深爪エリマキトカゲ
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敢えて考える6(完)
これにて完結.

◆2011/01/30 13:15
2010/01/26 02:24
そして心身一体。
…腹の調子が悪い。
ここ4日ほど。
左腕に山脈をこしらえてからの気もするが、
傷は多分関係ない。
 「左腕の山脈」という表現で分かる人はいないと思うが、
 これは言ってしまえば「自傷痕」である。
 と書くと別の意味で深刻になってしまうのだが、
 何のためかといえば「気合い入れ」か「眠気覚まし」。
 思えば高3で駿台に通い始めた頃に、
 平均睡眠時間3時間が身体に課する不調を
 気合いでカバーせんと、爪楊枝で左腕をピーッと
 引っ掻いたのが始まりであった。
 長さは大体ヒジから手首の辺りまでで一定で、
 強さはその時の眠気や覚悟の程によって変わったが、
 強い時はうっすら血が滲むほどであった。
 以後も年がら年中ではないが、主に頭をフルに使う
 場面ではたびたびこの気合い入れに頼っており、
 (大学の講義の試験期間や弁理士資格勉強の時など)
 爪楊枝のケースを仕立てて持ち歩く時期もあった。
  ついでに言えばその爪楊枝は気合い入れだけでなく
  「お口のお供」にも使っていて、四六時中くわえては
  ぼろぼろにした経験もあって竹製の楊枝を好んで
  使っていた。竹製の方が鋭く固いので、こさえた
  山脈のヒリヒリ感もいや増すのであった。
 もちろん今はそんなに頑張ることなんてないので、
 (頭は家でもグルグル回すが、期限付きの目的も
 ないので燃料が切れたら食べるか寝るかすればいい)
 学生を辞めてからはお世話になっていない。
 が、左腕を子細に眺めると盛り上がった「山脈」の跡が
 10本は残っていて、ああこれは年を追うごとに
 だんだん浮き上がってくるのだなと思う。
 「昔こさえた傷は年をとってから浮き出てくるんだよ」
 と小さい頃祖母に言われて、出血してもかさぶたが
 取れればつるつるの肌が取り戻せた当時の僕は
 「そんなバカな」とまるで信じていなかったが、
 そうかそれを実感せざるを得ないようなことを
 自分は自分にしてきたのだなと感慨深し。
 
精神が限界(というよりはそれより手前にある、
とある閾値)にきて、その精神のダメージが
身体にもやってきたと。
でもこれは防衛反応の一つだと考える。
不健全な思考を野放しにして悪状況に呑まれて
精神崩壊するよりも、肉体的に違和感を与えて
脳の活動を鈍らせた方が自身の安定につながる、
と身体と脳の合議体が結論を下したような気がする。
 なるほど言われてみればその通りだと思う。
 これは多分当時読んでいた本の影響。
 けれど「身体と脳の合議体の結論」は多分違っていて、
 「身体が脳に反抗した結果」が正しい。
 もしかすると、その身体の反抗を脳が現状からの逃避に
 使えると判断して受け入れた、ということを
 含意させた表現なのかもしれないが。
 「体調不良だと気兼ねなく会社を休める」
 という感覚と同じようなものだろう。
 とすると…今の自分は後者のように思っているところ
 (もちろん体調不良になった理由は「過労」に
 限られるわけだが)、まだまだストイックを免れて
 いないのだろうか。まぁもう諦めてるけれど。

だとすれば、「まだ精神は大丈夫だよ!」と脳が
再度の主張をすることで、この腹痛から逃れられる
可能性もあるが、同時に、身体が脳を過信して
その主張を了承したがためにとんでもなく鬱になる、
という可能性だってある。
別にどっちでもいいのだけど(結果として選ばない、
ではなくなるようにしかならない、の意味で)、
ただ一つ言えるのは
「この腹痛に助けられているところがある」
ことだろう。
生存戦略を体で理解してくれている、身体に感謝。
 随分まともなことを言っている。
 こうやって頭はしっかり働いているところを見ると、
 「方策が分からずどうしようもなくなっている」
 のではなく、「するべきことは分かっていて、遂行に
 どれだけ自分が耐えられるか」の次元に問題があった
 ことがよく分かる。社会人になってからこれと
 同じ状況に陥ったとすれば「さっさと逃避する」が
 最適なソリューションで間違いない、と
 今の自分は思うが、それは独りでいるからだと思う。
 つまり、会社の中ではなく、プライベートな場面で
 「他者との(生身の)関係で」責任を負うことになれば、
 当たり前だが解決の難しい問題となる。
 (そこでは「逃避」が「現実逃避」になってしまう)
 そしてその難題に対して経験的には全く「お手上げ」な
 今の自分には責任を負うことの大きなプレッシャーと
 なるわけで、でもそれも実は大変よくある話であって
 結局は「なるようにしかならない」。
 「どうすれば責任を負わないで済むか」とか、
 「責任を責任と感じないような価値観はあるか」とか、
 そういう方面に貴重な知的リソースを使いたくはない。
 やはりここは「経験的に未知であることに対して
 如何に思考で立ち向かう(受け入れる)ことができるか」
 を主軸に据えてじっくり考えていきたい。
 おお、偶然にもうまく今と繋がって締められた☆
 というわけでここまで読んでくだすった皆様、
 お付き合い頂き、どうもありがとうございました。

2010/01/26 02:32
◆2011/01/30 14:03
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by chee-choff | 2011-01-30 16:07 | ink now
(v16)なきゃむりゃさん
あわわわやばいこの人.

ギターもシンセもMethenyだわ.

か,かっこよすぐる☆

→ ルサンチマンの海に抱かれて

→ MarBle

ジャズ研時代を思い出してビリビリきた.

(こういう曲やりたかっただけでやってません,ちなみに)

ふとH氏に感謝.


+*+*+*+*+*+*+*


思いがけず大当たりで何も書かずに上げてしまった.


一曲目を聴いてすぐに思い浮かべたのが,

Pat Metheny GroupのHave you heard

ギター,不思議な拍子,掛け合いのシンセ,主旋律と一緒に動くコーラス.

そのどれもがメセニーを彷彿とさせる洗練さを備えながら,

オリエントな弦楽器や波音が間奏を彩り幾層ものストーリーを構築している.

(ストーリー性で言えば7/4, 3/3, 5/3, 11/6の変遷も絶妙に貢献している)

この完成度の高さは尋常でない.


二曲目はカッコいいフュージョンで,

決めフレーズがまさにChick CoreaのSpainのノリ.

大好きです☆
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by chee-choff | 2011-01-29 20:50 | V概論
面倒臭がりを逆手に取る
今日は大量投稿.

これは前に書いた「面倒臭がりの効用」という記事で

「以前も同じような話を書いたかもしれないが…」

と書いていて,書いたのは本当だったがブログにあげてなかった,

その当の文章.

そしてこれを今からちょっと前に読み返して「面倒臭がりの効用」記事との

比較をやろうとしたができずテキトーにグダグダ加えただけのコメントがくっついていて,

もう本当にぐちゃぐちゃしている(自分が).

それでも載せる.

だってこれ備忘録だm(ry


+*+*+*+*+*+*+*


面倒臭がりを逆手に取る

2010/10/31 13:24
大勢の場に出向かない、出不精である。
これらは面倒臭がりの一形態に過ぎない。

「脳の出力は行動でしかない」と養老先生が
言われているのを目にしてギクッとした最近だが、
そして流されて「車が欲しい」とつぶやいたりしたが、
盲目的に信じるのはやめておこうと思う。

これは別の話であって…
面倒くさがりが面倒と感じる場面は様々にあって、
 1.何かをしている時に別のことをするのが面倒
 2.体を動かすのが面倒
 3.面白くなさそうな思考をするのが面倒
 4.効率の悪い動作をするのが面倒
 5.今の気分を大きく変えることをするのが面倒
 (…)
といったものがある。
1なら、
「ある本を読み終えて違う新しい本を読もうと思うが、
 今座っている付近に数冊読みかけの本が置いてあり、
 本棚まで行って新しい本を選ぶのが面倒なので手元の本を手に取る」
2なら、
「旅行に行くにせよ美術館に行くにせよ、
 実際に見に行かずに(例えば本を読んで)同じような体験をすることが可能ならば、
 わざわざ時間をかけて人混みに紛れながら行くこともないだろう」
3なら、
「同じような思考の繰り返しでも発展の余地が見えればするが、
 堂々巡りだと感じられた瞬間に遮断する」
4なら、
「晩飯を自炊するのが非常に面倒だが、
 朝食のりんごとサラダの準備ができていないのでせっかくだし両方やっとくか」
5なら、
「あるBGMと相性の良い本を読んでいて、
 違う本を読もうと思った時にその違う本のBGMとさっきまで読んでいた本のBGMに落差がある場合、
 その違う本を読む前の準備としてそのbgmを聴く」
(ややこしいので解説:大文字BGMは頭に流れる「脳内BGM」,小文字bgmはスピーカで流す音楽)

つらつらと例えを挙げたがここで言いたかったのは、
1、4、5はうまく利用すれば自分のやりたいこと
(やった方がいいと冷静な自分は思っているが気分的に
すすまないこと)をうまくできるということ。
(4のシチュエーションで「せっかくだし」が自然にでてくるところは
 面倒臭がり(ここではその一形態「ついで症」やね)ならではの役得ではないかと内心思う)

「自分に正直に」「自分を騙すな」といった言葉を
真に受けていた時期が(つい最近まで)あった。
今は「その「自分」なんて一つに定まってもいないし
時間に応じてどんどん移り変わるものを定位できる
はずがなかろう」と思えてはいるが、
昔の態度が今でも自然に出てしまうことはある。
それは例えばなにかぐちゃぐちゃした思考操作をして
行動に移そうとしたときに、
後ろめたさを呼び起こしたりする。

それは過去に捕らわれているのだ、
と思わねばならない。
一人でいると冷静でいられるのは事実だが、
自分自身に敏感でいられるだけに
「自分の思考と身体の乖離」に気づいてしまって
とまどうこともある(例えば上記のような)。
それを克服するには「上位階層の思考」が必要となる。
つまり「思考(脳)と拮抗する身体を俯瞰する思考
ということになるのだが、これはなかなかレベルが高い。
今はひとまずそういう思考が必要だ、
という認識をするだけでとどめておこう。
2010/10/31 13:48


2011/01/18 00:50
久しぶりに読み返して、
なかなか凄いこと書いてるなと思いつつも、
最後で「思考に囚われてる状態を思考でなんとかする」
というはちゃめちゃな結論に至っている所が
今の自分のスタンスを明朗に語っていて、
なんとも面白いというか涙がほろり
単純に「身体を動かす」というソリューションもアリなんだけど。
まぁそれが面倒くさいというのがまさに
この文章を書くきっかけだったりするのだろう。

ちょっと前に「面倒臭がりの効用」と題して
この話と似たようなことを書いたのだが、
ブログに書いた方は話題の一部を展開していく流れで
あったように思うが、この文章はそれよりはもっと
包括的に書かれているようだ(と既に他人事)。
今までトピックとして掲げたものが随所で
顔を出していて、それが恐らく自分の生活を
惜しげなく話題の提供元としているからであって、
改めて自分を客観的に見ることができている錯覚に陥りそうで
なんとも面白いというか涙がほろり

しつこいね(笑)
読み返して「ほう」と思っただけで
特に言いたいこともないとこういうグダグダになると
分かったことを収穫としておしまい。
2011/01/18 01:00
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by chee-choff | 2011-01-23 18:04 | 思考
身体を割る@ティッシュ投げ
鼻をかんだティッシュが今右手にあるがゴミ箱はコタツから遠い…


2011/01/12 20:26
腕を振り被ってティッシュを放すまでの間に
手にかかるティッシュを介した空気抵抗を読むことで、
放す瞬間の強さを決定する。

これに気付いたのは、今日のある一投が
いつもより「ひらひら」していたから。
そしてその「ひらひら」に呼応して、
腕の振りがいつもと変わったことを意識した。

「ただひたすら本を読む生活」をしていても、
「細かい腕の振り」に気付くことができる。
文章により喚起された想像を構成する脳の動きが、
実際に身体を同様に動かした時に活性化する
脳の動きと一致する部分があると言える経験ではないか。
つまり、「ミラーニューロン活性」結実の成果である。

んな、大袈裟な。
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by chee-choff | 2011-01-23 17:44 | ウチダ氏
敢えて考える5
久しぶりに「ink now」の続編.

何の話かもう忘れてしまった方はまずこちら(の後半部分)をどうぞ.

話はいよいよ山場.

と言っても「自己の腐敗度」が山場というだけだが…


◆2011/01/18 01:01
2010/01/24 13:10
昨日思ったこと。
もしかすると、今の自分は「羨ましがられている」
のではないかという発想を持った。
 これは明らかに自己防衛反応ですね(笑)
 ここらで危険水域に入ったと見ていい。

個人で閉じていれば思い至るはずのない発想だが、
研究室の人間(具体的にはKが一人でいる時だが)を
見ていてふと思った。
 困ったら身近な他人をダシに使う、と。
 まぁ常套手段ではあれ、その内実を今ここで晒す
 という神経はちと常軌を逸する気がしないでもないが、
 (過去の非常事態の自分であれ)自分のこういう中身が
 他人に了解されていると思い込むには
 格好の材料(行為)であって、それ込みの目で他人から
 見られてそれを吹き飛ばすようなオーラを自分の内側で
 形成する必要に迫られる様まで想像する自分は
 もう救いようのないマゾですね、といった話を
 続けていると立場がどんどん悪くなるので(今更か)、
 この辺で自粛。

なぜか。
昨日、M2のKはこの時期にも関わらずPS3で
楽しんでいるようであったが、ふとその振る舞いの影に
「不満」を見て取ったのだと思う。
それが僕自身と同じく大した研究でないことによるのか、
彼がそれを認識しつつかつちひろはなぜそんな泰然自若と
していられるのか(あるいは明晰なオーラを醸して
いるのか)に疑問を持っているのか、
あるいは(詳述はしないが)日頃の振る舞いが欲求の度を
高めたがために中途半端な自分の立ち位置に
苛立ちを覚えてしまうのかはわからない。
 なんとかぼかしてるけど酷いこと言ってるねこれ(笑)
 幸福や満足の指標は(特に身近な)他人との
 相対値によって大きく左右されるわけだから、
 他人を落とせば相対的に自分は浮上する。
 そりゃもっともだ、もっともなんだけれども…
 自分の思考で押しとどめるのであっても通常は
 その行為自体に後ろめたさを感じるものである。
 その後ろ暗さの理由までは普段の人はほとんど
 前景化させないかなとは思うけれど、実は
 「思考は顔に出る」ことを経験上みんな
 知っているからではないかと僕は踏んでいる(何を?)。
 つまりは「考えている内容の傾向はなんとなく
 相手に伝わってしまう」ということ。
 身体性が軽視される「脳化社会」では相手の表情や
 佇まいを読む技術も廃れる傾向にあるだろうから、
 逆に「思考内容と表情をちぐはぐにさせる」技術を
 こちらが磨けばそれは使えるのではないか(何に?)。
 と、ふと(ここ強調)思ったりもする。
 あ、あと「ちひろ」とは自分のことです。
 名前の由来は「千と千尋」からきているのだが
 (中学で先輩に「今日からお前は千だ!」と言われて
 それがダジャレだと気付くのに大変な時間を
 要したことに由来する)、そして一気に話が逸れるが、
 実は近々ブログのコンセプトをきっちり考え直そうと
 思っていて、それを如実に表すであろうブログの
 タイトルを「ちひろ氏の生活と意見」にして
 一人称を「ちひろ氏」で綴っていこうとか考えている。
 (ちなみに森見登美彦ブログの一人称は「登美彦氏」)
 まだ全然詰めていないので妄想的予告はここまで。

…こういった話はもちろん人に(当人になぞもってのほか)
話すたぐいのものではないが、自分で独白するにせよ、
自己弁護の詭弁の砂上楼閣的屁理屈であるとの視点を
免れ得ないが、そもそもそのような表裏(正邪?)一体の
論理にこそ(身体性、あるいは誠実が含まれていれば)
(少なくとも当人にとっての)真理が見いだせると考える。
 あ、自分でも気付いてますねこれ。
 しかしよもやこの「独白」を公開することになるとは
 思いもよらぬであったろうに(とものすごい他人事)。
 ちなみにここの「砂上楼閣的屁理屈」はたしか
 「モリミー語録」に入っていたかと思う。
 (=森見登美彦の著作に出現するオモチロイ単語集)
 これをぜひ習得したいと思い『太陽の塔』を
 数年越しに6回読み返したりもしたが…
 まあそれはまた気が向けば。
 そして「表裏一体」がよくわからない。
 たぶん「ふつうに考えるとよくないことの中にも
 よく見るといいことが含まれている」といったことを
 言いたかったらしい。言いたい放題やね(笑)
 あと困った時はなんでも「身体性」をもってくる、と。
 この言葉って適用範囲が広いからいろいろ言えた気に
 なっちゃうところが少し恐い。
 のでもう少し自重した方がいいんじゃないかな。
 ー>今の自分

逆に言えば、「反論の仕様のない正義」には実用性など
これっぽっちもありはしないのである。
 そこで(その「正義」を振りかざされた時点で)
 対話(議論)が終わっちゃうからね。

まぁこういう議論を一遍やってハイ解決ではなく、
延々と堂々巡り(に思われるが実は山頂に向けて山麓を
少しずつ上向きにぐるぐる回っているのだ、という
比喩はウチダ氏から頂いたもの)を繰り返してこそ、
自分のスタンスの誠実さが担保されるのである。
つまり「この道も楽じゃないな」ということであり、
「この道」とはいつか心に決めた「もう考えないことから
逃げない」のことである。
もちろんそれは大前提の話で、身体性を敏感に
しておきたいかたわら疲れたら無理せず休みたいわけで、
それは忙しい時もさらなりということなので、
こうして修論執筆真っ盛りのこの時期に
関係のない思考に励みつつ取るものはきちんと取るという
方針も守りつつ無理しないという意味での退路(側道か)も
きちんと確保されているという「高安全率の安心設計」
がここに確立されたのである(安心って何?)。
調子いいね。
 最後らへんはもう手が勝手に動くがごとく書かれた、
 というか打ち込まれた記憶がうっすらある。
 今までずっと考えてきたことやずっと読んでいる著者の
 言い回しなどは本当にするすると出てくる。
 「他人の言葉を語るほど饒舌になる」のは本当。
 それを「自分の言葉で話せている」と誤認せず、
 かつ自分の言葉を導くための「繋ぎ」であるとの
 自覚を強く持つことが、言論で生きる人間には
 必須のスタンスかと思う。
 あくまで「言論で生きる人間」の話。
 彼らはふつうの人に貸すための言葉を用意することを
 生業としているわけだから。
 だからふつうの人は「他人の言葉」を「自分の言葉」
 として話すことに躊躇する必要はない。
 むしろ日常はその行為で埋め尽くされている。
 気をつけた方がいいのが「程度を守ること」、
 そのためにあると便利なのが「自覚を持つ」。
 それらを「利便」ととるか「謎」(好奇心を誘うという
 意味で)ととるかが、ふつうの人と言論人の分かれ目。
 なんか話が変な所に…そしてここでおしまい。。

2010/01/24 15:57
◆2011/01/18 02:01
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by chee-choff | 2011-01-23 17:31 | ink now
「おじさん」たちの言いたいこと
前振りなく言うけど(という「前振り」ですこれ),

一冊でも読んだ人には分かるのだけれど,

ウチダ氏の本は「何が言いたいのかわからない」ものが多い.


本が書かれたとなれば著者は何か言いたいことがあるとなって,

読み終えて「結局のところこれが言いたかったのか」と

うんうん頷いて納得,という形がふつうだと思われている.

それがそうだとして,では「何が言いたいのかわからない本」を読み終えて,

「この人はなにが言いたいんだ?」と思って,そこからもう少し考えてみると

「この人は“何を言いたいのか分からなくする”ことで何を言いたいのか?」

という疑問にたどり着くことができる.

ここまで来てやっと著者も安心,というところなのだけど,

それはつまりどういうことか,ということが

ズバリ書いてある箇所を見つけた.

でそれは,むべなるかなウチダ本ではなくてハシモト本である.

>>
だから,うっかり私の本を読んでしまった人は,「一体この人はクドクドエンエンと,なにを言いたいんだろう?」と首をひねるのだ.そして困ったことに,この私の本は,いつも明快に,“著者がなにを言いたいのか,分かったようで分からない”というところへ行くようになっている.つまり,「この橋本治という人は,あまりにも“宗教にならないように”という仕掛けを自分の本に張りめぐらしすぎている」ということである.
 ということはどういうことかというと,「宗教というものは,あまりにも簡単に“答”を出してしまうものである」ということだ.
 宗教の側の出す“答”は,いつでも簡単だ.それは,「私の宗教に入りなさい.そうすれば簡単に分かりますよ」だからだ.宗教がまず“信じる”ということから始まっていることを,よく考える必要がある.
(橋本治『宗教なんかこわくない!』p.84-85)
>>

「宗教」という言葉がたくさん出てくるが,

この本の初版は99年であり,

つまり当時の「宗教」の代名詞であったオウム真理教を題材に書かれている.

とだけ言って,抜粋した章の大事なところをいきなり抜き出してしまう.

>>
 必要なのは,宗教でも指示でも教祖でもリーダーでもなくて,“自分の頭で考えられるようになること”──日本に近代化の必要が叫ばれるようになってから,日本人に終始一貫求められているものは,これである.これだけが求められていて,これだけが達成されていなくて,これだけが理解されていない.
(…)
 断言してもいいが,「宗教が理解できない」などという不思議な劣等感を持つのは,日本人だけだ.誤解しない方がいい.「宗教を理解する」あるいは「宗教とは何か?」を考えるということは,「もう宗教というものはいらない,もうこの宗教はいらない」と考えられる人間だけが出来ることで,そんな人間の集団は,日本人しかいないのだ.
(…)
実際問題として,日本人には「私はなぜ宗教がいらないのか?」の答が分からない.宗教を不必要にしてくれる“これ”の正体も分からない.宗教を不必要とするものは,ただ“なんでも自分の頭で考えられること”なのだ
 つまり,“宗教”とは,“まだ登場しないあるものの前段階”であるようなものなのだ.つまり,「自分の頭でものが考えられない人間の前段階とは,神様や教祖様という絶対者からの支持待ち状態──すなわち“宗教”である」と.
「宗教とはなにか?」の答は,まずこのようにして包囲されるのだ.
(同上,p.88-90)
>>

ハシモト氏はズバリと書き過ぎて,

正面から受け止められず,反発されたりする.

ウチダ氏は身体性を前面に出し過ぎて,

細部に突っ込まれたり,真意を酌んでもらえなかったりする.


が,二人の全ての著作から,同じメッセージをビシビシと感じる人は感じるのである.

「まずは自分で考えなさい」と.

それが「おじさん」たちの長き経験というかその人そのものを根拠としての「命令」というだけでなく

同時に「当為」でもある,ということが氏らの著書に懇切丁寧に書かれている.


もっと沢山の人に内田樹,橋本治の本が読まれればいいな,と改めて思う.
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by chee-choff | 2011-01-19 23:17 | ハシモト氏
『奥様はネットワーカ』森博嗣
BGM:iroha氏のインスト,「star-phase」.

この曲をリピートしまくって途中で気がついたけれど,
これはきっと「Japanese-Techno」なのだ.
メロディに時折表れる装飾音(trill)は「こぶし」だろう.
(そいえば「こぶし」って漢字で「小節」って書くの最近知った)
それはさておき.


本書は森氏の「私的詩的素敵」がふんだんに詰め込まれている.
シリーズ作品に比べて自由度がかなり高いと感じた.
そんな本書を読みながら付箋を貼った箇所を読み返し,
何か書きたくなった所で立ち止まり,思いを巡らせ,書いてみた.

ネタバレ的要素はほぼ無い.
そしてそこだけ抜き出しても詩的感覚が顕われるような箇所を選んだつもり.
対象が詩的であればあるほど読み手の想像は自由度が上がる.

詩というのは「紅一点の具体を備えた抽象」ではないかと考えてみる.
身近なコトものが言葉として表れるが(その身近な言葉が「紅一点」),
それと結合される別の言葉や展開の不思議さによって本来の意味を失い,
詩全体が浮遊していく.
その「ふわふわ感」だけだとつかみ所のないところに,
「紅一点の言葉」が垂れ下がる綱の役割を果たす.
その綱を握り,飛んでいく先が詩の作者とは別の場所かもしれない.
その善し悪しは作者のこだわりの範疇かもしれないが,
詩の役割を考えるとそれでもいいのだと思う.
日常の感覚から離れ,どこかへ「飛んでいく」ための詩なのだから.


ああ…先に続く話と関係ないこと書いてしまった(いつものことだが).
ということで,以下に付されたコメントはともかく,
森氏の詩的感覚だけでも味わっていって下さい.
では.

注)分かり切ってる話だけれど定期的にアナウンス.
  抜粋内の下線は抜粋者によるもの.
  そして[]内は抜粋者が加えた.
  加えて,今回は改行も勝手に足しました.
  文字の並びという「絵的」にその方がよかったので.

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by chee-choff | 2011-01-17 23:09 | 読書
つぶやき音声変換ソフト
読書中に脈絡なく妄想は膨らむのであって…


そういえば自分はお遍路に行きたかったのだとふと思い出して,

安上がりでいくならテント&寝袋装備が気楽なところだけど,

身軽で歩きたいと思った時に人家に泊めてもらうのはアリだなと思って,

でもそれが気楽にできるには既にもう物騒すぎる世の中ではあって,

じゃあネットで有名になってツイッタで「なうなう」を垂れ流すのはどうだろう,

と思って実際にその光景を想像したときに「何かにつけて携帯をいじる姿」というのは

どうも馴染めないなぁ(という感覚の出所は多分「荒れてる教室」を嘆く教師の本を

沢山読んでるからと思われる)と思って,じゃあ無線のヘッドセット(ブルートゥース?)を

常時装着しといて,着信した「つぶやき」が送信者名とともに音声変換(音声は「ゆっくり」

(わからない人ごめんね)とかでいいんじゃないかな)されて聞こえてきて,その返事を

ヘッドセットのマイクに呟けばそれがそのまま「つぶやき」に文章変換されて送信までされちゃう,

とかいうソフトがあったらなかなか便利かもねとふと思ったけれど,

やっぱり実際にその姿を想像するにつけ「降り積もる雑念」が果たして巡礼に相応しいかといえば

そんなわけない.


というわけでボツ(笑)


+*+*+*+*+*+*+*+*+*


また全然関係ないところから,変なものを思いついてしまった.

(まぁ既にあると言われても驚かないけれども.)

というのも前に「3Dマインドマップ」なるものを閃いて

実現性はおいといて思いつくままに構想を書き散らしたのだけれど,

あれ以来ブログのアクセス解析で「検索語ランク」(=このブログに

たどり着く時に検索サイトに入力したことばで多かったもの順)に

ちょこちょこ「3D マインドマップ」がランクインしていたのだった.

ということで検索でたまたま引っかかって期待されてきた方のために,

先手を打ってここで謝っておくのである.

ごめんね,ただの妄想で.


+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*


(注:以下は完全に内輪ネタです)

とまで書いて前に書いたマインドマップ記事を読み返して,

山野のこと書いてあると思ってリンクでジャズフェスサイトに飛んだら,

去年はサドハドが3位かーほうほうと思って最優秀ソリスト賞を見ると…

これってもしやトームラ弟では?

…すごいぜ兄弟.

もう二人でCD出せばいいんじゃないかな(笑
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by chee-choff | 2011-01-16 18:57 | 妄想
ケアル
『身体のダイアローグ』(佐藤学)を読んでいる.

この本はウチダ氏ブログで何度も引用されており

(古典を除けば引用回数は一二を争う多さという印象),

久しぶりのAmazonでの新品購入に本書を選んだのだけど,

届いてお馴染みの包みを開いて装幀を見た瞬間に,

「この本は今の自分には五つ星だ」との確信をもたらすオーラを感じた.


教育学者である佐藤氏と各界(解剖学,宗教学,社会学,…)の先達との対談集.

タイトル通りの「身体ぐるみの対話」が読んでいて心地よい.

社会のリアルタイムの変化が最も鋭敏に表れる教育の現場を佐藤氏が語り,

対話者はそれと共鳴し合う経験や専門的な知見からの解釈を語る.

現代社会の問題点が単なる知識でなく,「肌触り」を備えた肉感を通して伝わる.

社会を語ると話が大きく抽象的になりがちだが,その肉感によって,

いち読者の身体に社会の諸相がある感覚をもって落とし込まれる.

それが「身体を備えた個としてこれからどう振る舞っていくか」に相対する契機となる.

本書の初版は02年だが,もちろんその内容は全く色褪せていない.


本書は「内容」ではなく「経験」が読後に残る稀有な好著.


+*+*+*+*+*+*+*+*


とか言っておきながらまだ2/3しか読んでいない.

書こうと思ったのは,本書を読んでいてあることを突然閃いたから.


「ケアル」とはFFでお馴染みの回復魔法のことだが,

あれは「ケア(care)する」の派生ではないか.

もしくは昨今(っていつからか知らんが)流行りの

「名詞の短縮形+る」による動詞化(ex.タクシーに乗る→タクる)の形,

「ケアる」なのではないか.

(間違っても,唱えることで毛髪が黒々フサフサになり,

 中年男性の精神的ダメージが回復する魔法ではないはず)

もし後者だとすればFF1が発売されたのは僕が1歳の時なので(とさりげなくカミングアウト)…

なんという先見性!!



もちろん妄想です.
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by chee-choff | 2011-01-11 22:56 | 読書
脱草食系入門 〜まずはベーコンから〜
というタイトルの本があったら僕は迷わず手に取ると思う.

多分買わないけど.

…タイトルホイホイですね(笑)


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「上下の風通しの良い中小企業」というのはすごいですね.

「鶴の一声」はいいんだけど,声が全部トップダウンで筒抜けというのも,

単なるワンマン経営企業では見られない珍しい光景かと思う.

「吹きっ晒し」とはこのことか.

(誤変換で「不喫茶裸子」ってすごいねこれ.どんな頭してんだ「ことえり君」は)

勝手に一人でわくわくしておこう.

どきどき.


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文藝春秋という雑誌に載った「日本堕落論」という論考(?)について,

何の因果か読むことになり何の因果か感想文まで書いてしまったので,

何の因果か(しつこいな)それをここに載せてみる.

内容にほとんど触れていないのは…仕様ですね(笑)


2011/01/08 23:08
一言「極端だな」とはただの感想であって…
歴史・政治に疎い自分には理解が進まなかったことは
最初に白状するが、それとはほとんど関係なく、
一読して「これは誰に向けて書かれた文章か」
と思わず考え込んでしまった。

少なくとも、石原氏が「堕落」と宣う主役たる、
若者に向けて書かれたものではないだろう。
堕落の原因がアメリカへの依存にあることの真偽は
分かりかねるが、物欲や金銭欲の蔓延をはじめとした
堕落の内容についての氏の現状認識は妥当であると思う。
が、その堕落の解消を願っている(はずの)氏の言葉は、
当の主役に(「国に誇りを持つ」ような形で)意識の
改善(?)を促す文体に載せられてはいないと感じた。
たとえば、
「屈辱を屈辱として捉えられぬ者は自我を欠いた奴隷でしかない(p145下段)」
と宣言されて、「自我を欠いた奴隷」が果たして「屈辱」を感じるだろうか。
そして仮に屈辱を感じたとして、
それが克己心につながるのだろうか。
本論が「同世代の溜飲を下げる老人の愚痴」として
書かれたものならば特に違和感はないが、
なにかしら若者の自発心に火を灯すような効果を
期待して書かれたものだとすれば、
いち若者の実感からすると「うーん…」である。

閉鎖的であれ平和な時代、欲望が理念に先行して
肯定される時代に生まれた者には、戦前や戦後世代には
想像し難い「偏ったリテラシー」が備わっている。
自分を含む彼らがまずその自覚を促すための
近代史・現代史のいち資料にはなるかもしれないが、
まずはその認識を促すための考え方の構築が必要だろう。
「日本の若者はどんどんバカになっている」
ことは本当なのかもしれないが、もしそうであれば
「バカでも普通に生活できる」平和な日本で
「バカになるべくしてバカになった」当人に
「バカでいてはいけない」と説得力を以て
伝えるために必要な理路を整備・構築することが、
日本の「バカではない」人々に課せられた使命かと思う。

その具体的なところはとても想像できないけれど。
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by chee-choff | 2011-01-09 15:52 | 社会人