深爪エリマキトカゲ
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Cannibal Carnival
私のスープ.

【初音ミク】ごめんね ごめんね【オリジナル曲】

+*+*+*

いつの間にか風邪が治っていた.
忘れていたということは治っていたということ.
それで先週末は久しぶりに図書館へ行き,
最近巡り始めたエッセイ棚で吸い寄せられた一冊があった.

『水の透視画法』(辺見庸)という本.
「水」と「視」に惹かれ,手に取って綺麗な装幀に見とれたのだと思う.
あと名前にも見覚えがあって…前の朝日書評担当者だったかな?

読み始めてから気付いたのだけど,やはり「年配の方々」と最近は縁が強いらしい.
辺見氏の文体はオブラート薄く核心を衝いており(それが悲観的にも聴こえる),
しかしとても落ち着いていてゆるりとした時間の流れを感じる.
時代の速さに呆然とし,それを憂うが,現代への眼差しは研ぎ澄まされている.
移り行く事象を透かし見,その奥にある(変わらない?)ものを画かんとする.
やはり若者には到底体現できない「弱さと強さの両立」にしばし耳を傾ける.

言い回しが多少古いようで,最初から何度も立ち止まることがあり,
文脈からの推測はもちろんできるのだが今まで見ない言葉がわりと多く,
辞書を引きながら読み進めることにした.
たまにはそういう読み方もしないとね.
(会話で発語寸前に固まることが多いのは単語の「通用する意味」に普段重きをおいていないせいで
 口が違和感に気付くからなのだが,それは推測読みばかりでろくに意味を調べないせいかもしれない)
なるべく前後の文脈と調べた単語を混ぜこぜにして「エピソード記憶」をしてみよう.

>>
「狂人日記」を読んだときのことだった.いまからちょうど九十年前に生まれたこの短編小説を,若かった私は,けっして昔日の中国の物語とはとらなかった.生きのびるために人が人を食らう社会──という極限の暗喩を,魯迅の封建中国観,儒教批判と受けとめることもできなかった.「食人(カニバリズム)」とは,中国という地理的,文化的,時間的枠を突破した「私たちのいま」だと思ったのだ.つまり,日本や米国の現在にも,視えない食人とその無限連鎖がある,と.
辺見庸『水の透視画法』p.67
>>
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by chee-choff | 2011-11-30 23:48 | 読書
悩める男の羅針盤
2011/11/29 21:23
何か言いたいことがあるかもしれない。
そう思い、筆を執った。
某氏のこと。
自分の中で、大きくなっていると感じる。
ただ、それは膨らみ続けているのではない。
時に萎み、時に膨らむ。
その膨らんだ状態の大きさが問題なのではない。
繰り返す体積変化、その変化の蓄積が無視できなくなったのだ。
何にせよ、ため込むのは良くない。
先行きを想像できぬまま、流れに身を任せてみる。

(激しく中略)

やはり書き出すとすっきりしたようだ。
常に心の余裕は持っておく。
「言葉未満の意思」に感応できるようにしておくために。
同時に自分もそれを自然と出せるようにしておくために。

あざとさに過剰な意味を付す人がいる。
その人はそのまま自分が求める人か?
変わるのを待つのか? 自分が変えるのか?
あるいは、自分が変わるのか?
あるいは…

よく考えなければいけない。

ハシモト氏の名言を心に留めておこう。
>>
"分かる"ということは、すべての科学的立場がそうであるように、"適正な距離を置いて観察すること"なのだ。"分かる"ということに"対象化"という作業は必須だ。つまり、"分かる"ということは、当面、不必要な○○を排除するということなのだ。○○というものは、その"分かった"というデータ処理の方向性の問題でしかない。要は、ありのままに見るということである。
つまり、「△と◇は無関係のままにある」という事実を肯定することである。
橋本治『浮上せよと活字は言う』p.195-196
>>

悩める男の羅針盤。

2011/11/29 21:47

+*+*+*

肝心な所を伏せ字にすると何の話かもう分からなくなるのだけど,
これは裏を返せば「何にでも言える」ということ.
本のタイトルに騙されてはいけない.
ハシモト氏だもの。
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by chee-choff | 2011-11-29 22:07 | 社会人
日本的LPF社会/迸る鮭バジル
 個人の意向より集団の総意が優先されるという国柄の下地に,
 個人の欲望を最優先すべしという高度資本主義の枠が組まれる.
 「総意としての個人主義」は本質的に矛盾しているはずだが,
 それを瑣末なこととみなすのは論理偏重の西洋には不可能だ.

 さて,「主体性なき主体の確立」した日本ほど,
 資本主義の発達を促進するに適したシステムを持つ国があっただろうか?
 そうして日本は経済大国となった.
 舵取りさえ上手くいけば,日本はどこへでも全速前進できる.

 では,舵取りに失敗すればどうなるか?
 きっと結果は同じ.
 「みんな一緒に目的地に到達する」.
 違うのは,目的地が見えていたか,あるいは霧の彼方に霞んでいたか.

 ブータンに倣わずとも日本人は知っている.
 どうすれば日本人は幸せになれるか?
 答えは状況に関わりなく,常に一つ.
 日本人はずっと幸せだった.今も幸せ.これからも幸せ.

 仕合わせて,幸せ.

+*+*+*

「ひと手間加えればレトルトスパも満足の味」と前に書いた.
…気のせいかもしれない(前に書いたかどうかが,だ).

実践先行で「したあじ」という言葉を体得した僕の下味作りは,
 ・ちょっと(値段が)高めのオリーブオイル
 ・粉末状ガーリック
 ・胡椒
 ・しょうゆ(ものによっては使わない)
 ・ふりかけ
によって成されるが,最後のふりかけがポイントで,
用いるレトルトの具との相性を鑑み,厳正なる審査を経て決定する.

 書きながら思い出したけど「Mother2」に食べ物(食べるとHPが回復)とトッピングを組み合わせる
 システムがあって,どちらも単品で使用してもある程度回復するけど一緒に食べれば単純加算以上の
 効果が得られるのだけど(例えばホットドッグ+ケチャップとか),まさにあれですね(笑)
 逆のパターンもあった気がする(ミルク+塩とか…これはつらい(T-T ).
 あれは慧眼だった…トッピングシステムのあるRPGを僕は他に知らない.

今までに自分が編み出した組み合わせは,
 ふりかけ1:塩かつお(「ふりかけの元祖」とか書いてあるシンプルな味のもの) に対して,
 レトルト1:柚子こしょう(けっこう辛い),梅なんたら(忘れた&今切らしてた)
あるいは,
 ふりかけ2:チーズふりかけ(チーズとはスモークチーズのことらしい)
 レトルト2:バジル(何せトッピングに粉末チーズがついてるのだからひねりはゼロ)
あるいは,
 ふりかけ3:菜めしふりかけ(これかけただけで野菜摂れた気になれる例のアレ)
 レトルト3:なんでもOK(野菜だしね)
といった感じ.
さらについ最近は鮭ふりかけ(正確には「鮭ごま」らしい)とバジルスパも合うと気付き,
感動の稲妻に打たれて(「ぎゃぼー!」)韻を踏んだタイトルを思い付いた次第.
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まあ,テキトーなことばっか考えて生活してるとこうなるわけで.
みなさん体は大切に.
 あでも会社の健康診断には引っかからなかった.
 体重が入社時からじわじわ減ってる(今は57kg)のが不可解だが…油と縁遠いせいかしら.

おっと,本質的な指摘を忘れていた.
レトルトが味気ないのは「手間をかけていない」からで,
「ひと手間かけたレトルト」は実質もはやレトルトではなく,
ひと手間で加わるのは「意味の美味しさ」なわけです.

にんげんだもの。
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by chee-choff | 2011-11-29 00:08 | 社会人
「マナー」と「いい加減」<併読リンク12>
>>
かつてわたしは『<弱さ>のちから』(講談社)と題する書物のなかで,臨床における「専門性」というのは,事態の推移のなかでいつでも「専門性」を棚上げする用意があることだと書いたことがある.──「じぶんを他者の存在にインヴォルヴすることで,逆にじぶんが『乱れて』しまうということ.これを,他者本位と,留保付きでだが,呼んでもいい.他者本位に思考と感受性を紡ぐということ.そのためには,専門家ですらじぶんの専門的知識や技能をもいったん棚上げにできるということ.それが,知が,ふるまいが,臨床的であるということの意味ではないだろうか
鷲田清一『老いの空白』p.203-204
>>

「臨床=現場」という認識を持つ僕には,これらは「上位の臨機応変」の言い換えではないかと思われた.
その場の事態を勘案し,その都度の最適な行動をとる.
しかし,「これまでの経験」を活かしはすれど,それに囚われてはいけない.
経験が裏打ちする「事態の分類把握」とは別次元で,緩衝材を挟まない「剥き出しの勘」を駆動させる.
そのために,「自他の別」を取っ払う,境界をぼやかし曖昧にする.
「他者のことを他者のほうから見る(p.204)」.

 ケアとは無縁な生活をする自分が臨床に興味を持つ所以はこのあたりにあるのだろうな,と思う.
 ケアの場とは,自己の弱い所を他者に開示せざるを得ない場である.
 その自己は,老いるまで他者の目からは徹底的に秘匿されてきたものだ.
 しかし,このような「自己の覆いを外される経験」はケアの場だけのものではない.
 程度差はあれ,人が他者と関わる以上,必然的に起こる.
 その意味で自分の想像力(この駆動源は「引きつけやすさ」だ)の範疇にある.

この後ろに,さらに興味深い記述が続く.

>>
 天田城介が先の著書[『<老い衰えゆくこと>の社会学』]のなかで,きわめて示唆的な語源考をそのケア論のなかに挿入している.「知る」というのは「領(し)る」(=支配する)ということだというのだ.「知る」(=他者を理解すること)が「領る」(=他者を支配すること)へと反転するという落とし穴,それが「専門性」の理念にはある
同上 p.205
>>

この話の構造と「専門性」という言葉から,「アマチュアの物書き」を自称するウチダ氏の言葉を連想した.
ちょっと長いが一つのまとまりをそのまま抜粋してみる.

>>
「早い話」をしながら、かつオープンエンドで謎は謎として残しておくというのは、むずかしい。
本を読むことのむずかしさは、ある程度「分かったつもり」で読まないとそもそも話にならないということと、「分かったつもり」で読むと、自分のフレームワークではとらえきれない深い部分を見落としてしまうということのバランスを取ることである。
「分かっちゃいるけど、分からない」という理解のあり方を伝えるのはほんとうにむずかしい。それは要するに、自分の「頭の悪さ」をできる限り正確に、かつ雄弁に語るということに等しい。
でもね、「自分の頭の悪さ」を正確かつ雄弁に語るのは大変だよ。
だって、そうでしょ。「自分の頭の悪さを正確かつ雄弁に語ることが出来る」というかたちでたちまちそれは権能の語法に転化しちゃうんだから

私はこのように自分の知性の不能を言語化できるんだ、偉いだろ、というのはマナーとして最低だ。(だって不敗の語法じゃないか)
方法としては有効だろうけれど、マナーとしてはよろしくない。
ほんとうに大事なのはマナーだ。
これは原理原則があるわけではないから、むずかしい。
「読み手になんとなく信じられる」文体というものを探し出す他ない。
たぶん、その人の人間性の厚み以外に頼るものがない

11月19日(2001年 内田樹ブログ「夜霧よ今夜もクロコダイル」
>>
(似たようなことは氏は何度も書いているけれど,前にも抜粋した箇所だからかここを連想した.)

どちらも,
「物事を二元論的にとらえて一方を悪と措定し,もう一方に突き進むとどうなるか」
について書かれている.
価値観が一方向に偏り過ぎると,良かれと思われた価値が「反転する」のだ.
これに気付かないことがあるのは,色々言い方はあると思うが,
一つには「安心してしまう」からだろう.
 ある仕事をするにも,逐一「その仕事をする意味」を考えながらするのは相当疲れる.
 札束を数える銀行員が「お金って何だろう」と考え始めれば手が止まるし,
 マグロを捌かんとする板前が「魚も俺と同じ生き物だよな…」と思えば包丁は手から滑り落ちる.
 …なんか喩えが違うな(笑)
「水を得た魚」というけれど,「その水の出所を問わない魚」のようなものだろうか.

だから偏り過ぎるのは良くない,とは簡単に言えて,
しかしそれを実践するのはやはりとても難しい.
「こうすれば大丈夫!」という即効薬(ウチダ氏抜粋でいえば「原理原則」)はなくて,
しかし「その方向性でこつこつやれば見えてくる」という,
それこそ過去の人々の経験に裏打ちされたスタンス(姿勢)のようなものはある.
ウチダ氏の話の中でのそれは「マナー」であり,
ワシダ氏の話の中でのそれは「いい加減」である.

>>
聴くひとの前で話すひとは,聴かれるひとという受動者でもある.聴くということも,無謬性の理念のなかで極限化してはならないということ,である.「いい加減」ということが,だらしないという意味,そしてこれしかないという絶妙のバランスという意味,そうした対極にある二つの意味のぎりぎりの両立のなかでなりたつときに,「あれでよかったんだ」と後でおもえるケアがなりたつのだろう.「完全なケア」とか,「共感」の要請という,ケアの場での一種の強迫観念がもつ息苦しさも,こうした「いい加減」が視野に入っていないところからくるのだろう.
同上 p.203
>>

+*+*+*

実は二つ目の抜粋(「知る」が「領る」へ反転するという話)を打ち込んでいる時に,
別の連想が働いてしまったのでここに同時に書いておく.

>>
「最も深く,最も個人的に苦悩しているとき,その内容は他人にはほとんど知られず,窺い知れないものである.そのようなとき,人は最も親しい者にさえ隠された存在である.(中略)だが,苦悩する者と知られたときには,苦悩は必ず浅薄な解釈をこうむる.他人の苦悩から,その人に固有の独自なものを奪い去ってしまうということこそ,同情という感情の本質に属することだ.──『恩恵をほどこす者』は,敵以上に,その人の価値や意志を傷つける者なのだ」
ニーチェ『悦ばしき知識』三三八
>>

(この抜粋は『これがニーチェだ』(永井均)からの又引き)
これは「自分を他者に委ねる気の全く無い者の謂い」にも聞こえるが,
そういう思考もあり得ることはとてもよく分かる.
独りでいたいと心底願って止まない人間,
「おまえと今日という時代のあいだに,少なくとも三世紀の皮膜を張れ」(同上)と宣う人間からは
自然に発せられる言葉なのだと思う.

まあ,理解と共感はまた別次元の話.

+*+*+*

「措定(そてい)」の類語の多さにびっくり.
それだけ使いにくい語なのだと思う.
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weblioには毎度お世話になっております.
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by chee-choff | 2011-11-27 19:36 | 併読リンク
三世紀の皮膜
どちらに張ろうか.
…そういう話ではない?

「うまれてこのかた」の十二倍の想像力.
ええと,一日が288時間必要ですね.

ということで秘技"胡蝶の夢".

+*+*+*

ニーチェ入門を読み始めました.

「…それは話が逆で,"答えがある"と思うことがニヒリズムなのです」

わくわく.
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by chee-choff | 2011-11-26 21:06 | メモ
全方位張り手
多分空飛ぶ球体の記事を見たせいだと思うんだけど…

つい最近妙な夢を見たのだけど,
エドモンド本田の張り手は足位置固定から躙り寄りができるようになった所で
スト2知識が止まっているのだけど(スト2ターボ?),
夢の中では本田は跳躍しながら全方位(放射状)に張り手を繰り出していて,
やっぱ日本人すげーなと思ったり(えー

でもやっぱ昇竜拳とかサマソーには負けるんだろうなとか.
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by chee-choff | 2011-11-24 00:49 | 妄想
5月の娘(こ)の震える舌先の
僕はマカロニグラタン派ですね.
茶碗蒸し派の方には「ほへー」と言うしか,ない.
今も,これからも(?)

解説はありません.

+*+*+*

さんぽ部,元気にノン気にスイキョウに,「カクカク週末」活動中です.

東西(方角)を言う前にミギヒダリが口をついて出てくる癖が,
もはやアイデンティティのごとく定着して手遅れなのだけど(だって直す気がない),
いや分かってたんだけどそれは地図が嫌いなんだと思う.
地図を見るのは好きなのだけど,地図として地図を見ない.
もとい,本来的な活用と離れた興味から地図をしげしげと眺める.
(←そうだ,これは「メカニズム」を見ているのだ.11.11.28)
イチボウフカンは誰しも快感をもたらすもので僕もご多分に漏れないはずなのだけど,
きっとそのイチボウフカンに基づいた行動をするのが苦手なのだと思う.
なぜかといえば…マカロニグラタン派だからでしょうね.

解説はありません(しつこい)
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by chee-choff | 2011-11-21 23:44 | メモ
機能と構造<併読リンク11>
海で蒸発して雲となり,山あいで雨を降らし,川に流れて海へ行き着く.
その流れの中で植物を潤したり魚の住処を形成したりする,
という,水の「流れと作用」の話.

>>
(…)流れのあるところに作用があり,作用のあるところに流れがあるのではあるが,流れが作用するには手応えが要る.科学の言葉を借りれば,電気抵抗,流体抵抗というインピーダンスがこれにあたるが,いくら流れがあったとしても,手応えのないところに作用はない.手応えのない場合の流れを空流動という.
 どのような流れに対して,われわれがどのような手応えを示すかによって,時間的には未来が,空間的には世界が変わる.
森政弘『「非まじめ」思考法』p.207 流れの手応え
>>

この「流れと作用」の対から,別の対を連想した.

>>
(…)脳はたしかに「物質的存在」である.それは「脳」として取りだすことができ,したがって,その重量を測ることができる.ところが,心はじつは脳の作用であり,つまり脳の機能を指している.したがって,心臓という「物」から,循環という「作用」ないし「機能」が出てこないように,脳という「物」から「機能」である心が出てくるはずがない.言い換えれば,心臓血管系と循環とは,同じ「なにか」を,違う見方で見たものであり,同様に,脳と心もまた,同じ「なにか」を,違う見方で見たものなのである.それだけのことである
養老孟司『唯脳論』p.31 心は脳から生じるか
>>

養老氏の言うのは「構造と機能」の対である.
連想した時の印象としては「それはこれと同じじゃないのか?」だったのだが果して…


それぞれの対の後者(=「作用」と「機能」)は養老氏が並列しているように同じものだが,
前者(=「流れ」と「構造」)はどうなのだろうか?(1)
あるいは,「構造と機能」が,「同じなにかを違う見方で見た」ように,
「流れと作用」も「同じなにかを違う見方で見た」時の二つの名なのだろうか?(2)

まずは(1)から検討してみよう.
「流れ」も「構造」も多くの要素が集積して連関する様子の表現だが,
一般的に「流れ」には動的な,「構造」には静的なイメージがある.
だが,動的・静的を有時間・無時間と言い換えようとすると,それは違うと気付く.

 「構造」はものの仕組み(ストラクチャ)だけでなく,人間心理や社会現象など,
 ひろく要素同士の相互作用のしくみや原理をも含んでいる.
 それらを静的に捉えようとするのは脳の癖であって,社会現象などは本来,
 変化の徴候を見出すにも長い時間を要するものである.

 一方,無時間的なものを「流れ」と表現することはほとんどないが,
 決して一定速度でない「(体感の)時間の流れ」や,先の発言の意味が会話の進行に任せて
 解明されていく「コミュニケーションの流れ」といったものを考えると,
 「流れ」とは空間的に表象できないものの総称(それを時間的と呼ぶのだが)と言える.

このように考えてみると,「流れ」と「構造」を同じとは言わないまでも
(典型的な使用例でお互いを入れ替えるとやはり違和感がある,というか別の意味になる.
川の流れ→川の構造,学校教育の構造→学校教育の流れ,といった感じ),
抽象して並列させることは可能だ.
例えば「多くの要素が集積して連関する様子」といったように.
…あれ,最初に戻って来ちゃったな.

さて,次は(2).
これは「そう言えるかどうか」よりは「そう言えると何が起こるか」を考えた方が面白そうだ.
最初の対比を使えば,「脳(=構造)と心(=機能)」についてそう言うことで,
心脳問題があっさり解決した(!).
では「流れと作用」を同じものと見ると…?

「しくみ」に思い至れるわけだ.
森政弘氏の水の例えをそのまま借りれば…
川に魚がいて,魚を捕って食べて暮らすだけでは「作用(=魚がいる所)」しか見えていない.
あるいは川を「なんでも自分のところから流してくれるもの(=作用)」ととらえると,
川で洗濯をしたり排泄をすることに違和感がない(というか昔は普通だった).
それが川の下流に暮らす人のことを考えるに始まって果ての生態系に思い至るには,
「作用」に「流れ」をつなげて考えなければならない.
つまり「流れと作用」を同じものと見ることは,
「地球資源は有限だということが世界の共通認識」である現代では当たり前のことなのだ.
…うん,何も目新しいことはないな.

+*+*+*

『「非まじめ」思考法』(森政弘)を読了.
ものの考え方をいろいろ提示してくれる本は結構好きで何冊も読んできたが,
本書は読みやすいにも関わらず深い示唆に富んでいてとても面白かった.
「矛盾」がキーワードであるところ,自分の興味(内田樹とか)と一致したのだと思う.
(「非まじめ」とは「まじめと不まじめの超越」,両者の次元を上げる物の謂いである)
著者はロボット工学の人であると同時に仏教への造詣が深く,
「人」と「理」の両方に長けた視野の広さが驚くべき発想力の源となっているようだ.
偶然にして得難い出会いとなった(BookOffで森博嗣の文庫棚と同じ列にあって手に取ったのだ).
読み返してコメントを付したくなる箇所が多くあることは間違いないが,
「読み返し本」を溜めているので,今回は読了前にふと閃いた一点にのみ触れておく.
>>
 逆に物の世界では,生産が本流で,修理は付属的な一段低いものという通念がある.(…)日本は工業立国で,生産ができたから,どうしても作る者の立場が強くなっている.作ったからには,故障したときなおさなくてはならないから,仕方なくやっているという気持ちがあるのかもしれない.(…)
 ところが,なおすということは,非常に人間的なことなのだ.だいいち,故障というものは画一的ではない.作るときは自動化で大量生産できるが,なおすとなると,こわれ方は一律にはいかないから,故障品をズラッとならべてオートメーションでなおすというわけにはいかない.ひとつひとつ違うものを相手にするということは,人間的なことである.
p.193-194
>>
つい最近,「新しいものを創るよりも既存のものに新たな意味を見出すことに興味がある」と書いた.
この「新たな意味」とは昔に活かされた機能を現代に改めて発揮できるように読み替えた意味のことだが,
この抜粋でいう「なおす」ことと,「新たな意味を見出す」ことに似たものを感じたのだ.
 故障品を直すには,どのような過程で壊れたかを把握しなくてはならない.
 昔のものに新たな意味を見出すには,それが活かされていた時代を知らなくてはならない.
どちらも,知りたいことを直接知ることはできず,結果として目の前にあるものを見て,
あるいは文献を参照しながら想像するしかない.
そしてその想像の仕方が,案件ごとに個々別々,法則はあっても極意がない.
そんな「一般への還元し難さ」に自分は惹かれている気がする.
 いや「普遍を目指す」と前に(=上の「最近」)書いたことと矛盾しているように見えるが,
 この普遍は「誰もが個々の文脈を読み込める」という意味があってややこしい.
 人は"究極の個別"だと他者と分かり合えないし,"究極の普遍"だと他者と区別がつかない.
 その中庸というよりは「両者のいいトコ取り」を目指すのだけれど,
 うん,言葉で言うほど簡単でないのは,言葉で言えるほど簡単に分かる.
 うん? 何か言えそうだから言ってみたけど,この反復はあまり聞かないな…
まあ,その志向はいいとして,どこかでそれを社会と繋げないといけないんだけど.
あ,「それで食べていく」ならの話ね.

「非まじめ」思考法 (講談社文庫)
森 政弘
4061842552

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by chee-choff | 2011-11-19 23:08 | 併読リンク
FB制御とFW制御
タイトルはまんま制御工学なのだけど(応理の人には懐かしいでしょうね),
残念ながら(?)下駄の話.

フィードバック(FB)はわりと日常語として普及しているけれど,
フィードフォワード(FW)はあまり聞かない言葉かもしれない.


前の火の喩えはFB制御.
体軸ズレ発生と動きの修正にタイムラグがあり,揺れることを許容している.
が,体軸の揺れというのはその時の姿勢によって大体決まるもので,
しかも意識していればその対応を感得するに容易く,
つまりその都度体軸のズレを受けてから応答をするなんてまどろっこしいことをしなくてもよい.
これは制御工学的には「外乱を事前に検知できる状態」と言える.
外乱といって自分の身体のことなのだけど,まあ意識からすれば外側になるのかな.

制御工学でも「FB制御の応答速度の遅さを改善するため」というストーリィ立てでFW制御が紹介されるが,
図らずも同じ流れになったかここでは片足立ちに至るまでのFW制御の応用を紹介する.
「片足立ち」と言った時の挙げ足は,「上段蹴り」をする前段の屈膝状態を想定している.

直立姿勢から片足を挙げていく際に,
片足を挙げる時のブレが軸足での静止時のブレを相殺するように上げる

後者のブレの始まりをうまくとらえれば体軸は全く傾くことなく足を上げられる.
下駄を履く履かないに構わない話ではあるけれど,天狗下駄を履いてこれができるとなかなかの快感.
何せ(瞬間的にだけど)通常の立姿勢よりも安定的に片足を挙げる動作ができるのだから.

…動画撮ればもちっと分かりやすいんだろうけども,
もちろんそんなことはしない.
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by chee-choff | 2011-11-15 22:51 | 在宅天狗
「分かっちゃいるけど、分からない」/細胞の再配置
風邪を引いている間にブログを書かなかったのは書く気が起きなかったからなのだが,
なぜ書く気が起きなかったかといえば「自分を保つのに精一杯だった」かもしれない.

と思いついた時に読んでいた文章を抜粋.

>>
世の中の多くのひとが勘違いしていることの一つは、ものを書くというのが「自分の中にあって、いまだ言葉にならない思いを言葉にすること」だと考えていることである。

これは小学校の国語の時間に刷り込まれた嘘である。

ものを書くというのは、「自分以外の何かにペンを仮託する」ということである。

「ミューズ」でも「ダイモン」でも「霊感」でも「エクリチュール」でも「大文字の他者」でも、好きに呼んでもらって構わないのであるが、どちらにせよ私の中で語っているのは「自分以外の何か」である。

書くとは、畢竟するところ降霊術である

ただ、その「霊」にも位格というものがあって、バカにはバカの霊が、半可通には野狐の霊が、イナバの白兎の頭上には大黒さまが降霊するのである。
11月11日(2001年 内田樹ブログ「夜霧よ今夜もクロコダイル」
>>

 アクセス数の少なかった頃のウチダ氏ブログは実に奔放というか,
 気楽さ全開だから読んでいてかなり面白い.
 ここでも「降霊術」とあるし,少し後には「研究室に"除霊します"の看板をさげようか」などと書いていて,
 大学の同僚もさぞ苦笑しながら読んでいただろうなと想像できる.
 今のブログは「演説もの」記事に限定されていて,それでも奔放に見えないこともないが(喩え話とかね),
 昔に比べるともうガチガチなのが分かる.
 立場上しょうがないとは思う.
 しかしこの頃は記事にタイトルすらなく本当に備忘録的なブログのはずなのに,
 内容の「肉の付きよう」が半端ないことにはいつも溜め息をつかざるを得ない.

話がずれた.
何か文章を書こうとする時,自分を意識し過ぎていては書けないのだ.
そういう文章の書き方もあるのだろうけれど,それはきっと
「筆(指)が勝手に動く」ような書き方ではない.
何かが「降りてくる」前にはやはり確固とした自分が必要なのだけど,
それは「降りてきたものに自分の一部分を間借りさせる」だけの余裕がある,という意味ではないか.

文章を読むことについてウチダ氏はこんなことを言っている.

>>
本を読むことのむずかしさは、ある程度「分かったつもり」で読まないとそもそも話にならないということと、「分かったつもり」で読むと、自分のフレームワークではとらえきれない深い部分を見落としてしまうということのバランスを取ることである。

分かっちゃいるけど、分からない」という理解のあり方を伝えるのはほんとうにむずかしい。
11月19日(同上)
>>

きっとこれは書く時も同じなのかな,と思う.
「何か分からないけれど面白そう」という予感があってぐちゃぐちゃ考え始める時に,
その「面白そう」が出てくるまでの発想や理路については分かっていなければならない.
考え始めのぐちゃぐちゃがそのまま続いていいのならば(と言いつつそんな状態想像できないが),
思考の入り口を曖昧にしたままでも構わないのだろうけれど,
「ぐちゃぐちゃ考え始める」ことの目的が「何か分からないけれど面白そうなことを解明する」ことならば,
やはり入り口の理路をある程度整然としておかなければいけないと思う.
それは理路の整備でなくとも,「なぜその予感が生まれたか」という思念の遡行でもいい.

「分からない」が未知への興味を刺激し,学びを起動させるのだけど,
その刺激を感知できるだけの「分かる」を持ち合わせていなければ何も起こらない.

この「分かる」と「分からない」の良いバランスを保つのに大事なのは,
「マナー」だと氏は言う.

…詳しくは11月19日の記事を読んでみて下さい.
この手の話はウチダ氏の十八番というか,ブログで何度も言及されてきたのだけど,
そしてその都度微妙に違った表現が可能である(それは思考が日常に即しているということ)氏の蓄積が
ブログに雑多に(それはもう本当に雑多に)放り込まれているのだけれど,
年度から言ってこの記事の表現はわりと原型に近いのかな,と勝手に想像してみる.
あくまで氏のブログの書き始めをスタートとした場合なんですが.

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まだ風邪治ってないけど,完治に近い.

今回の風邪はもしや「身体の各種細胞の再配置」かもしれないと思えて来た.
それはいつもの「さっさと治す気満々モード」で水をガバガバ飲んでるにも関わらず
風邪が長引いていることによるのと,
どうも「身体の熱のもち方」と「節々の痛み方」がいつもと違う.

風邪の時に節々が痛むのは日頃から酷使する箇所においてであって,
立ち読みが週課の自分はたいてい足にくるのだけど,
その「くる感じ」がいつもより内側な気がする.
そしてそれがいつもの「だるい」というより「重い」というか「鈍い」というか.
あと「熱のもち方」というのは…んーよくわからん.

まあ治ったらある程度はっきりするかな.
あるいは「もう少しかかるかもしれない」という予感も少し.
ま,仕事と読書がそこそこできれば文句はなんもないっす.
その許容範囲内でなら,どうぞご自由に(→身体各部の皆さん).
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by chee-choff | 2011-11-15 00:12 | ウチダ氏