深爪エリマキトカゲ
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「ハイキンよりフッキンだね」
問.漢字をあてよ.

「1.ハイキン より2.フッキン だね」

答. 1.
   2.


あるいは,

「あなたはフッキンとハイキンのどちらを頼りにしますか?」

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by chee-choff | 2011-06-29 23:21 | ことばあそび
道元B
>>
(…)道元Aと道元Bは,一方があって他方がある,一方がなければ他方もない,という種類のものでございます.小乗がなければ大乗はなく,大乗を支えているのは小乗による存在や時間や意識の分析と論証なのでございますから.
高村薫『太陽を曳く馬(下)』p.89
>>

「宗教は無思考の典型だ」という印象をハシモト氏著作をいくつか読んで持っていたが,
どうやらそれは単なる「現代の流行り」らしい.
宗教を俗世と離れたものと見ると理解が遠くなるが,
自身に,あるいは身近な感覚に引き寄せ(られるものと考え)ると,
理解可能なものであったのが意外だった.

うん,そりゃ「道元A」だけじゃまずいわな.

>>
(…)閉鎖的な宗教集団の論理が,(…)反社会的行為の説明にならないのは,オウム真理教の事件と同じだった.激しい修行による思考停止や,何らかの物理的な洗脳や,グルへの絶対的な帰依といった蓋然的な状況だけでは,宗教的救済の意志が殺人と暴力に軽々と転化していったことを説明できなかった理性の敗北を突如思い出しながら,(…)この暴力行為はむしろ宗教一般に内在している何ものかであるか,否,そんなことではそれこそ警察には歯が立たないことになる,(…)
同上 p.95
>>

『正法眼蔵』を読み込んで役僧と渡り合う合田刑事がもう凛々しすぎて鼻血出そう.


あと,今の自分に心地よいと思われている宗教の一面は,
「そこに静謐がある」ということだと気付いた.
無思考のそれ,感覚に付き従うままのそれはある種危険であるが,
脳の活発と共存できる身体のそれならばあるいは…
という思いと共に,連想は繋がり続ける.

>>
クラウゼヴィッツが指摘したように、国民国家の遂行する戦争機械に駆動力を供与するのは「怒りと憎しみ」である。
国民国家内部に蓄積される怒りと憎しみは、どのような形態のものであれ-戦争の成り立ちを説明する言説のかたちをとろうと、戦争抑止のための言説のかたちをとろうと-戦争機械に(少なくともその一部分は)収奪され、戦争機械を前に進める動力を提供する。
そのことはもう2世紀前から分かっていることだ。
ぜったいに「怒らないこと」。
クールになること。
それが戦争へのコミットメントを、戦争による災禍の到来を一秒でも先送りするための最良の方法であると私は信じている

明日は明日の風と共に去りぬ 4月16日
>>
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by chee-choff | 2011-06-28 00:20 | 読書
非接触式理路探知機
>>
私はもともと、その人が奉じている社会理論と、その人の人間的クオリティのあいだにはあまり関係がない、という考え方をしている
(…)
ある種の政治的立場をとることと、個人の知的・倫理的資質のあいだには切り離せないリンケージがある、というのが現在、左翼右翼を問わず、言論を事とする人たちの間で支配的なイデオロギーである。
私はそういうふうに思っていない。
だから、どんな政治的事件についても、てきとうに、その場で思いついたことをだらだら書く。
私があれこれ発言するのは、べつにその意見にこだわりがあるからではない。(私は持説を撤回すること風のごとく疾い。)
ある意見を言うのはキャッチボールのようなもので、それを受けとめて、他の人たちがどんなボールを返してくるか知りたいだけである。
明日は明日の風と共に去りぬ 4月21日
>>

これには僕は深く同意する.
ある立場を採用するにも,その理路は無数にある.
上っ面の付き合いならばここまで気を遣う必要はないが,
同じ立場だというだけで相手を丸ごと信用するよりも,
立場は違えど同じような考え方をする人を信用する方が「よく当たる」と思う.

そのあたりは膝をつき合わせて語ればイヤでも判明するところではあるが
(その機会到来を享受するに吝かではない),
「なんとか普段の振る舞いの中からそこんとこを推察できないだろうか」
というのがここ最近の悩み事.
 積極的にならないのはならないだけの理由があって,
 その理由がadvantageに進化しないとも限らない,
 というのは別の話.
もちろん面白がって悩んでいるのだが,
「石橋を叩いて渡る」の喩えを使えば,
「石橋を叩き過ぎて破壊しちゃって渡れない」ではなく,
「石橋を叩いて強度を確認して去る」でもなく,
「石橋を叩かないでも強度を見抜く」がニアピン賞.
その後渡るかどうかは,その時のお楽しみ.

現状を言えば,
渡る前に叩いた方がいい橋が無数に架かってはいるが,
実は川の水は全て干上がっていて「もと」水底を歩いても対岸に行けちゃう,
という感じ.
謎かけのようで…

「島国であって島国でない日本」の話か.
いや,それはウソだ(笑)

7.4追
「渡りゃあいいってもんじゃない」.
これは少なくとも正解.

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by chee-choff | 2011-06-26 13:50 | ウチダ氏
夏の現実
「夏の幻」はGarnetCrowですが.

現実です.

日本の,現実.

+*+*+*

7,8月の境あたりに1週間,東北へ行くことになりそうです.

具体的には東松島,石巻あたり.

見てきます.


東日本大震災については,

主に新聞報道でしか現地の情報に触れず,

関連本を一冊読んだだけでべらべら喋ってしまった身なので,

実際に見てきて何を思ったかは書かねばなるまいな,

と思う.


文字情報からの想像が,どれほどのものだったのか.

…気負い過ぎると,圧倒された時に

「もう考えるのやんぺ(泣)事件は現場で起こってんの!」

みたいにならぬとも限らないので(誰だ↑これ笑),

頭にLPFをかましておきます,保険として.

合い言葉は,

「そういうことも,あるかもしれない」
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by chee-choff | 2011-06-24 20:54 | 社会人
「覆面社員」
『鼓笛隊の襲来』(三崎亜記)を読んでいる.

やっぱセンセすげーわ.
「日常をちょっとずらす」の「ずらし方」を
型通りと思わせない(実際そうだと思います)絶妙なセンスがある.

日常的に表に出てこない「本質」(例えば社会の原理,集団心理)を
あるメタファーで表現する,という小説の手法があって,
それはふつう比喩元のストーリィ(構造)と比喩先のストーリィを
並列させる(というか後者のみ明示し,そこから前者を連想させる).
比喩先のストーリィも独立して成立しているものなのだ.

が,そこをちょっと崩す.
「あれ,今まで話通じてたけど,ここようわからんな…」
さも自然な記述で,でも少し外して,立ち止まらせる.
「いや,普通にゆーとるしこれで変やゆーのは…」
そこで,立ち止まって,繋がる.
比喩先のストーリィが止まったと思ったら,
そのまま比喩元のストーリィに流れ込んで行く.
二つの支流が合流する.
これは連想ではないのだ.
連想よりも強い.

なるほどど…そういう手法もあったか.
勉強になります.

+*+*+*+*

読む前にたまたま聴いてただけだったのだけど,
思わずしっくりきたので採用した本書の脳内BGMはTreow氏のこの曲.
まさかこの曲で小説が読めるとは思わなんだ.
常に「不確定」を抱えながら読み進めるミステリアスな雰囲気にぴったり?
それはまるで絵画のような.
Blindness
人間離れした歌い手さんも同時紹介.
なぜ歌える…?
【F9】Blindness

注)「脳内BGM」と言ってるのは,聴きながら読書するわけではないです.
  一度聴いて,頭の中の残響をそのまま流す,というのが分かり易いたとえかな.
  それによって曲の雰囲気だけをうまく抽出できている,と思い込んでます.
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by chee-choff | 2011-06-24 00:40 | 読書
裏の裏は表ではなく…
ウラのウラはウラウラ.
JAZZの話.

「言葉を割る」という話があって,
「身体を割る」という話があって,
「拍子を割る」という話があった…っけ?

「脱臼した身体」はふつうにあって,
「脱臼した言葉」はとくいにあって,
「脱臼した拍子」は…無拍子?

ドクドク言う心臓って,あれ無拍子だよね.
それは身体全体(いや実は頭だけかもしれない)がリズムを取っていて,
心臓は身体の一部だということ.
多細胞生物.

+*+*+*

いつの間にか風邪を引いていた.

朝から鼻水が止まらなくて,
面倒臭いなと思いながらカフェに出掛けて,
でもずっとズビズバしながら図書館もブックオフも行って,
帰ってきて「なんか暑いなぁ…」と気温のわりに思って,
やっと風邪だと気付いた.
気付いてから「身体が水を欲している…」と気付いて,
さっきから水をグビグビ飲んでいて,
身体が(嬉しい)悲鳴をあげている.
「ふぎゃあああぁ」

今日はあんま寝れそうにないなぁ…

病気と言い地震と言い,
「忘れた頃にやってくる」とはやってくる度に本当だと思って,
でも天災は人の思いに関係なく唐突にやってくるし,
病気だって常に忘れまいと気負えばそれはそれで病気だし,
「忘れてなくてもやってくる」というか,
「なにがどうあれやってくる」.

それはそうなんだけれども…

+*+*+*

今朝新聞の書評記事を切り抜いていて,
紙の端から切らなくても中だけ切れるなあと今更ながら思って,
(紙を折って,追った部分から切れ目を入れれば可能)
「でも紙の中の人からしたらこれってびっくりだろうなあ」と思って,
じゃあ四次元の人からすれば「どこでもドア」は当たり前なのか.

いや,まず四次元の人というのが当たり前やあらへん.

あらへん?

なぜ関西弁なのか.


なぜ坂本さん(20)は関西弁なのか.
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by chee-choff | 2011-06-20 00:01 | 社会人
「老幼の時間」と「“現役”の時間」
あるいは「被扶養者の時間」と「扶養者の時間」,
あるいは「非生産者の時間」と「生産者の時間」.

>>
(…)フッサールの言っていたあの「いきいきした現在」が孕んでいる,「立ちどまる現在」と「流れる現在」という両義性は,それぞれ<いのち>と<老い>に対応づけることができるかもしれない.立ちどまるというかたちで流れに逆らうところに推力が生まれ,流れ去るというかたちで流れに身をまかせるところに推力の弛緩がある推力があるところでは,未来と過去という二つの不在を現在が含み込もうとする.推力が弛緩するところでは,現在は不断に未来に襲われ,過去へと滑り落ちる
(…)
 まだない,もうない.推力の側,つまりは<いのち>の側からみたときのこの「ない」を象徴させられている二つの世代は,老けた者と幼い者,高齢者(退役者)と子供(未成年)である.そしてこの「ない」が「ない」であるのは,現在から未来を掴もう,過去を保持しつづけようとする<いのち>の──いまやこのように言わなければならないが──狭い論理によってである.これを「成人」が象徴する.が,この「ない」とされる方からすれば,同じ未来も「まだない」ものというよりは「やってくる」ものとして,同じ過去も「もうない」ものというよりは「去りゆくもの」という感覚で出会われる.流れに逆らうのではなく,流れのなかにいる.(…)
(…)だれもがこの二様の時間感覚をもっている.(…)ひとそれぞれの人生の段階,段階で,このどちらかへの集極の仕方がたえず変容しているのである.揺れているのである.そしてそれがこぼれ落ちゆくものの方へ終極したとき,ひとは<老い>に気づくのである.
鷲田清一『老いの空白』p.96-98 <老い>の記述
>>

「幼」を経験したはずの“現役”世代が「老」への想像力を丸ごと欠き,
忌避すべきものとして捉えてしまうのは,“現役”に過去も未来もないからだろう.

>>
<老い>と<幼さ>というものを,社会の「現役」以前,以後というふうにネガティブにとらえるのは,産業社会に特有の思想なのである.
同上 p.75 消えた<成熟>のモデル
>>

「常識の選別作業」(=それがいつ常識として登録されたのかを検証する)に終わりはない.
仕分けたものをも新たに選別対象とする限りにおいて.
その「終わりなさ」が誠実性を担保する.
なぜなら,それは「選別主体をも選別対象に繰り込む」ことの必然だから.
ウチダ氏のよく言う,アクロバシーというやつである.

別のものをどれだけ,それと同じ目で見られるか.
構造を捉えるとは,「違うものを同じ目で見る」ことでもある.

>>
(…)不在の未来と現在と不在の過去との関係は,「流れ」としてまるで一本の線のように結びあわせて語られるかぎりで,じつは現在と現在と現在の関係である.だから,そこでは時間は流れない.(…)流れを時間の外から流れとして眺める意識じたいはそこでは時間的ではない.(…)しかしもし時間が流れると言うのなら,そのように語る者自身が流れのなかにあることが数え入れられているのでなければならない.流れている者が流れのなかで流れるままにそれを流れとしてとらえ,ひるがえっておのれをも流れるものとしてとらえる,そのような時間意識のしくみが問いただされねばならない.そのような意識に対してはじめて,流れは流れとして見え,旋律は旋律として聴こえてくるはずだ.
同上 p.83-84 流れとしての時間──現象学の時間論
>>
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by chee-choff | 2011-06-18 22:01 | 読書
え?
部長「EL討論会行ってきて」
僕 「あ,はい.(……え?)」

+*+*+*+*+

というわけで今日何の脈絡もなく出張が決まったんですが,
なにこの無茶ぶり.

 なんで僕?
 物工出身ですが?
 今してる仕事の担当と違いますが?
 何より,社内に行くべき専門の人間が他に沢山いるはずですが…?

というわけで明日から「即席バケ学人間」になるべくお勉強.
「ポリフェノールってポリ・フェノールなんだぜ!」
ってレベルで威張ってた人間には非常に辛いが.

ベンゼン環はお友達,ベンゼン環はお友達,…


おともだちパンチ!


+*+*+*


で思い出したのだけど,
『夜は短し恋せよ乙女』を読んで登場人物とイメージが被った後輩にその本を贈ってあげた同期が,
お返しに「電気ブラン」を贈ってもらったらしく(彼は既にモリミーloverだったらしい),
今度「電気ブラン祭」の開催が決定した☆
あれブランデーだったのね.
楽しみ♪
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by chee-choff | 2011-06-16 22:04 | 社会人
『大不況には本を読む』橋本治 番外2
本編の前に.

1を読み返さずにこの2を書こうと思って,
でも2を一度書き上げてから多分1から読み直すのだろうなと思って,
「自分は書いた記事を読み返してよく修正することがある」ことを思い出して,
でもその理由を完璧主義と言うには単純化し過ぎだなあと思った.

自分の書いた文章を読み返すたびに修正する.
この行為を,「予め完成形を描けている」前提で解釈すれば,
「その完成形に向けて微修正を繰り返している」となるのだけれど,
その修正の間隔の長さがまた別解釈を呼び起こすもので,
書いたすぐそばから,でなく一度書いて結構経ってから,
もあるのならば(むしろその方が頻度は高い),
「書いた時と読み返す時の自分(の考え方)が変わったから修正する」
と捉えた方が自然である.
そういえばその間隔が特に長い時は,「修正」でなく「加筆」という形をとる.
もとの記述を残したまま,気になった箇所のすぐ下に追記を日付と共に加える.

多分,昔に書いた自分の文章を「興味深い」(=何かしら想起させるものがある)と
思える間は,読み返しての加筆作業を続けることができるのだろうと予想する.
でも自分の文章に関してその意味で面白くなくなったものがないと言えばそうでもあるので,
単なる自己満足もそこに含まれているのも否定できない.
後者の成分をなるべく削ぎ落とすことが客観性確保の道ではある.
人を納得させるために文章を書けばこの辺は一気に進化するのだろうけれど,
そういう意志は未だ弱い,かなり弱い.
けれどそのスタンス(具体的な他者の視点を求めない)を貫きつつ客観性を求める,
というパッと見矛盾した状況を矛盾でなくする解釈もまたあって,

それは「あまり一般性のない“一般”を導き出す」方向性ですね.

一般性のない一般と書くとまた変ではあるので例えば,
普段誰もほとんど考えないけれどそれに従って行動している価値観,とかそういうの.
そういうものは「具体性との付き合いが深いほど見えなくなる」ことも有り得そうだ.

が…

具体性をなるべく排除しつつも個々が具体性に演繹できるような一般,
というややこしいものを明確に語ることが果たしてできるのか.
明確に語られた時点でその性質を失うようなものではないのか.

やはりここは「身体性」の力を借りぬわけにはいくまい.

だから頭だけじゃダメっていつも思ってはいる.
機会があれば…ね☆
あんたそればっか.

+*+*+*+*+*+

>>
「昔に戻せばいい」という復古主義がことごとく失敗に終わってしまうのは,これが「その現在に至までの人の獲得した進歩」を,ことごとく否定してしまうからです.
 人は,考える生き物です.考えた結果が「進歩」となります.「進歩」と一括りにされるものの中には「いいもの」も「悪いもの」もあって,その「進歩」の中から「悪いもの」を探し出すことができるのもまた,人の「進歩」というものです.
「進歩」というのは,考えることを必須とする人間のエネルギーのなせるもので,復古主義はこれを否定してしまいます.つまりは,人間の根本にあるエネルギーを否定してしまうものだから,これがうまくいくはずはないのです. p.77
>>
つまり「昔に戻せばいい」の一言は無思考宣言だと.
その意味では「今を楽しめばいい」の一言も同じ.
もちろんどちらもそれがホントの一言で終わることは稀なのだけど,
「そこへは簡単に転がっていくものだ」という戒めはあって損はない.

しかしここでいう「進歩」と「怠惰」は正反対に位置するはずなのだけど,
楽をしたいという気持ちも人間の根本にあるような気も一方でするわけで,
そうだとすれば「人間は根本的に矛盾した存在だ」と言えそうではあるが,
それで終わってしまえば落ち着き先が矛盾であっても「矛盾という短絡」,
「進歩」と「怠惰」の双方をなおざりにしない一次元上からの留保でなく,
同次元に落ちたうえに「怠惰」になびいてしまっていると気が付くべきだ.

もしかしたら「人って楽をしたがるもんだよね」という「常識」が,
つい最近登録されたものかもしれないのだ.

まあこれは「結論なしの結論」を先に設定するという「結論ありき」の解釈だけれど.

話を戻して…
「昔は良かった」と言うにしても,
具体的に昔の何が良かったのか,
それが良いとされた昔はどういう時代であったのか,
それと同じ「良い」が現代で再現される可能性はあるのか,
その「良い」とはまず状態だと考えて間違いでないとして,
当時の価値観や存在した物々などのとある関係が「良い」を実現していたのならば,
価値観はじめ当時と同じものより変わったものの方が多い現代において

しんどくなった.
「細かく割れば際限のない問い」なのだけど,
これは分かりやすい「それ」の一例であって,
「問い」とは全てそういった性質を持っているものでもある.
俗にいう「答えのない問い」というやつです.
答えが出ないと分かって問い続ける行為を無駄とする価値観が
現代では主流であって,それは「分からないことはない」という
漠然としたイメージのこと.
問い続ける過程自体に価値があると言われたって,
「ググってポン」が「問うこと」だと思っている若者(また極端な…)にとっては
「何バカなこと言ってんだか」と呆れられても不思議ではない.
でも極端だと言っても,「問うこと」をちゃんと教えなければ,そうなる方が自然.

苦労して問題を解決してきた人が,その苦労を苦痛でしかなかったと振り返ってしまって,
「後の人にはこんな苦痛を味わわせたくない」と思ってしまったのが,
その「ある面で正直過ぎてちょっとズレてしまった親切心」の発露が,
始まりだったのかもしれない(何の?).

という流れから,次に
 なぜ「いろいろな複雑を含んでいた苦労」を「単なる苦痛」と看做してしまったか?
という問いの検証をしなければならない.

続きは次回.
でも話が続くとは限らない…
「今の自分」は続けたいと思うんだけどね.
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by chee-choff | 2011-06-15 22:06 | ハシモト氏
『大不況には本を読む』橋本治 番外1
「書評を書く」ために書評を書くと,
書きたいことよりも書き易いことを優先してしまう.
エネルギは節約するものだから.

「他人に見せる」を前提に書くと,
「自分しか見ない」を前提に書くよりも内容が劣化する.
ふつう逆かもしれないが自分が認識する書評のあり方からすれば当然で,
「他人に見せる」書評よりも「自分しか見ない」書評の方が
自分が読んで面白いことが書いてあるからだ.
それは後者の書評の存在目的がそれ(=自分が読んで面白いこと)にしかないからだ.

他人は自分とは違う.
他人が知っていることは自分が知っていることとは違う.
他人が知らないことは自分が知らないこととは違う.
だから,他人に向けて書くか自分に向けて書くかによって,その内容は根本的に違う.
まぁどっちが面白いかはそれとは別の話ではあるけれど,
加えて他人が面白いと思うことと自分が面白いと思うことも違うので,
前者に力を入れれば後者はなおざりになる.
他人に見せる書評というのは,端的にそういうもの.

+*+*+*

昨日読了したハシモト本で,ぜひ触れておきたい部分を書評に書けなかった.
ので「自分のために」ここに記しておく.
何度も言わんでも分かっとるわい,と思われるかもしれないが,
呪(まじな)い的効果があって,宣言しておくとそうしない場合よりも
面白くなったりするものなのである.
もちろん自分にとって.

やっと本題.

>>
「豊かさに慣れる」ということは,豊かになってしまった「外側の状況」に対応して,自分自身の欲望を解き放ってしまうことです.解き放って,その栓を締めるということが出来にくくなるのが,「豊かさに慣れる」です.だから,いくらでも「未来予測」が甘くなります. p.69
>>
豊かさを「絶対善」とみなすことは,豊かさのこういう側面を全く無視するのと同値.
未来予測を立てるのは現在だけど,その内容自体は未来のことだから,
現在のみに生きる人,すなわち現実に「無時間モデル」を適用して疑わない人にとっては,
未来予測に価値は無く,意味は無い.
じゃあそんな「無駄なこと」はしない…この論理自体に不整合はない.

 この「無時間モデルを適用して疑わない人」は本書では「データ至上主義者」と呼ばれている.
 そう呼んでしまうと極端な性質の人間に思われてしまうけれど,なんとそれは,
 今の世の中の「思考の最先端」,人々が「頭の良い人」と呼ぶ人の別名でもあるのだ.
>>
 現実から離れた「予測」が「勝手な思い込み」になり,それが「いつか破綻する」になるのは理の当然ですが,「それは現実から離れた予測じゃないのか?」と言う人間は,コンピューターのデータから離れたところにいるので,そんなことを言っても,信じてはもらえないのです──データ至上主義者は,「データはそんなことを言っていない」と言い,「大丈夫だ」というデータ分析の結果を信じられない人間達は,「ネット社会の現実を知らない遅れた人間達」なのです.
 データ至上主義者達は暴走して,その暴走する道筋には「富」がばらまかれ,「データは分からないが富には敏感」という人達がこれに巻き込まれ,「もう危いよ」という危険信号は何度も点りながら,暴走した「思惑」は,やがてデッドエンドに乗り上げるのです──それが二○○八年の秋です.
 どうしてそんなことが起こったのでしょう? そう難しいことではありません.「頭のいいやつは正しい」という思い込みが世界を支配して,その「頭のいいやつ」が,経済の実体を無視して複雑な金の動かし方の出来るやつ」だったからです. p.54-55
>>
 
話を戻す.
すなわち「豊かさに慣れる」ことの無視された一側面について.
>>
「なんとかなるはず」と思い込んでいて,その思い込みが崩れた時,人の欲求不満は爆発します.どうしてそうなるのかと言えば,「なんとかなる(はず)」を可能にしていた豊かさが,「欲望は全開にされてしかるべき」とだけ思い込ませて,「欲望をセーブする」というノウハウを教えなかったからです.
欲望は自身で抑えるもの」という発想が根本になければ,「開放されてしかるべき欲望」が壁にぶつかった時,それは「誰かに抑え込まれている」という被害者の発想に変わって発現します.だから簡単に,欲求不満となって爆発するのです. p.69-70
>>
これもまた恐ろしい話で,現在の価値観の主流には
「欲望は自身で抑えるもの」という発想が根本的に存在しない.
対偶(?)も真であり,すなわち「我慢は悪だ」が違和感なく罷り通る世の中でもある.
ある発想が根本的に失われることは,その発想が存在しないことが当たり前となることであり,
「世代の断絶」は上の世代の主観として語られることが多いが,
「自分の常識と相手の常識が違う」という全く同質の断絶を下の世代も感じている.
言われれば当たり前のことを敢えて言うのは,このことがその断絶を目の当たりにしているその場では
(あまりのショックに)顧みられることがないと思っているからである.

「世代の断絶の現場」で「断絶を咀嚼して呑み込む」のはもちろん,上の世代の役目である.
別にここで教師の心構えについて説いているわけではなく,
例えば「電車で女子高生が手鏡片手に化粧している」場面を思い浮かべてもらえればいい.
自室にいるかのように振る舞う当人に呆気に取られるのはまあしょうがないとして,
ここで「断絶を呑み込む」と何ができるかと言えば,
「なぜこの子はここでこんな事ができるのだろう」という方向に(勝手に)頭が働くのである.
その思考がまともに進めば彼女に対して「すまない…」と思うことにもなる.
(という展開は「自分」が彼女の親と同世代であった場合にあり得る)

…ここでいったん読み返して,引用の目的を逸していたことに気付いたので進路修正.
この引用に書いてあるのはひとつの行動原理だが,それは断絶を埋めるためのものではない.
断絶をしっかりそれと認識するためのものだ.
 断絶は(突然には)埋まらない,いずれかの常識が相手に譲歩せずして.
 上が下に譲歩して「時代に乗る」,「若者に歩み寄る」などと言うようだが,
 それを諦め,迎合,頽廃と看做すことがまともというものだろう.
 時間をかけて下に上へ譲歩させることが本来だが,その先導はもちろん上の役目.
 地域コミュニティが機能していた時代ではこのことは「当たり前」であったはず.
上の例を使えば,しっかり咀嚼するための「下あご」といったところか.
…ちょっと違うな,下顎を鍛えるための「せんべい」だろうか.
うん,昔はせんべいは茶菓子の定番でみんなバリバリ食べてたしね.
「固いからヤ」というのは食わず嫌い=無経験が言わせるもので,
一度バリバリやればその歯応えが爽快であることにも気付けるのだ.
最初は疲れるだろうけど,顎のできてない若者にとっちゃね.
あでも「下手に鍛えて顎が張るのはヤ」とか言われそう.
うるせー! 黙ってバリバリ喰っとけ!

何の話を…

うん,どうやら疲れたらしい.
続きはまた明日.
このグダグダ感がいいね.
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by chee-choff | 2011-06-13 23:50 | ハシモト氏