深爪エリマキトカゲ
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ゆくとしくるとし('10→'11)1
紅白が自分の中ではもはや「正視に耐えぬ」ものになってきた感がある。

(口から漏れ出る感想の8割が「うわぁ…」であった。)

「歌の上手さはどうでもいい」が常識に登録されたのは最近ではないだろうし…

ホントにどうでもいいけど、言いたいことが二つだけ。


①紅白の前半、浜崎が客席側から登場して、舞台へ向かう階段を下りながら熱唱していた。

 途中で立ち止まって歌っていたが、間近の観客席にいる中年女性が浜崎をじっと見ている。

 浜崎はその視線をもろともせず歌唱に没頭している。

 それは「熱唱を印象づける場面」で片付けて済むのかもしれないが、

 浜崎の熱唱は本当にまるで目の前の中年女性はじめ観客全員がいないかのようであり、

 一方でその中年女性は何の恥じらいもなく食い入るように目の前の浜崎を見ていた。

 距離にして1メートルもない両者の間には可視光は透過すれど途轍もなく分厚い壁が存在し、

 浜崎とその中年女性の間に「テレビの枠」を据え置いて初めて違和感が消え去る、

 というような途方もない違和感を感じた。

 まぁこの違和感は「対象からの距離の遠さ」によるものであって、

 生で体験している観客や彼ら同様に感じ入っているテレビ視聴者には訪れない類のものかと思う。

 すなわち、テレビをふつうに観る人にとってはどうでもいい話。

 ここに「自分に向かって話す目の前にいる人の存在を主観的に消去できる人」や

 「番組の内容そっちのけでテレビ買い換え推奨のテロップを画面下部に垂れ流す制作者」

 との類似性が見えたりもするけどまぁどうでもいい。


②ポップスの歌詞がいやに具体的だな、と。

 いいか悪いかの判断はこれもどうでもいいが、僕は素直にぞっとした、と言う。

 こういう流行り歌を日々口ずさみ、あるいはカラオケで熱唱する人の日常がちらりと見えたから。

 余計なお世話ですね、はい。 20:54


+*+*+*+*+*+*+*+*


今年起きた重大な出来事について。

…そんなものあったか? と感覚は言う。

普段の生活が平穏であればあるほど些細なイベントにも大きな躍動をもって接する、

ことになるはずなのだけれど、

どうも研ぎ澄ます感覚の矛先がそちらを向いていなかったようで、

実感としては、どうも「うーん…?」という感じである。

敢えてひねり出して考えてみよう。

と言っても「空雑巾を絞る」というよりは「水彩画にペンで輪郭付け」に近い。

まぁ絵心のない人間がやるなら許されるかな、みたいな。


今年前半、はじめの方は修論を書いていたような気もするが、

当時の苦悩をここで再現するつもりもないし、

別枠で連載(これもたいがい意味不明だが)してるので詳しくは「ink now」タグ記事参照。

それ以降で言うと…

入社式、新人研修、社会人一年目、部署配属、GW、夏休み、有給、冬休み。

…。

こうやって見ると平坦だなー

そして恐らく中身も語るほどのことがない。

「社会人」というキーワードについては院生時代に沢山考えていたせいか、

「今さら」感がある。

なる前となってから後の印象は違うのは当然だけど、

それを比較してああだこうだ言えるのはなってから後の社会人として落ち着く前であって、

すっかり落ち着いてしまった今になって言うことはあまりない気がする。

落ち着いた時期とは、仕事の要領が程々掴めた(自分の立ち位置や手の抜き方の把握)秋口だろうか。


なので、一般的なイベントではなくやはり個人的なことを考えねば始まるまい。

個人的なことといえば…

花粉症、散歩(登山)、ある衝動、一人遊びの極意。

何やら後半に行くほど怪しげな単語が並ぶが(笑)

これは色々語れそうね。

ひとつひとつ片付けていこう。 21:36


+*+*+*+*+*+*+*+*


というわけで、今年こそ間に合わせるためにそろそろ出発します☆

続きは次の記事にて。

では、みなさんよいお年を。。 22:44


+*+*+*+*+*+*+*+*


無事帰ってきました。

あけまして…はまた起きてから。

ではおやすみなさい。 26:36
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by chee-choff | 2010-12-31 22:44 | 思考 | Comments(0)
ゆきふるゆくくる
今年ももう年末。


はやいもんです。

という一言は、先に過ごした時間の濃淡に関係なく、

本来同時に表すことのできない「時間の流れ」を極限まで圧縮して

目の前にポンと放り投げてこその表現。

つまり、中身のない、特に意味をなさない言葉。

でも、「意味」をなさない言葉にも「効果」はある。


「意味」への過剰な執着と裏腹に、「効果」への感応を鈍らせる。

これは、現代人が世界の流れについていくための宿命かと思う。



と、

いきなり話のスケールが大きくなり過ぎて方向転換できずに終わりそうなので、

まずは ぶちっ、と。




実家のPCは自分(か兄)が小学校時代に使っていたデスクの上に乗っており、

ディスプレイの背後にある大きな窓は空の模様が判断できる程度には視界が開けている。

今は雪はほとんど降っていないが、夕方から強くなるらしい。


雪が降ると外出しないでいい口実になる(なんだそりゃ?)と考える人が身近にいるが、

僕は全く逆である。

白いふわふわを目にした途端、出掛けたくなる衝動に駆られる。

雪国育ちでない証拠やね。



細切れに更新して「只今執筆中」な雰囲気を出してみよう…

twitterでやれって話ですね。 14:48


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書くことはいくらでもある。

が、それと本記事を延々と書き続けることとはイコールではない。


書くために必要なものは、

「話題」、「執筆意欲」、「身体全般の体力」。

装飾たっぷり中身なしの話はいくらでもあるけれど、ここでは表現力(方法)は「話題」に含めておく。


話題はいくらでも捻出できる。

 書きたいことをあらかじめ考えてから「書く」のではない。

 何か(経験、概念、…)の切れ端が頭に浮かんだ時にその切れ端をひしと掴み、

 切れ端につながる紐をぐいぐいたぐり寄せていく行為、の方が「書く」に近い。

 その切れ端はうんうん唸って沈思黙考の後にうっすら見えるなんてたいそうなものではなく、

 目をあけているだけで、ぽかんとしていても無数に「目の前に漂流」(頭の中の比喩です)している。

 気分次第でどれか適当に選んで、ぐいぐい紐を引っ張るだけ。

 その紐を引っ張る筋力は何のメタファーかと言えば、「文章の書き方」とかですね。


 …と「話題」についてはここで引っ張る手を止めて、放す→ひゅーっと落ちていく。

 いや、この比喩は少し違うかもしれない。

 さっきは切れ端が「漂流」していると書いたが、

 これは切れ端の絶対座標(って何だろね)に変化はなく、自分の立ち位置が変わっている状態ではないか。

 漂流している自分が切れ端を掴んだ時にいったん止まり、

 ぐいぐい紐を引っ張る間は方向(ベクトル)と変化量(スカラー)が明確な移動が行われ、

 紐から手を離すとまたあてどない漂流が再開される。


 「腰を落ち着けて考える」という表現の通り、

 思考主体は定位して初めて考え始めることができると思われがちであるが、

 その思考主体を傍(はた)から眺めると、案外「漂流」しているように見えるのかもしれない。

 そろそろ話を戻そうかしら…


書くために必要な要素の二番目、「執筆意欲」。

誰かに見せたい、納得してもらうために書く文章であれば、   15:11 紅茶休憩の後再開 

見せるだけの体裁を整える、あるいは論理をしっかり構築する過程を終えることで

執筆意欲が蕩尽される。

僕の今の場合は、表の名目はこの一年を振り返るためであり、

実際のところはただ思考を弄びつつ年末年始をゆっくり過ごしたいだけであり、

つまりそれと深く連関する執筆意欲は「よくわからない」が正解。

ぜひ言いたいことがあるでなし、誰かに自分を分かってもらいたいとか、

いやそれは少しはあるのか(本記事だけでなく、このブログを続けていく理由の一つやし)、

かといって「どう分かってもらうか」に関心はなく完全に相手任せであってこその支離滅裂であり、

いや、本記事に限ってのことを言うならば…

なんとなく「年末っぽい」ものが書ければそれでいい、ということかしら。

なので対応する執筆意欲なるものは消費量メータなぞあるはずもなく。


さいご3つめが、「身体全般の体力」。

これが一番書きたかった。

「執筆」と言って今はもう執る筆のかげかたちもなく完全PC化であるので、

「打鍵」か細かく言えば「打鍵による文章化」といった所だが(新語考えないとね…)、

打鍵の際に要する体力とは眼、手(指、手首)、腰、首あたり。

その中でダントツシビアに効いてくるのが眼。

大学3回生までは左1.5はあったはずなのだが、

東方を知ってから2年ほど酷使の時期があり(文字通り24時間ぶっ通しで画面を見たことも)、

4回生ではシミュレーション系の研究室に配属されたことで

プログラムのデバッグ作業で穴が開くほどディスプレイを凝視した一年があり、

今は今で職業柄ディスプレイ画面どころか画面の構成画素一つひとつに対して

微に入り細を穿つ目配りの日々を送っているおかげで、

視力が0.2まで下がった、というのはわりとよくある話なのだが、

常時目がひりひりしていて目薬が手放せない体になってしまった。

ここ2年でちょくちょく使い始めた右目も本格的に育てていかないと

 (右目については以前書いたのでまたリンク探して貼ります →__)

この先仕事どころか目を開けては何もできない人にならぬとも言い切れず、

想像するだに恐ろしいので想像はしないのだが…

なんかどこいくかわかんないので話を戻すのだが、

要は「眼が限界にきたら執筆おしまい」である。



その眼について少しだけ書く。

症状が出たのは最近ではないが、どうやら自分は「飛蚊症」(ひぶんしょう)らしい。

専門のサイトを参照してみると、

「明るい所や白い壁、青空などを見つめた時、

 眼の前に虫や糸くずなどの『浮遊物』が飛んでいるように見える現象」

とある。

自分の印象ではその浮遊物はほぼ「アメーバ」である。

眼球内の濁りがつくる影がその実体らしく、視点の移動に対してそのままついてくる、

かどうかは実際分からないが勝手にそうだと仮定して、

そのアメーバ君の動きを通じて視点の移動の詳細が分かったりもするのである。

これもひとつの適応なのかもしれないが言いたいことは別にあって。


病院に行くほど困ってはいないがやはり目障りではある。

視点を固定しているとアメーバ君はいなくなるようなので(これは補正?)、

自然とあまり眼を動かさない習慣がついてきた。

そしてこの習慣も後押ししてくれるという話なのだけれど、


「現象のインプットにおける視覚の占める比率が小さくなってきた」と感じている。

表現が少し変なので単純に「視覚によるインプット量を減らす傾向にある」でもいい。


色んな所に行って、色んなものを見たい。

旅行記を読めばあの国がどんな所なのか分かるけれど、

でも(挿し絵付きであれ)読むのと実際に見るのとでは全然違うよ。

誰しもそう思う。

僕も、そう思う。

でも僕は、そこから少し変なことを考える。

ある国へ行って、歴史的建造物を見たり伝統芸能を見たりする。

あるいは、そのことについて書かれた本を読む。

どちらもそれ相応に得られるものがあり、自分に染み込んでくるものがある。

得られるものは、前者の方が圧倒的に多いのかもしれない。

しかし、その染み込んでくるもののうち、今の自分に大事なものは、

見る対象、想像する対象よりも、受け取る自分の状態に深く対応するのではないか。


つい最近更新したmixiのプロフィール文章にはこう書いた。

 「動いて得られるもののうち大事なものが、動かないでも得られたら楽よね」

これも同じこと。


心躍る経験をしたい。

深く感動したい。

その躍動・感動は、「主体の目の前で起きる現象」と、「受け手たる主体」の相互作用による。

躍動・感動を得るには、その両方あるいはどちらかを充実させねばならない。

器用な、あるいは自覚的な人はその両方を充実させるだろう。

「個性」や「自分探し」を切実に感じる人は前者を充実させるだろう。

僕は軽度な身体的不自由を抱えており、その不自由は進行しており、

その不自由にある極端な解釈を施し、後者を充実させる方に自分を仕向けている。



まぁこの辺が「いち引きこもりの実態」といったところですか(笑)

自分ではもちろん楽しんでいて、

自分に影響を与えるであろう外部の不確定要素への対応も考えていて、

(ウチダ氏のいう「デインジャーに対する備え」の極私的バージョンですね)

かといえばその範疇の枠外にある「外部の未知の到来」を少しは望んでいて、

それでいて自分からは少しも動かない(がたまに突発的に動く)人間というのは、

理解してもよい他者にカウントされないもんなんですかね。

寂しいもんですね。

という発言に説得力がないですね(笑)


+*+*+*+*+*+*+*+*+*


相変わらずいつもと同じこと書いてるなーと最初は思っていたが、

いつの間にやらだんだんそれっぽい話の流れになったので、

このまま流れに乗ると思いきやちょっと満足したのでいったん筆をおきます。

さて、続きは今年の出来事を振り返るとしよう…


んあー外は雲ってるだけで雪降ってない。

「ゆーきふーれコンコン♪」ですね。 17:08
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by chee-choff | 2010-12-31 17:08 | 思考 | Comments(0)
雪だー!
だいぶ前に急に寒くなったと思ってしばらくそんな寒くなくて、

で二度目の寒波がちょうど年末年始に狂って来るって、

明日とあさってはおてんきよほうで雪マークとか、

 きゃー!

こりゃもう登るしかないですね、はちまんさん。

登山靴はいてこ…


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りょーま(大河ドラマ)の総集編やっててつい見てしまった。

高杉晋作かっこええ…☆

吐血!吐血! げぼえほあっ
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by chee-choff | 2010-12-30 23:30 | その他 | Comments(0)
年末調整 / 面倒臭さの効用
自分はネタを振っといてそのまま放置,のもはや常習犯ではあれど,

中にはちゃんと実行され続けいつか日の目を見るテーマもあるにはある(珍しいが).

とはいえ「課題図書」は夏休みの一週間で読み終えるつもりが

かれこれ4ヶ月半もかかってしまってこれは単純にナメてたせい.

やっと今日読み終えた当課題図書とは『解明される意識』(ダニエル・C・デネット).

夏休みでは3章分しか読めず,あとは隔週の土か日に1章ずつ読んだ.

んまー難しいわねこれ.

紹介とかできるレベルに理解が達していないので一言,

デカルト的二元論をモゴモゴしながら論破する「百鬼夜行論」は面白いです.

あ,あと身体性とも相性が良さそう.


年末調整といって仕事の話ではなく,やっぱり読書の話.

気分に任せてランダムチョイス併読を続けていて色々ごちゃっとしていたので,

12月の半ばから併読書を集中して片付けるモードに入ってみた.

興味が薄くなったものや内容が併読書と被り過ぎの本は「また今度ね」と

躊躇なくバッサリ切り捨てて(=「読書中止」行き),

今日の分厚いのを読み終えてあと8冊. →SL

全部は無理なので帰省時に携えるのも含めてあと4冊はいけるかしら.

まぁ読み終えるのを第一に大雑把に読むなんてことはしないが,

「入りの姿勢」を強制させる布石として,ね.


+*+*+*+*+*+*+*+*


上の話の最後ともつながるのだけれど,

「面倒臭がり」も上手に利用すれば活用できるなぁとふと思った.

以前も同じような話を書いたかもしれないが…


何を面倒臭いと思うかがポイントなのだけど,

抽象すれば「流れを変える」ことに対して面倒が生じることが多い.

 ある本に没頭している時に「ご飯を食べ」ようとする,「食器を洗」おうとする,など.

ある本に没頭している間は読書という大きな(強い)流れがあり,

例えばその本の内容のある区切りに達するとその流れは弱まる.

その区切りに立ち会った時「そいえば腹減った」などと思えば,

ご飯の準備をするという別の流れに乗り換えることが容易になる.


という場面は基本形であって…


土日などは大抵コーヒーを淹れてちびちびやりつつ昼一から延々と読むのだけど,

コーヒーのせいなのか読書のせいなのか(「頭を活発に使うと近くなる」とどこかで読んだ),

読書中にトイレに行く回数がそこそこ多い.

あれは空腹にも増して我慢が体に悪いもので,

読んでいる本の内容なぞはあまり構わずに駆け込んだりするのだけど,

 カップのコーヒーが空になったからもう一杯入れたいけど立つのはちょっと…

 という面倒はコタツでぬくぬく読書中の身にはなかなか大事であって,

 内容が一区切りしてもその「コタツ効果」で,「まだいいか…」となることが多い.

そのついでにコーヒーを入れたり食器を洗ったりするのが効果的だったりする.

何が効果的なのかというと,本の内容が中途半端な状態で違うことをし始めた時は

まだ意識は読書状態にあるわけですね.

それは内容に一区切りついてから「よし,コーヒーを…」と立った時に比べて,

意識が違うところに向いてしまう可能性が低くなるということ.

「違うところ」というのは読書から逸れるというだけでなくて,

違う本に気が移ってしまうことも含まれる.

難しい本を読んでいる場合はこの「気移り」に注意しなくてはいけない.

これをして「嫌々読んでるの?」と言われそうだけども勿論違って,

難しい本でも簡単な本でも面白くなければそもそも読まないのであり,

面白くても難しい本の難しいところは「内容に入り込むまでに体力を要する」ところ.

それは「意識が違う所に飛ぶと戻って来るのが大変」と言い換えることもできる.

だから上で書いた読書戦略なるものは難しい本を読む時にこそ重要となる.


なんか話が逸れてるような気がしてきたが…

そうだ,面倒臭さの効用を書かねばならん.

「何を面倒と思うか」と最初に書いたが,言うのは簡単なので要して言ってしまうと,

面倒やがやらなあかんことをさっさとやりたければその面倒事以外の行動を「面倒」と思やいい,と.

つまり(上の話とつなげるなら),乗ればその面倒事を勝手にしてしまうような流れを作ればいい.

それは,究極の面倒臭がりというのは事の種類・大小に関わらず「目の前の流れを止める」

あるいは「違う流れに乗る」ことを厭うという抽象性を備えているから(今思いついた).


まぁ僕の場合は自分一人でいる時にのみ成り立つ話であって,

他人が絡むとその「他人の流れ」に全て押し流されてしまうわけだけども.

あ…


+*+*+*+*+*+*+*


ちょっと前に書いた「何を書いても自分の話に繋がる」理由が分かった.

「自分にしか書けないことを書こう」と思っているからですね.

楽曲紹介も書評も紹介に留まらず意味不明なことを書いているのもこのせいか.


自分にしか書けないことを書こうと思って自分のことを書くというのは

楽だしその理には適う(=費用対効果が高い)が安直でひねりがない.

ブログの目的というか存在意義のほとんどはその安直さにある気もするが,

「個から普遍を立ち上げる」と本気で思うならそれは甘えにしかならない.

まぁ本気で思ってはいないけど,戒めくらいにはしとこう.

「自分のことばっかぺらぺら喋ってる文章」を読む未来の自分が

今と変わっていればいるほど,その文章にうんざりするだろうから.
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by chee-choff | 2010-12-25 20:04 | 思考 | Comments(0)
夕焼け5 と冠雪大山
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ほんのり雲の夕焼け.12/6

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雲なき夕焼け.本日12/22
夕焼け補正アリ.


+*+*+*+*+*+*

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今期初冠雪は12/8.
秋から冬へスパッと移行した日であった記憶が.
その日以来大山の冠雪は見てないなぁ.
まだ冷え込みが足りないのかしらね.
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by chee-choff | 2010-12-22 17:06 | 社会人 | Comments(0)
自然と習慣
2010/12/22 13:46
『じぶん・この不思議な存在』(鷲田清一)の一節に、
ふと立ち止まる。

>>
 そうだとすると、わたしたちがじぶんたちの「自然」と思っているものも、ほんとうは「人間の自然」という制度にすぎないのかもしれない。というか、表現がつねになにものかの存在を別次元へと変換することである以上、表現には「自然」というものはありえないということなのだろう。(p100-101)
>>

氏はこう書いた上で、パスカルの『パンセ』から
次の一節を引用する。

>>
(…)習慣は第二の自然であって、第一の自然を破壊する。しかし自然とは何なのだろう。なぜ習慣は自然なものでないのだろう。わたしは、習慣が第二の自然であるように、この自然それ自身も、第一の習慣であるにすぎないのではないかということを大いに恐れる。(断章九三)
>>

この複雑な言い回しから、
自然と習慣の包含関係について思いを巡らせてみた。
絵的には数学でいうベン図である。

この断章の前半は「自然⊃習慣」、
後半は「自然⊂習慣」の可能性について語られている。
「習慣は自然に含まれる」と言った時に意味するのは、
自然の中では(例えば食物連鎖や日本の四季といった)
いくつかの状態の反復=習慣が行われていることだろう。
しかし、その自然は(例えば生態系に組み込まれた
ある一種の突然変異により食物連鎖のバランスが
乱された後に訪れるような)長い不安定な時期を経て
ある一定のバランスの状態に落ち着いたものでもあり、
ここからは自然は習慣により形作られたとも言える。
これを「自然は習慣に含まれる」と表現して
よいかどうかは僕の感覚としては微妙であって、
というのもそういう「突然変異の起こる可能性」や
「不安定な時期」も含めてこその、地球誕生以来
今まで連綿と続いてきた自然体系だと思われるからだ。

自然と習慣の包含関係をはっきりしろ、と言われると
(そんなこと現実で言われる可能性はゼロだが)、
どちらかといえば「自然⊃習慣」の方が近いかな、
と思われつつも結局は「両者が複雑に絡み合って
お互いを形成している」と表現したいなと思う。
自然は習慣をつくる(自然という素地、体系の
構成要素がないと習慣の成立する余地はない)し、
習慣は自然をつくる(上述の通り)。
それでいいじゃないか(誰もダメとは言ってないが)。


そういえばワシダ氏著述部分の抜粋に線を引いていた。
>>
表現がつねになにものかの存在を別次元へと変換することである以上、表現には「自然」というものはありえないということなのだろう。
>>
「自然な動き」「自然な表情」…
本来自然ではありえないものに「自然」を形容する
志向(習慣?)は、自然への回帰願望だろうか。
それこそ人類規模の回帰願望。
意識を持ち始めてから止まることを知らない
進歩に邁進する人類の。

この矛盾を抱えた精神が「健全」であるとすれば、
自然への回帰願望が失われた世界(都市?人?)こそ、
雑り気なしの「暴走特急」なのかもしれない。
そして本当の恐さは、その「暴走特急」を
距離をおいて眺める視点が喪失した時に訪れる。
しかし、その「本当の恐さ」を経験する主体は、
原理上その場にはもういない。

なんだか、「生者は死を感得できない」もどかしさを
見ているようだ。
いや、(まだ?)もどかしくはないか。
2010/12/22 14:39

本書を読んでいた間ずっと(実際にor頭の中を)流れていたのは,
neko氏のピアノ演奏による「ケルティックウインド-Caring Dance-」.
毎度お世話になっております.
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by chee-choff | 2010-12-22 16:47 | 思考 | Comments(0)
『一瞬の光』 白石一文
今日は(別件で)有休取って,それからの何かの流れで来し方を振り返っていた.

年末ですね..


2010/12/22 14:48
あらためて読んで「へー昔の自分こんな文章書けたのね」
と思ったのでブログに載せてみる.

2009/09/28 00:39
二日間で読了。
BGMは…(この辺割愛)
わりと正統派だったけれど、BGMの影響で
終始ミステリアスな雰囲気が漂ってしまっていた。
わりとオールマイティというか盛り沢山というか、
上で正統派と書いた通り、今まで読んだ中では
高村薫に一番近いんじゃないかな。
と言って人には通じないだろうけど。


会社のみに生きる人間。
自分のために周りを構わぬ人間。
完全なる無垢な慈悲をもたらす人間。
常に破滅と隣り合わせで生の綱を渡る人間。
知悉で計算高くかつ誠実過ぎる人間。

いろんな人間模様を見せてもらったけれど、
その中で「僕がずっと一緒にいたい人間像」が
少し具体的に浮かび上がったように思う。
一緒にいたくなる人間は…(この辺恥ずかしいので割愛)
僕が気を許せるのは、僕自身に気を許しているのと
同じくらい相手のことを分かっている必要がある。
無理強いを嫌う僕ならではだろう。
 あとはまた継ぐとして…

抜粋したい部分があった。
もちろんネタバレしない部分を選ぶ。
著者は主人公の思考場面で幾つか古典から引用するが、
偶然僕の敬愛するW.ジェイムズの引用があった。
しかも、出典は一度通読した『宗教的経験の諸相』。
それをここでもう一度引く。
>>
なにか大事が起きたとき、人は自問自答して、多くの人は”誰かがことにあたるだろう”と考えるが、
稀には”なぜ私がことにあたらないでおられよう”と考える人がいる
この両者のあいだに、人類の道徳的進化の全過程がある
>>
これはウチダ氏が組織内のフェイタルエラーが明確には責任の所在が問われない問題から発するという話題で、
「そこで進んで解決を引き受ける人間がいないといけない…(細かい文面忘れた)」
と言っているのと同じことだろう。
そしてウチダ氏が橋本治氏のことを言った「公的な人間」が備え持つ資質のことでもある。

ついでに近くにあったもう一つの引用も紹介。
多分実在の古典だと思うが(僕は知らないの意)、
『歴史の研究』(アーノルト・トインビー)より。
>>
生の最中、我々は死の中にいる。誕生の瞬間から常に人間は、いつ死ぬかわからない可能性がある。
そして、この可能性は必然的に遅かれ早かれ既成事実になる。
理想的にはすべての人間が人生の一瞬一瞬を、次の瞬間が最後の瞬間となるかのように生きなければならない
>>
これはその通りなのだろうが、
表だって言われることは少ない。
要するに「いつ死んでもいい」くらい精一杯生きるのが理想ということだが、
それは不謹慎と言われるのだろう。
だが、それが不謹慎であることを常識(常態)としてしまった現代社会において、
引用のような「生の躍動」は確実に失われている。
人々は昔から生命の保全を願い、社会はその生命維持システムを発展させてきた。
通念・常識もそのシステムの一つだ。
太古の昔は儚い願いでしかなかったそれが、科学・工学・法・社会通念の発展により現実化、
そして強化されていくのと引き替えに、私たちは「死と隣り合わせの生の躍動」を、
社会合意としては完全に脳的・身体的に馴染まないものにしてしまった。
今やその躍動は個々の内に宿るものとしてしか機能せず、
抱えて生きていくためにはほとんどの場合、孤独も背負わなければいけないのだ。
それは悪いというものではなく、ウチダ氏も言うように「平和の代償」なのだ。

ふと思ったけど、「ウチダ氏も言うように」ってかなり使い勝手いい言葉だなと。
もちろん彼がルーツというわけではなく、彼は昔の偉人のみなさんの金言を
僕らにわかりやすく翻訳してくれているに過ぎない。それはまぁ関係ないが、
彼は論の次数を上げるのが好きなので彼の言葉はいろんなシチュエーションを包含してしまう。
で道理からいって内に含むものが多ければ多いほど限定は外されて実際語っていることは少なくなる。
結局なにが言いたいって、「ウチダ氏も言うように」ってのは、
そう書いてもウチダ氏の文章に(筆者つまり僕が)ある程度通じていることの
アピールとなる以外に何も意味はないのだ。
でそれが当てつけに見えたりもするんだろうなと思うと少し辟易。
以上。
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by chee-choff | 2010-12-22 16:42 | 読書 | Comments(0)
年功序列と能力主義
この発想は無かった.

一般的な価値観が筋を通しつつ真逆にもなるという好例.

>>
日本の終身雇用システムは,歳を取れば序列が上がるというだけじゃなくて,どんなに偉ぶったやつでも歳がきたら辞めなくてはいけないというかたちで,ある種の流動性が担保されていたと思うんです.能力主義の落とし穴はそこにあると思うんです.「能力がある人」が一度権力の座を占めたら,原理的にはその人を辞めさせるロジックがない.能力主義による人材登用というのは,一歩間違うと「能力のあるとされている人間」による権力と情報の独占体制という非常に風通しの悪い組織を作り出しかねない.
甲野善典・内田樹『身体を通して時代を読む』p.277
>>
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by chee-choff | 2010-12-19 22:07 | ウチダ氏 | Comments(0)
境界人
今月の最初にお引っ越しをした.


と言っても,会社の座席の話.

所属部署はそのままなのだけど,

業務内容の関係で他部署のリーダに教えを乞うことになっての移動.

もともと所属グループの中でも傍系テーマに携わっていたので,

移動してしばらく経った今はむしろ前より落ち着いた感じ.

でも週一のミーティングは元のグループのに出ているし,

最近また所属グループに大量の人員投入があって

その中には今自分がやっている関係業務に昔携わっていた人がいたりで

その人にも色々話を聞いたりとなんだかあっちこっちしている.


なんだか落ち着かないように聞こえるかもしれないが,

自分はやはりこの位置が「肌に合っている」ように思う.

昔から…そりゃもう物心付く小学生の頃から,

特定の(友達)グループだけでいつもつるむようなことをしなかった.

今ならそれにいくらでも理由をつけれようが,

発端としての理由はなんだろうか?


住んでいた家が大阪と京都の境にあって,

(都会にしては)学校まで距離があったことだろうか.

いや,小学校と中学校の学区の偏りで,

中学校に上がる時に同じ小学校から1割しか来なかったことだろうか.

他にも色々な要素が影響しているように思うけれども,

あくまで影響を「受けた」のであって,

自分で選びとっていったものは一つもない気がする.

いや,子供ならそれで当然か.

自覚なしに何でもかんでも吸収するのは全ての子供が持つ能力だ.


でも,もちろん今の自分が思うにはだけれど,

その吸収すること,「環境に適応すること」自体の楽しさを小さい頃に

体で覚えたことが「境界人」のメンタリティの基礎となったのではないだろうか.

環境に適応する人は,変化を楽しむ.

適応しようとし始め,適応し切ったと思うまでは変化し続ける.

適応し切ったと思えば変化は止まり,周囲は安定する.

しかしその周囲の安定が,変化を好む己が精神の不安定と同居している.

そして再び,「適応すべき別の環境」を求める旅に出る.


こう書くと本当に落ち着かない人間だな(笑)

まぁある一面だけを強調して単純に考えているけれど,

これはこれで筋が通っているような気もする.

ただの屁理屈ですかね.


そいや最近読んだ本にあったが,

「屁理屈と理屈の違いはユーモアの有無にある」

らしい.

さてさて,上で書いた話のどこかにユーモアなんてあったかしらね.


+*+*+*+*+*+


最近何を書いても自分の性質の話になってしまう.

すごいね,インドア派の鑑やね.

これで精神が健康って,どれだけ自分内気やねんゆー話やね.


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最初に一行書いた瞬間に書く前に書きたかった話が吹っ飛んでいた.

今日はお引っ越し先の部署の先輩に誘われてご飯を食べに行った.

所属部署の先輩方は破滅的に忙しく今まで一度もそんな機会が無かっただけに,

今日はなんだかとても新鮮だった.

週末の仕事帰りに先輩とご飯.

うわー社会人だわねこれ(しみじみ

うん,これが言いたかった.

おしまい.


+*+*+*+*+*+*


と言っておしまいにすりゃいいのにまた余計なことを書くと,

タイトルを見て「マージナル・マン」が無意識に出てきたあなたは,

きっと大学受験で倫理を選択したに違いない.

違います.
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by chee-choff | 2010-12-18 00:33 | 社会人 | Comments(0)
内田樹著作読書会(オフ会)に参加して,
今日は初銀座でした.

メインイベントはタイトルの通り(サブはありません).

開始時刻30分前のさらに20分前に着いてしまって,

いつもの通り付近を散歩していざ目的のカフェへというところで

実は付近ではなく隣の駅まで歩いていて,

30分到着予定が50分になってしまった.

時間には余裕を持てということですね(キリッ

その探索時の妄想は余白に書くとして…


+*+*+*+*


なんというか,予想していたのと空気が全然違った.

僕は「同じような本を読む人は同じ傾向を持つ」と安易に信じていたフシがあって,

それは別に今回も成立していたと言えばそうで,

自分が狭すぎる捉え方をしていたから予想と違ったのだ.


銀座駅前のカフェには職種も年代も多方面にわたる10人が集まり,

第3回の今回は課題図書もナシで思いつくままにウチダ氏について語り合う,

というものであった.

中には大学院時代の同期が僕と同じ会社にいる方もいて

(mixiの所属欄に「某セミコン系ラボ」とあるのを(ちゃんと翻訳して)見てピンと来たらしい),

改めて世間の狭さを感じたりもしたがそれは余談.


特に何かを得るために意気揚々と参加したわけではなく,

どのような人がウチダ氏の本を読むのか,

その方々はウチダ氏の本をどう解釈しているのか,

という点に興味があり,発話よりは聴き主体で臨んだわけだけれど,

色々と衝撃を受けた.


まず,本当に今回集まった方々が多様であった点.

それは上で書いた年代・職種に限らず,価値観やコミュニケーションの取り方においてもそう.

ただ皆さんに共通して見られたのは,

教養の備わり方が半端でなかったこと.

僕などは日頃ウチダ氏の本から構造(考え方)ばかりを吸い上げてるだけなので

少ない発言でろくすっぽ中身のない話しかできなかったのだけれど,

皆さんは自分の経験とウチダ論をしっかり結び付けて話されていて,

「うわー大人だ」と思ってしまった(これも中身ない発言やねw).


まぁこの一つ目は「びっくり」に留まる話だけれど,

本当に衝撃だったのは最初に書いた「空気の違い」.

ウチダ氏の本・ブログ共に長く読んできただけあって

今日の話の中で理解に苦しむ所もほとんど無かったし,

むしろ自分は好きだが普段共有する機会のないテーマで話せている充実感もあり,

大雑把には自分が突っ込めるような話は沢山あったのだけれど,

僕はそれをほとんどしなかった. というかできなかった.

その原因は日頃インプットに傾き過ぎてスピードが要求される会話での

アウトプットが追いつかなかった点も大きいが,

しかしそれは予想していた事であり驚きはしなかった.

驚いたのは,「自分が発言できる雰囲気ではなかった」こと.

自意識過剰と言えばそれまでだし,普段のコミュニケーションの少なさもあって

久しぶりに要求された過剰な気遣いに戸惑ったのもあるかもしれない.

が(ここからやっと本題),

話が進んでいくうちに気付いた(のは嘘で多分帰りの電車で振り返った時かと思う)のは,

ある種の「切迫感」の有無である.

今日いた方々皆に感じたわけではないが,

発言の多い数人には文字通り「ビシビシ」と感じた.

僕みたいな安穏とした生活をしながら,

「ウチダ先生いいコト言っとるね,この考え方が広まればも少し世間も平和になるのにねー」

と他人事に呟ける軽さとはまるで次元が違う.

これは半分想像が入っているけれど,

ウチダ氏の考え方を「今を生き抜く」ため死活的に有効なツールと捉えたり,

この「筋は通るがいかんせん門外漢的発想」をいかに現場に利用するか真剣に検討している方が,

今日の場におられたのではないかと思う.

というのも,これは僕がウチダ氏の文章を読む中で全く欠けていた視点なのだけれど,

「現場はウチダ論を受け入れる余裕はない」という発言を耳にしたからだ.

 「なんだかウチダ先生はもっともなことを言っているが,現場には逡巡する暇もなければ

  合意形成を丁寧に重ねる余裕もない,二元論の前提を問えなんて言われても

  じっさい二者択一しか選択肢のない現況でどうしろというのか」

といったニュアンスだったかと思う.

そういえば自分はウチダ氏の理論を「自分の価値観形成」以上のものに適用したことがなかったが,

今ある社会を(ちと大袈裟に言えば)変革するために活用するのは非常に困難を伴うと分かった.

それを体で分かっている人の話を聞いて,自分はあの場で絶句してしまったのではないかと思う.

なるほど日々僕がウチダ氏はじめ様々な本を読みながら培っていたのは

所詮は「四畳半的妄想」でしかなかったか,と.


と帰りの電車ではぐもぐもと(?)ネガティブ思考を育んでいたのだけれど,

それは単に体調が悪かった(「吐くものが入っていれば吐いていた」)せい.

(でもそんな体調でも「吐き気」→「掃き気」→「レレレのレ〜」という

 連想を楽しめていた自分は偉い(何が )

何せ今の自分の平均的生活から換算して数年分の副流煙を二次会で吸ってしまったので.

まぁこれは完全に自業自得やし微塵の後悔もないけれど.

 そいえばその帰りの電車の時に思い至ったのだけれど,

 ネガティブな発想してる時にまず自分の体調を疑う機制が形成されれば

 随分楽になるなー,と.

 最近の自分の場合はそれでよく当たるし.

 何せそれ以外にネガティブ発想の出所がないですからねw

 ここだけ考えればとんだ幸せ者やね自分.

で話を戻してじゃあネガティブでなければ何なの,なのだが,

上で書いた驚きもまぁ考えてみれば当たり前であって,

バッサリ言ってしまえば今の自分はある意味恵まれた環境におり,

「切迫感」は不必要だ,ということ.

人間性が見えるような(感知せざるを得ない)コミュニケーションがほとんど無い研究職,

というのがその「ある意味恵まれた環境」の具体的な所かと思う.


自分がここを放り出された時には高確率で必要を迫られる「切迫感」ではあっても,

それを今敢えて培うことは「転職を考える」こととスタンスとして同じであろうし,

まぁ転職を考えながら今の仕事を頑張るのは不義理というより個人の将来設計を

考える上で当然のことではあれど要するに一年目やしまだええやん,

という「甘え」が上記の思考の駆動源となっているのだろう.


今は,「とりあえず」落ち着いていたい.


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このオフ会はもともと内田樹コミュのイベントに書き込まれたのが始まりだが,

今日の話では読書会のコミュを新しく立ち上げて下さるらしい.

(月に1回,日曜日に開催されていく予定だそうです)

一参加者としてそれにはぜひ加わりたいとは思っているが,

今のところしばらくはオフ会には参加しないでおこうと考えている.

それは上で書いた煮え切らない(つか「煮始めで火止めちゃった」)意思もあるし,

実は今日行くまで忘れていたが自分が「大勢で(自由に)話すのが苦手」なこともある.

気楽に話せる許容範囲は3人かな,などと贅沢を言ってもしょうがないけれど,

真面目な話,大人数になるとそれだけ自分の思考も発言も聴き耳も拡散してしまうのだ.

その拡散による集中力阻害は会話という「生のコミュニケーション」の臨場感を凌駕する.

それは今の自分が求めるところではない.

単なる経験不足だろ,と言われれば否定しないが…面倒臭いし(やっぱり「甘え」か).


という複雑な(自分で勝手に複雑にしてるだけだが)文脈もあり,

コミュに書いた方が有益であろう今日の感想もここに書くに留めておこうと思う.

今日の会で自分の名前を覚えてくれていて,

かつ何かしら興味がありmixiのマイページからブログに飛んできた方のために

こうして少しだけ四畳半の襖(ふすま)の隙間を開けておくという,

相変わらずの「来者勿拒、去者勿追」のヘタレっぷりを恥ずかしながら(ホントか?)披瀝しつつ,

筆を置く21:51.


 遅れてしまいましたが,

 参加者の皆さん今日は貴重なお話の数々,どうも有り難うございましたm(_ _)m


+*+*+*+*+*+*+*


銀座にはブ○ザー工業やオー○ックといった就活で目にした企業の社屋が

いくつもあって「へー」と斜め上を見ながら歩いていたのだけど,

ふと高層ビルの屋上近くに据えられた名前(建物名?)で

 「FACIAL CENTURY」

と書いてあるのが見えて「そういう時代になったんだぁ…」と

しばし感慨に耽って,でももう一度よく見たら

 「PACIFIC CENTURY」

だったというオチ.

野暮なので解説ナシで.

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よっ,兄弟!

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銀座四丁目の交差点にて.
街行く人が(たまたま?)みんな撮ってたので撮ってみた.
待ち合わせに良さそう.
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by chee-choff | 2010-12-12 21:51 | ウチダ氏 | Comments(0)