえば間に合ったと言ってよいタイミング.

放送が流れ,拍手がちらほらと起こり,新年の挨拶が入り交じる.

礼を交わす男女も何組かいたが,ある向かい合ったカップルがふと目に留まった.

人混みから離れて立つ二人は2メートルほど離れていた.

頭を下げる仕草に落ち着きがあり,表情は見えないが二人で柔らかな沈黙を共有していた.

見ているこちらも心が安らいだ.


参拝者が増えると予想されたのか,本殿へ通じる参道を仕切って順路が作られていた.

確かに人は多かったが,特に去年より増えたとは思わなかった.

長く立ち止まることもなく南総門をくぐり本殿の見える位置までたどり着き,

やはり賽銭は入れずに参拝者の観察を始める.

それが習慣付いてしまったのか,去年や今年について思い巡らすこともなく,

すぐに背景に溶け込んでぼーっとする.


色んな人の顔が,その表情が見える.

誰かと一緒にいる人も,独りでいる人も,周囲を見渡すことはない.

遠くに目を向けるのは,遠くに知り合いを認めて手を振る高校生や

母子の歩みの遅さを何ともなしに見つめる父親.

視線の遠さからして僕は異質であったが,居心地は特に悪くない.

 異質(特異点)が目立つ場合と目立たない場合がある.

 人々が周囲への注意を欠いていれば,異質は目立たない.

  人々が周囲への注意を欠くのは,個々に満たされているか,または個々に余裕がないか.

  両者の違いが顕れるのは,人々の間で,または人々と異質の間で衝突が起きた時.

  一方で人々が周囲に気を配るのも,個々に満たされているか,または個々に余裕がないか.

  両者の違いが顕れるのは,人々の視界に異質が捉えられた時.

 異質のままでいる精神の強さに憧れ,そして憧れでなくなった自分には,

 「時に”人々”になって異質を外から眺めるしなやかさ」が足りないのだと思う.

 つまり傍観者でいいと思っていた自分の視界に,まだ自分自身が入っていないのだと思う.

 そのしなやかさを獲得する第一歩として,いったん傍観者の視点を手放さねばならない.

 そして手放した自分の行く末を,先の見えないまま,信じなければならない.

  きっと,戻って来たいと思う場所は,戻るべき場所ではないのだ.


本殿の外周をひとまわりし,入ってきた門をくぐり出て,焚き火にあたる.

冷え切った腕から先の暖をとりつつ,ふと思い出して右目で火を見る.

火が,赤々と盛る炭が,なんだかリアルに見える.

なんだか熱そうだし,現に熱い.

しばらく見つめ,視点を左目に戻すと,しかしなんだか「帰ってきた」気がした.

ふむ,やはり右目が見るのは「夢」か.

 夢がその姿をはっきりさせてくると,現実は霞むのか? 

 それとも,より強度を増すのか?

 現実と夢の関係が,そのどちらかを決めるのだろう.


恒例の缶お汁粉を外の自販機で買い,

しばらく両手で弄んでから飲む.

缶の側面,アサヒの銘柄の上には「老舗の味を再現」とある.

これは缶で飲む状況も含めての老舗の味だろうか.

 もしそうだとして,この缶お汁粉をお椀にあけて飲んだ時に,

 缶のまま飲んだ場合より美味しくなかったら面白いなと思った.

 やはり味というのは食べ物と食べようとしている人の相互作用なのであって,

 「缶ジュースが”本物”より美味しいはずがない」という先入観を外せればそれは実現可能だろう.

  新商品がひっきりなしに生まれることで,こういった視点は失われていく.

  この視点が「自分の仕事の存在意義を疑う」,ひいては「自分の存在への疑問」に至るとしても

  (それに薄々気付いているからこそ誰も考えない),やはり寂しいなと思う.

   哀しみの先に喜びがあり得ることを知っていて,なぜニヒリズムを嫌うのか.

   感情と思考は相容れない? それを決めるのは思考ではなく,感情なのに.

  
帰りも山道を歩く.

前後に参拝客がいて,足下の明かりには困らなかった.

「下りたらホームセンターに寄ろう. 洗剤と…」

携帯のライトを手にした若い女性のペアが,ゆっくり歩く僕を横から追い抜く.

ライトを忙しなく動かし,会話も止むことなく足早に下りていく.

そこには「あるべき気配」がなかった.

 ライトによって周囲の風景が明滅し,周波数の高い音波が飛び交ってはいたが,

 それら以外に「二人の女性がすぐそばにいる存在感」を感じ取ることができなかった.

 密な竹籔に囲まれた闇の中で彼女らが異質であったのは確かだが,

 あるいは彼女らは「人の気配を消した闇」として周囲に同化していたか.

 …すれば,自ら闇と近しかったはずが,その「一体感」に慄いた僕はそこでも異質であったか.


山道を下りきり,行きに目にした新築の宅地周辺を歩いてみた.

去年の大晦日はここらは全て竹薮だったのだから,建って半年も経たないだろう.

それにしてはどの家も人が入っている.

隙間の多い庭や蔦壁(フェンスに蔦を絡ませるもの)が新築の象徴に見える.

建家や表札はどれも個性的で,窓の形・配置にもモダンなデザインを感じる.

シムシティ2000(Windowsの都市育成ゲーム)をやり込んだ者として,
 
この界隈のこれからの発展を楽しみにしておこう.



山を下りてからもあちこち散歩していていたが腕がまただんだん冷えてきたので,

途中からいつもの道に合流して足早に帰途につく.

全く時計を見なかったのだが,家に着いて見てみると1時半を過ぎていた.

ベンチに座ったのは缶お汁粉を飲んだ時の15分程度なので,

かれこれ2時間以上は歩いたり立ち止まったりしていたらしい.

 ブックオフ通いに加えて在宅天狗,それに散歩部まで始めたものだから一段と脚が鍛えられたのだろう.

 体が冷えただけでそれほど疲労を感じないところ,とりあえず健康ではあるようだ.

早々に湯船につかり身体を暖め,特に何を考えるでもなくぼーっとし,

水を少しだけ飲んで就寝.


年の変わり目をほとんど意識しなかったなあ…
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by chee-choff | 2012-01-01 21:03 | 思考