深爪エリマキトカゲ
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歴史時代とシンクロする「現代」<WW-01>
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あきれるほどの無知ですが、「知らないことをやる時は、"知らない"の手前から始めるべきだ」ということを経験上知っているので、自分の無知を恐れません。重要なのは、「なんのためにそれをやるか」という根本の動機で、「それをやる意味」だけは、明確に理解しているつもりです。
(…)「今という時代はなんかおかしい」と思った時、自分の中にある大雑把な歴史理解を振り返ります。そして、「今の時代の謎は、どうもあの時代のあそこら辺にあるような気がする」と思います。それを知りたいので、歴史に学びに行きます。その時代の生んだフィクションの中に、知るべき「現代の謎」が隠されていると思ったら、迷わずそのフィクションを選び出し、そこから「フィクション」という衣装を剥ぎ取ります。私が知りたいのは、その後の時代になって生まれた「その作品への価値」ではなく、「その時代にその作品を生み出した欲望」なので、その辺りに遠慮はありません。人の思惑も気にしません。私にとって重要なのは、その歴史時代とシンクロする「現代」なのです。その根本動機がありさえすれば、「なんとかなる」と思っています。
(…)歴史を、「評価の定まった歴史」のままにしておくことが、どうしても出来ないのです。「自分」がそこに入り込んでしまったら、既に評価の定まっている歴史だって、容易にその姿を変えてしまうだろうと、思っているのです。結局私にとって、歴史も古典文学も、現代を読み説くためのキィでしかないのかもしれません。おそらくではなく、きっとそうです。
p.37-38「いつも逸脱してしまう」(初出:「本郷」01年11月)
>>

氏のこんな言葉に強く感銘を受けるようになったから、
「歴史を学んで自分のものにしたい」
という欲求が強くあるのだと思う。
それが明確に「歴史ものや教科書を読む」という
形をとってはいないが、例えば著者の考え方の
下地となるように語られる歴史にはすいすい入れる。
社会という科目が大嫌いだった中高の頃が懐かしい。
あの頃に読書に目覚めていれば、
僕は文系に進んでいたに違いない。

そういえば,僕が高校で習った歴史には
「それが生徒(自分)の何かに役立つ」意図は全く含まれていなかったように思う.
史実は事実だ,と言わんばかりに淡々と教える先生や(あの日本史の…誰だっけ)や,
「突っ込みどころ」をふんだんに提示して興味を持たせる先生(丸メガネで頭にタオル巻いてた).
彼らの工夫が足りなかったと言いたいのではなく,
むしろそういう「今の自分に役立つ歴史」みたいな方向性を持たせないで良かったのかもしれない.
高校生の把握できる功利性など多寡が知れている.
そんな未熟な頭で「歴史のなんたるか」が理解でき(たと思っ)てしまえば,
大人になってからもそこから何も発展しないのだ.
それが言い過ぎだとしても,「当時の自分の理解が浅はかだったこと」の気付きに対して
当時に獲得した「全能感」は必ず障害,妨げとなる.

子ども自身が「何でこんなことを習うのか分からない」まま教育を受ける意義はここにもある.
これは教育を「消費活動」として捉える現代の被教育者(親含む)の感覚と真逆にあたる.
…といった話は受け売りで,確か元ネタは諏訪哲二氏だったかと思う.

→WW-02へ
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by chee-choff | 2011-02-28 22:43 | ハシモト氏
世界と繋がる四畳半<WW-00>
本記事は,前の「予告」に対応するもの.

+*+*+*

この連載で取り上げるのは…

 『ひろい世界のかたすみで』橋本治

帯文を抜粋すると…

 生きることは,書くこと.
 橋本治まるごと大展覧会!
 いま,世界でいちばん書いている全身作家が贈る”全方位型エッセイ集”最新刊!!
 (読んで満足,ほぼ3冊分のフル=ボリューム)

という感じ.

「いちばん売れている」はよく目にするけれど,
「いちばん書いている」というのは珍しい.
それに「日本」でなくて「世界」だし.
そして多分,本当だと思う.
原稿用紙に書いてるのに,ね.

全方位的というのは本当にそうで,
その格好例として「セーターの編み方」なる本を出したことを
ハシモト氏自身が著作内でよく言及する.
本書にそれは含まれていないが,
毎度の社会時評をはじめとして男女,教育,日本の伝統芸能,
日本史,日本の自然,自己遍歴,…(目次を見ればもっとある)について,
「いつもの筆致」でくどくどと書かれている.

僕はハシモト氏の文体にはもう慣れているけれど,
今回はあまりのテーマの多様さに「ページをめくる手が止まらない」
というわけにはいかなかった.
前知識なしには「延々と意味不明の言葉が並ぶ」話もなくはなかった.
そういう記事こそ「ハシモト氏の文体だけで読めるかどうか」が問われるところなのだが,
そこは読者万人に求められるものではなく僕の興味に過ぎないのでここでは掘り下げない.

そんな本書の中で「読んだ時に連想が膨らんだ」箇所には読中に付箋を貼り,
読後に付箋箇所を読み返した時に「自分の言葉が出てくる」(他人の言葉が自分の口から
自分の言葉のように出てくる,の意味だが)ものを選び出して,
抜粋とともにPOMERAにつらつらとその言葉を綴った.
(POMERAとは愛用の「電子辞書サイズのワープロメモ」のこと)
ポメラの保存形式はテキストデータで,1ファイルにつき最大約8000字という制約があり,
それが今回3ファイル作られたのでトータルで2万文字ちょいといったところ.
(文字数に特に意味はないのだが,ポメラではワンキーで文字数表示ができるために
 その確認が習慣づいてしまった,というだけ)
その半分以上が本書からの抜粋.

取り留めなくあまり意味のないことを書いている気もするのでそろそろ締めにかかる.
本連載のタイトル末尾に「WW」と付けているのは識別記号で,
本書の副タイトル「It's a wonderful world」から取ったもの.
これが最大11まで続く予定.
増えることは…予定はしてないけど,どうなるかしら.

というわけで,これからちょくちょく増えていきます.

+*+*+*

「四畳半」と書けば「モリミー」というくらい大流行りの昨今だが,
書かなくても分かるけどこの連載はモリミーとは関係ない.
「机上での思考や執筆あれこれ」を想像すると全てが「四畳半」で
行われてしまうというモリミー中毒の僕の脳内のせいである.
(ハシモト氏は「机上の人」というイメージが前提にあります)
ちなみにまだ『四畳半王国見聞録』は読んでない.
読みたい.

→WW-01へ
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by chee-choff | 2011-02-28 22:14 | ハシモト氏
涙のハイパーインフレ
ダ メ か も し れ な い
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by chee-choff | 2011-02-26 19:26 | 社会人
流れをつく(れ)る人との(せられ)る人<併読リンク6>
つい一昨日買い込んだオダジマ本が届いたので早速1冊読み始めた.

お,おもろいなこれ.

テレビを見なくとも「テレビを楽しめる」んだ.

こーゆー本があるというだけでテレビの存在意義は十分ありますね(暴言か).

…と言って本書に書いてある話の当時は僕もテレビを見ていたのだけれど..


とか思いながら,その当時(高校生くらい?)を懐かしみながら読んでいて,

ふと思いもよらぬ所とつながったので「併読リンク」に登録.

>>
はっきりしているのは,白装束の一団が追い回されている理由が,危険だからでも違法性が顕著だからでもないということだ.彼らは単に「絵になる」から,カメラの餌食になっているのであり,「不気味で頓狂で予測不能でスリリングで,つまるところ,きわめてテレビ向けの素材」だからこそ,連日報道されている.
(…)
百歩譲って,タマちゃんを追い回すことが,娯楽としてギリギリ成立するのだとしても,生身の人間であるパナウェーブの人々を追い詰める(←暴発を期待してますよね,明らかに)のはいかがなものだろう.
小田嶋隆『テレビ標本箱』p68-71
>>

>>
この昭和二十七年(1952)の七月に公布された法律は,共産党の活動を規制することをもっぱらの目的として作られたものだからである.
(…)
破壊活動防止法は,はっきりと”アメリカの謀略”であるようなものである.第二次世界大戦の終結以後”反共”の姿勢を強めたアメリカは,日本の左傾を恐れて,こういう法律を日本政府に作らせたのである.共産党が”暴力闘争方針”を決定したといっても,破壊活動防止法成立以前に”無残な事態”が頻発していたわけではない.ただ「労働運動が盛んだった」という程度で,日本政府が破壊活動防止法の制定をちらつかせて,それに対する反対運動が盛り上がって,その盛り上がりの結果が”血のメーデー”という”事件”を引き起こして,その”惨劇”を「それ見たことか」的な口実にして,日本政府は破壊活動防止法を成立させてしまったというのが,その経緯である
橋本治『宗教なんかこわくない!』p60-61
>>

「俗な話」と「歴史」につながり=同じ構造が見えたりすると,

そのつながりが「人の傾向」のいち証明となって真に迫ってくる.

と言った後には「人ってこわいなぁ」と他人事のように呟くだけだが.

そしてどんどんマジョリティから離れていくだけだが.

これって健全? 不健全? どっちでもあるような..


閑話休題.

オダジマ氏は「愉快な毒を吐ける」達人のようだ.

アイロニーが秀逸だし,加えて感覚的に掴みやすいし笑える.

 テレビが「電気冠婚葬祭機」だとか,茶髪振り袖が「お汁粉の中にフライドチキン」だとか.

まぁ帯にある通り,テレビが好きな人は読まない方がいいと思う.


でもオススメです.面白いです.読中だけど,もう断言.

あ,あとテレビ見ない人が面白く(興味深く,か)「ポップなネタ」を仕入れるのにいい,とか.
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by chee-choff | 2011-02-25 22:43 | 併読リンク
過酷でない予告
「社会」というものを,「いろいろな人の集まる集合体」だと考えると,「いろいろな他人がいるんだから,譲歩能力がなかったらどうにもならないな」ってことになるでしょ.ところがさ,「社会」というものを,「自分の自己達成の舞台」というような「一つの観念」として考えたら,そこに「他人」はいないじゃないの.
(橋本治『ひろい世界のかたすみで』p.166)

+*+*+*+*+*+*

連載を始めた時に,それをきっちり終わらせる一つの方法として,

「連載を始める前に終わらせる」というものがある.

ちゃんと言うと,連載として載せる前に記事をぜんぶ書いちゃう,

ということなのだけど,これをやると「連載時の臨場感」(新聞小説なら

あるかもしれないね)が失われる代わりに,各回の記事を載せる前の

「味気なさ」に打ち克つというハードルを乗り越えるだけで事が済む.



上で抜粋したハシモト本の,自分が「おおお!」と思って付箋を付けた箇所について,

触発されて出てきたことものを書いたものを,12コつくった.

読了時に使っていた付箋は14枚.

つまりは書いたものを載せていく間に残りをさらりと書き上げて

いつもみたく「連載を始めただけで満足して終わる気配がない」

事態に陥ることがない仕組みに,もはやなっている.

なっている,はずなのだが,

ほとんど自分のために書いた文章をそのままアップする作業の無意味さも

うすうす感じていて,アップするその都度加筆したくなる欲求に負けることも

容易に想像でき,さらにはそうやってただでさえ混沌としている文章に

余計なカオスを繰り込んでぐちゃぐちゃさせたあげく「しまっちゃうおじさん」(?)

になって「毎回がお蔵入り」というステキなことになる可能性も捨て切れない.


まぁ毎回は言い過ぎだけど.


そんな感じで,

「書評にかこつけてあることないことを語り散らすもはや書評ではないシリーズ」

がもうすぐ始まります.

期待は,乞いません..
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by chee-choff | 2011-02-23 23:46 | ハシモト氏
麺と大盛り
最近,図書館で写真集を借り始めた.

もともとの動機は「想像の画像材料補充」だったけれど,

そういう意図で写真を眺めていると逆にかつて読んだ小説の一場面

(より正確にはその一場面を読んでかつて自分が想像した風景)が

立ち上がってくるのが(中身でなく,その形式において)新鮮で面白い.

読書をして残るのは自分が考えた内容だけなのだけど,

その考えた内容が最初に立ち上がってくるのは映像(とか場面)がほとんどである気がした.

そういえば何か言葉というか軽い理論を自分が身につけたなって思う時も,

その理論をぴゃっと引き出せる時は言葉よりも先にその具体的なかたち(その理論が

実現されてる場面とか)が浮かんで,それに連れられて口から言葉が出てくる気がする.

これはそう習慣付けたから? もしくは一般的な入出力の形式?

+*+*+*+*+*

最初にしようとした話に戻す.

「図書館で写真集を借りようシリーズ」の第一弾は風景写真集2冊だったけど,

第二弾(昨日)は「どこかへ続く道」をひたすら撮った写真集と,

「人は犬に食われるほど自由だ」という衝撃的な文句で有名な藤原新也の写真集.

後者から読み始めたのだけど,

1章まるまるを各ページの文を読んでから写真を眺める見方をしてしまって,

ちょっと後悔して写真を先に眺めてから付随の文章を読む見方で二回目を通した.

その時,一度は読んでいるわけだから文章は頭に入っているわけだけど,

眺めただけで文章が立ち上がる写真とそうでない写真があった.

前者は一度目に受けたインパクトとかで写真と文章が関連付けられたのだ.

それはそれで…

そうそう,その「写真を見てからの文章の立ち上がり方」にも種類があったのだ,という話.

一言一句が違いなくするりと出てくる場合,

言葉の雰囲気は出てくるのだけど具体的な文字が浮かばない場合.

(これを「喉元まで出かかっている」というのかな?)

(しかしここでいう「言葉の雰囲気」と「写真の雰囲気」とはどう違うのだろう?)

(言葉と写真を一度繋げた時点で本来持っていた「写真の雰囲気」は失われるのだろうか?)

(印象の受け手を主体とすればそのような本来にさして意味はないはずなので…)

(「写真の雰囲気」とは「言葉の雰囲気」と関係ない(かもしれない)雰囲気のことか?)

(それは著者でなく自分が別の言葉で表現する可能性を秘めている…)

(こういう考え方は最初に読む時からするものではないな.)

(一読後,あるいは何度か読んだ後に「この写真に別の表現はないか」と思いに耽り,)

(他に浮かんだ様々な言葉よりも藤原氏の付けた言葉が自分にしっくりきた場合には,)

(氏の言語感覚が鋭い(豊かだ)と思ったり,そんな氏に共感できる部分があると思えるのだろう.)

その「立ち上がり方の違い」にちょっと注目して,先を読み進めようと思う.


へたに無音で読むと日頃の習慣に沿った脳内BGMが流れてしまうので,

普段と別の感じを選んでみた.

が,「何かしら相性のよさそうなもの」で選んだのがpovoのUam Uam

えーと,なんでだろう..


あ,タイトルは本文と関係なくはないですよ.ほんと.

ちょっと吃(ども)れば分かります(笑
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by chee-choff | 2011-02-21 22:42 | 読書
@Veloce
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日課ならぬ,週課もしくは隔週課.

カフェで2冊を併読.
 今日の2冊は,
 『顔の現象学』(鷲田清一)と
 『若者はなぜ「決められない」か』(長山靖生).
 まだ途中なので来週もたぶん一緒.
ブレンド1杯(¥210)で14時から19時まで.
2冊を1章ごとに読み替えたり,カフェに来る前に立ち読みした『いいひと。』について
思い返したり,それらを今の自分の生活と結び付けたり,くるくる頭を回す.
その時に何かしら閃くことがあるのでメモをしたいと思うが,
毎回手元にはレシートしかないので余白にカキカキ(これ裏も埋まってます).
その時は勢いに任せて「おおおすげー」と自分の思いついたことに自分で驚くが,
帰ってから読み返すと半分は駄文.
もう半分のうち半分はごくプライビットな話なので,
カフェメモの1/4がたまにブログで晒されることになる.
今日のは…また今度☆
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by chee-choff | 2011-02-20 21:15 | 社会人
『文明の生態史観』を読んで
ホントに書評じゃないものばかり書くな自分.
書評を読むのは大好きなのだけど,
(日曜の新聞の一番の楽しみは書評欄だ)
書評を書くのは本当は嫌いなのかもしれない.
…ことはなくて,単に合ってないだけな気がする.

ので,書評サイトには載せずにここに載せる.

+*+*+*+*+*+*+*

いちブレイクスルー

2011/01/23 00:47
「東南アジアの国から」(梅棹忠夫『文明の生態史観』所収)を読み終えて、ふと思いつき書き留めたこと。
なぜ書いたかはここにあらためてから考えることにする。

「それを言うことによって(あなたは)何を言おうとしているのか?」という疑問は「実践的疑問」。その問いから始まることは重要だが(=それが「思考のスタート」となる)、その問いの束縛から解放されることが1つのブレイクスルーとなる。つまり、その「実践的疑問」に対応する答えは(自分の中には見出せても)(例えば「師」の中には)ないのであり、その疑問とは別の駆動力によって思考が展開される可能性に思い至り、新たな思考のスタートとなる。この思考がまた別の人(かつての自分のような)の「実践的思考」を誘うことになる。
「その(実践的な)答えに関わらず問いを楽しめる思考」
を展開できるようになることが、1つのゴールであり、1つのスタートとなる。

ここに書き留めながら思い出した。
世界を見渡す興味でもって梅棹氏は本論を書いたが、
日本の知識人は「日本の評価」という視点でしか
読もうとせず、そう意識して書かれたものでないのに
「べき論」にすぐもっていこうとする傾向に
氏は驚いていたのだった。
 その知識人が「江戸武士のなれの果て」であるという
 説にはついなるほどと頷いてしまったが。
それはおいといて、
その驚きと一緒に氏は「まったくの興味でもって
本論を書いた」とも言っていて、
もしかしたらウチダ氏、ハシモト氏にも
そういう部分があるのではないか、
というか最初から「それ発」なのだろう、
と思い至ってのメモだったのだ(=これが「これ」を書いた理由)。

「実践的な観点」は思考が現実生活と結びついている限り
現実とは切っても離せない関係にはあるとは思うが、
興味が高じて実践的な観点がズレていく(興味の
赴くままに引っ張られる)という状況も、
↑の話と通じるのではないかと思った。
むしろ切り離せないからこそ「拮抗する中でのズレ」
を期待するのが、現実生活を保つためにも
守るべき妥協点なのかもしれない。
論理の足を掬うようだが、まったくの興味以外の
いかなる意思も思考に介在されないのならば、
とうぜん退廃を招くであろうと思う。
まぁその匙加減は本人の中の話であって、
外に対しては「まったくの興味で…」でいいのだ。
僕も軽くはそう言うだろうけれど、
深く考えて同じ意味のことを語るとなれば、
少し言葉を変えたい。
それは↑で書いた、「実践的価値観が興味の推移に
引っ張られる」という表現が適切かと思う。
2011/01/23 01:06

+*+*

間分野的思考

2011/02/06 21:26
本日読了。
とても面白い。
本書も内容というよりは視点を楽しむものと感じた。
細かい感想等は後に書くとして、
読中に思いが及んだ別のことをここに書く。

本書を面白いと感じた自分の興味が、
学部で「最適設計工学」領域の研究室を選んだ興味と
同じものであると感じた。
それは「間分野的inter-regional」思考に対する興味。

細分化されてはいるが、どの分野の学問も「学問」として
共通の性質をもっており、だからこそある分野で学んだ
考え方を他の分野でも適用することができる。
その「おトク感」に惹かれたのかもしれない。
…大阪人だけに。
あるいは、そういう分野をまたいだ思考をすることで
「全く新しいものを生み出さなくても新しいことが
できる」と感じたのかもしれない(変な表現だが)。
どうも昔から自分は「創作」が苦手だったようで
(小学校時に通っていたアトリエで「好きなものを描け」
と言われて何も思いつかず泣き出したことがある。
結局そのアトリエは途中で辞めたのだった)、
ある意味創作行為を神聖視していた自分は、
「視点の新しさ」を疑似的に創作とみなしたのだろうか。
そして「人と違うことをしたい」と小さい頃から
思っていた自分は「人と違うもの、新しいものを作る」
ではなく「人と同じものを新しい視点で見る」方に
興味を見出していったわけで、それを思うと昔から
自分は抽象志向だったのかと少々驚きである。

こんなことを考えるのは、
「人は変わらないよ」
「会社が、社会が変わるには時間を必要とするけれど、
 人はすぐに"変わる"ことができる。
 それは、"昔を思い出す"こと。」
といったことを、
今日『いいひと。』で読んだ影響かもしれない。
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by chee-choff | 2011-02-19 19:17 | 読書
やさいきるまに,まにまに.
トントントン...


意味の過剰.

無意味なことをするのは,
それへの一つの抵抗.
その無意味なことは往々にして,
身体に従っていることが多い.

だが試しに,
「身体にすら従わない無意味」
を続けてみてはどうか.

身体は「身体にすら従わない無意味」にも
従ってしまう性質をもつ
ことの再認識のために.

それはなぜか.
養老先生の言葉を借りれば,
「身体は自然である」からだ.

その「性質」は「力」にも「惰性」にもなる.
そのどちらでもあり,またはそのどちらでもない.
「それを決めるのは身体ではない」.


トントントン...
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by chee-choff | 2011-02-19 18:47 | 思考
高橋源一郎
高橋源一郎の凄さがやっと分かった.

ウチダ氏の好きな人々の著書がことごとく肌に合うと感じる中で,

髙橋氏だけは未だ良く分かっていなかった.

個人的には,やっと「真髄の本」に出会えた気分だ.


ブックオフが主な本の仕入れ先であって,

店ではほとんど105円のものしか買わない「規則を課す」というのは,

単純にお金がかからなかったり流行り(とは逆のもの)が見えたりと

それなりに得られる興味深さもあるのだけれど,

やはりそれは別のところで犠牲を払った上で成り立っていたものであって.


最初に手にした著作が『ペンギン村に陽は落ちて』で

「アラレちゃんなら知ってるぞ」と思い読み始めるも

余りの意味不明さが淡々と進みツボも会得できぬまま

発展する方向を見失った「?」だけを残し,

次に『平凡王』を読み始めて「平凡だね」で終わり,

次に『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』を読み始めて

「夢見心地な百科事典」とも思われたテーマの雑多ぶりに

「すごいのは分かるがとてもついていけない…」とたじろぎながらも

現実離れした内容に自分の生活の文脈を合わせて

「旅行先で読む文庫本」と位置づけて未だ読了に至らず,

少し前にウェブBookOffで固め打ちならぬ固め買いした髙橋氏著作の中から

手に取った『文学なんかこわくない』を読み始めて

「あいかわらずついていけないなぁ…」と思いながらも

以前ウチダ氏が絶賛し大学の講義のテーマで例示もした「タカハシさんという批評装置」の

効果というか具体的なところを把握してきたところで,

本書のラスト2章「文学の向う側Ⅰ・Ⅱ」を読んでガツンときた.


この人やべぇ.


こんな文章を書くだけではなくて,

本当に雑多でとても一人の中から出てきたとは思われない文章たちの中に

こんな文章が紛れていることが有り得ない.

ありえない,というのは,今まで出会ったことのないたぐいの人だということ.


今まで理解の埒外にいた人であったが,

やっと引き寄せることができた.

今まで読んできた著書を読み返すと,いろいろ分かりそうな気がする.

が,もちろんまずは読んだことのない幾冊に取りかかる.


というその前に,ガツンときた最後の部分を読んで「これは読まねば」

と思った二冊をメモしておく.

またひとつ,殻が破れる予感がある.

ものすごく大きな殻が.

 『日本語の外へ』片岡義男
 『敗戦後論』加藤典洋
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by chee-choff | 2011-02-17 23:57 | 読書