深爪エリマキトカゲ
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会社の動き、社会の動き
「会社を逆から読むと?」
「ゃしいか?」

とマジメに答える単純な人はマンガの中にしかいないけれど(かの「ゆーじ君」ですね),
たまにはふつうの日記を書いてみる.


最近どうも社内の動きが激しい.
どんな,と言われてもちろん言えないのだけれど,
何やら人がたくさん動きそうな噂(というほど隠されてはいない)が.
そのせいかあたふたしているのか活気づいてるのかよく分からない騒がしさがあって,
でも集団(グループ)としてはそう見える一方で個人一人ひとりを見ると
消費エネルギの日平均は上向きにあるようで(←何が言いたい?),
それがいいことなのかよくないことなのか検討もつかない(当たり前か).

いや最近「わからない」とか「皆目検討もつかない」とか自分の脳内で連発しているのだけど,
それはきっとハルキ小説のせい.
主人公はよく考えるのだけど何かにつけて「わからない」と言い,
わからないを溜め込むうちに忘れたと思えば違う形で復讐(?)されて「うわあ」ってなって,
で「やれやれ」と呟くのだけど僕はそんな主人公君に「やれやれ」と言いたい.
まあ,そんな彼にとても感情移入しやすい今の自分にも「やれやれ」だけれど.

さておき.
僕は独り身なのでどこへ飛んでも「僕も飛べるんだ…☆」と感動しておしまいなのだけど(大嘘),
家族がいる人は大変だろうなとか.
まあ飛翔先は一カ所しかないんですが.
ビバdo田舎☆
(あれ,言っちゃってる…)


面倒なタイトルをつけたからしょうがなく考えるのだけど,
社会の動きもなんだか不穏である.
オキュパイどこぞデモとか,経済恐慌とか.
それは主に世界の動きで,対して日本はいまいち反応しきれていない様子.
僕は別にそれでいいと思うんですが…下手に「日本人も団結してデモを!」とか煽ったりせずに.
「何もしないことが最適解である場面もあり得る」のはひとつ真実で,
周りが浮き足立っているとつい自分も行動せねばと思うのも人情(?)ではあれ
その如何も含め全ては自分を落ち着けてからだと思う.
多勢になびいて安心して,その先はあるのかな,とか.
(そういえばブエナビスタだめだったね…タカハシさんもがっくりだよ)

自分に関係のないところはどんどん変わっていって,
でも自分とその周りは変わらぬ日々が過ぎていって,
そんな集団は行き着く先はいったいどこなのだろう?
でもきっと「今,先が見える」ことは必要ではない.
「先が見えない」状態が苦しいわけでも,実はない.
正しいのは,「みんな見えていないから大丈夫だ」.
そういった正しさを暗黙の了解とする集団は珍しく,
しかしそれでもやはりどうしようもなくそこにある.

「何も分かっていないことだけは分かっている」
これがどれだけ正しいか,分かっていても,
「だからなんだ!」という居心地の悪さを感じる,
それは冷静ではあるけれど諦観でももちろん達観でもなく,
「程よい振れ幅で」ゆらゆらしていればいい.
謎への感度を下げぬよう,
謎と謎のつながりに五感(語感!)を研ぎ澄ませ,
自ら「謎々」を生み出す心の余裕を,頭の余白をキープする.
(そういえば「doクリア」って歯磨き粉,あれ「どクリア」もあっての掛詞かしら)


面倒な話になると抽象(というか意味不明)にもっていく癖がありありと出てますね.
きっと言いたいことが何もないのだと思う.
これは諦めかしら?
でもある方向への諦めが別の方向へ進む意志を盛り立たせることもある.
…きっと「意味を一つに定めない」のが今の流行りなんでしょね.
こんなことばっかやってると他人に関われないなぁ..
という自覚は持っておこう(キリッ
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by chee-choff | 2011-10-31 23:37 | 社会人 | Comments(0)
と と いつ
Q1. 「え」と「せ」と?

Q2. 「れ」と「る」と?

A.
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by chee-choff | 2011-10-30 19:53 | ことばあそび | Comments(0)
恋愛「抹殺」小説
許せない?
関係を断っても,存在が喪われても,許せない?
それは,「関係が断たれていない」から?

憎悪の膨大なエネルギを伴った未練?
消し難い痕跡?
小説家はその痕跡を…

+*+*+*

『IN』(桐野夏生)を読了.
なんという昏さ.
昏さが展開される軸が,
『OUT』では生身の肉体であったならば,
『IN』では紛れも無い精神,いや精神に絶大な影響を及ぼす言葉だ.

最後の最後で,見事に脳内BGMと共鳴してしまった.
底無しに昏い,精神の密室.
「言葉の密室」.

前みたく生活が負に帯電(?)するとは言っていいが,
この昏さは蠱惑的な昏さだ.
喜んで.
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by chee-choff | 2011-10-27 23:29 | 読書 | Comments(0)
レプリカとしての「どこでもドア」
いつも唐突に膨らんだ想像を書き付けるものだから読む方も大変だと察するのだけど,
実は思いつく方も「思いついた話が印象的なほど文脈を忘れる」ものだから
読み手同様に大変なのである.
でもだから読み手と同じ気持ちで読めるかというとそんなわけなくて,
訳の分からない話を面白がれるのはそれが「自分についての訳の分からない話」だからで,
読み手自身と繋がりようのない訳の分からない話というのは,
そう,ひとこと「訳が分かりません」と言っておしまいなのである.

という言い訳を書きたくなるほど後ろめたいわけでもなく…
そして迷惑なことにこれが調子の良さを示す徴候であったりもして…


「内に籠る」という表現があって,
精神的な意味合いでそれを使う時は「外との接触を断って自分の中に閉じ籠る」
という意味なのだけど(まあこの点だと「部屋にこもる」のと大して変わらない),
「籠った先」の精神が内で閉じていなくて外に開いている場合は,
籠ったと思い込んでいるだけで実は開かれている.

読書に没頭している状態というのはある意味そういう状態であって,
その状態を何かメタファーで表せないかなと少し考えてみたのだけど,
「ドアを開けて部屋に入ってドアを閉めるのだけどその部屋には天井と壁がない」
とかどうだろうかと思って,その解釈は
「ドアを開けて閉めるという行為が主体に"内に閉じた状態"を認識させるのだけど
 主体の居場所はドアを開け閉めする前後で変わっていない」
というもので,廃墟じゃあるまいしどっか自然に(いや「人工に」だけど)そういう場所ないかな,
とまた少し考えてみて
「塀を巡らせた城下町で壁にドアがあるのだけどその前後の空間の所有権は共通に公的である
(=私有地でない)」という『迷宮百年の睡魔』(森博嗣)に少し影響されつつ想像できないこともないが
どうも曖昧な絵だなあとか思って,
もう少しファンタジー寄りにというか,純粋に「ドアだけ」を思い浮かべたらパッと出て来たのが,
「どこでもドア」.
本物だと「どこでもドア」をくぐると(今とは別の)行きたい所に行けてしまうのだけれど,
レプリカであれば本当に「ドアだけ」であり,「くぐるだけ」である.

ドラえもん展示館みたいな所(確かあったと思う)に,草むらの上に「ピンクのそれ」が展示してあるのを
何かの記事で読んだ記憶があるけれど(夢の中だったらすみません),
あれは紛れも無くレプリカでありながら「レプリカとしての機能」があるのだ,
と今僕は勝手に思い至ったのであった.
そう話を広げるなら別にドアを抜ける行為を「内に籠る」認識に限定する必要はなくて,
もっと漠然と「そこを抜けると"何か"が変わる」のだ,と.
そう,真面目に(←これが重要)ノブに手をかけ回してドアを押し,敷居を跨いで抜けると「変わる」のだ.

変わると思えば変わるのである,という認識レベルの話に具体性を付与するのだけど,
それは「変わる何か」が具体的になるのではなくて,
「何かが変わる」ことを体感する意味での具体性なのである.
…言葉が足りない?


話を戻せば,言いたかったのは(言わない方がいいかもしれないけれど),
自分は閉じていると認識しながらも雰囲気としては「閉じた開放性」という
不思議さを醸し出せたら楽だなあ,とか.
これを楽と言って,共感できる人がいるとも思えないのだけど…

いつも思うのだけど,自分は楽をしたいのか苦労したいのかよく分からなくて,
「きっと楽に苦労したいんだろう」とか平気で矛盾な言い方をして喜べるのが,
単に自分の中で「"矛盾"が流行り」というだけなのか頭がおかしくなったのか
あるいは頭をおかしくしようとしているのか.
でもまあ,別にどれでもいい..
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by chee-choff | 2011-10-26 23:42 | 妄想 | Comments(0)
「苦痛の先取」で平穏を保つ
昨日はいろんな(しょうもない)いきさつがあって晩飯が
「カップ豚汁うどん+ポテトチップス」
だったのだけど,それを食べてから今日の昼前後までとても不安だった.
 ちなみに今朝はいつも通りの納豆トースト+4種サラダ+…,昼は紅鮭とあとこまごまとした
 身体に良さそうなもの(えー)で,昼食後しばらくして,だんだんと不安が薄れていったのだった.

その不安というのはもちろんヤな出来事があるとかの精神的なものではなく,
肉体が栄養(あっさり成分?)に飢えているという身体的なものなのだけど,
なんというか「精神的な不安と見紛う」ようであった.


という話の関連で思いついたのだと思うのだけれど,
「何もないことを良きことと思う」という静的安定は
何かが起こった時に「考えてみれば…」という形で認識するのが常だが,
(例えば病気になってから「健康ってのはやっぱ大切だな」と言うような)
何か良くないことが起こらないと静的安定に思い至らないのは単純に
起こったことに「懲りてない」だけであることも多いのではないだろうか.

平穏無事な生活を保つ秘訣というのは日常をそつなくこなす器用さだけでなく,
しかるべき時に「平穏が乱される時の苦しみ」を先取りして想像してしまう,
というある種の臆病さ
も含まれるのではないか.
 だからその臆病さは他人に自慢できるとまで言うつもりはないが,
 少なくとも自分の中では大切にあたためておいてもいい気がする.
 あるいは自身の臆病さを恥じる友人に「や、いいんじゃない」とほんのり肯定するような.

「その場その場でそつなくこなす」ことが「長い目で見て安定を確保する」ことと
完全に一致する,と自信を持って断言などできないのであり,
「長期的に捉えると常軌を逸するような方向性」を(微)修正する機制(仕組み)が
「計画的」でなく「なんとなく」というところがミソなんではないかな,と思った,なんとなく.
…もう少し言うと,そこが「計画的」だと「短期的なそつなさ」と抵触するのかな,と.

 静的安定の反対はここでは「面白いことが立て続けに起こる」という動的安定.
 これを安定というのは,精神が躍動している・快いという「傾きaの安定」のこと.
 先に触れた静的安定を対置させるならこちらは「位置xの安定」だろうか.
 このaとかxは高校数学のノリで使ってます.

+*+*+*

という記事のタイトルを考えていてまた別のことを思い出したのだけど,
前に「地震が起きた時に壊滅的被害を想像する機制」について考えたことがあったが,
あれは改めて考えるに「不幸の先取り」なのだと思う.

「思ってもみなかったことが起こる」よりは
「思った通りのことが起こる」方が,
当の「起こったこと」がどれだけ酷くても「まし」である.
だから「やばいことが起こりそうだから頭の中で先に起こしちゃえ」というような.

多分これは気持ちとしては共感の得られやすい話のはずで,
でもこの気持ちを間違えた表現で言ってしまうと
「不謹慎」と断罪されてしまうのだろうな,と思う.
確かなのは,不謹慎に思われることを言う方だけでなく,
それを受け取る方にも「その表現が不謹慎である」という認識に加担している,
という認識が必要なことだろう.
断罪したくなる気持ちもまた共感できるのだけれど,
何事に対しても「文脈を汲む姿勢」は常に保っておきたい.
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by chee-choff | 2011-10-24 22:41 | 思考 | Comments(0)
万物に宿る/「花坊主」
10/23 @Veloce

『いいひと。』の22巻,真理子と妙子の,一郎の墓前での会話.
一郎に語りかける真理子がいて,それを傍らで聴く妙子がいて,
しかし僕ら(読み手)は桜を見る.
春の風に舞う,桜の花弁を見る.
(花弁の影が墓前に,二人に落ちる)

そこでは真理子も妙子も,一郎の存在をしかと感じている.
自分の拠り所として,あるいは二人を繋げる存在として.
その二人の「心の宛て先」を,僕らは花弁に見る.

墓前を彩る草木に魂を感じ,
感じた魂をもって縁とする.


抽象(想念)でなく,実体に実在をみる僕ら(日本人)の間では,
山川草木,花鳥風月,森羅万象に魂が宿り,縁が起きる.

その縁の存在を許容するには,
単なる実際主義だけでは到底足りるものではなく,
生半可でない寛容の心(達観?)が必要な筈なのだ.
…いや,それは現代の「実際」が複雑になり過ぎたからだ.
現代には現代の縁が「在る」のかもしれない.

+*+*+*

遅々としてなかなか読了に至らない『いいひと。』(読み始めたのは去年だったはず)の,
22巻を読んだのは恐らく3回目で,
修羅場回だからか今日も読み終えるのに2時間以上かかり(足イタイ…),
いつも通り立ち読み後のVeloceでブレンドのLを頼んでからは
(いつも「L」と言って「M」に取られて「いえ,大きい方です」と言い直して,
「ミルクとお砂糖はお付けしますか?」「いえ,ブラックで」と断るという一連のやりとりが
 もう10回はとうに超えてるはずなんだが…顧客を覚えないのはチェーン店ならではの優しさ?
 一度だけ「ミルクとお砂糖は…あっ(こいつブラックの野郎だった)」という反応があったのが懐かしい)
「花弁の落とす影」に気付いた時を反芻して,
あれはなんだったんだろう…と5分くらい頭の中を桜の花弁がはらはら舞っていて,
そこから思い浮かんだことをVeloceのレシートの裏に書き込んだのだけど(その清書が↑),
その想起後に読んだ本と想起内容が共鳴して図らずも涙を目に溜めてしまった.
もちろんその前段あってのことで,ここだけ抜粋してもアレなのだけど.
>>
 中川幸夫さんの名を世に知らせることになった作品に「花坊主」(一九七三年)がある。真っ赤なカーネーション九百本の花を毟り、それを持ち帰って、大きなガラス壺に一週間詰めておく。すると花は窒息してしまう。その腐乱した赤い花肉を詰め込んだ壺を、真っ白の厚い和紙の上にどさっと逆さに置く。すると、鮮血のような花の樹液が和紙にじわりじわりと滲みだしてゆく……。「花の血」である。
 花のいのちを最期まで見とどける。花のいのちをこの手でずしりを受けとめて、最後にもういちど花にそのいのちを咲かせてやる。最期の華やかな狂いをたっぷり演じさせてやる。そんな情を中川さんは花に注ぐ。
鷲田清一『死なないでいる理由』 p.144-145 いのちを見とどける──「花」をめぐって
>>
この作品名を検索してみると,なんとあった

ううう苦しいぜ.
…感度を上げた人間にはちょっと強烈に過ぎた.
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by chee-choff | 2011-10-23 22:32 | 読書 | Comments(0)
“差異”は投げられた
- 始まりの言葉 -

2011/01/08 18:32
今日は久しぶりにカフェで読書。
そして懐かし(お馴染み?)のベローチェ。
やっぱりカフェはいいね。

で、久しぶりだったからか、
思考がスムーズに混沌としていてよかった。
その混沌の中から記号にしておきたい話が一つ。
(といっても帰りのバスの中での思考だが。)


物事には二面性、あるいは多面性が備わっていて、
良い風にも悪い風にも見方によって見える。
それはそうなのだけど、
一面が決定的に見える物事に対して、
別の見方を探索する時に、
「その逆もあるんだ」と最初に決めてかかる姿勢に、
何か疚しいものを感じていた。

だがそれは、一般性に囚われていただけかもしれない。
逆に考えれば、その志向性は、
「物事を多面的に捉える姿勢をもつ」という
古くから伝わる格言(のようなもの)の実践とも言える。

単に自らマイノリティを目指す「無茶な個性の発揮」
ではなく、連綿と続いてきたある種の思考の「作法」
に忠実な態度であった、とも言えるかもしれない。
そうふと気付いて、その方がいいと思った。

差異から始まる思考。

"差異"は投げられた。


2011/10/21 16:21
続きを書いてみる。

上にある「逆もありき」思考を、
「身体を言葉へ投げ込む」実験と呼んでみる。
「言葉の世界を遊弋する」と言っていいかも。

身体と言葉のどっちが先にある、と言われて
それは西洋的実存からすれば身体なのだけど、
今回の場合は「言葉から身体をつくる」方向。

まず「論理的にこうなるな」と頭で納得して、
その納得を生活に適用してしばらく過ごすと
単なる論理が身体性を獲得する事はあり得る。
これは「自分の中の何かの納得」と「習慣」の
作用の結果であり(前者が後者の成立を促進する)、
論理性はここでは数ある触媒の一つに過ぎない存在だ。

以上の話は一人で閉じていても成立するのだが、
人とのコミュニケーションも勘定に入れれば、
「(相手の)身体が(自分の)身体をつくる」方向性は
日常生活の中でざらにある。
結婚生活(「一つ屋根の下」)はその典型。

もちろんその夫婦は言葉のやりとりによってお互いに
納得し合いながら生活を作り上げていくのだけど、
両者の距離が近いほどその内容よりも「言葉の語り口」が
否応なしに相手に伝わるものであって、
二人が共に形成する身体(=身体性…共身体?)は言葉よりも
身体(=日常の振る舞い全て)に依るところが明らかに大きい。

そして「言葉が身体をつくる」のと「身体が身体をつくる」
のは「身体をつくる」点において同じという視点に立てば、
前者を後者に生かすことは可能である。
つまり「身体をつくる」ことを知ればよい。

そしてその「身体をつくる」ことは、
「時間的な隔たりをおいて自分の中に差異を発見する」
ことである。
ここで、差異と身体が共鳴する。
何せ「差異」は時間軸におけば「変化」のことで、
変化しない身体は存在しない。

おしまい。

+*+*+*

脳を時間軸におくと,何が起こる?
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by chee-choff | 2011-10-21 23:06 | 思考 | Comments(0)
根葉もなき
 根葉もなき 噂なれども 茎はあり

 余興 辣韮 素頓狂
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by chee-choff | 2011-10-19 01:05 | ことばあそび | Comments(0)
奥行きあるいは火のイメージ
下駄の話.


足を揃えて直立する時に.
左右には安定で前後にぐらつくのは,
下敷き(ノートに挟むやつ.懐かしいね)を立てた時と同じ.
二次元は三つ目の次元を知らないのだ.
もとい,線分は奥行きの存在を知らないのだ.

それは極端な話で,
というのも下駄の歯には2センチ弱の奥行きがある.
足の裏(僕は26.5センチだ)と比べると心許ないものの,
線分ではなく,しっかりと幅を持っている.
その「奥行きのイメージ」を接地点だけでなく,
接地点と地続きの身体全体に対してもってみる.
ちょっと効果があった.


あるいは前後にぐらつくことを予め考慮に入れる.
揺れをなくすのでなく,うまく吸収して和らげる耐震設計.
建築だと接地面(スプリングとか)や内部の一部(巨大振り子とか)にしか細工できないが,
幸いなことに身体はその全身を吸収運動に利用することができる.

「足下の揺れを抑えよう」という脳の単純な命令だと,
足は硬直に向かってしまう.
そこに重心位置や身体の傾きへの配慮が欠けていれば,
足の身体に対する揺れが止まったとして,
実は「動きを止めた身体全体」は地面に対して倒れていたりする.

足下の揺れに対して,上半身を同調させて吸収させる方向性を考える.
身体の各部は流動的になるのだけど,
地面(重力)に対する身体全体の位置が安定となる関係を目指す.
ここで「関係」と言ったのは,
身体のバランスを考える時に身体内部で閉じてはいけない,という意味が込められている.
ここは宇宙空間ではなく,重力が存在する.
だから重力を適切に感知できればそれだけでいいはずなのだけど,
直接的にそれを目指すのが極めて困難なために,
様々な手がかり(主に視覚情報)から重力の感じをつかむ.

その具体的なところを話すつもりはなく,
ここではイメージの話.
そう,「火」.
火はゆらゆら揺らめきながらも,すてーんと転ぶことはない.
その内実は燃焼反応で比重の差から空気よりも軽い気体となり上へ向かうというだけだが,
(理系ながらこんな曖昧な説明で「ええのそれで?」と自分で思ったりはする)
イメージの話なので,内実は関係ない.
揺らめく火をイメージして人間のミラーニューロンがどう活性化するのか想像もつかないが,
まあこういうのはできると思えばできるものなのでそう思えばいい.

このイメージもいけそうな気はしてまだコツを掴むほどではなく,
まず「敢えて自分から揺れようとしてはいけない」.
あくまでパッシブに,でも鈍感になってはいけない.
が,敏感に過ぎて小さな揺れに大きく反応すると反動で余計にふらつく.

まあイメージだから…
まだ言葉になおすほどのものがないのかな.
今年の初詣で長いこと見つめたたき火を思い出そう.
…いや,あんな激しいのはダメか.
ろうそくの火,やね.
…いや,あれあんまし揺れんか.

…どんな火?
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by chee-choff | 2011-10-17 23:08 | 在宅天狗 | Comments(0)
幸福に回転する異端の法被
Q. 連想するお菓子は?

+*+*+*

 因果モモンガ ホイジンガ
 あなたの上に 僕の下

コンテンポラリー都々逸.

「ど、どいつ?」
「あ、あいつ」
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by chee-choff | 2011-10-17 22:37 | ことばあそび | Comments(0)