深爪エリマキトカゲ
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5つめの情/メタフォ…
このブログのアクセス解析を見ていて,
シンガポール在住の方が流れ着いたらしいブログ開設初期の記事を読み返してみた.
(どういう経路で迷い込むのか,たまに海外からのアクセスがある)

ブログが(僕のまわりだけ?)流行リ始めたのは僕が大学1年の時で,
その頃はバトンなるものが流行っていたらしい.
(バトンってのは「小説家への100の質問」みたいなやつ)

で,わーこりゃ自分だなと思いながら見ていて,
面白いところがあった.

>>
11:最近の喜怒哀楽を教えてください

 うーん

 最近たぶん喜怒哀楽○の○(5つめ)な感じなので
>>

なんだ5つ目って(笑
深いようでたぶんなにも考えてない.
今考えれば面白そうではあるが.

>>
20:お気に入りのブランドを教えてください。

 何の?

 とりあえずユニクロ
>>

わーww
何も変わっていない(笑
ユニクロってブランドだけど,そういうブランドじゃないんだよね.
だが断る(え

+*+*+*

ブログについて,

それは昔の自分が一覧で残っている,という言い方ができて,
それを読み返すことは過去をひきずるという言い方ができて,
だからといって「誰だこいつは?」と読み返しながら思えればいいわけではなく,

今となってはほとんど文字列以上の意味を成さない過去ではあるけれど,
その文字列から「あったはずの過去」を,
再現するのではなく想像する(「思い出す」とはこの後者である),
そしてその想像の糧が身体的な感覚経験ではなく(生身の経験としてはもう残っていない),
過去の自分だという「意味の次元での身近さ」であるような想像が,
固着でない過去への接し方としてあり得るのではないか.
(すなわち同じような身近さが感じられるならば過去の自分である必要はなく,
 例えば今の自分に近しいと思える小説の主人公と過去の自分を並列させることもできる.
 「そんなたいそうなものではない」と憚られるのは自分の過去が卑近であったというだけで,
 自分の中で自分に対して謙遜する理由はどこにもない)

とはいえ,過去に執着するいちばんの理由は「そのようにさせる現在」にあり,
それに気付いていないからこそ過去に執着するのであり,
加えてもちろん「自分の過去との接し方」なんてものに執着中の彼は目もくれない.
今このこと(つまり「過去に執着する自分」の姿)をそれなりに深く考えておけば,
その時に至って既視感をおぼえ,既視感からの連想でこれらの一連の思考を
思い出すという「心的フェイルセーフ」機能はわりと現実的ではないかと思える.


とその場の流れで変なことを書いていたら思いつきを思い出したのだけど,
「メタ思考」のメタはmetaphoricalのことだと最近気付き,
なんでもメタメタ(=次数を上げて考える)が流行りな自分のさまを,
メタボにかけて「メタフォリック症候群」と呼んでみようかな…
という思いつきだったのだけど,略して「メタフォ」と口に出すと
「メタフォ…」と後に発音が続かないとなんだか落ち着かなくて,ややね.
書き言葉としてはいいんだけど…まあ別に誰にも言わないからいいか.
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by chee-choff | 2011-09-28 23:21 | 思考 | Comments(0)
標準設定下限以下にディスプレイ輝度を設定するソフト[mac]
ふと思いついて検索したらいいソフトを見つけた.

これええわ!

smart-saver

起動したら勝手にメニューバーにアイコンが入って,
ゲージバーをくいっと下げるだけでディスプレイが暗くなる.
もう,がんがん暗くなる.

非常にありがたい.

+*+*+*

PC用のメガネも今月末に発売らしく,こちらも期待.

+*+*+*

言ったからにはそういう日常にシフト(し直し)しなければ,
ということでむりやり別館を更新しました.
むりやり,というのは「ほとんど自分のことばでない言葉」ですらすら書いた,という意味.
いやけっこう納得できてる話ではあるのだけど,
「出てくる言葉がすんなり過ぎてなんか怪しい」ところに自分の言葉でない雰囲気を感じただけ.
あ,そうか,「自分の中で再現しないで書いた」からかもしれない.
理想としては,話として分かっていても言葉にする時に逐一「自分の中を通して」書いていきたい,
と改めて(いや言葉にしたのは初めてだけど)思った.
ふむふむ,これは収穫だな.

独り言ちっくですね.
つか,まるっと独り言ですね,すんません.
量は大したことないんで,よろしければ一度お越し下さい.では.

→ ちひろ氏の生活と意見
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by chee-choff | 2011-09-27 22:17 | HP作成進捗 | Comments(0)
1級になりました
「本が好き」サイトで(少なくとも)80人目の「いっきゅうさん」となりました.

もう少しで昇級,ということで最近は意識的に書評を書いていたんですが,
実のところ(自分にとって)書評の書きにくい本を読む傾向が強くなっていて,
つまりは「ひとまず一区切り」ってことでちょっと投稿を控えるかもしれません.

読んだ本の印象が自分の書いた書評に引っ張られる,
という悪い癖をなんとかしなくちゃなーという思いもあり,
それは書評を書くことを控えて治るものではないと認識はしつつも,
そういえば別館HPを1ヶ月近く放置していたらしいので
そっちに思考リソースをまわしたいなとかとってつけたようにとてちてた.

まあこんなこと言って,その都度読んだ本に影響されまくるので
ひらりと前言撤回することも多分にある(いやむしろできたらいいなあ)ということで,
要するに引き続きよろしくです.

→ chee-choffのページ

まずは…そうだ,上で言ったけど,
「言葉を継ぐための言葉」
をどう紡いでいくか.
思いを言葉にするのではなく,
ふと口をついて(って会話ではないので「ぽわんと頭に浮かんで」かな)出てきた言葉に
「へえ」と思って「どんな言葉が続くかな…」と思わせてくれるような,
そんな「最初のことば」.
かといってそれは(僕個人で閉じても)原初であるはずはないし,最初が1つだと困るので
「そのつど途中の,最初のことば」.
そう,「最初」とは何か?

…まずは生活の余裕が必要だな..
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by chee-choff | 2011-09-27 01:01 | 読書 | Comments(0)
意識の先を
信じる.

覚えておくのではなく,おとしこむ.
執着ではなく,開放.

執着は過去を見ている,
開放は未来を見ている.

執着は見えなくなることを恐怖する,
開放は見えなくなることを許容する.

大切なのは,今の今.
今の今を感じ,おとしこみ,おとしこんだら開放する.

そのために必要な認識は.

今の今は,現在(現存在,今ここにいる自分)だけではない.
過去を意識し,未来を意識し,
今ここにいながら,ここではないどこかに繋がる.


執着ではなく,開放を.
あるいは,
執着を包み込む,開放を.
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by chee-choff | 2011-09-27 00:38 | 思考 | Comments(0)
『美男へのレッスン』橋本治
『美男へのレッスン』橋本治

2011/09/02 23:11
ハシモト氏の語りについて。

氏は僕らの日常にたまに起こる「よく考えてみると…」
という冷静さをひたすら実践しているのだ。
だから読み手は話の内容に興奮しつつも、
頭をぐるぐる回して読み進めることができる。
その「発端の些末さ」(些末、と言ったのは例えば
文学的感覚というかそれの崇高な命題から見て、の意)は
市井の読み手にとってとても近しいものに感じられる。
すっ飛んだ内容でもするする入り込めるのは、その意味で
ハシモト氏と思考の動機を簡単に共有できるからだろう。

そして「本質を突く」性質のもつものでもあるけれど、
このような冷静さを常とする本を好きになって
面白くないのは、その読み手の周囲の人々である。
「よく考えてみると…」が起動すると、まずたいていは
起こそうとしていた行動が中断される。
それをよかれと思うのは知性の発動に促された本人の
一部分であって、周囲の人々とその周囲の人々の期待に
応えんと行動しようとしてうずうずしている本人の
別の一部分は「こんな所で考え込むなよ」と思っている。
そう思う彼らは、彼らのそれぞれが他人に期待している。
自分発の動機の起動に目を向けようとしない。

まあハシモト氏に限らないとは思うけど、
「本に没入すればするほど一人でいたくなる」
という原理はここにあるだろう。
読む本の内容ではなく、読書そのものの機能として、
それは他者とのコミュニケーションと相容れない。

…と書いて、本当だろうか? と思う。
ここでの「他者とのコミュニケーション」に、
「現代の主流の」という修飾語を付けた方がいいだろう。
その主流にはほかに、
「一人でいる時間はもったいない」とか、
「お金は使わないともったいない」とか。
何か、しっかりしたこだわりがあるように見えて、
それが物事の一部分だけ捉えてのこだわりであるだけに、
全体を見てしまう人からすると「まあ勝手にすれば…」
と距離を感じさせる要因になるというか、
「まあ一人でいいや」と内向きにさせてしまう。
全体を見るというのは、空間的にもそうだし、
時間的にもそうだ。

「ひとつひとつの行動に付随する快楽は体験して
もちろん悪いものではないが、その積み重ねを
どう生かすつもりなのか、あるいはそんなことを
考えなくてもよい(無意識も含めて)根拠があるのか?」
身体的感覚と言われてしまえば今の自分に言葉で
返すことはできないが、それでもやはり
「今の自分の感覚とは違うなあ…」と思ってしまう。
快楽の積み重ね、他者との親身な時間の共有の経験が
想像もつかないところで自分を「いいもの」にしていく、
という感覚を今の自分は持つことができない。
「慣れ」に対する恐れ(影響力の強さの認識ということ)は
もちろんあるが、それだけではない(「良い習慣」に
恐れを抱く必要はどこにもない)。

…根本のところで、現代をあまり信用していないのだ。
ある種の過去の人々を参照項として見出せてはいて、
それを錯綜する現代に合わせて適応する応用力、
または器用さをまだ持ち合わせいないということか。
「自分は流されやすい人間だ」という強い認識は
過去の充実した数年間とその回顧の中での驚愕に
由来するものであり、その経験が今の自分の行動原理を
成立させる大きな駆動力の一つであることは間違いない。

その変わり目は来るのだろうか。
すなわち、「応用力がついた」と思える時は。
生身の人から影響を受けない限りはその認識に
至ることはなさそうだ(本の中の人から受ける影響では、
生身に回帰する方向性に絡まないような気がする。
これにはなんとなく以上の説明を付けられないが)。
だからこそ、読書三昧の日々を送りつつも、
「来るもの拒まず」の格言を守り、
「外乱という不確定要素」の居場所を自分の中に(いや、
自分と他者の境界に、か)確保しているのだ。
そしてこの現状を「そこそこいいもの」だと思っている。
それでまあ、いいと思うけど。
2011/09/02 23:42

2011/09/19 18:18
昨日読了。
書評用の文章を書こうとしてみる。

本書のテーマは一応「美男とは何か?」だが、
そのテーマを軸に人に関するあらゆることが語られる。
美男と対になる(と一見思える)美女について、
枕草子に遡っての美男の起源、
欧米の映画やM.ジャクソンを素材にしたりして、
当たり前のように本筋から外れて氏の「筆の気分」で
話が展開され、逸れまくっている論の道筋の一つひとつが
実はちゃんとつながっていると断言さえもして
その理由に「だってそういうもんだから」の一言で
納得させようとする氏はやはりめちゃくちゃな人である。

「やりたい放題本」はハシモト氏の十八番であって
それについていく読者も大変なのだけど、
本書の救いはメインテーマがもの凄く身近というか
キャッチーなので「ここをちゃんと理解すれば俺も
モテモテの美男になれる…!」とか「この話は
もしかするとカッコイイあの人の秘密が書かれている
かもしれないわ」といった日常的な欲望を駆動源に
本書の→散漫に過ぎる内容に喰らいつけることである。
(と書いたが本書の想定読者が男性であることから
 女性が後者の達成を目指すにはハードルが高過ぎ、
 そもそも氏がわかりやすいことを書くはずがないので
 前者で「騙された!」と叫ばない男はきっといないが
 「騙されて良かった」こともあるにはあるのである。
 そのことについてこれから書く)

その「散漫に過ぎる内容」というのが、
(詰めに詰めて11ページにわたる目次の項目の多さで
 簡単にウンザリできてしまえるものでもあるのだが)
ふざけてるのかマジメなのかマジメにふざけてるのか
分からない(いやそこはむしろ「分かりすぎる」)語り口で
時にいきなり「ぽーん」と鋭い洞察を放り投げる
もんだから、軽快なヨタ話(も一杯あるんです)をさらりと
流すのと同じ要領でそこを「ま、そーよね」とすらーっと
通り過ぎることもできるのだけれど、
「本質感知センサー」(なるものを勝手に命名しました)を
起動させて注意深く読み進めていたならば
「一体どう生きてくればこんな事が言えるんだ…」
と想像を絶する氏の教養に驚愕すること頻りなのである。

難しい所を飛ばして「あはは、これおもれー」で通読でき、
マジメに読めば「どうすりゃいいんだ…」と途方に暮れる
こともできる本書は万人にオススメできます!

と言って嘘ではないんですが…
いちおう途方に暮れた側の一人として、
上で触れた「ぽーん」をいくつか抜粋しておきます。
本質を捉えるのは大事であって(一連の)思考の達成点
でもあるんですが、やはりいきなり「ぽーん」と
目の前に突き出されても理解が追いつくはずがなく、
(いやもちろん氏のぐるぐるした思考過程は示されるんですが)
それでいて「これは凄いことを言っている…!」
というのは分かるもんだから、「自分で一から考える」
意志の起爆剤になると僕は思ってるんですが、どうだろう。。

>>
 男にとっての「理想の女」は歌舞伎の女方で、女にとっての「理想の男」は宝塚の男役である。「そんなもの嫌いだ」と言っても仕方がない。人間の「理想」というものは、そのようにメチャクチャなものであるのだから。p.41

 クドクドと歴史談義をしていても始まらないのでさっさとやめるが、要は、近代というもの人の頭の中で生まれて、だからこそとてもイチャモンのつけやすい、いたって人工的な「人為の時代」だということである。p.142

 江戸で確立された日本の売春のソフィスティケイションは、「なるかならぬかは客の腕次第」という、「遊女の拒否権」を設定してしまったことにあって、その後の「風俗産業」は、すべてその「江戸の拒否権」の伝統下にあるのである。p.247

(…)人間は、「生活の一致」というものを重視するもので、「争いの種」となるものは、この「生活の一致」を壊す、「生活習慣の違い」なのだ。私は、「民族紛争」と「嫁姑の争い」は、基本的に同じものでありうると思う。同じ台所で、同じ国土で、それぞれの「生活習慣の違い」を訴えたくなってしまった人間達は、争いに勤しむ。p.300

 子供の時に完成された「可愛らしさ」を持っていた子供にとって、「その先の時間」というものは、その完成を崩す方向にしか働かないーー子供はそのように解釈する。p.352(太字は筆者の傍点部)
>>

そういえば本書の初版は94年だが、
最近文庫化されたらしい(今年の5月に中公文庫より)。
内容が全く色褪せていないからだろう。
なぜ今に…と言われると見当も付かないけれど。

>>
 つまり、美女達は、いくら頑張ってもメリットのない「美女」を捨てて、男社会の中でワンランク高い位置を占める「美男」になろうとしたのだ。
 というわけで、現在は「男顔の美女」が大はやりなのである。p.210
>>

新聞のテレビ紹介欄でしか知らないが、今だと
「花より男子」とか「美男ですね」とかでしょうね。
ホントになんでも、考えればいくらでも深くなるもんなのね。
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by chee-choff | 2011-09-26 00:05 | ハシモト氏 | Comments(0)
納豆は二度腐る/ハナミズキ
前の金曜にとんだ災難に遭った.

いつものスーパーで初めて見る納豆を買い,
木曜に1パック目を食べ,金曜に食べたのが2パック目だった.
食事の準備の間も特に違和感がなく,
納豆トーストを口に入れるまでも何ら異状は感知されなかったのだけど,
口に入れてもぐもぐしている時に何やら怪しげな風味を感じて眉を顰める.
どこかで嗅いだことのある臭いなのだけど(そしてそれは恐らく食べ物ではない),
ヤな感じだけ喩えれば塩素と硫黄を混ぜたような…
しかし納豆そのものは異臭を放っておらず,
「まあいいか,納豆って臭いし」と適当な納得をして全部食べてしまった.
(後から考えると口に含んだ時に内側から異臭がしていたような気もして,
 豆の内側から腐ったのか? とかそんなわけないか)
が,会社で仕事をしている間もヤな臭いは消えず,
かといって口臭がクサいわけでもないので「身体が内側から腐った」ような気分になり,
金曜は一日ブルーでした.
 そいえば帰宅してコーヒー飲んでから猛烈に眠くなったのは,
 このよくわからん精神疲労のせいだったのかもしらん.
 その時は(多分身体が)眠いにも関わらず脳がコーヒーで覚醒してしまって,
 また面倒なことになっていた.
納豆が腐っていた原因は「3パックが一緒に密封されていた」ことにあった…
かもしれない(実は詳しく確認していない).
それで一日冷蔵庫の中で開放感に浸った納豆を食べてしまったというわけだ.

納豆の冒険(=スーパーで新しい銘柄に手を出す)もほどほどにしよう..

+*+*+*

もしか,すると,
秋の花粉症がやってきた,かもしれない.
窓を開けていると鼻水がずるずるするので,
マスクをしたらピタリと止んだ.

秋の「鼻水期」ですな.
とりあえずアレロック(花粉症の薬でわりとかるいやつ)を飲んでおいた.
春の分が大量に残っているが,これで乗り切れるか…
というか去年の秋も目と鼻がぐずぐずしていたから花粉症だと思ったのだけど,
診断ではスギ(と蛾)しかアレルギーを示さなかったはず.
まあ,勘違いであって欲しいですね.

しかし「"アレ"を止める」という薬のネーミングが当事者には絶妙で,つい「頑張れ」と思う(?).
そう,「花粉症仲間」が会社には沢山いるのだ!(なぜか威張る)
だから会社でマスクをしていて特に目立つわけでもなく,
逆に花粉症でないのにスッピンを隠すためにマスクをする人がいたりする.
(クリーンルームに入って仕事をする人は化粧ができないのだ)
スッピン好きなんだけどなあ…ってなぜこんな話に.

しかし花粉症は桜の時期にいちばん辛いのだと思う.
特に「花見好き」には.

という「二本締め」でした.お粗末.
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by chee-choff | 2011-09-25 20:25 | 社会人 | Comments(0)
我に「帰る」
2011/09/06 23:51
ロイディの前で奔放に振る舞うミチルを見ていて、
ふと思いついた。(森博嗣『迷宮百年の睡魔』)

何かに熱中していて、ふと「我に返る」ことがある。
僕なんかはそんな経験をした時に、
「せっかく集中していたのに切れちゃった…」
と思うことの方が多かったように記憶している。
何かに没頭できてないことを、今抱えている懸案事項が
気になってしまうことを、残念に思う気持ち。
わりと一般的な気がする。

でも、この「我に返る」経験をある例えで示した時、
むしろそれは「安心の訪れ」ではないかと思われた。
あるいは、この例えの方が原型なのかもしれないが。

 母親の傍で子供が手を動かすことに夢中になっている。
 自分が何を考えて手を動かしているのか、
 そんな気にする風が全く感じられない集中。
 しかし、ふと、手を止め、あたりを見回す。
 不安な表情と共に、きょろきょろと首を振る。
 母親の顔を見つける。
 満面の笑み。
 そして再び自分の手の動きに集中する。

これが「没頭と正気(に戻ること)」の原型ではないか。
つまり、集中が途切れる瞬間として「我に返る」のは、
「自分を見守っていたはずの人を再認識する」
ということではないのだろうか。
すると一人で作業をしていて見守られてなどいない、
という話になろうが、そこからこう考えが及ぶ。
「自分で自分を見守っているのだ」と。

大の大人が一人で奔放に振る舞う。
自然の中ではしゃぎ回る。
その所作に無垢さえ表れているような時、
彼は「見守られている」のだ。
自然の中で、と言ったから「自然に見守られている」
とも言えてしまうが、ここで言いたかったのは、
「自分の中に自分を見る目を持っている」ということ。
このことを意識し過ぎると、作業に集中できない。
しかし、このことが全く意識されていなければ、
もしかすると人は不安で不安でしょうがなくなるのでは


ロイディの存在はミチルにとって、
「そういう存在が自分の中にいればいいな」
という理想なのではないか。
敢えて内面化したいとは思っていないかもしれないが、
ミチルがロイディを自分の一部だと思っていることは
きっと確かだ。
自分の一部を外に出してこそ、よく見える
そう、みんな自分が見えなくて不安なのだ。

少し話を戻す。
だから、自分を客観的に見つめすぎて淡泊に見える人、
というのは、表面では感情の起伏が観察されないかも
しれないが、本人の中では「ほんわか暖かい」ことに
なっているのかもしれない。
きっと、彼(彼女)が一人でいる時の振る舞いを見れば、
そのあたりの機微を感知できるような気がする。
一人でいて落ち着いた雰囲気を醸す人は、
自分で自分を見つめることができる人なのだ

きっと、そうだ。
2011/09/07 00:11
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by chee-choff | 2011-09-25 00:03 | 思考 | Comments(0)
さよなら合理性
2011/05/29 21:29
「主観的な合理性」について。

それが形成されるのは、自分の習慣。
本義でいう合理性とそれが合致していれば、
「主観的な合理性」と言った時の「主観性」は薄れる。
ふつう「主観的」と表現する時、その視点なりが
客観から外れていることを指す。

本義でいう合理性とそれがかけ離れている場合、
「我に理あり」の「理」と合理性がかみ合わない。
思うに、この「理」は「合理」だけでなく、
「理由」も含んでいるのではないか。
理由となれば別に、合理的でなくともよい。
本人がそう言えば、なんでも理由になる。

今、「理」から合理性が失われようとしている。
 合理的が「合理的」であった本来の理由は、
 「他者との共通認識を持ちやすい」からだ。
  その性質は科学も有する。
  「科学はコンテンツではなくメディアである」とは、
  『魍魎の匣』(京極夏彦)の京極堂のセリフの換言。
その本来の理由が成り立たなくなってきた為である。
だからそれはその点において「合理的」であり、
認めないわけにはいかない。

マジャリティの質が変わるということ。
傍観者が、傍観者でいられなくなる。
或いは「全き傍観者」しか許されないのか。

+*+*+*+*

少し話を戻す。

「我に理あり」は本来、他者を納得させる為の発言だ。
または他者の共感を呼び込む為の宣言だ。
それは理が合理的であるほど達成された。
合理性は人々の間での共通認識だからだ。

だが今は「我に理あり」がモノローグに成り下がった。
誰も聞かない独白を、お互いに垂れ流す。
それは理が理由でしかなくなったからだ。
合理性の抜け落ちた理を個性だと見なす。

共感という名の無理解。
個性という名の無思考。

刹那主義が、加速する。

一生は一瞬の為にある?
その一瞬を一生続けるのか?


さよなら、合理性。
2011/05/29 21:58
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by chee-choff | 2011-09-24 23:57 | 妄想 | Comments(0)
両目の共存
今日のブックオフ.
なんだかブ厚い¥420.
d0044938_21555645.jpg

前に逃したキリノ本を再発見し,
2時間立ち読みした後にも残っていたので嬉々として購入.
もしか前と同じ君かしら…随分長く読まれていたもんだ.
森氏の今読んでるの終わったら次にしよう…ああ恐い.
・ほさか氏も「著者買い」(内容に関係なく著者で買う)の仲間入り.
思考過程をわりと生で書き込む人らしく自分好み.
その意味で同じ系統のハシモト氏ほど変人ではなさそうだし,
いい意味で安心して読める…と言うほど不安に駆られてはいないが.
あと小説家ってみんなそうなのかなと思うけど,
氏は「素人のままでいること」に対して妥協のない人かな,と.
何の素人かと言われると,「小説家の」ではなくて…「ことばの」かな.
別の話かもしれないけど,「使うことも使われることもしない」というような.

+*+*+*

11/09/24 @Veloce
「両目の視界をうまいこと混ぜ合わせればいいのでは」
と,寮近くのお堂裏を通っていてふと思った.
左右の目のピントが完全に異なる今の自分は,
どちらかの目でしか世界を見ることができない.
 生まれてから約20年はずっと左目だけで見てきた.
 ここ数年は右目にピントを合わせて,(今は左目より
 裸眼の視力は良いはずなのだが)視界に入る個々の
 輪郭がはっきりしないまま街を歩いている.
ピントの具合とは別に,脳がとらえる視界としては,
「脳が意味があると判断したもの」が選ばれることは,
バスの中での(左右の)視界の混在具合から分かる.
それをどちらかに(右目で見ている時は右目だけに)統一したい,
と思って右目の訓練をしているのだけれど,
あるいは適度に両目の視界を混ぜ合わせて「落ち着ける」のではないか.

一例として,「モニター(の画素)の原理」がある.
モニターをルーペや光学顕微鏡で拡大するとRGBが分離して見えるが,
それが人間の目の解像度の限界によって白に見える.
 これは仕事中に気付いたのだけど,例えば400ppi程度のディスプレイを
 光学顕微鏡で50倍で拡大して発光画素を観察する時,
 ピントを合わせればRGBは分離し,
 大胆にピントを外せばRGBは一緒くたになって一つの色となる.
このモニターの原理の逆を言っているのだけど,
ピントを外せば「見えるものが見えなくなる」だけでなく,
「ピントが合っていた時とは別の見方ができる」こともあるのだ.

ある対象に含まれる情報の多さと,
そこから汲み取れる意味の多さ(深さ)は必ずしも比例しない.
「(よく)見えないことで喚起されるもの」は,
それがよく見えている間は決して見つけることができない. 

具体的なところはこれからだが,
「両目(の視野)の共存」の可能性を考慮しつつ,
右目の訓練を続けていこうと思う.

+*+*+*

なんだか途中から「両目の話」でなく「右目の話」になっていることに
ここまで書いてから気付いたが,以下も右目の話.
音楽を聴きながら歩いている時に,
「風景と音楽がマッチする」のは,
左目で見る時よりも右目で見る時だと気付いた.
つまり,あまり見えていない方が音と合うのだ.
 それはもちろん,音楽の多様さにフレキシブルに対応できるのは
 描き込む余地のある曖昧な景色だからだ.
 いやその前に…「多様な音楽と日常的な風景は基本的に対応していない」からだ.
 対応というのは,相性が良い,とかしっくりくる,とか…主観的な話かしら.

あるいは,右目にピントが合っている時は左目の視界はぼけぼけなのだけど,
聴いている曲によっては右目の視界に(ぼけぼけの)左目の視界が侵蝕してくる.
そう,上で「視界の選択基準は意味にある」と書いたのだけど,
つまり「ぐちゃぐちゃした視界」に意味を見出せばそうなる,ということ.
…車通りの多い所でこれやると危険なんですけどね.
勝手に足が車道に飛び出ないとも限らない.

まあその辺は現実に合わせないと…,
いや「没入する場所は選べ」ですね.
都市だからといって動物的な勘の抑制が常態化していては,
ある時にすこーんと身体をもってかれてしまう.
それは「都市と接する田舎」も然り,というかその意味では都市よか危ないわね.

+*+*+*

いつの間にか右目について色々書いてきたようなので,
タグを貼って整理してみました.
→ 「目の話」タグ記事一覧
いや整理はしてないか,同じ引き出しに放り込んだだけです.
一度ほんとに整理して文章化しないとなあ…
でも生物学に手を出すのが面倒ではあって,
それで自分の想像に任せて書いたりすると「現象的に明らかなウソ」が混ざりそうだけど…
まあそれはいいか,ここに断ったし.

あ,ひとつ思い出したのだけど,
『夜はまだあけぬか』(梅棹忠夫)を読んでいて,
自分の右目の弱視は「光学系の不調」ではないかもしれないと思った.
視力の悪さがレンズ系の矯正で良くならない場合があって,
視力が損なわれた梅棹氏の場合は視神経がウイルスでやられたせいらしい.
自分のは単に「成長すべき時期を逃して発達しなかった」だけだと思うが,
(幼少期に弱視に気付けば「弱視じゃない方の目」を隠して生活することで
 回復することがあるらしい)
それもレーシックで普通に良くなるとこの本を読むまで思っていたけれど
どうもそうでもなさそうな気がしてきた.

ま,別に何も困ってないので医者に行って明らかにしようとは思わないが.
たぶん今の生活スタイルが,目が治ることよりも現状キープを望んでいる.
まあ,これも「鶏と卵の関係」ではあるんだけど…

不便に慣れるのに悪いことはない,こんな便利な時代には.
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by chee-choff | 2011-09-24 22:32 | 目の話 | Comments(0)
12月名古屋出張
そういえば12月に名古屋(愛知)に行くことになりました.
7(水)〜9(金)の3日間です.
英語発表のシンポジウムらしく,
期間中は報告書作成にヒーハー言ってそうですが,
週末だし帰るまえにちょっと遊んだりするかもしれない.

まあ、何かあれば,一声かけて下さい.
うまいこと予定が合えば,ね.
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by chee-choff | 2011-09-20 00:12 | 社会人 | Comments(0)