深爪エリマキトカゲ
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ゆくとしくるとし('11→'12)3
僕が読書に限らずふつうに生活するにおいて念頭にあるテーマがあって,

それは固い表現でいえば「身体性の復権」である.


内田樹を読み始めてから僕のブログに「身体性」という単語が頻出するようになったのだが,

言葉によって賦活されるものではあれ身体性を言葉で捉えるのは非常に難しく,

「脳は無限だけど身体は有限」という氏の言葉は総論であって,

各論では「どんな言葉で身体がどう反応するか」は人によって千差万別である.

 (個人の身体経験と言語活動の相互作用が有限であるとはイメージしにくい.

 あまり厳密に考えず「法則性を捉える」ことを主眼に据えるべきなのかもしれないが.

 うん,やはり「他者との身体感覚の共有」と言うならそう考えなければ話にならない)

自分で書いていて既に混乱しているが,要するに身体性は簡単に言葉で表現できるものではない.

けれど,幼少期に触れられる身体経験が確実に減っている現代においては,

「言葉による想像」から身体性を立ち上げる仕組みの方が現実味がある.

(本当は,というか過去においては身体にしっかり刻み込まれるだけの経験を小さい頃に積んで,

 それを言葉を細やかに扱えるようになってから言語化するという流れだったのではと想像する.

 ・幼少期の経験とは田んぼや原っぱや小川などの「手つかずの自然」の中での体験のこと.

  養老先生なら「きちんと手入れされた自然」と言うかもしれないが.

 ・その成長後の言語化の機会とは例えば情報社会に取り込まれて感じる身体の違和感に触れた時に訪れる)

とはいえ,行動力のある社会人なら稽古やサークルに参加して身体性を引き出す機会を自分で作るだろう.

だからここで言っているのは僕みたいな「出不精だが身体性に興味がある人間」と,

「そもそも身体に大した注意を払わない人間」(こちらが大多数だろう)を前提としている.


+*+*+*


…グダグダ中学のアルバムを見ながら紅白を聴いていたらけっこうな時間になってしまった.

上の書きかけはまあおいといて(多分続きは書かない気がする),

さっそく準備をして今年もはちまんさんにのぼってきます.

寒いけれど歩くうちにあったまってくることでしょう.

ちょっと(アルバムのせいで)頭がタイムスリップしてるけどどうなるか(まあどうもならんでしょう).


ではではみなさんよいお年を.

m(_ _)m 23:15


+*+*+*


25:45

戻ってきました.
腕が冷えた…ぼーっとした時間が思いのほか長かったようです.
特に何もなかったけれど,明日何か書くと思います.
ではとりあえずおやすみなさいー
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by chee-choff | 2011-12-31 23:15 | 思考
ゆくとしくるとし('11→'12)2
2011年はどんな年だったか.


と言って,「考え方」ばかり考えてきた自分には,

当たり前とされる問いの立て方に安穏とできない回路ができてしまった.

だからなんだといえば,「一年ごとに特徴付けて何になるか?」という疑問が,

「ゆくくる」を書こうとする傍から立ち上がってきて面倒だなと思う.


意味など何もないと言いたいのではなく,

意味があるのならその意味をきちんと把握した上で考えた方がよいと思う.

そうでないとその行為が上滑りして,何も残らず全て流れて行ってしまう.


「一年ごとに特徴付けてアルバムにしまう」のは,全てを水に流したいからかもしれない.

 今年は良いことも悪いことも沢山あったけれど,来年は心機一転頑張ろう.

 「君子豹変す」「朝令暮改」「心機一転」とぱっと思い付くだけでも「水流し作法」の言葉はいくつかある.

 (そういえば今朝か昨日の朝日社説のタイトルにも「首相は豹変すべき」とあった)

過去を水に流すのは,学習機制を削ぐというマイナスにもなり,過去の失敗に囚われないというプラスにもなる.

日本文化の伝統的な作法としてのそれは,後者を生かしながら,前者の発現を別のフェイズで抑え込む,

ということをしていたと思う(という印象).

でも,昔からずっと同じように水に流していて,プラスとマイナスの効果がそのまま維持されるか,

と考えればまあそんな筈はない.

つまりプラスとマイナスのウェイトがズレてきていると思うのだけど,

なぜそれがそのまま良しとされる(←特に指摘されない=「まあいいや」)のかといえば,

ここでいう「プラスとマイナス」の価値評価基準が昔のものだからだ.


当たり前だけれど,人は何かしらに(自分に,家族に,共同体に,国に…)良かれと思って行動するわけで,

仕事をするにも会話をするにも,明文化できないレベルを含めて目的があり,

その目的を括れる印象の名は「kaizen」である(マータイさん哀悼…あ,あれは「mottainai」か).

 たとえ「誰かを不幸に陥れる」という行為であっても,

 それは復讐心の達成あるいは自己精神の安寧化という「状況の改善」が目的だ.

だから主体的な視点に限れば誰も自分が悪いことをしているとは思わなくて,

そこにふっと影が射すのは他の視点(特定の他者の視点や常識・ルールなど個を離れたもの)が混じる時である.

…と言ってみたがこのモデルに当てはまる人は(日本人には?)あまり多くなくて,

実際は主体的な視点が「影そのもの」(=実体がない)になっている.

つまり(「ツマリよ回れ」),自分の判断だけではうっすらしていて頼りなく(そこには判断の可否もない),

他の視点をバックに据えて(あたかも太陽のように),やっと憂いが消える.

ちょっと話を戻せば,だからこのような人が多数を占める社会では,プラスとマイナスを決める実効力は

個人にはない(と個人は認識している).


さらに話を戻せば(なんでこんな話をしてるんだ…),そのプラスとマイナスの価値判断の変化の要因に,

「想定できる射程の長さの変化」があると思う.

これ以上掘り下げると一気に話が散逸してしまうので単語だけ並べると,

地域共同体の解体→家族の解体→個人主義の流れ(例えばテレビに始まる「一家一台から一人一台」)も,

今ここの欲望を満たすべきという刹那主義も,

子どもが学校で「子ども自身の価値判断に基づいて」何を学ぶかを決定する「学ぶ主体の自主性の尊重」も,

すべて「想定できる射程をいかに短くするか」に血道を上げた結果とも言えるし,

何が人々をそうさせるかと言えば資本主義の枠組みでしょうね.

 資源の限界を知らずかつ身体性が濃く残っていた高度成長時代は,

 資本主義社会を突き進むと言って物質的にも精神的にも余裕があるためにモラルが保たれていたが,

 環境問題が前景化し,脳内事象の実現(養老先生の言う「ああすればこうなる」)が最優先事項となった

 情報社会ではモラル(例えば今は悪く言われる「弾力的な措置」とか)の存在余地がなくなり,

 ルール原理主義への違和感が薄れてくる(もちろんやりすぎて法から逸脱すれば捕まるが).



どんどん話が大雑把になってきたので閑話休題.

何の話をしていたのか…そうだ,今年の総括をしたいのだった.

その総括の意味も考えろよと自分に言い聞かせる所から思い切り脱線したのだけれど,

そうすね,じゃあ「2011年を水に流すつもりはない」ということで話を続けよう.


社会人になってもうすぐ2年が経とうとしている.

一つの会社に勤めていて個人の生活に劇的な変化が訪れる理由はといえば,

社内事情の変化(昇進などの配置転換や転勤)か,その人自身に生活を変える出来事が起こった時だろう.

後者で想像できるのは結婚か身内の不幸(これは実家通いの人に限られるかもしれない)くらいか.


同期で今年結婚した人はけっこういる(同期同士も少しばかり).

院卒の人間が多いせいもあるが,年齢的にも結婚適齢期なのだろう.

一時期は「震災の影響で結婚するカップルが急増した」などと騒がれたが,

過ぎてみれば(そう,自然とこういった言葉が口をついて出てくる)そんなことはなかったように思う.

相変わらず自分はそういった話とは縁遠く,でも教育問題に興味があるというのは

(自分の子どもの話に結び付くし)結婚したくないことはないのだろうなと,

しかしそれを他人事に言えるところが大変微妙なのだけど,

結局は相手がいなければ何も始まらないのであり,それを縁任せにしているところが

「そういうの全く興味ないんでしょ」と同期から言われる所以でもあり,同時に

「でもいつの間にか結婚してて”子どもができました”とかいきなり言いそうね」とも言われる不思議さである(?)

結婚観を語る気はないのだけど,この手の話については

「感度は上げているが(実生活で)自分から言い立てないことを奥ゆかしさと見なしている」

というところで手を打つことにしよう(つくづく乙女だなあ…).


何が言いたかったといえば,「今年は生活に大きな変化はなかった」の一言である.

それは仕事もプライベートもひっくるめて社会人として安定してきたと言い換えられる.

かといって漫然と過ごしてきたつもりはなく,

ある程度の緊張感をもって(仕事はもちろんだが)読書に励めたと思う.


仕事について少し触れると…今は過渡期で,来年も動きが激しそうだ.以上.

仕事とプライベートの分別については,会社で少々淡泊に振る舞っていて(理由は社内事情),

それがプライベートにも反映されて「なんだか落ち着き過ぎてる人」になっている感がある.

 はじけて遊ぶ気がないオーラが伝わっているのか自分に近づく人が減ったことが一つと,

 あとは僕をそんなに悪く思っていない人は自分から近づいてこないことが一つ.

 後者はそれはそれで少し寂しくはあるが,僕の意をきちんと汲んでくれた結果でもあって「正解」.

 だからたまに自分からなにかを誘った時にびっくりする人とびっくりしない人の差がなんだか嬉しい.

まあ,場の雰囲気に敏感でおりつつ,流れをつくったり流されたりしていれば,

何かが始まることもあるだろうし,終わることもあるだろうなと思う(なんという意味なし発言…でもないんだけど).


読書の話に移ろう.

読書時間はこの一年で大きく変わったとは思わないけれど…

あでも後半に仕事が忙しくなって少し減ったかもしれない.

ということでソーシャルライブラリから読書記録を拝借して載せてみる.

d0044938_1739351.jpg

ジャンルを細かく分け過ぎて分類タイトルが見にくいが…

去年の94冊に対して今年は119冊読了(月10冊届かず)なので去年より読書時間が増えているのは確実.

でも今年後半の読了数が少なめなのは,仕事のせいもあるだろうけど,

読書スタイルが変わったことも影響していると思う.

いつか書いたことだけど,読了数を逐一数える習慣が消えた.

このチャートもずいぶん久しぶりに参照してみたのだった.

(それでもマメに記録をつけているのは習慣化したのが大きいが,きっとこういう時に俯瞰できるのが楽しいから)

ノルマ的な価値観が払拭されて,遅読をあまり厭わないようになった.

何を今さらと言われそうだが,読書が生活に定着したのだと思う.


統計データをいじるというのはあまり面白くないね(笑)

数字で分かるからわかりやすいのだけど,今の自分にあまり興味がないのだったと書きながら気付いた.

そういえば今(@年末の実家)父の本棚を漁っていて寮に持って帰る本を選別しているのだけど

(そのために空の旅行鞄を持ってきたのだ笑),タイトルで惹かれる洋書の翻訳本がたくさんあって,

でもパラ読みしてみると「どうだ」と言わんばかりの統計データ羅列本が結構あって,

やっぱ欧米の人はこうゆうの好きなのかなとか,そういえば最近翻訳本全然読んでないなとか思ったり.

そんな本の中に『木を見る西洋人 森を見る東洋人』なんてのがあって「これだよこれ」みたいな(何が).


なんだかこうして本に埋もれていると社会人生活なんてどうでもいいや,と思えてきそうな気配があって,

それは僕が一生を読書だけに懸けても読み切れない膨大さが個を希薄にしている所もあるのだけれど,

じっさい僕が日々読書をするうえでの緊張感は会社人であることによって保たれているという実感はある.

だから,今すぐ会社を辞めて晴読雨読の生活をしたいという願望がゼロではないけれど

その生活が社会(多分「多くの人々」)とのつながりの無さによって堕落極まる想像が簡単にできて,

自分自身に現実的な俯瞰の目を向ければその生活はしょせん都合の良い夢物語でしかないことが分かる.

(でも実はそれが「叶わぬ夢」であることが大事であり,

 荒唐無稽でなくどこか惹き付けられる「物語」であるところが,今の生活を成り立たせているかもしれない)

その緊張感の出所を詳しく述べようとすると危険な香りが漂い始めるのでこの件については一言だけ.

「会社人間にはなりません(なれません)」.

(そういえば新人の頃は「俺達は兵隊だ」とカッコイイこと言ってた同期と10月だかに飲んだ時に,

 「会社辞めても生きていけるようにしとかんとな」って一体何があった(笑)

 まあ,人を養うというのも大変だからね(ごほんごほん) )



なんだか話がぐんと戻ってしまうかもしれないけれど,

一つ思い付いたことがあったので書いてみる.


ある学校の教室で「よく考えなさいよ」とクラスのみんなに言った先生を前にして,

彼が全然考えているように見えない生徒が素直にとる応答には2種類あって,それは

 「”考える”必要なんてないんだな」



 「”考える”って本当はどういうことなんだろう」

である.

この応答をとる前の「全然考えているように見えない」という判断は,

その生徒が”考える”ことについてあまり知らなくてもできる感覚的なものである.

そして処世術に長けた子どもは前者のように考え,

何かしら偏った子ども(と大雑把に言ってしまうが)は後者のように考える.

そして恐らく今の社会で有益と見なされているのは,

前者のような判断を何の疑問もなく下せる子どもなのだ.


「ゆくくる」の最初で「地震は自然,子どもも自然」と並べて言ったのは,

どちらも本質的には「(大人たちが)制御できないもの」だからだ.

もっと科学技術が発達すれば制御し切れるとか,教育制度や施設が整えば制御し切れるとか,

そんな大前提から履き違えた無邪気な発想が何を引き起こしたか.

もちろんその責任を一個人に押しつけることができるわけがなく,

それが意味するのは「待っているだけでは何も変わらない」.


…「人の口を借りる」とするする言葉が出てくるのはやはり本当. 18:43
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by chee-choff | 2011-12-31 18:43 | 思考
ゆくとしくるとし('11→'12)1
雑記から話が全然進まないので気分転換に項を改める.


年末なので一年を振り返る.

今年は何があったか.


まあ何をおいても,東日本大震災でしょうね.

個人的な体験としても大きかったし,

やはり映画で見たような津波の恐ろしさをその目で(といってテレビだが)見たこともある.

実際に起こったのだ.


が,東北の日本海沿岸から離れて住む人にとっては,

ハリウッド映画で起ころうが日本で起ころうが「ブラウン管の中の出来事」であることに変わりはない,

という見方もできないことはない(ブラウン管はさすがに古いか).

 これは「テレビの中の話だから俺には関係ねー」という姿勢を肯定するわけではなく,

 状況を見ればそうだという話.

人前でそんなことを言える人間はさすがにいないと思うし.

そのような考え方自体が不謹慎であると大体の人は感じているのだが,

それにもかかわらず「みんな本音ではそう思っている」のである.


テレビや新聞で報道されるニュースを「世の中の動きにキャッチアップするため」に見る.

それはそれで間違いはなくて,ではなぜ世の中についていく必要があるかといえば,

「ニュースの出来事(=世の中の動き)と自分の日常が直接つながっているから」ではなく.

「みんなに置いていかれたくないから」である.

マスコミに所属する(実地で取材している)人間ですら後者に含まれる.

その例外は「各々のニュースの当事者」しかいない.

 だから例えば関東大震災が起こって神奈川在住のサラリーマンに訪れた生活の変化は,

 夏前に計画停電が幾度かあったこと,節電が叫ばれて会社の電力管理が厳しくなったこと,

 秋頃まで飲み会がほとんど開かれなかったこと,といった程度のことである.

 (被災地ボランティアは日常生活とは外して考えた方がよいと思われるのでここにはカウントしない)

 そこには日常生活のちょっとした支障が生じただけで,「震災による直接の痛み」は微塵もない.

ニュースでは日々,震災関連の報道がなされている.

新聞では一面から外れたものの,震災での死者数と行方不明者数の集計が掲載され続けている(朝日).

その報道を毎日目にする僕ら「部外者」は,油断すればどう思ってしまうか.

「ああ,大変だな」と.

震災の影響が実生活と結び付かない限り,他人事なのである.

上で「みんな本音ではそう思っている」と言ったのはこのことだ.

倫理道徳的な話を抜きにして,震災のニュースを他の「世の中の出来事」と同列に眺めた時に,

僕ら部外者は震災を無かったことに出来てしまう.

そして最も重要なのは,それが生活を着実にこなし自然に振る舞うことで達成される点である.

(日常を片手間に過ごせる人間は,社会人にはほとんどいない)

じゃあボランティアに行けばいいのかといえばそんな単純な話でもなくて,

ボランティアは(大多数の社会人にとって)あくまで「非日常」なのだ.


倫理や道徳だけで人はどこまで衝き動かされるか.

ここでいう倫理や道徳とは,特定の他者に対してもつ意識のことではなく,

つまりここで人とは「一般大衆」を指している.

 例えばマスコミが総出で盛り立てている絆という言葉「だけ」で,人はどこまで衝き動かされるか.

 絆が叫ばれなくなったら,それで終わるのか?

 あるいはずっと叫ばれ続けて,マンネリに陥らないのか?

 あるいは,それがマンネリに陥らないためにする努力が犠牲にするものとは何か?

 …少し前にも同じ話をしたのでこれはもう続けない.

言いたかったのは,「部外者が震災を内に留めるには努力を要する」ということ.


その努力が必要であるかどうかは,個人の価値観に因る.

個人の倫理・道徳観は,個人の価値観に含まれている.

つまり実生活においては,倫理・道徳観を天秤にかけなければならないのだ.

これは不謹慎でもなんでもなく社会の仕組みがそうなっているのであり,

「何よりもまず自分の日常を蔑ろにしてはいけない」と前に震災本の書評に書いた意味はここにあるのだと思う.


僕自身は,その努力は必要であると思うが,理由がある.

「震災を内に留める」そのことが目的ではないからだ.

ではなぜ「震災を内に留める」必要があるのか.

…これは僕自身の言葉ではまだまとまっていなくて,

それでも書こうとすれば養老先生の言葉をなぞるだけになると思われる.

そんなこと構わないから書けばいいじゃないかと言われそうだが,

端的に「それじゃ書いてて面白くない」ので,今は書かないでおく.

(ここまで真面目腐って書いてきたけれど,実は本記事の,というか本ブログの主旨がそうなのだからしょうがない)

一言だけ言えば,震災とは「自然」のことである.

養老先生の言葉を借りれば,子どももまた「自然」である.

…二言になってしまった.



さて,震災の話はこれくらいにして,

実生活のほうを次に振り返ってみるとします.

本の話ばかりになりそうだなあ…


BGMは最初は去年と同じく「凛として~」のneko氏ピアノ演奏だったんですが,

途中からうみぬこPのインストに切り替えています(いつもながらお世話になりますm(_ _)m ).

ソプラノ聴いてると吹きたくなるね(じゅるり).

まったり.

【ニコニコインディーズ】秋林に君を想う【インスト曲】
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by chee-choff | 2011-12-30 22:54 | 思考
ToSHiNOsE(仮)
今年も実家でゆるりとしています.


年末に特に予定はなく,年始に一つ.

区切りを意識するなら本当は年末が良かったのだけど,

年末年始を「年の境目」と捉えればどっちも同じ.

「気分でふらふら」の気分の醸成の仕方も慣れてきたようで,

話したいことを話せる時に話せればいいなというかつて抱いていた願望が変化してきている.

人と話をする時に「前もって内容を準備していく」姿勢が自分には合わないようで,

話したいことがあった時に「その内容を相手と話している場を想像する」ことだけは予めしておいて,

実際に相手と喋っている時にそういう雰囲気になれば自然と想像通りになるものだと思っている.

これが定着してくると「話したいことを話せる時に話せなかった」時に,

それを失敗とみなさず,「そうならないだけの理由がその時にあった」と自然に思える.

「(会話の)場への信頼」の一つの形と言えないかな,という今は実験段階.

 相手の話や,むしろ話し方(口振り,佇まい,目線,…)と接しているうちに,

 「この内容は今話すべきではないな」という判断が適切になってくることはあり得る.

 自分としては必要以上にそれを意識しているとは思うけれど,

 プレッシャーに弱い自分には「この話は今しておかないと」という意志も十分重荷になる.

 仕事上とか他人の利害が絡む場合はもちろんそんな悠長なことを言ってられないけれど,

 自分の対人関係に収まる話であれば要は「今(とこの先)の気分」が決定要因になる.

  「この先の気分」というのは例えば「後悔するかどうか」とか.

  そしてその気分には「相手が自分をどう思うか」も含まれる.

  もちろん自分の想像できる範囲内なわけで,相手からすればあってないようなもの.


実験というと軽く聞こえそうだけれど,自分を被験者として組み込む実験は当然だけど

自分が変わることを前提としているわけで,すると実験データを取る前と取った後での

解析者のスタンスが当たり前に変わってしまい混沌としてくるのだけど,

人間相手だからしょうがないし,そこが面白いのだと思う.


 という書き出しでどこへたどり着くか.

 今から散髪行ってきます.

 本当はまたストパーあてようと思ってたのだけど,

 珍しく本気で止めに入ってくれた友人がいたので.

 すっきりしてきましょうか. 12:53


+*+*+*


と言いながらすぐ帰ってきました.

何やら先客が新たに来たらしく,「3時に来て下さい」と言われた.

1時に予約したはずなのだけど…まあ予約した本人と認識されなかったか.


父親行きつけの散髪屋は大阪と京都の府境を越えてすぐの所にあり,徒歩3分ほど.

住宅街なので近辺は家やアパート・マンションしかないけれど,

土地がゆったりしているのか個性が家々にあって散歩していて飽きない.

普通の一軒家のような正面にエントランスがあって,

あれと思って横にまわるとアパートという洒落た建物が高台にあって,

住むならこんなアパートかなと思ったり.

 (状況が許せば「仮住まい転居主義」がいいなと思っている.

 「生涯賃貸宣言!」みたいな. でもこーゆーとなんかやーね笑)

近所をぐるりと散歩しつつ,年賀状を出してきた.

今年は(も?)自分から書くのは一枚だけ.

親が選んだ年賀状が空白たっぷりだったので,

ぎっしりコメントを書き込んでやりました(笑)

唐突で相手も迷惑するだろうけど,級友なので許してくれるかと.

 自分は昔からこんな人だっけな…よく覚えてないけれど,

 周りの視線を過剰に気にしてしまう性分はきっと全然変わってなくて,

 昔はその周りの視線の詳細まで気がいかずおどおどしていたのに対して,

 今はその方面への想像力を解放して勝手に納得できてしまっていて,

 その分自分の感覚に正直になれているのだと思う.

 「知らない(考えない)方がいいことがある」という聖域的概念を捨てたからだろうか.

 この話は大事なところなので後でまた考え直すとしましょう.

で,もらった分は(枚数の許す分は)きちんと返します.

 年賀状に対する意識もそういえば変わったなと思う.

 以前は(たぶん高校くらいから学生の間は)「なにかのきっかけになれば」という

 縦縞な(シマウマ?)思いというか「年賀状が相手に届くこと」自体に大きな意味を見出していて,

 それが昨日書いた時には「年賀状を書いている間にその人のことを思い起こすこと」が

 年賀状を書くことの一番の楽しみに思えて,「書くこと書いたし届かなくてもいいか」なんて思うから

 高校時代の名簿引っぱり出して住所を書き写しても特に不安はない.

 別に両者でコメントの内容が変わることはないのだけど,

 実はその変わらないことが「想像の中の具体的な他者に対する自分の姿勢」の一貫性を示していたりして.

 つまりその想像と実生活との折り合いの付け方が「極めて現実寄り」だという一貫性のことで,

 それからすると自分はまだまだ常識人なのだな,と(ホントかよ).


散歩しながら考えていた「ゆくくるトピック」をメモしておきます.

・森博嗣の(エッセイ)執筆スタンス
・自分の行動原理の「核」はどこにあるか
・空間の時間的把握

もちろん提示だけして触れられない可能性も大ですが…

では散髪(再)行ってきます. 14:53


+*+*+*


髪切ってきました.

何も言わなかったので文句もなにもないですが,

80年代風になりました.

うーん古いな…それだけですが.


…と,少し動画でニコニコしていたら晩ご飯の時間になっちゃいました.

てことで食べてきます.

うん,内容がもうついっただね.

まあいいや. 19:07
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by chee-choff | 2011-12-30 12:55 | 思考
ぶりっ子の法則(違
今日から会社は冬休みです.

+*+*+*

ウチダ氏ブログから再び(前は2年前).
自分用の抜粋なのでちと長め.

>>
ジャングルの中には「とりあえずその用途や実用性がわからないもの」がそれこそ無数にあったはずである。
どうして「今はその用途や意義が知れぬ」無数のオブジェの中から、とりわけ「それ」が彼の関心を惹きつけたのか。
私は彼がそうやって拾い上げた「モノ」はそれからあとのある時点で、必ず彼にとって死活的に重要な役割を果たし、「ああ、これをあのとき拾っておいてよかった」と嘆息をつく、という場面があったのだろうと思う。
そういう経験の繰り返しを通じてしか、「とりあえずその用途や実用性がわからないもの」の用途と実用性を先駆的に察知する能力は涵養されないであろう。
「どうふるまってよいか」を指示するマニュアルがない状況でも、「どうふるまえばいいか」を先駆的に知ることはできる
(…)
私たちの時代の子どもたちが学ぶ力を失っているのは、彼らの「先駆的に知る力」が破壊され尽くしたからである。
「学び」は、それを学ぶことの意味や実用性について何も知らない状態で、それにもかかわらず「これを学ぶことが、いずれ私が生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすことがあるだろう」と先駆的に確信することから始まる
学び始める前の段階で、学び終えたときに得られる知識や技術やそれがもたらす利得についての一覧的な情報開示を要求する子どもたち(「それを勉強すると、どんないいことがあるんですか?」と訊く「賢い消費者」的な子どもたち)は、「先駆的な知」というものがあることを知らない。
彼らは「計画に基づいて」学ぶことを求めている。
自分が実現すべき目的のために有用な知識や情報だけを獲得し、それとは関係のないものには見向きもしない。
おそらく本人はきわめて効率の良い、費用対効果の高い学び方をしていると思っているのだろう。
だが、あらかじめ下絵を描いた計画に基づいて学ぼうとするものは、「先駆的に知る」力を自分自身の手で殺していることに気づいていない。
先駆的に知る力」とはまさしく「生きる力」のことである。それを殺すことは緩慢な自殺に他ならない
2009年08月18日 ブリコルールの心得
>>

「用途の明確な道具」に溢れた現代では,迂回しないと「ありもの」として見えない.
それは意図的であらざるを得ないが,その姿勢はそもそも「ブリコルール」に反しないのか?
という自分向けの疑問きっかけ投稿.
(これはぱっと思いついただけで,他にも沢山あるはず)
「ゆくくる」でゆっくり考えてみようと思います.

キーワードはやはり「ブリコルール」.
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by chee-choff | 2011-12-27 21:28 | ウチダ氏
ねこ/しはりマクリスティ?
ちょっと思い出したので.

前に同期と飲んでいる時に,
その場にいた3人とも猫が好きだなあという話になって,
そのうち一人は日常的に要所で「にゃあ」と鳴く方で,つられて
「俺も猫が好きというよりは猫だな(= I'm a cat.)」と言った傍から
「じゃあちひろさんも日常的に鳴くんですか?」と聞かれて,
「そりゃもう散歩してたら自然とゴロゴロ言ってますよ」
なんてその場の勢いでテキトーに答えてしまって,
さらにそのテキトー発言の詳細を追及されて
珍しく背水の陣的脳内フル回転を余儀なくされたのだけれど,
もちろん僕は鳴かない.
なんだか寂しい時に「にゃあ」とメールを送って,
「にゃあ」と過たず返してくれる友人が寮の同階に最低2人いるという
彼女の形成している社内親密圏が羨ましいなと思わないでもないけれど,
もちろん僕は鳴かない.

「僕も鳴きます」という発言は明白に嘘だとして,
しかし「僕は猫だ」という発言は本当である.
認知的な意味ではなく,遂行的な意味において.

そして言い訳がましいと思いながらマジメに考えてみたのだけど,
猫は「にゃあ」とは鳴かない.
猫が「にゃあ」と鳴いていると思っているのは人間の方であって,
猫自身は「にゃあ」と鳴きたくてそう鳴いているわけではない.
猫から見たら人間は歩いている時に「ぐもぐも」と身体が振動していて,
「ぐもぐもってあんた,もぐらじゃないんだから」と猫に思われているかもしれないのと一緒なのだ.
つまり,人が猫に,いや猫的になった時,その人は「にゃあ」とは鳴かないのである.

散歩中の僕はわりと猫的だと思っているのだけど,
何がどう猫的なのかについてはまた項を改めて考えてみたい.

+*+*+*

と書いてから別のことを思い出した.

ついこの前グループ内での忘年会で,
「京都弁って"〜しはる"っていう尊敬語があって,
 "〜していらっしゃる"をコンパクトに言えて便利なんですよ」
という話を僕がした時に,
「あれ,それ尊敬語なの? ただの方言やと思ってた」
と言われてショックを受けたのだった.
そのリーダさんが言うには「"ごわす"は丁寧語」らしく,
「ホンマかいな?そら普通の人は気付かんで」と素直に思った僕は
"〜しはる"が全国で通じると思っていた垢抜けない地方人なのであった.

ま,そらしゃーないわ.
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by chee-choff | 2011-12-25 23:25 | 社会人
くりすますとかけまして
「セイント聖夜」って重複表現だよね.
あれ,違う?

じゃお笑いコンビっぽく「セインとカミュ」で.
あ,同一人物?

+*+*+*

くりすとますと
くすりとますと
くすりとまとす
りすくとますと
とりすとますく

なかまはずれは?

+*+*+*

聖夜に整理.
「整頓せいや」

…。

まぁ,今日はしません.
大掃除は28日に.
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by chee-choff | 2011-12-25 22:43 | ことばあそび
ふぃったりぴっと
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座り心地も抜群!(やめてー)
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by chee-choff | 2011-12-22 22:54 | 社会人
かちこち こちり
はや年末.
去年は併読書の多くをなんとか年内に読了させて年の変わり目を意識,
みたいなことをした記憶があるが,今年はどうも難しそう.
散漫に過ぎているので中断する本をいくつか選んだ方がよいかも.

 読み始めたら読み終えなければ,というのは僕に言わせれば貧乏性で,
 「読み始めよう」と思った当初の心意気を無下にするのが単にもったいないだけ.
 変化し続けることを性分とするのなら読み始めてからの気変わりも大事にすべき.
 という対自説得口上です,このへんは.

それは随筆(小説以外をこう呼んでみてるけど,違うかも)に関してであって,
3冊読み回しを日常にしている小説の方はうまいこと年の境目で切り替われそう.

先日『ねじまき鳥クロニクル』の3巻を読み終え(大体1巻に1月かかった),
『名もなき毒』(宮部みゆき)にバトンタッチした.
本書はつい最近文庫化されており,「そろそろミヤベ本を」という思いと混ざって手に取った模様.
次いで『キラレ×キラレ』(森博嗣)を読了し,まっとうなミヤベ本と並走させるなら
少しヒネった本がいいかなあと本棚を眺め,『圏外へ』(吉田篤弘)を手に取った.
吉田氏の本は初めてで本書もBookOffで偶然手に取ったのだが(何に惹かれたかと言えば
ボリュームと装幀で,決め手は「脳内系小説」だったこと),今日読み始めたところ
文体はじめ色々と新鮮で面白い.

 そういえば活字中毒という言葉を久しぶりに使うのだけど,
 意識しなくなりゃもうそうなってんだわねという「不健康も健康のうち」みたいなもので(違う?),
 病状はといえば「活字密度の低いページを見るとうんざりする」かしら.
 ページ稼がんでいいからもっと詰め込めよ,みたいな.
 (でもそれで薄くなればいいかと言えば違って,同時に厚くもあってほしい.
  だからかなり分厚い本(京極氏著書のような)も今は厭わず抱え込んで読める)
 でも岩波学術文庫の窮屈さは読みにくくてやーね,という我が儘も一方にはある.
 なんだろう,活字密度が(程良く)高いとなんだか安心するから?
 読み終える時がちと寂しい,という思いも手伝っているのだと思う.

話を戻せば,この脳内系不思議小説には今までと趣向を変えた脳内BGMが良いかなあと思い,
ヘビロテ曲を聴き漁っているとぴったりなのを見つけた.

 NNIオリジナル曲 - アンティキティラの歯車

このぴったりがどうぴったりなのか,今後読み進めるうちに何か浮かべばまた.
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by chee-choff | 2011-12-20 21:49 | 読書
『浮上せよと活字は言う』橋本治
きまぐれ抜粋メモの細部をいじって書評に仕立て上げました.
…こんなんばっか(笑)


浮上せよと活字は言う
  • 橋本治
  • 平凡社
  • 945円
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書評

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by chee-choff | 2011-12-17 23:20 | 読書