深爪エリマキトカゲ
cheechoff.exblog.jp
Top
<   2011年 04月 ( 27 )   > この月の画像一覧
思想の仲介業
 古きと古きを繋ぐ,新しさ.


 素材は既に,溢れんばかりにある.

 「新しいものをつくる」というが,その意志の下地は何か?


 歴史は繰り返す…繰り返す?

 何を以て繰り返すと言う?

 何を以て繰り返しでないと言う?

 繰り返すのは,嫌?


 では何故,生きている?


+*+*+*+*+*


世間はGWらしいが,

当方は自粛せざるを得ない.

というのも,端的に無いからですね.

ええ,来週も仕事です.


新緑の季節,過ごしやすいですね..


+*+*+*+*+*


 矛盾はいい.構わない.本来だ.

 だが,なぜそれを矛盾と呼ばない?


 何を見ようとしている?

 目を覆ってまでして,何を見ようとしている?


 僕は,君が見ようとしているものよりも,

 何かを見ようとしている君に興味がある.

 だから何も言わない.

 もし「見えた」ら,それが何であったか,ぜひ教えて欲しい.

 僕は「それが何であったかを語る君」を見よう.

 そして,その目とこの目が合った時,話の続きをしよう.


 いや,

 話を始めよう.
[PR]
by chee-choff | 2011-04-29 22:48 | 思考 | Comments(0)
『関西人の証明』(森村誠三)
「庄内平野」ってあれ実はな標準語やねん.

ほな関西弁でどないゆーかゆーたらやな…

ゆーたろか? ええんやな,ゆーてまうで?
[PR]
by chee-choff | 2011-04-27 21:09 | 社会人 | Comments(0)
同義反復的事態<併読リンク8>
2011/04/13 23:55
>>
 大衆とエリートとを区別するものは、だれにでも接近可能な、しかもそれ自体あまり価値がないと見なされている「受験知識」の多寡である。それがたとえ、頭のよさや努力の反映であるとしても、それだけでは、ひとつの社会層を構成するのに十分な文化的基盤を提供できない。一部の偏差値ランクの高い大学がそこに特有の学生文化をつくりだしたといっても、それは大衆消費文化に簡単に飲み込まれてしまうほどの文化でしかなかった。その意味で、学歴社会は、実体的な内容を伴った教養という文化の共有によってむすびつけられた学歴エリートの身分集団化を阻んだといえる。学歴社会のエリートたちは、文化的には自らを大衆から画する術をもたない、大衆の延長線上にある成功者と見なされたのである。
 学歴社会という私たちになじみのある社会認識のしかたがこのような見方を枠づけ、流布させていった。そうした見方にしたがって、人々は学歴エリートを見つめる。そして、その視線は、学歴エリート自身のものでもあった
p.143 第四章 大衆教育社会と学歴主義(苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』)
>>

階級社会であるヨーロッパでは通う学校も階級ごとに異なり、
入学試験による選別(そこでは教養が問われる)もそれを前提とされる。
そうして形成される「エリート」と比較しての、
学歴社会たる日本の「学歴エリート」の文化の無さを
説明しているのがこの抜粋部分。
ここはここで「たしかに…」と思わせるところであったので
多めに抜き出したのだが、併読リンクの抜粋である事から
ご察しの通り、本来の意図は別のところにある。

この抜粋部分を思い起こさせた文章がまた、
内容的には全く無関係であるところが面白い。
このリンクこそ「構造のつながり」であり、
「そういう読み方をしている」という自分の
読書姿勢を示す格好例となってくれる。

>>
山口百恵から中森明菜へ至るアイドルたちの変遷は、「スター誕生」というアイドルたちの駿台予備校から、ホリ・プロというアイドルたちの東京大学へという、アイドル生産の完結した様式の頂点をうつしだしています。そこでは、アイドルたちは、その魅力によってアイドルになるのではなく、アイドルになることを願う少年少女たちに、競争をくぐりぬけてアイドルとなったことによってアイドル視されるという同義反復的事態がおこっていたのです。
p.392 アイドルの「構造と力」(高橋源一郎『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』)
>>

 (本書は初版が平成元年。タカハシ氏だから、という理由だけで
  買ったM1当初はホントに意味不明さに参って訳の分からぬまま
  牛歩の遅読が続いて最近やっと読み終えたのだけど、
  タカハシ氏の凄さに気づいてから読み方が分かったような気がしたので
  もう一度読み直すのもアリかもしれない。
  私事ですが。
  背表紙の説明のイミフさで分かってもらえると思います。
  ということで最後に抜粋しよかしら)

もしか全く縁のないアイドルの話でありながら「受験のメタファ」を用いているから
苅谷氏の話を思い起こしたのかもしれない。
(実は僕は元駿台生だったりもする)
てかきっとそうだ。

二者に共通の構造とは、タイトルの通り「同義反復的事態」ですね。
前者はちょっと違うんじゃないか、と思われそうだが、
言い換えると前者では学歴エリートと(学歴を意識している)そうでない人々、
後者ではアイドルとアイドル予備群(の若者)が「目線を共有している」。
共犯関係、とも言えるだろうか。
祭り上げられた方は選別意識を持てず(前者でいえばそこに
「ノブレス・オブリージュ」が欠如している)優越感と居心地の悪さが共存しており、
祭り上げる方は劣等感を抱えながら同時に
劣等感を生み出す土壌を耕すことに荷担している。
両者がなにがしかの鬱憤を抱えつつもその状況にとどまれるのは、
「どこかで同じところがある」という思いによるのだろう。
たぶんそれは事実なのだ(というかその手の話は
「思い」以上のものにはならないのだが)。
この(不健康そうな)共依存関係が良いか悪いかは
(苅谷氏は確かよくないと言ってた気がするが)
ここでは触れない。
…。

そうか。
アイドル文化の構造も、階級社会でない日本の特徴である、
と考えることができるのか。
うん、じゃあこれ収穫ってことで。
2011/04/14 00:35


2011/04/14 23:10
同じ構造はいろんな所で見つけられる。

>>
 少なくともわが国では、「弱者」や「マイノリティ」の問題には、これまでいつも次のような空気がつきまとってきたのが感じられる。それは、マイノリティの当事者以外には、マイノリティの問題を語る資格はないかのような空気である。(…)
 このような空気はだれが作ってきたのか。一言で言うなら、特定のだれかというのではなく、まさにマイノリティに属するとされた人たちと、そうではない人たちとの関係がつくってきたのである。つまり、「弱者」と「非弱者」、「被差別者」と「差別者」という形で区別された既存のバリアーそのものが、ブレーキの役割を果たしてきたのである。
p.11-12 プロローグ(小浜逸郎『「弱者」とはだれか』)
>>

小浜氏はこのことを「遠慮の構造」と呼んでいる。
やはり、構造なのだ。
2011/04/14 23:16


忘れてた.
『しまうま〜』の背表紙の文句はこんな感じです.

カーヴァー、清原なつの、カポーティ、則巻アラレ、『別マ』、マルケス、中島みゆき、キャンディーズ、ゴダール、城みちる、ジム・モリスン、団鬼六、カルヴィーノ、しまうま、野田秀樹、西城秀樹、メンフラハップ、イーディ、三浦祐太朗、タカラジャイアント、ナウシカ、るそんすけざえもんのことが一冊でわかるのはこの本だけ。構想10年、伝説的百科全書エッセイ集、堂々文庫化なる。
[PR]
by chee-choff | 2011-04-27 19:34 | 併読リンク | Comments(0)
Fuwa-Rider
付和雷同な人のことをこう呼べばカッコイイとさっき唐突に思った.

付和雷同
 ↓
付和ride

で乗る(ride)人はライダーでしょうということで.
ちなみに僕が目指すのは「融通無碍の付和雷同」ですが.
考えてみると気味悪いと言われて仕方ない属性にも思えるが,
そこを「あれ,なんだかしっくり…」と思わせてこその無礙でありまして.

で,Fuwaは付和だけでなく「不和」でもあり(この矛盾を両立させてこその…),
加えて「不破」でもある.
まあ破れずに乗るというのも至難の業で,
それ以前に僕男の子な(ry
うん,良い子は理解しなくてよいです.

+*+*+*+*+*

上の話は「サラダタイム」に思いついた.
そのサラダタイム開始直前に包丁を手にするわけだけれど,
「台所で包丁を振り回す」が包丁捌きの比喩でなく
文字通り振り回すことがたまにあるのだけれど(さっきもそう),
それはかけている音楽にも依ったりするが,
原因の根元はニシンおいしい…西尾維新のせいである.
しかしNishioishiNって書くとかっけーな,
対称じゃないけど.点対称でもないね.
と書いて思い出すのは,
NISHINOSONOの各ローマ字は全部点対称.
(あれ,NISHIOISHINもそうだ.なんと!)
確かどっかの短編集の伏線になってた気が…
やべ,ネタバレかな…まいっか,著者さえ言わなければ.

と,取り留めの無さで誤魔化す図.
ふふ…青いね.
[PR]
by chee-choff | 2011-04-26 00:27 | 妄想 | Comments(0)
「デスクトップ」メタファー詳考
花粉症はもうほぼ乗り切れたらしい.
今日は防塵ゴーグルなしで外出できた.
ブックオフでの立ち読みも至極快適.

いつもの入店後経路は
文芸書・新書文庫105円棚の品定め
→漫画の立ち読み(2〜3時間)
→品定めした本を購入
→カフェ(Veloce)へ
というものなのだけど,
今日は『in』(桐野夏生)を105円棚で見つけて本の状態もよくて
「うお,やべー」
と思いはしたものの手に持ちながら立ち読みもしんどいので
一度本棚に戻してから,立ち読みして戻ってきたら無かった.
09年初版だしマグレだよなぁ残念だなー,と言いつつも
あまり本心でもなくて,それは未読キリノ本を何冊か溜めているからで,
そういえば「今の今読みたい本」ってのが全然ないなと思う.
それはもちろん自分の読書スタイルが変わっ(て定着し)たからだけど.
急かされるのは図書館で借りた時くらい.
入社してすぐ同僚に借りた本も未だ読んでないし.
(これについては同時期に5人くらいに貸して未だ1冊も戻ってきてないという事実を対置できる)
なんか,自分含め周りが至極マイペースな気がしてならない.
「周り」には実は勤めてる会社も含まれてしまう.
まあ,社風,ですかね.

+*+*+*+*+*

今日は行きつけのカフェに新しい店員さんが入っていたようで,
間合いを相手に合わせてたらレジでレシートをもらい損ねたので,
ひらめきメモはブックカバーの紙の裏に書いた.
このブックカバーも学部時代からずっと使っているお気に入りで,
(「未来屋書店」という伊丹空港のショッピングセンタにあった本屋のもので
 黒地に深緑で屋号.黒の紙ブックカバーって意外とないんですね)
もうボロボロで折り目が白くなって破けている.
メモ持ち歩けよ,と自分に突っ込みたくなるが…

やっと本題.
「デスクトップのメタファー」というのは…
僕らは日常で何か行動をしている間にも「頭の隅」に居る事柄がいくつかあって
(「念頭において」とか言いますね),それらは何かのきっかけですぐ意識にのぼってくる.
その念頭にある事たちの存在形態をPCに例えたもののこと.

現代ではふつう仕事にPCを使うという前提で話を進める.
仕事内容を含んだファイルはその種類ごとにフォルダに整理される.
けれど,現在進行形の仕事や,開く機会の多いファイルは「デスクトップ」に置いておく.
それは,PCを立ち上げた時にまず目に入るからでもあるし,
開く時にいちいちディレクトリを辿らずに済むから.

で,大体がtemporaryという共通点のみでデスクトップに置かれるファイルたちは
ひとまとまりとして見るには雑然としている.
そのカオスが「念頭」にある思考の断片の存在状態とよく似ている…かどうかは知らないが
似たものとしてイメージしやすいことは確かである.

このメタファーはウチダ氏のブログで始めて知って,
言い得て妙だなと思い何度か使わせてもらっていた.
それが「もう少し先を考えてみよう」になったのは,
カフェで黙考中「念頭」の程度の違いに気付いた故.

考えれば当たり前だけれど,念頭におかれている事柄は
同程度にふわふわ漂っているわけではない.
というか何をもって「同程度」と言えるのかが謎である.
その一方で,デスクトップに並ぶファイルはそのまま考えれば,
アイコンの絵柄さえ違えど同じ大きさである.
ファイル容量が違うかもしれないが,
それをアイコンの見かけから(厳密に)判断することはできない.
(.txt<.mp3<.avi くらいは判断できるが)

そこでデスクトップのメタファーで念頭の程度(例えば,程度が大きいと
関係ない単語を聞いただけで意識化する,程度が小さいと
「出てきそうで出てこない」数刻を経てから意識化される)は
どう表現されるだろうかと考えてみたのだけれど,
アイコンの大きさが事柄によって違うというのはPCの設定上現実的ではない.
(まぁメタファーというくらいだから比喩元の実情に沿わせるものなのだと思う),
 自分の確認用に…比喩で表したい現象=比喩先,比喩に用いる現象=比喩元

で,上で容量でもないと言ったので残るは…
「アイコンの位置」はどうだろう?

アイコンが雑然と散らばったデスクトップの全容が見渡せるのは
ウィンドウを一つも開けていない場合のみであって,
IEでもワードでもエクセルでも何かウィンドウを開けば,
デスクトップの大半はウィンドウに隠れて見えなくなる.
が,ウィンドウを一つだけ開くとして,それを「最大化」しなければ,
デスクトップの端の方は隙間が開くことになる.
そういえば「MyComputer」や「MyDocument」のフォルダを
デスクトップのど真ん中に置いている人は滅多におらず,
たいていは端に,中でも「スタート」のある左側に置いている人が多い.

特に何か行動しているわけでもなく,あるいは一つのことを考えておらずぼけーっとしている状態を
PCでいう「アクティブウィンドウのない状態」と対応させるならば,
ウィンドウをいくつか開いていても残った隙間からデスクトップ上に見えるファイルが
「特に念頭にある事柄」と対応させてすっきりするように思える.

なるほど.(自己完結)
[PR]
by chee-choff | 2011-04-24 22:06 | 思考 | Comments(0)
男女差別について<WW-10_3> 完
2011/02/23 22:32
前回と同じ論の次章の抜粋となるけれど、
今回のテーマは男女差別について。

僕自身は深刻な差別を受けた経験はなく、
逆に集団の一人として差別に荷担する(見て見ぬ振り、
も荷担である)側に立ったことしかないので、
本テーマについては比較的さばさばと考えられる。

「差別はいけないのは当たり前」
という前提で始めたくないのもそのせいで、
非情に聞こえるかもしれないが正確に言えば、
「差別は程度により、必要に応じた存在意義がある」。
ちと表現に触れれば、「区別」も差別である。
で、これも「そういうもの」系の話だけれど、
集団が行う差別はそれによって集団内に連帯を生む。
仲間が一つのことを一緒にやるという意味で、
「立派な」共同作業だからだ。
つまり、差別する側(集団)も差別される側(個人が多い)も
お互いが「そういうもの」だと分かっていて、
「余興」だと思って差別を行うことには何ら害はない。
(例えば差別される人が困った顔をしながらも
「まぁ団結って大事だしね」と苦笑いで呟けるような。)

…と言ってそんな平穏な「差別」などはじっさい
滅多に存在しないのも事実なのだが。
そして差別が平穏でないのは、差別する側とされる側の
双方が「差別の構造」、集団心理を理解していないが故。
そしてまたその理解のなさを推進してしまうのが
現代社会を牛耳る「グローバリズム」の思想。

と突如話が大きくなってしまったが…
ここで言っておきたいのは、
「差別は区別に含まれる」と表現して「差別」という
言葉を中性的にしようとかそゆのではなくて、
(少し拡大解釈して)「全ての区別は差別に読み換え可能」
という認識が差別の構造を見通す助力となるということ。
格言風に言えば、
区別あるところに差別あり
だろうか。
そして当たり前にある「男女の区別」が、かつては
当たり前にあった(と言っていいのかな)「男女の差別」の
源であり、差別を見直すには区別に目を向けろ、
という方向性をここから見いだすことができる。
(つまり「ジェンダーと性差の違い」ですね)

差別問題が時に猛烈に深刻となるのは、
差別者と被差別者が互いに「差別の枠組み」を
意識できないくらい泥沼にはまり込むことがあるからで、
ここにあるのはそんな彼らに向ける言葉ではないが(彼らが
必要としているのは現実的な解決手段であって、
それを自ら生み出すための論理を提供しても
その論理を組み立てるための冷静さは失われている)、
長い目で見れば「差別の構造」を理解する人間が
増えていけば差別は必ず減少に向かうだろうと思う。
…今回は特に話がまじめだな。。

>>
男という同一単位が社会を作って、そこに支配者という上限を明確にするものを存在させてしまうと、同じ男の中に線引きが生まれて、身分差別が確定する。男の間に序列はあって、女はそれに準ずるものとしてその社会に組み込まれていくけど、「準ずるもの」という考え方は、果たして差別なのかーーですよね。「準ずる」を、「正当な権利を与えられないワンランク下がったもの」と考えると、これは差別になるけど、「女というものは男の社会とは別のところにいて、これを男の社会に組み込む時には、"男に準ずるもの"としてカウントする」だったら、別に差別にはならないでしょう。だって、その考え方は、もともと、「男と女は違うところに棲み分けている」ってことを前提にしてるんだから
(…)「男と女は棲み分けをしていた」という大前提を、どのように解釈するかの問題でしかないと思うんですよ。(…)今やグローバリズムになって、「全地球的に一つの基準であってしかるべき」という方向が強くでているけれども、これは所詮、「そうした方が儲けやすくなる」という、マーケットを支配する者の考え方で、反グローバリズムは「棲み分け」の肯定でしょ。
(…)
「女は内、男は外」という棲み分けだけれども、女にとって「外の世界」がめんどくさいのは、そこが「男だけの世界」だからかもしれない。だから、男が「内の世界」をめんどくさがるのは、そこが「女だけの世界」だからかもしれないーーそういう考え方も成り立つわけですよね。
(p.160-163「女って何だ? 5ー男女差別と『仮名手本忠臣蔵』のあるセリフ」同上)
>>
2011/02/23 23:15

そしてWWシリーズは今回で終了.
付した日付を見て分かる通り,
本連載は2月に集中して書き溜めたものを使って,
ブログに載せる前にもう一度読み直してコメントをつけている.
(いちおう句読点の違い(「、。」と「,.」)はつけている)
2月は『ひろい世界のかたすみで』を読了したてであったので,
ハシモト節がうつったかのような記述もあり,
自分で自分の書いたものに驚くこともしばしばあった.
ということで,ここに書いたものは確かに自分の頭が紡ぎ出した
言葉たち(と上のハシモト本の抜粋)で構成されてはいるのだが,
これを「僕の文章だ」と自信を持って言うことはできない.
一字一句すべてが僕の中で噛み砕かれ理解されて書かれたのであれば,
それを読み直して自分が驚くなどということはない.
「憑衣された」時に書かれたものは,憑き物がとれれば「なんだこれ?」である.
本を読み終えてから思いついたことを書く面白さはここにあって,
読む前には書けなかったことが書けるようになるんですね.
自分がびっくりすることを自分で書けるようになる.
それは本当に書いている間だけ何かが憑いていて
書き終えると跡形もなく消えてしまうものかもしれないが,
書いたことで「自分の中の何かが変わった」ことも完全には疑えない.

 何かが変わる.
 変わるを喜ぶ.


また連載がやりたくなったら,今後読む本でもいいけど,
『ああでもなくこうでもなくシリーズ』でやってもいいな.
あれはほんとこういう「いいとこチョイス&コメント」形式の
連載にとっては宝の宝庫(ん?)だからね.

以上,ここまで読んでくだすった方へ,
どうもお疲れさまでした<(_ _)>


「連載ってなんだ?」という方には,
+αとともに整理したタグと最初の記事をリンクしておきます.
ご興味があればどうぞ.

 →「ハシモト氏」タグの記事
 →連載初回
[PR]
by chee-choff | 2011-04-22 21:53 | ハシモト氏 | Comments(0)
妄想が暴走するとき
に,現実に何が起こるかの一例を話そうと思う.

(「妄想の中身」を期待された方には申し訳ないが,

 本ブログにこれまで記してきたものより数段ハイレベルな妄想をここで展開してしまっては

 この先まっとうに生きて行けなくなるので泣く泣く自粛せざるを得ないのである)

さっき,いつものように音楽を聴きながら毎朝食べるサラダを作っていた.

(一度に四日分作るので4週間の間に7回作っている計算だ.

 悲しいかな公倍数がそのまま積なのでこれ以上小さく表せない)

無音空間よりも,音楽をかけている方が妄想を育み易い.

かけている音楽に馴染みがある方がなおさら.

下手に呟いたりにやけたりしない方が妄想を自由にさせることができる.

顔の動きも体の動きであり,思念に対し体の動きは外乱となる.

さっきは,馴染みの一曲をずーっとリフレインしていた.


サラダの作り方.

野菜を切って,そのひとまとまりをざるに入れて洗い,皿に盛る.


妄想が進み,進み,なんだかものすごいことになった時,

切られたひとまとまりの野菜(具体的にはミズナであった)が,

ざるに向かうことなく,

ステンレスの生ゴミ入れにドバッと放り込まれた.


放り込まれるまでは本当に自然で滑らかな動きであって,

ドサッと(ざるに入れるのとは)違う音がした瞬間に気付いたのだが,

まず第一感(声に出してないので「第一声」ではない)が「ほう…」であり,

「にやり」として,その次にやっと「しまった」となったのだが,

その「しまった」がまた困ったもので,

「ここは“しまった”って思っとかないといけないんだった」という「しまった」なのである.


生ゴミ入れにサラダを放り込んだ「動き」について.

例えるならばあれは「ノールックパス」であった.

ノールックパスとはパスしたい仲間を見ずに気配で位置を察知してパスする技のこと.

僕はミニバス(小学生のバスケ)をやっていたので実感としてあるのだけれど,

あれははたから見てなかなか格好の良いプレイであって,

パスをする本人にも多少の照れがあるものなのである.

その時に仲間ではなく敵に向けてパスをしてしまうと「あちゃー」なのだが,

さっきの状況を思い浮かべると(そうだ,サラダの話をしていたのだ),

ノールックパスをした相手は敵というよりむしろチアガール(PC的にはチアリーダか)であった.

(と書いて「おまえは“チアガール=生ゴミ”だと思っているのか」と

 短絡されると僕としては非常に困ったりする.

 「生」という共通点があるにしても,だ(また余計なことを…) )

バスケの公式試合で自チームを応援するチアガールにノールックパスをして

「ほう…」などとやっていたら確実に変態だが,

もし当のチアガールがパスに機敏に反応してポンポンを放り捨てたと同時に

見事にキャッチした時の感動などを想像しての「ほう…」だとすれば,

さらに変態である.


今さらだが,例えが悪かった.

どうか忘れて下さい(笑)
[PR]
by chee-choff | 2011-04-22 00:52 | 妄想 | Comments(0)
『小林秀雄の恵み』橋本治
あーも,ほんますごいわこの本.
文句なしの★★★★★.
わけのわからない書評は↓へどうぞ.
このわけのわからなさは「必然」!

書評 小林秀雄の恵み

↑のように「必然」と言えることに自信がつく本.
あるいは「必然」と言うことで「煙に巻く」ように思われるところ,
実はぜんぜん「煙に巻いて」なんかいないことが分かる本.
また余計なことを…
いや別にウソを言っているわけではなく,
それがウソかホントかなんてどちらでもよくなれる,
ということもウソではない,
ということはホントである.
また余計なことを…
[PR]
by chee-choff | 2011-04-21 00:00 | 読書 | Comments(0)
社会の中の「女」続き<WW-10_2>
抜粋の内容は前回と似たような感じ。
というのも違う節だが同じ章からとってきてるので。
分けたのは単に量が多いから。
なので僕が改めて語ることもそう変わらないはずだが…
 とここは書いてから書いているが、「変わりました」。

今回のテーマは「化粧」。

またまた自分の好みを披瀝してしまうと、
僕は化粧をあまりしない人が好きである。
とはいえ化粧の実状を知らず「してない人なんて
いないよ」という女性方の声もいくつか聞いてきたので、
実際は「化粧をしているかしていないか
分からないくらい薄めに化粧をする人」
が好きと言った方がいいかもしれない。
その好みのもとには「わざわざ別の顔を作る理由で
肯定的な理由ってあるんだろうか」とか、
「作った顔で人に好かれて複雑な思いを抱かないのか」
とか、自分が化粧をすることなど考えられない、
という立場からくる単純な意識がある。
だがよく考えれば、今まで何度もストパーをあてたり、
ライブ前にびっちり髪を整えたりもしたが、
あれらも化粧と同じ役割を持つはずなのだ。
 といってもそれだけを取り上げると、前者は
 「まっすぐへの憧れ」が動機であってあてた後の
 ケアはあからさまに日を追うごとに減じたし、
 後者は「ケに対するハレの装い」であって、
 どちらも「ケの装い」である化粧の本質に近づく
 経験とはならないような気はする。

と、そんな意識の僕が今回の抜粋部分を読んで、
「なるほど」と思い、化粧をする人の意識もその背景・
文脈も呑み込めたし、何より自分の好みの表層は
変わらないまでも(=それの表現を変えないでも
通じることは通じる)その好みの出所というか、
文脈にもっと深いところがあった(気にさせる?)点に
驚いたし、そんな自分にも「なるほど」と思った。
 とだけ言っては意味不明なので説明を加えると、
 なんでもかんでも「なるほど!」と言ってしまえる
 意識のフレキシブルさを日々培っているわけだけど、
  話逸れるけど誤変換で「不歴史ぶる」って凄いね(笑)
  意味が通じすぎてワロタ。
  もちろん僕の目指すところは歴史をふんだんに
  加味してのフレキシブルさであります。
 そのフレキシブルさの伸びは多少の無理が進行させる
 ものでもあって(筋肉の「超回復」的な)、自分でも
  ←「超回復」は『アイシールド21』で読んだ知識(?)しかない。
 「ホントかよー?」と思いながら「なるほど」と
 言ったりする時があって、でも今回の「なるほど」は
 そういう無理のほとんどないものっだった、という事。
 …この説明で果たして分かり易くなったのか?
「化粧」とは「自分の顔に別の人の顔をつくる」ことで
あるらしく、それを分かって化粧をする人には妙に
納得させる(=違和感のない?)ものがあるらしい。
そういえば厚化粧をしていても惹かれる顔というのを
生で(=メディア経由でなく)何度か見たことがあった。
そして彼女らがその「化粧された顔」に見合った
振る舞いをしており、化粧を解いた時には全く別の
「人」が浮き上がってくることも同時に想像させた

(僕が惹かれたのは恐らく「想像上の後者」だ、、
 と断言しない方がいい気がしてきた…)
そのどちらが本当の自分か、といった些末なこだわりに
囚われていないようであった。
もっともそれは自分の好みに合ったというよりは
「自分もそんな風でありたい」といった憧れに近いような
気もするが(そのどちらかを確かめられるほど親交を
深めることをしなかったのが今思えば残念だ)。
そしてこういう所で「憧れ」が飛び出してくるところに、
僕がいろいろ本を読むようになってから幾度か感じた
自分の意識は身体的には男よりも女の方が
相性が良いのではないか
」という意識と関係するところが
ある気もするが、これについてはもっと蓄積してから
じっくり語りたいと思う。
もちろん「自分に向けて語る」んですけど。

>>
男の体と女の体は違うって言ったって、女が筋トレして男が脱毛したら、その違いは曖昧になっちゃう。女は「生む性」で男は「生まない性」ではあるけれど、その違いを、今の社会がどこまで反映させているかーー今の社会の方向は、「生む性」である女の出産や子育てにまつわる障害を極力消そうとしているでしょう。(…)「生む性」ゆえに発生する、仕事を続けるための障害がどんどんなくなっていく。ということは、「生む性」と「生まない性」の差があっても、その差にはあまり意味がないってことになっちゃうんですよ
(…)
 女は化粧をする。男は化粧をしない。男が化粧をすることが別にタブーじゃなくなったけど、でも、男は放っといたら化粧をしない。女は放っといても化粧をする。この差はなんなのかって考えると、よく分からない。 化粧をするっていうのは、実のところ、自分の上に他人の顔を描くことなんですよね。「化粧で自分の顔を生かせれば美人になれる」と思ってる人は化粧が下手で、「自分の上に他人の顔を描く以上、その他人の顔と自分の顔にはある種の連関があった方がいい」と思ってる人は、化粧がうまい。(…)化粧をするっていうのは、化粧によって作られて行く顔に向かって、自分の表情を合わせてくことなんですね。初めてメーキャップされた時に、そのことがよく分かった。
(…)
 化粧っていうのは、その化粧によって固定された表情を持続させることだと思うんだ。つまり、化粧を落としたくなかったら、あまり表情を動かしちゃいけないってこと。(…)女の化粧する行為は、男の「背広を着てネクタイを締める」に似ているのかもしれないけど、背広を着てネクタイを閉めることを当たり前にしている男の大部分は、「そうなっている自分を固定し続ける」をしてないと思う。背広を着てネクタイを締めるのは、「それをしてりゃ大丈夫」という種類のマナーだから、選ばれたそのスタイルをまとった段階で、すべての緊張は失われてるんだ。だから、日本の男の大部分は、だらしなく背広を着て、無意味にネクタイを締めている。(…)仕事とか人に会うことで緊張するっていうのは、服装と関係のないことでしょ。女の化粧のように、表層が直接緊張と結びつくってことは、男の場合ないと思う。その点で、「化粧をする」は、女に独特の行為だと思う。
(p.156-160「女って何だ? 4ー男女の差というのは、もしかしたら今や、「化粧をしない性」と「する性」だけなのかな」同上)
>>

抜粋してから。
「人に囲まれながらも自由奔放な脳内妄想を表情には
全く出さない」技術を身につけたとか発展させてるとか
変なことを言っている自分は、もしかすると意識の中で
「化粧」をしているのではないか
とふと思った。
(自分の「顔」に? 「意識の中の顔」ってなんだろう。。)
内面とは関係なしに「表面」を場の空気に合わせる、
それは「固定された表情を持続させる化粧」のように
能動的な守勢というか「攻めの守り」ではないが、
その機能を同じくしてのより融通無碍な手段である、
と考えることはできないか。
加えてそれは「メーキャップ」という実際の施しを
要さない意味で「手間いらず」なのである。

たぶん化粧を始めたらハマるだろうな、自分。
だって、森博嗣の『Falling Ropewalkers』で
インスタントラーメン食べて女の子になった
男子大学生への感情移入が違和感なくできたもん。
…いいのかこんなこと言って。。
お金かけてまでやろうとは思わないかな。
逆に言えば…いや、これ以上言わんとこ。。
2011/02/19 16:27

→WW-10_3へ
[PR]
by chee-choff | 2011-04-19 00:36 | ハシモト氏 | Comments(0)
はもはもりもり
聴きながらふと.

二人がピアノ連弾しながらデュエットしてて,
その二人がそれぞれ一人でハモってる状況って,
考えてみたら凄まじいよね.

「(多重録音ではなく)一人でハモる」というのは肉声に限っても
現実的にはズーミー(だっけ?違うな…ミーなんちゃら)とか
声を出しながら口笛を吹くとかでできないことはないけれど,
本当に一人で二人分同時に歌うのを「さもありげ」に思わせたのは
ボカロが始めてだと思った.

紹介予告ということで.
次回はVocaJazzの第一人者,ココアシガレットPです.

+*+*+*

思い出した.「ホーミー」だわ.
「ミーなんちゃら」でなく「なんちゃらミー」でしたわね.
どうでもいい..
[PR]
by chee-choff | 2011-04-19 00:29 | V概論 | Comments(0)