深爪エリマキトカゲ
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方言と標準語<WW-07>
2011/01/16 23:30
今回は言葉の話。
「敬語」と言われて大学受験時代、古文に苦しめられた自分は
まず「尊敬語」と「謙譲語」を思い浮かべ、
前者は相手を上げる、後者は自分を下げる、
などという図式を思い出す。
この「上げ下げ」は立ち位置に関してのものだけど、
これを「距離」におきかえると、両者とも
「距離を置く」ために用いられるものとなる。
もちろん「丁寧語」も然り。
といった理解にとどまる人が大半なのではないかと
勝手に前振りを設定しておいて(ご無礼m(_ _)m)、
氏はここから「標準語」と「方言」の話に
結びつけてぐいぐい展開していく。
(ここまではいらないかも…)
標準語はなんだかよそよそしく、方言には暖かみがある、
と言えば地方出身者(京阪神も含めます)には
大体納得がいくと思われるが、その感覚を
適切な言葉で表現・整理する技術がすごい。
標準語と方言を「ことばの持つ自己表出力」において
対置し、その変数を「ことばの流通する範囲」とする

この解釈自体はそう驚くものではないが、
解釈を補強(説明)する表現の卓越さには注目したい。
なお、抜粋記事のタイトルが示す通り、抜粋箇所は
本論へ合流するまでの「枝論」(こんな言葉あるのかな)
である。この「枝論」が「敬語への自覚」すなわち
「敬語という他者の認識への自覚」の必要性と
どう結びつくのかは、ぜひ本書を買って確認すべし。
(あれ、販促で終わっちゃった笑)
>>
モノローグがある種の共通性を獲得し、限られた範囲で流通してしまえば、それは方言になる。方言は、地域的なモノローグなのだ。「方言の重要性」が今の時代に言われたりもするのは、自分をより濃厚かつ明確に語るためのフィールドを持った言葉が必要とされているからだろう。
 方言に対する標準語は、「他者との交流」という必要から生まれた言葉である。だからその重点は、自分の外側=他者にある。他者との関係に比重を置く言語によって自分を語るということは、自分を希薄にすることでもある
(…)
 普通、人は「渋谷界隈の若者言葉」を方言の一種だと思わない。方言というのは田舎にて、都会にあるものではないという思い込みがあるからなのだが、ある限られた範囲内でしか流通しないという点において、若者言葉は方言の一種である。そして、その流通が限られた範囲内であるからこそ、ここでは親疎の別がなくなってしまう。
 方言を通用させることができる安心感と同じものは、実は日本社会のどこにでもある。若者言葉もその一つで、「その言葉を共有させられるからこそ仲間だ」という安心感によって、この特殊な言葉は成り立っている。そして、その言葉の罠も、また同じところにある。「その言葉を共有させられるからこそ友達だ」という安心感によって成り立っている以上、その言葉を使う人間達の間に、意志の疎通を図らなければならない「他者」は存在しないのだ。他者が存在しない以上、言葉はぞんざいになる。(…)すべてが同質の人間達によって成り立っている言葉は、「他者」を欠き、それゆえに「他者への説明」も欠く。つまり、言葉としての機能を大きく劣化させてしまうということである。それが、他者の訪れることが稀な閉鎖的村落であるならともかく、大都会の真ん中で「他者への説明」という機能を欠いた言葉が公然と流通しているのは、あまりにも不思議であり、不自然である。
p.118-120「存在する敬語への自覚、他者への自覚」(「毎日新聞」)
>>
2011/01/17 00:15

→WW-08へ
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by chee-choff | 2011-03-27 23:56 | ハシモト氏 | Comments(0)
「申披六ヶ敷筋」
「六ヶ敷」と書くと地名みたいな感じがするけれど,

これは「もうしひらきむつかしきすじ」と読むらしい.

申し開き難しき筋,ですね.

これ使えそう☆

+*+*+*+*+*+*

『小林秀雄の恵み』(橋本治)を読んでいる.

 本書は小林秀雄の書いた『本居宣長』を読み解いての小林秀雄論(たぶん).

以前『三島由紀夫とはなにものだったのか』を読もうとして,

話が難解すぎるし三島の書いた小説の話ばかりするしでついていけず,

十数ページで早々に断念した経緯があり,

それと同じ匂いを感じた本書は「おそるおそる」読み始めたのだけれど…


難解な話のはずなのにするする読める.

論理は非常にややこしいが,「前知識の必要の無さ」が歴然として清々しい.

「なんでこんなことを言うんだろう?」は至る所にあるのだけれど,

その疑問を発するための理路の理解の道筋はわりと平坦である.

だからこの調子で読み終えると,

「なんだかするっと読めたけど何が言いたいのかさっぱり分からない」

ということにもなりそうだけれど,

前知識を加えて再読して得られるものが増えるかといえば多少以上のものでもなさそうで,

ハシモト氏著作においてはいつものことといえばいつものことのようでもあるので,

別にいいのか.

 しかしこんなこと(↓)を言われるとついつい気が大きくなって,
 「小林秀雄も全部読んじゃおっかなー」とかなりそうなのだけど,
 いいんだろうか.
>>
読むのは,「本居宣長の言うこと」ではない.中江藤樹や契沖のそれでもない.それらを掲げる,小林秀雄の言うことなのである.だからこそ小林秀雄は《ごく簡明な話だったのである.》と言う.簡明にならないのは,ただそこにある「小林秀雄以外の人物の言うこと」を読むのに手間取っているだけなのである.それもまた,ただ読めばいい.読めるように,古い時代の文章に慣れればいい.必要なのはそれだけで,それを言う固有名詞達に関する知識は,必要がないのである.それは実は,『本居宣長』だけではなく,小林秀雄が生涯を通して言い続けていたことなのだから,特別なことではない
p.131
>>


あ,最初に言いたかったのは別の話で.

本書のBGMとして抜擢されたのが文鳥Pの「霧初音」.

本書を読む前にたまたま他の曲と一緒に聴いてただけでしっかり選んだわけではないけれど,

なぜか思いついた(=本書を読み始めて,頭の中で流してみた)瞬間にジャストフィット感.

さっき曲の解説を見ると「先の見えない霧の中を進んでいく雰囲気」とあって,

「これか!!!」と後付けで納得.



言いたかったのは一言,「重きに堪え得る」と.
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by chee-choff | 2011-03-27 23:36 | ハシモト氏 | Comments(0)
はかなきはかあな
「墓穴を掘る」

とかけまして,

「立つ鳥後を濁さず」

と解く.

そのこころは?
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by chee-choff | 2011-03-24 22:19 | ことばあそび | Comments(0)
フクザツ×カワイイは正義
めけたー

    を歌ってみた【Latica】
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by chee-choff | 2011-03-24 00:12 | V概論 | Comments(0)
あの「カレー事件」<WW-06>
2011/01/16 02:10
氏の「世の中の出来事をなんでも自分に引き寄せる」
技術の凄さはもう毎度のことながら慣れてはいても、
氏のとりあげた一つのトピックについて深く考え始めると
凄さを超えて「怖ろしさ」さえ感じる
何が怖ろしいかって、世の中数多の出来事が自分(氏の
文章を自分が理解して読めば氏と自分の立ち位置は
共有されることになる)に引き寄せられることは、
全てが自分に対し地続きであることの立派な証明であり、
すなわち予知不可能な自身の未来の変節まで含めて
「身近な出来事である」ということだ。
それは例えば、ビルに飛行機が衝突する映像や
街が爆撃される映像を家で食事をしながら
映画でも見るように平然と見られる神経が、
いかに異常であるかに気付かされてしまう、
ということでもある。
テレビの前で騒いでも仕方がない。
今の自分にできることなど何もない。
それはひとつ厳然たる事実であり、
彼方の出来事に自分の日常を乱されるなんて
エネルギーの無駄と言われればその通り。
しかし、問題はそんな「プラクティカルな話」ではなく、
いかに効率的に生活するかといった現実的な視点
以前にあるものである。
問題なのは、「心のざわめき」「落ち着かなさ」
「忘我の瞬間」を感じられるか否かなのだ。
なぜと言われるとより大きな枠組みで「現実的」に
語るしか(今の自分の論理体系では持ち合わせが)ないが、
そして具体的に語るのがやや面倒なので曖昧に言うが、
目先の心地よさや安心に囚われて神経を鈍らせていると
気付かないうちに「気付かないこと」が増えていき、
「気付かないことで精神が蝕まれる感覚」にも
気付かないという「知覚鈍磨のフリーフォール」に
陥ってしまう
からだ。
今の日本の生活環境からすればそれでも不都合なく
生きていけることは否定しないが、
その生活環境が今後いつまで維持されるのかは
誰も保証してくれない。
…話がどこにいくか分からないのでまとめるが、
「すべてを自分に引き寄せる」思考はある種の悩みや
不安を抱えることにもなりうるが、
「悩みや不安を抱える」ことを自身の常識に登録する
ことがどれだけ有益であるかも同時に教えてくれる。
氏の思考に対する魅力を源に、「悩みや不安を抱える」を
常態にし、あらゆる変化を(客観的に分析したうえで)
認める寛容・剛健な頭、そして心を培う。
それは先行き不透明な未来を見据える、
なかなか有効ないち手段ではないかと個人的に思う。
(話、戻ってこれたのか?)
>>
 和歌山県の毒入りカレー事件の地裁判決で、林真須美被告が「死刑」を言い渡された。状況証拠だけで「死刑」というのもすごいとは思うが、判決までなにも言わなかった被告もすごい。「それだけ世の中を信用していないのか」と思った
(…)
「うるさいな、あっち行け」で、取材のカメラに水をひっかけて、その顔が笑っているーーつまり、「私は社会に合致した存在なので、怒って抗議する必要はない。だから笑う」という前提に立っていることなんだが、その「社会性の笑い」は、「平然と水を引っかける」という行為につながる。普通なら「激昂」になるところに、「笑い」という中和剤が投入されているから、「激昂」にはならない。「笑っている」ということ自体が激昂の激しさを表しているはずなのだけれども、笑ってしまえば、当人だって「私は激昂している」という事実を忘れてしまうかもしれない。そこに明らかに「感情的なモチーフ」はあるのだけれども、それを見せないように「笑い」がカモフラージュとして存在するーーそういう人は、普通の人間が激昂してしでかすようなことを、笑いながらやるんだろうなと、私は思う。あんまり気持ちのいいことじゃないけれど。
p.77-78「沈黙する女」(「婦人公論」時評03年1月)
>>
2011/01/16 02:59

ハシモト氏やウチダ氏の文章にあてられて文章をごりごり書いて,
それを改めて見直すといつもと同じようなことが書いてあることに気付く.
 つい最近も同じようなことを書いた.
 上で5行ほど下線を引いた部分は,併読リンク7のこの部分と一緒.
 >
 ずばっとまとめれば「短絡はものごとのいち側面を覆い隠す」.
 単純化のメリットももちろんあるけれど,「単純化によって隠れてしまうことがある」ことを
 みんなが忘れると当初のメリットを大幅に上回るデメリット(しかもこれはすぐには見えてこない)が
 生じるという構造の存在は確認し過ぎて困ることはない…
 >
それは僕自身の文章力・ボキャブラリーの無さのせいでもあるが,
言い訳に聞こえることを承知で書くが,氏らの文章のテーマは
題材こそ日の出来事に沿うが抽象すれば「ほとんど同じこと」ばかりということもある.
むしろ氏らの文章に慣らされてきたから読み手たる自分の傾向の成せる発言かもしれないが,
「ほとんど同じ」と言ったうえで「それでいい」と思うのは,
そのことが出来る限り多くの人に伝わるための戦略として地道に有効だからだ.
語りはその基本的な部分で非常に合理的であるが,
肝心なところで「価値観の話」になってしまうことは避けられない.
(「価値観で合理性を蹴る"合理性"」すらあるのに,だ)
その「価値観の話」をなんとか納得してもらおう,それが無理でも
身体で感じてもらおう(ここは例示の力にかかっている)という努力が,
「ほとんど同じこと」を日常的な題材を用いて様々な語り口でもって
発信し続ける行為に滲み出ていると僕は勝手に思っている.
「自分の周りが平和であればいい」を妥協せず掘り下げ続けると,行き着く場所.
巷でいう"利己的"がぜんぜん利己的でないというのも頷ける.

なんでこんな話に…
我に返ると抜粋に全く触れていないことに気付く.
(なのでせめてタイトルだけ「まんま」にしてみた)
まぁ題材でなく枠組みに触れたということで..

→WW-07へ
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by chee-choff | 2011-03-21 21:23 | ハシモト氏 | Comments(0)
続・面倒臭がりの効用
これはいいな,と自分で思う.

面倒臭がりは「現状肯定力」が強い
実際に動くのが面倒なので,行動を起こさない現在の状態を
良しとする理路の構築に流れる.
そっちの方が面倒臭そうにも思えるが,
「考えるのが楽しい」人間にとっては,
楽をして楽しいこともでき更に今の自分に納得もできるという
一石三鳥の(「ついで症」発症者には垂涎ものの)「怠慢」なのだ.

「知的怠慢」がろくに考えないことを表すなら,
こっちの方は「動的怠慢」でどうだろう.

字面から福岡伸一氏の「動的平衡」を連想したが,
そんなたいそうなもんじゃない.

一同,唱和!
(´ー`)y━~~ マンドクセー
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by chee-choff | 2011-03-19 22:24 | 思考 | Comments(0)
リトマス紙的論考<WW-05>
今回のは言われてみて、頭でっかちの妄想だと感じる人、
そういう考え方もできるのねと感心はする人、
自分や周囲の人間の心の動きを言い当てられたと感じて
驚くとともにほのかに羞恥心を覚える人、
と多種多様な反応を引き起こす話かと思う。

氏の心理描写はだいたいそうなのだが、
いつもの「微に入り細を穿つ筆致」が社会事象に対して
むけられるなら「ほおほお」で済むのだけれど
人の心が標的になれば一つひとつの細微に
「自身との照合」意識を掻き立てられて脳が躍動し、
「ほおぉ…」と溜め息をつかずにはいられなくなる。

今回の話題では…
人は誰しも「棚からぼた餅」の優れた費用対効果は
認めるものであるが(何せ費用はゼロなのだ)、
そこに倫理的規制が加えられて単純に喜べなかったり
享受自体を固辞することはよくある。
その倫理的規制というのは通念に縛られていて、
つまり「ふつうはこうだろう」=「みんなはきっと
こうするだろう」という「一緒意識」(@栗原彬)が
倫理的規制の一部分を占めているのだけれど、
「棚ぼた」が個的(他者との利害関係が生じないものや
個人の内面で展開されるもの)であればあるほど、
倫理的規制を占める「一緒意識」の割合が高くなる。
そしてその「一緒意識」はその出自上理念的なものと
対極に位置するものであるだけに、単純化を好む

人と同じ話題で会話していて何の違和感もないのに、
一人になってふとその話を思い返すと思いもしない
羞恥心がわいてくるというのは、「一緒意識」が
解除された健全な思考が働いている結果と考えてよい。

…もはや何を言いたいのは分からないが、
こういう「リトマス紙的論考」をいろんな人が読んで
浮き上がってくる色を解析するのも面白そうだなぁと、
思ったりもするのである。

>>
「女は男社会の被害者である」というような言い方をストレートにする女性は、さすがにもう少ないだろう。「被害者であった」と、前提を過去形にして前へ踏み出さない限り、現実的な進展はないーーというところまでは来ているのではないかと思う。思うけれども、女の中の「暗黙の被害者意識」が解決されたかどうかは分からない。「いつまでも被害者意識を振り回していても仕方がない。それを"過去のもの"として、踏み越えて行く力が必要だ」と言われて、突然「自分の中の被害者性」を発見してしまう人だっているだろう。それを口に出さず、「自分は被害者なんだから、こういうことをやってもいいはず」という、不思議な権利のバランスシートを作ってしまう女性は、いろんなところにいる。「言っていることは不思議な形で筋が通っているが、やっていることを見ていると、手前勝手なことだらけ」という人は、けっこう当たり前にいるものだ。
(…)
 優秀な女性に対して、社会が「女性」であることを理由にして道を閉すのは悪だけれど、道を閉される女性のすべてが優秀であるわけではない。「あの程度の男でもいいんだったら私でも」という前提は、やっぱり間違っているだろう。「あの程度の男」が多過ぎることに怒って、自分も「その程度の女」になっていることを忘れるのは困ったことだ。「閉されている」という被害者意識は、時として自分の目をもふさぐーーそれに気がつかないのは、やっぱりだめだ。
p.63-64「世間知らずを知らない女」(「婦人公論」時評02年5月)
>>

バランスシートとは,賃借対照表のこと.
「権利のバランスシート」という表現にしっくり来て,
それに「不思議な」がついて思わず頷いてしまう.
これホント勝手に作られるんですよね,他人事だと思えるほど.
そして何の違和感なく作成されたバランスシートに自分の価値観がモロに出ていて,
冷静に眺める視座を獲得できた暁には自己嫌悪の嵐が待っている.
小さい頃は台風がきてもキャッキャと外に出て跳ね回れたように,
若い頃にこの嵐を経験しておけばいつか「熟年の精神的危機」に陥った時,
「そうか,これは…あの頃は若かったよなぁ…ふふ」と余裕をかませること請け合いだ.

「そんなお前はどうなんだ」と言われると…
どうなんでしょうね,ははは.

→WW-06へ
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by chee-choff | 2011-03-18 23:22 | ハシモト氏 | Comments(0)
今日の「あるある」
「意味のある行動」よりも「意味ありげなしぐさ」に惹かれる.
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by chee-choff | 2011-03-18 01:04 | 社会人 | Comments(0)
成功譚が固定する「苦労」あるいは「我慢」<併読リンク7>
>>
 十五年ほど前,正確なことは忘れたが,ある新聞記事を読んだ.そこでは松下幸之助氏あるいは本田宗一郎氏のような,学歴はないが,世の中でたいへん成功した人が,若くて貧しいために就学の機会を失う若者が可哀想だと考え,そのために新たに奨学金を創ったと報じられていた.
 この記事を読んで,私は思わず「なぜそんなことをするんだ」と叫んでしまった.その場にいたのは家内だけだったから,たちまちたしなめらた覚えがある.「だれかがいいことをするんだから,あなたが文句をいうことはないでしょう」.そういわれて,そうかと黙ったが,それから長いこと,これが気になっていた.いまではなにが気になったのか,自分の頭のなかがやっとはっきりした.この人は自分の過去を肯定しているのか,否定しているのか.それが当時の私に浮かんだ根本的な疑問だったのである
養老孟司『あなたの脳にはクセがある』p.35
>>

本書を読み終えて1週間も経たぬうちにこの部分が呼び起こされたのは,
ハシモト本のある一部を読んでのことだ.

>>
「我慢は貧乏によって生まれた」などと考えられて,確かに「我慢」は「貧乏」からも生まれてはいるのですが,「貧乏だから我慢をしなくちゃいけなかったんだけど,でもその我慢自体はそんなにいやじゃなかった」という種類の「我慢」もあるのです.「我慢」の問題は,「いやか,いやじゃないか」というファクターの方が大きくて,その「いやか,いやじゃないか」は,人間関係に起因することが多いのです.
「やなやつから強要される我慢には堪えられない」──これは本当のことでしょう?
橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』p.205-206
>>

もちろん想起された理由あってのことだが,
ヨーロー本(そろそろ慣れ親しんできたのでこう呼んじゃいます)の該当箇所を探し,
何度か読み返してからやっとその理由が前景化してきた.

養老氏の挙げた成功者が自分の過去を全く肯定していれば,
自分と同じ苦労をさせないための奨学金設立という発想は持たないだろう.
もちろん肯定できるはずもない苦労をされたからこそ,なのだと思う.
その成功者の苦労と成功からくる善意には疑うべき所はない.
養老氏はその曇りなき慈善行為の裏面を見ている.
すなわち,「苦労はしないに越したことはない」というイデオロギーが,
ここでは何の疑いもなく肯定されているのである.
そうすることで失われる視点とは,ハシモト氏の言う
「貧乏だから我慢をしなくちゃいけなかったんだけど,でもその我慢自体はそんなにいやじゃなかった」
という類の苦労=我慢なのだ(勝手にイコールで結んじゃいますが).
言い換えると,「我慢」を構成する「良い我慢」と「悪い我慢」のうち,
「良い我慢」がそこからすっぽり抜け落ちる.
 「良い我慢」と「悪い我慢」の別については良い記述がある.
 「良いか悪いか」よりは「タメになるかならないか」の方がいいかな.
  >>
  (…)だから,「我慢は現状に抗する力である」というモノサシがあれば,
  「ああ,自分がするのは,“強要されるしたくない我慢”ではなくて,
  “この不愉快な現状に抗する我慢”なんだな」ということが分かります.
  橋本治 同書 p.205
  >>
  この辺りには「ガマンなんてするもんじゃない」という安易な快楽主義を
  戒めるに十分な論理が展開されていて,「我慢できることは能力なのだ」
  と納得させてくれる.考え過ぎる一部の子どもには朗報となりそうな箇所.
この手の論に「苦労しない人間だから言えることだ」という反論がしばし投げられるが,
(余談だが,ウチダ氏はよくそのテーマで標的になっている)
それは「無垢に言える言い易さ」の問題であって本質は誰が言っても変わらない.
ずばっとまとめれば「短絡はものごとのいち側面を覆い隠す」.
単純化のメリットももちろんあるけれど,「単純化によって隠れてしまうことがある」ことを
みんなが忘れると当初のメリットを大幅に上回るデメリット(しかもこれはすぐには見えてこない)が
生じるという構造の存在は確認し過ぎて困ることはない,ということでこれ今回の結論.

上でのヨーロー本抜粋の続きにはこうある.
>>
(…)しかしともあれ,私にとっては,この話のある一面だけが気になった.つまりそれは,人々は自分の過去を一般にどう評価しているのだろうか,ということである.それがなぜ問題かというなら,その集約が日本人の歴史に対する態度を決めるだろうと考えたからである
養老孟司 同書 p.36
>>
ここからスケールがぐんと大きくなって話が面白くなるのだけれど,
それは本書を買ってのお楽しみ☆
というシメで本記事は見事に書評へと昇華するのであった…
やった!(ツッコミ不在)

+*+*+*+*

これ書いてる途中ですっげ揺れた.
震源地が静岡東部で6強だって.
近!
しかし今回のでコツを掴んだ.
震源地が近いと最初に縦に高周波で揺れるんね.
意識せずとも身体に刻み込まれてしまった…
ちょっと疲れるね..
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by chee-choff | 2011-03-15 22:56 | 併読リンク | Comments(0)
「好景気」という化けの皮<WW-04>
「好景気」を「当然あるべきもの」と見なす風潮。
これは高度経済成長期を経て以降に
登録された常識であるとは想像しやすい。
では、「好景気」が当然ではない感覚とは、
どのようなものだろうか?
明治以前の、例えば江戸時代の庶民の感覚のうちに
それは含まれているかもしれない。
(その当時に「景気」の概念があるとは思えないが)
江戸時代の人々の気質が素晴らしくて、
もう一度彼らのようになりたい(振る舞いたい)が、
時代の趨勢(科学の発展、グローバリズム、…)が
そんなこと許してくれるはずもない、
とお嘆きの方には(そんな人いるのか?)、
物質面の再現は非現実なのでおいといて、
精神面において「プレイバック」してみることをお勧めする。
すなわち「好景気が当然ではない感覚」に
自分の中で説得力を持たせるということだが、
そんなあなたにピッタリの文章。
(重ねて問うが、本当にそんな人いるのか?)
注:江戸時代は全く関係ありません.

>>
 不景気になって「いい人」になる人の数よりも、不景気になって、「今までこんな人達が、どうしてまともな顔をしていられたんだろう」と思いたくなる人の方が多い。もちろん、景気回復は「急務」でもあるだろう。年間の自殺者が三万人というのは、尋常な数ではない。しかし、「好景気」というメッキが剥げただけで、「人間の未熟」を露呈してしまう人の多さを見たら、疑問も生まれる。
好景気」というものが、未熟な人間の野放しにされたエゴを覆い隠すだけのものでしかなかったなら、そんな好景気にはやって来てほしくない。日本の「好景気」がその程度のものだったから、それがつまずいた瞬間から、ろくでもない事件の連発になり、「そこからの脱出」という方策が見えてこない。見えないのは、それを考えるだけの頭がないからだろう。「景気回復」だけを考えて、その「景気がよかった時」の人間のレベルがどの程度のものだったかを考えなかったら、「回復する景気」は、「ろくでもない人間を救済するだけのもの」になるだろう。
p.57-58「二○○二年一月の日本」(「婦人公論」時評02年1月)
>>

プレイバックの具体的な方法が書いてあるのではなく,
「そうしようと思わせるきっかけになるもの」が書かれている.

当たり前を俎上にのせるのは難しいが,
別の当たり前を使って当の当たり前を疑うのはもっと難しい.
世間からは距離をおきつつも地に足付けた感覚をしっかり持つという
矛盾にもみえる状態を成立させなければいけないからだ.
この「矛盾にもみえる状態」は,世間が浮き足立っていれば,
矛盾でもなんでもなかったりするのだけれど.

ハシモト氏は常に思念は暴走しているが,
浮き足立つことは決してない.
何せ生粋の「机上の人」だから.

思念が暴走している人が実生活で暴走するとは限らないし,
思念が暴走してない人が実生活で暴走しないとは言い切れない.
確実に言えるのは,思念と実生活は結びついており,
その結びつき方は決して単純ではなく,
それぞれの経験は互いに役に立つということ.
つまり,どちらを軽んじあるいは偏重しても弊害が生じるということ.

ついでに言えば,他人のその「弊害」はとても参考になる.
「人の振り見て我が振り直せ」ですね.
既に僕は良い実例になってるかと思いますが(笑)

→WW-05へ
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by chee-choff | 2011-03-13 22:54 | ハシモト氏 | Comments(0)