深爪エリマキトカゲ
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支配の欲望疑制<併読リンク3>
後半からはどんどん駄文になっていくので
ヤになったら読むの放り投げるのをオススメします.
最後とか今読み直しても何書いてるか分からん(えー

2010/11/22 22:07
久しぶりに遭遇した。
確か前は…ワシダ先生とウチダ氏。 →Link
この二人は似ているからそう驚かない。
その前は今回と同じ森博嗣と、『「識字」の構造』。 →Link
これは思いがけない出会いで、自分自身びっくりした。
今回はこの後者の出会いに似ている。

>>
 少し考えてみればわかることだが、腹が空いたというのは、肉体的な欲求であり、つまり、食欲は躰による「支配」なのである。休みたい、寝たい、というのも同様だ。躰が頭に要求している。頭ではもっとしたいことがあるのに、躰がいうことをきかない。そういう不自由な状況と考えることができる。
(…)
 これと同様に、空腹や睡魔も、やはり、躰による支配なのだ。(…)躰はこの要求をあたかも「したいこと」のように頭脳に訴え、これが「肉体的欲求」となる。思考によって導かれた「自分がやりたいこと」とは発信源が異なる。違っていることがご理解いただけるであろうか。
(森博嗣『自由をつくる 自在に生きる』p.21-22)

 しかし人間はこれまでいつも、既成の現実として強いられるもの、つまり「せざるをえぬもの」を、自分にとって「したいもの」、というふうに思い替えてきたのであった。(…)本来は強制にすぎないものが、内的な欲望として感受される。こうしたことはちょうど原生動物が一定の外的刺激物を直接的に細胞内にとりこんで栄養分としてしまうのと似ていて、一種の生物学的必然といってもいい。ぼくらの習慣とはこの場合、既に体内で栄養分として同化してしまった外的な刺激物である。ぼくらはある強制を内的な欲求として感じられるようになったとき、既にひとつの異なった生物へと発展している。習慣が定着するために演じられたはずの、いくつもの葛藤を完全に忘却してしまうということが、この同化と発展にとって欠かせない条件なのである。
(小浜逸郎『時の黙示』p.115)
>>

上でいう「支配」と、下でいう「強制」は同じ意味。


こういうリンクを見つけた瞬間を味わうのが
ジャンル問わずの併読(乱読とも言う)の醍醐味である。
(一般的には。勿論僕のチョイスは偏りまくってます)

その一瞬に何が起こるのかというと、
その一つのリンクがつながったと同時に
その両者の持ち合わせている豊富な素材が
他の様々な場所で結合・対置・相互作用を
呈する(実感までは滅多に行かないので少なくとも)
予感に打たれるのである。
リンクというのは本源として「つながっているもの」
ではなく「つなげられたもの」なので、
その予感を明瞭に味わうだけで既にいくつもの
リンクが発見されたも同然なのだ。
それを言葉という形で(再)発見するためには
両者(二冊の本)の続きを読み進めたり、
読了後に咀嚼するための時間を要したりする、
というだけのこと。

そして「〜というだけのこと」
と軽く楽観的に捉える方が、
「時間が経てばどんどん忘れていくではないか」
という不安に駆られるよりも発見率は高くなる。
後者の心配は「いついつまでに仕上げる」といった
締め切りの意識というか、ゴールが見えていないと
邁進できない受験生シンドロームのようなものが
その根に張り巡らされていて、
個人的な感覚を述べれば(そういった意識が仕事の
効率化に寄与する場面はもちろん多々あれども)今回の
場面に対してはあまり幸を奏するとは思えない。
つまり、長い目でみた方がよいということ。

ここまで持ってきて次の抜粋につなげられる。
(実はちょっと前から「あ、これ繋がるな」という
予感があって、そこに向けて少し頑張ってみたのだ)

>>
 これに似たことが、インターネットで大いに普及したブログにも観察される。あれは基本的に自由になんでも書いてよいはずのものだけれど、もちろん実状はそうではない。人目を気にしなければならない。そこが従来の日記とはまったく異なっている。
(…)
 本来、自分の時間は自分のためにある。何をするかは自由なはずだ。
 しかし、ブログを書くことが日常になると、ついブログに書けることを生活の中に探してしまう。人が驚くようなものを探している。写真に撮って人に見せられるものを見つけようとしている。たとえば、1年かけてじっくりと考えるようなもの、10年かけなければ作れないようなもの、そういった大問題や大作ではなく、今日1日で成果が現れるような手近な行為を選択するようになるのだ
 知らず知らず、ブログに書きやすい毎日を過ごすことになる。
 これは、「支配」以外のなにものでもない。人の目を気にし、日々のレポートに追われるあまり、自分の可能性を小さくする危険がある。充分に気をつけた方が良いだろう。
(森博嗣『自由をつくる 自在に生きる』p.52-53)
>>

何に支配されるかは違うが、
同じ構造をしていないだろうか。

ちなみに僕もわりと頻繁にブログを更新しているが、
自分としては「(本来の)ブログに書きにくいものを
ぐるぐる書き散らしている」つもりなので
上記の心配はないと思っている。
まぁそのかわりにReader-Friendlinessの大部分を
犠牲にしているという指摘には首肯するしかないが、
その話をするならばハシモト氏式の「読者に対する
信頼」は何とか含めようとはしているつもりではある。

それは何なのかといえば昔書いたハシモト氏著作の
書評(になってないけど)
にあるのでそこから抜粋する.

僕の印象からすると「ああでもなくこうでもなくシリーズ」は「読み手の解釈の自由さ」を
担保してくれていて,氏の頭の中をこれでもかと開陳するのを見せつけられて普通は
「こんな勝手な解釈の押しつけを迫る本も珍しい」と思うかもしれないが,
その「解釈の押しつけ」はやはり厳然としてそこにはあるが親切にもその土台として
「この解釈を成立させるための素材(当の解釈対象たる社会問題と関連するであろう出来事など)と
ツール(要は氏の「脳みその構成」)」も同時に据え置かれている

その土台に気を配りさえすれば「解釈の押しつけ」という発想には至らない.
書き手の「思考の土台の公開」と読み手の「書き手の土台を理解しようという姿勢」が,
健全な言論空間を構成するのでは,とふと思った.

この「思考の土台の公開」はいつも心掛けているのだけれど,
信頼と言っても「勝手に過度に信頼」されても困るよね.
僕も困る(えー

氏のような文章を書くには氏の文章を自分なりに真似た
出来損ないの駄文を大量に積み重ねる必要があり、
出来損ないとはいえ完全に掃いて捨てるのは
勿体ない精神に照らし合わせて許すまじき行為であり、
未来に開かれたもの(ここでは思考のこと)をただ
経験するだけではなく何かしら形には残したいと
思った時に意外とお手軽なのは、
未来の自分に向けて書くことである。
そこで今の自分から「未来の自分を仮構する」ことまで
できれば大したものなのだけど、
そこまでの計画性は当然なくて堅苦しいのも嫌なので、
先に何かを「未来に放り投げ」て、
その放り投げた何かから未来の自分が何かしら
(調子乗ると「何か」を使いまくるのはいかんねw)
受け取ることができるように今から変わっていこう、
という方針である。
「今と変わらなければ未来の自分が受け取れるものが
(今理解しているように)あるのでは?」という疑問が
すぐに浮かんでくるが、今取り上げている「思考」が
「単なるデータの蓄積」でないことに注意したい。
その思考内容を現時点で自分が全て理解してはいない、
という大前提があり、というよりはそんな驕りには
何のcreativityも担保されず、
ただ現状に固着させる満足を備給するのみである。

…疲れたのでこの辺で。
2010/11/22 23:19
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by chee-choff | 2010-11-29 19:21 | 併読リンク | Comments(0)
思考実践のバイブル
この本はヤバい.

オススメできる人がとても限定されるけれど

(そしてそんな人今の自分の周りにはいないけれど),

ぜひ.恐ろしい本だこれは.


 『時の黙示』小浜逸郎

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タイトルには「思考実践のバイブル」と書いたが,

これは「実践的思考のバイブル」とは違う.

というかまるで逆向き.

何せ内容が破滅的に内向きだから,実生活に全く役に立たない.

むしろ平穏な生活を送っていれば支障を来すような思考の螺旋状フリーフォール.

 僕が大学4回のはじめに読んでいたら,本気にしちゃってドツボに嵌っていたと思う.
 そして就職する気が確実に失せていたと思う.そんな本.
 今の自分だと(過去の精神状態上)共感できる部分が多々ありつつも
 フレキシブルな価値観をなんとか形成できたと思っているので
 「気楽に鬱々」(小気味良い表現の矛盾だ)しながら読める…ことになっている.

 なんというか,こんな本が書きたかった.
 ここで「書きたかった」と言うのは,本書を読んでいなければ
 その志向性に「執筆動機」と「環境」が整えばこんな本を書こうと思ったのかもしれないが,
 もう「その手の本」の存在を知ってしまったので似たようなものをつくるのは
 単に面倒だからもういいや,という意味.
 書くなら乗り越えないと.
 まぁ現実,「環境」が整うなんて非常(非日常,か?)事態は到底来ないですが.

実はまだ半分しか読んでいないのだけれど,

 500ページ近くあって,一日20ページを2時間近くかけてちまちま読んでいる.
 読み始めは9月くらいだったか…最近頻度が増してきたので年内には読了できそう.

なんというか「うわ,すげっ!」という表現にもう何度も遭遇していて,

とりあえず何かしら書き留めておかねばとの思いがつのったので書いた.

ここでは本書の山場とも思われる所での一部分を抜粋.

>>
 (…)ぼくの生存の持続とは,おそらく,(…)世界に対するぼくの懐疑の運動を,<端緒>から<必然>へと練りあげること,言いかえれば,自己認識の暗い谷間へと,徐々に,徐々に降りてゆくこと,これをおいてぼくの持続を支えるものはありえない.(…)<過去>とは実は<現在>のひとつの比喩であったのだ.過去からの呼び声を発しさせているものはぼくの<現在>であったのだ.そのかぎりにおいて,ぼくはまずぼくの<過去>を問題とする──すべてはそれからだ.
(p.235)
>>

これ(下線部)は正に今自分がやろうとしている(やりたい)ことそのもの.

僕の中では「懐疑」に暗さを感じるので「差異」や「違和感」と言い換えたいが,

これを言い当てられて「おお…」と絶句してしまった.

もちろんこれはハシモト氏,ウチダ氏に胚胎する「個を普遍へ立ち上げる」志向性である.
(というかここを言ってしまうと僕は単なる「後追い」なのだけれども..)


読み終えたらまた,「決して書評たりえぬ書評」を長期連載で書きたい.

「暗さ」に取り込まれる恐れを感じたら逃げるつもりではいるが…

形式は以前のグレイリング氏著作の時のを想定中.


さて,気楽とは言ったけれど,耐えられるかしらね..



ちなみに本書読中(脳内)BGMはNujabesの「Next View」.
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by chee-choff | 2010-11-27 00:00 | 読書 | Comments(0)
いいひと。
普段マンガの話は滅多に書かないけれど,もちろん読んでます.

部屋にはほとんど置いてないので(持ってると際限なく読み返してしまうから),

ブックオフに行った時(月2くらい)にガンガン読んでます.

読む本のチョイスを間違えて自己嫌悪に陥ることがたまにありますが…

(どんな本でも読み始めると止まらないので)



いいひと。

2010/08/29 00:09
今日のブックオフで久しぶりに見つけた。
(高橋しん『いいひと。』)
一回行くごとに一巻読むと5月頃に決めたはずだったが、
6月のいつかに見つからなくなって、
それからは目についたマンガを読みあさっていたのだ。
それがやりすぎだなぁとの思いは週末ごとにつのり、
今日はそのひとつの頂点に達した。
(というのも『いいひと。』を見つけたからなのだが)
棚の場所と、何巻まで読んだか(今日は7巻)を
しっかり覚えておこう。
…新品全巻を大人買いするのもアリだとは想う。
あれはきっと何度も読むだろう。

主人公の、ある一面に憧れを持つ。
それは、「彼といるとなぜか話したくなる」雰囲気を
持ち合わせていること。
バカみたいにマジメでプラス思考で相手のうわべの
意図など全く解さない鈍感の朴念仁ではあるが、
ツボはいつもしっかり押さえている。
それはいつも相手にハッと気付かせるもの。
本当は自分(相手)もそう思っていたが言葉にされるまで
気付いていなかったもの。
彼はいつもそういう「快い感じの本質」を大事にして、
人と接し、本気で振る舞う。


いくら身体性を培いつつある自分とはいえ、
その全てを真似ることはとうてい出来ないし、
だいいちそれはやりすぎである。
見習うべきは、
「相手の警戒心を解く雰囲気を醸し出す」佇まい。

独身である間は、全ての人に対してそう振る舞っても、
悪くはあるまい。
結婚の予定が決まった人の「結婚までの最後の独身期を
どう楽しむか」といった話をどこかで読んだが、
こういう楽しみ方もいいかもしれない。
二人でない間は、
一人でも楽しめばいいし、
できることならみんなで楽しめばいい。

いつもその可能性を捨てないこと。
決して一方向に凝り固まらないこと。
そしてそれがいくらいいことであっても、
人に押しつけないこと。
流れがあればそれに乗り、あるいは少し離れて眺め、
自分で流れを作るならば他人にはその流れに乗るや否やの
選択権を与え、かつ自分にもそれを与え、
責任を持つべき所ではきちんと持つ。

死を意識できていると、
それらが少し楽にできるような気がする。
絶対に譲れないものをつくるとしたら、
それは自分の命なのかもしれないが、
「その命を守る手段は決して一つではない」
ことも絶対に譲れないのであり、
それは「絶対に譲れないものを一つに固定しない」
ことでもある。

…ここで生物の本質に逃げるのはよそうか。
別の言い方ができたらいいなぁ。
2010/08/29 00:29
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by chee-choff | 2010-11-22 00:24 | 思考 | Comments(0)
幻想の共有
幻想の共有

2010/11/21 16:35
『これも男の生きる道』(橋本治)を読了。

今回はウチダ氏の師としてのハシモト氏に注目したい。
すなわち、「ウチダ氏の言論のルーツ」(と勝手に
思われたもの)をいくつか見つけたのでここで紹介。

>>
「戦い」というのにはいろいろな種類があって、その「戦い」は時として、偶然ひょんなことからやってくる。だからこそ、「戦うのなら"敵"というものの正確な把握をしておけ、どういう状態を"勝ち"とするのかという"決着のつけ方"を知っておけ」と言うんですけどね。
(…)
 相変わらず、ふざけてるんだか真面目なんだかわからない私ですが、でも、今までのところは全部本当のところなんだからしょうがない。現実というのは、真面目と不真面目が入り乱れているもので、だからこそそれを相手にする人間は手を焼く。現実というのは、ふざけてるんだか真面目なんだかわからないものなんですから、「ふーん、そうか」と言ってしまうしかないーーそのことによって、「最も重要な決戦」が始まる、のかもしれない。
(p114-115)
>>

ここを読んで、ウチダ氏の
 口癖は、「そういうことも、あるかもしれない」
という言葉を連想した。
どんな突飛な話でも、とりあえず相手の言い分に
耳を傾けてみる。
話者の独自の合理性、幻想を見定める。
相手の話をまともに聞かずにただ退ける人には、
この「見定める姿勢」が決定的に欠如している。
そうならないためには、(まずは)相手を
「まともな話し手」として信頼しなければならない。

この価値観は次の抜粋とも通じている。

>>
(…)重要なのは、「相手も人間なら、こっちも人間だ」ということ。「会社」だろうと、「家庭」だろうと、あるいはまた「社会」だろうと、そういうものはみんな、「人間の作っている組織」なんです。「人間が作っているんだから、どっかにとっかかりはある」ーーまずはそれを考えてみることです。「会社は会社、家庭は家庭」と、それを作っている「人間」のことを頭から排除して、「なんだか自分とは違うもの」とだけ考えてしまうから、そこに入っていくことができなくて、そこから逃避してしまうんです
(p221)
>>

他者の幻想を見定めるというのは、
ここでいう「そこに入っていく」ということ。
自分と違うものを恐れる心を持っていては
「そこに入る」ことができない。
自分と違うものには、一度「入って」みないと
同じ土俵に立てず、理解のとっかかりすら掴めず、
目を背けて、避けて通るしかない。
そんな姿勢は、世界が広まれば広まるほど、
自分の肩身を狭くさせる。
 世界との通信を容易にしたインターネットが
 私的空間の拡大、同好の寄せ集めにしか
 利用できていない人は皆その肩身の狭さを感じている。
 ツールはあっても適切な利用方法が分からない。
 「本質はメディアではなくコンテンツ」とは
 まさにこのことを言っているのだろう。
そのような姿勢を改める一つの契機(ヒント)についても
抜粋しておく。

>>
 相手がどういう人間かわからなければ、つきあえない。つきあえないのは、相手がどういう人間かを、「知らないから」です。知らないのなら、知る必要がある。その時に必要なのは、「相手は、自分とは違う種類の人間だ」と思うことです。「違うからわからない」ーーこのことが一番重要です
(…)
 必要なのは、その相手が「自分の知っているような人間」か「自分がまだ知らないタイプの人間」かの区別だけです。「知ってる人間」なら、なんとかなるでしょう。「自分がまだ知らないタイプの人間」なら、「知らないから、つきあい方もわからない」と思えばいいんです。「そうか、こういう人とのつきあい方は知らないんだ」と思えば、少しは落ち着きだって取り戻せます。
(…)
 私が一貫して言っていることは、「"できない"を認めろ」です。「"できない"を認めれば、"できる"ようになる」ーーこれだけです。「"できない"を認めて、さっさと"できる"ようになれ」ではありません。「"できない"を認めれば、いつかは"できる"ようになるんだから、落ち着きなさい」と言うだけです。
(p216-217)
>>

ここからは自分の話になるので読みたい方だけどうぞ.

More...
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by chee-choff | 2010-11-22 00:12 | ハシモト氏 | Comments(0)
夕焼け4
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by chee-choff | 2010-11-22 00:05 | 社会人 | Comments(0)
食生活2
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出来映えのかなり良かったチャーハン.
米のパラパラ具合がいつもより外食並で,
意図したわけでもなく具の大きさも米と同じくらい.
で朝食で使ってた焼き豚も入れたものだから
いつもの肉なしチャーハンより格段に美味しくなった☆
味付けは塩胡椒醤油と,豆豉醤(トウチジャン).

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なんかグロいですけど,「麻婆茄子豆腐丼」.
学生時代から麻婆豆腐の素には「マボちゃん」を愛用していて(何せ安い),
それ用に買った豆腐の期限が切れそうだったのと,
たまたま食べたくて買った茄子が冷蔵庫で並んでいるのを見て,
「麻婆豆腐と麻婆茄子があるんなら,合わせてもいけるんでは?」
という単純な発想に基づき調理.
普通に美味しかった.
茄子と豆腐を同時に口にする違和感が少しあったけど(食感似てるのよね),
それはきっと最初だけ.

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これは今日の夕飯.
いつもの「炒飯用好きな野菜トリオ」(=アスパラ,マイタケ,ピーマン)に加えて,
「冬やしぬくぬくしたい」と思っただけで何も考えずに手に取った生姜.
やっぱり炒飯に入ってしまうんですねこれが(笑)
生姜については特に手の込んだことはしてなくて,
炒める前に醤油でシめた(浸けといた,の意でよかったっけ?)だけ.
まぁまぁ美味しくて他の野菜と分裂した感じもなかったのだけど,
「1+1=2」でしたわねこれは.
もっとこう,ゲシュタルトにいきたいよね(?).

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相変わらずの朝食.
何も変哲がないと思いきや,微妙に変化があったりする.
というのは,サラダにワカメさんが追加されているんですね.
乾燥ワカメを買っておいて,朝食を用意してる間に水で戻しておけば
草の種類が増えてイイ! ってことで採用しました.
最初はこいつだけ磯々(いそいそ)しててサラダの中で浮いてる感じがしたけど,
もう慣れた.
ただまだ朝食の作り始めにワカメ戻すの忘れてて入れずに諦めることがしばしば.
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by chee-choff | 2010-11-21 23:54 | 社会人 | Comments(0)
白くてコロっと
昨日部署の先輩の奢りで焼き肉食べに行った.

なんか飛ばせそうなスポーツカーで寮まで来てくれて,

わー社会人ってすげーなと(他人事).

で我がホーム厚木市にはB級グルメで有名な「シロコロホルモン」というものがあって,

半年以上も住みながら何度も目にしながら口にしたことがなかったのだけど,

それを昨日初めて賞味した.

多分何かの肉で何かの臓器を包んだものなのだけど,

根気よくジュージューと焼き続けると表面はいい色に焦げるし

中では肉汁が溢れてわはーってなってるしで,

そして食感はかなり弾力ある歯ごたえでなかなかグー.

昨日食べた店はそんな油がしつこい方ではなかったけど,

普通に露店で売ってるシロコロだったら5個でもういいかなってなりそう.

なかなか美味しかったデス☆

まぁ多くてひと月に一度でいいかな…


そんな昨日だったので今日は胃がもたれて朝昼なし.

腹は減っているが食欲がない状態なのだと思うが,

こんな時のブラックが「臓腑に染み渡る」.

あーええわぁ☆


…もっと食を楽しめよって,自分でも思うんやけどね.
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by chee-choff | 2010-11-20 16:43 | 社会人 | Comments(0)
フカミーニ・ハマル氏
っていそうだよね.

ハマル・オイヤームとか.

+*+*+*+*+*+*+*+*+*


と脈絡なく(唐突に脈絡があっても困るが)言う自分の頭はわりと正常であって,

ただ単に思考が「マザー2」モードになっているだけ.


韻を意識して言葉と遊んでいて,

何度かマザー2の登場物と出くわしたことがあった.

それは多分自分は実家に帰るとたまに昔やってたスーファミやら

プレステやらのソフトの攻略本を読みふけっていたせいでもあるのだけど,

マザー2(監修はかのコピーライタ糸井重里氏だ)の言葉感覚が

(ゲームしてた頃は全く意識していなかったが)今の自分には

連想が膨らむという意味でどツボ(嵌るドツボではない)なのだと思う.



例えば,モノモッチ・モノトリー氏.

あれは「物持ち」で,「物取り」か「物盗り」かであるが(恐らく後者),

「モノポリー(独占)」ともかけている.


例えば,マル・デ・タコ.

ロープレでは敵には系統種(「〜類」というやつ)が決まってあって,

ドラクエならスライム類(→スライムベス,ホイミスライム,メタルスライム…)とかそゆの.
 (ベスって何?)

マザー2はその辺りもオトボケで敵としての「タコ類」は他で類を見ないのだがそれはさておき,

他にカナリ・タコやタコ・ソ・ノモノなどがいるのだけれど,

マル・デ・タコの「デ」はリオ・デ・ジャネイロと同じスペイン語だ.


例えば,どせいさん.

あの解読不能な(ようで若干読める)「どせい語」を発する,

つぶらな瞳と猫髭とマリオ鼻と愛くるしい赤リボンの出で立ちの彼らは

見る人を癒さずにはおれないステキキャラクターなのだけど,

(小学校か中学校かの時,何も見ずに描けるキャラクターはカービィとどせいさんだけだった)

彼らは皆がどせいさんなのであって,

つまりは「どうせい(同姓)さん」なのだ.


+*+*+*+*+*+*


最後はちょっと無理しちゃったね.

そしてマニアックすぎて下の世代には意味不明な話やね.

あああでもなつかしーー

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どせいさんとテガ・キ・タコ.
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by chee-choff | 2010-11-16 21:56 | 思考 | Comments(0)
『街場の現代思想』内田樹
ウチダ本をずっと読んできた人からすれば

「こんなこと前も言ってたなー」という話に数多く出会いはするのだけれど,

それはウチダ本の常であって(何せ意図的だから),

それが単なる同じ話の繰り返しに終わるのではなく,

同じ「ような」話ではあるがその時の(文章の)勢いや周りの内容との

相乗効果がもたらすものによって「同じであるが違う」感覚を味わうことができ,

それはその以前に読んでいた同じ「ような」話を身体に落とし込んでいればいるほど

(=自分の言葉で再構築まではせずとも,例えば目の前で運動する相手と同じ動きを

することはないが集中して見つめることでミラーニューロンを活性化させるような感覚)

はっきりと感得されるものである.


そして前にも同じような話を読んだ記憶が残っていて,

さらに「あの時は自分はこの辺りに線を引いた」という記憶も残っていれば,

「ああ,まだこの部分は話としては分かるけれど自分の内側に落とし込めていないから

もう一度線を引いておこう」とか,「あの時に納得した部分を今ここで読み直すことで,

あの時は理解できなかったこの(その近くにある)部分の重要性がなんだか

予感されるようになったので(=後々理解できることだろう),今回はここに線を引こう」とか,

進んでいるのか後退しているのか分からないが話を複雑にしていることだけは確かな

「脳のドライブ感」を楽しむことができる.


この「ドライブ中」においては,話の論理やらトピックの離合集散(いや主に結合か)だけでなく,

過去と現在と未来もごっちゃになるのだが,それは例えば

「未来の自分を想定(仮構)したうえでその未来の自分から現在の思考(行動)の価値判断を行う」

という文言を過去に一度目にし(=あるウチダ氏著作を読み),そして今本書でデジャヴに遭遇したとして

(「以前と全く同じ場面に遭遇したように思われる」という意味のデジャヴ(主観)には

その以前と現在の判断主体の違いはもちろん含まれていない),この括弧書きも意識していたとすれば

「過去に想像した,想定した未来の自分から見た今の自分」と

「今想像している,想定した未来の自分から見た今の自分」

との間に微妙な差異を発見するというような「ごっちゃ」である.


なんのごっちゃ(爆)



相変わらず傍迷惑な支離滅裂文章は相変わらず突発的に放置して,

今回は自分の気に入った箇所を一つだけ抜粋しておく.

土日に嬉々として引きこもる生活はそれはそれで充実していて,

でもやはり人に流されやすい自分は会社で同期と楽しく喋っていると

「ちょっと私生活を見直した方がいいのでは…」と疑念に駆られたりするのだけれど,

そんな疑念を吹っ飛ばす(いいのかw)ようなありがたいお言葉.

もちろん吹っ飛んでいく今は引きこもっているんですがね.

>>
 哲学的営為とか芸術的創造というのは,単純な話,肘掛け椅子にすわってじっと沈思黙考しても,寝食を忘れてアトリエにこもっていても,誰からも文句をいわれないし飢え死にもしない,というごくごく散文的な条件を必要とするものである.
 営業マンをやりながら哲学論争を展開するとか,トラック運転手をしながら芸術運動を組織するというようなことが不可能なのは,適性の問題もあるが,主として「時間がない」からである.
 (…)
 扶養家族がなく,定職への固着がなく,ある程度の生活原資が確保されていると人間は必ず「文化的」になる
「衣食足りて礼節を知る」というが,「時間と小金」があると人間は,学問とか芸術とか冒険とかいうものに惹きつけられてゆくものなのである.
文化って要するに暇つぶしみたいなものですよね」というE田くんのことばはみごとに正鵠を射ている.
 そうなのだよ.
 まず「暇」が必要なのだ.
 しかるのちにはじめて,その暇を「つぶす」ために,さまざまな工夫を人間は考え始めるのだ.
(p.61-63)
>>

これは「負け犬」(『負け犬の遠吠え』(酒井順子)にある「三十代,未婚,子ナシ」のこと)が

日本文化の未来を担うのだ,という何とも刺激的な論考の一部分であるが,

これに元気づけられる自分には「負け犬適性」があるのかもしれない.

まぁそれはどうでもいいすね.

まだ二十代やし〜♪

あ,でも結婚したいですよ(え
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by chee-choff | 2010-11-13 00:37 | ウチダ氏 | Comments(0)
(v15)tulala(DATEKEN)
ボーカロイド作曲者紹介.

15回目の今回はDATEKENさん.

引き出しの多さにびっくりです.

そしてそれぞれの曲が独自の味わい.

同じ人が作ったとは思えない.


その多彩な曲たちの中で,

今回は「やさしさ成分多め」をチョイス.

ぐっと,じーんと,ほろりと.

【鏡音リン】 trick art ! 【オリジナル曲】
軽快な「街角ジャズ」.
元気が出ます☆

【鏡音リン】 時の侭に 【オリジナル曲】
沖縄民謡調.
ビブラートがいい.

【鏡音リン】 *tear* 【オリジナル曲】
DATEKENさんいわく「どろっぷぽっぷ」.
つーすてっぷ☆
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by chee-choff | 2010-11-11 23:08 | V概論 | Comments(0)