深爪エリマキトカゲ
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自分が自分でないような
とある違和を違和のまま傍らに留めておくと,

その違和と対置されていたはずの「もの」が違和となっていく.

その「もの」とは「意識しなければ意識されていなかったもの」.

その遷移過程では違和の数は増えている.


ある違和に気を取られていると,

別の違和に気付くことができないことはある.

しかし,違和と共に在ることに慣れていけば,

同時に認識できる違和の数は増えていく.


それは「一定の器に入れるものが増えれば個々のものは小さくなる」ではなく,

「ものを入れる個数が増えるために被収納物たる器もどんどん大きくなる」.

その限界は自分以外には到底分かるものでないし,自分ですら実感も掴めない.

つまりは「やりたい放題」だと(またこれか).



例えば,「鏡に映っている自分が自分を見ていない」という違和.

この像を見ているとだんだん「誰だこいつは?」となってくるのだが,

ふと鏡の自分が自分を見ていても「誰だこいつは?」となってしまう.

もちろん現象的な話をしているのではなく,(仄かなる)実感を前面に押し出しての表現.


さて,根本が実感として疑えるようになると,

その末端たる表象のどれほどに違和を持てるだろうか.

これが楽しめれば,あなたの違和感もステキな「いーわ感」に.

お粗末.


+*+*+*+*+*+*+*+*+*


「四肢で鹿はね疲労も能無し」

お,意味通じるぞこれ.
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by chee-choff | 2010-09-30 00:22 | 思考 | Comments(0)
敢えて考える4
◆2010/09/27 23:04
2010/01/21 20:22
「今しかできないことをする」の中には、
「今しか考えられないことについて考える」が含まれる。
さらに言えばそれは、
「今でしかこう考えさせる状況は来ないだろう」
という自覚を持って考えることでもある。
これも一つの「攻めの思考」。
>「現象の一回性」あるいは「再現不可能性」に
 きちんと向き合うということ。
 これが今では意識しないとできないというのは、
 メディア(=記憶媒体)の発達という世の事情もある。
 もうひとつ、「思考は行動に含まれない」
 と言われて割と誰もが首肯するのではないか。
 語の意味をきちんと考えればそんなはずはないが、
 「何かを生み出してこそ」「何かを得てこそ」
 あるいは「金を使ってこそ」行動した意味がある、
 つまりそれらを行動と呼ぼう、と世間では
 思われている節がある(と僕が勝手に思っている)。
 (もっと言えば、そんな考え方ができるのは
 自分のやりたいことが今の自分に全て分かっていて、
 それを自分の想像する通りに実行することが
 幸せの体現であり、本人の意図とは無関係に
 その「予定調和」の前後では何ら変化のない
 「無時間モデル」を思考の枠組みにしているからだ) 
 その退廃あるいは単純化の元凶は
 資本主義の跋扈にあると言挙げするのは簡単。
 が、その恩恵に浴する身として全否定はできない。
 むしろその己が態度こそ不遜と思われても
 仕方がないという諦念を持ちつつも、
 「それでいい」という身体の声に従う他はない。
 「でも一人じゃイヤ」という声も
 無視するワケにはいかないのだが…
 複雑な世の中では「身体の理」が真っ直ぐ通らないか。

で、本題。
…なんだっけ。
上の言い換えを楽しむうちに忘れてしまった(笑)
>この時はたぶん、書いてる間に言い換えが
 ぽこぽこどんどん湧き出してきたのだと思う。
 これはホントに楽しい。
 出てきたもの価値のある(他人が読むに値する)ものか
 どうかは全く別問題だが。
 後から読み直すと「しらける」ことが「まだ」多い。
 これは鍛錬を積み重ねることで改善できると信じる。

…あ、思い出した。
「この修論追い込みの時期にマジメに本が読める神経」
について。
まわりの状況を考えれば、この時期は修論執筆に
追われていなければ落ち着いていられないのは当然。
が、その「まわり」とはもはや隔絶されている現況。
>=研究室の学生部屋から離れた助教と二人だけの
 「閉鎖空間」で、助教は全くやる気がないという現況。

マジメに研究やる環境もないし、モチベーションも
見る影もない。
それでも緊張感だけは(これは余計な「空気を読み」
取っているのだろう)つきまとう。
>この辺話が矛盾してるような気がしないでもない。
この勝手に増幅するポテンシャルをどこに解放すべきか。
で、僕はそれを読書に解放しているというわけだ。
いつもの読書と読む本を変えれば、読書に
「いつもと違う雰囲気」をもたらすことは可能。
たまたま今回(次回はもう期待したくないが)は
橋本治の論考がジャストフィットしているのだ。
>この時はあまり想像していなかったようだが、
 今では「橋本治本」が座右の書になっている。
 もしやこの時に思考体系に大きな変化があったのかも。
 思い返せば「一皮むける」のはいつも、イケイケで
 充実した行動の日々を送れていた時期よりも、
 「苦しみのまっただ中」をどう耐え抜くかの
 七転八倒の日々を送っていた時期なのだ。

これは…まぁ主観的だれど「昇華」だよね。
そう信じたい。
2010/01/21 20:31
◆2010/09/27 23:28
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by chee-choff | 2010-09-27 23:37 | ink now | Comments(0)
ストックとフロー(表)
と言っても,経済の話ではない.

ウチダ氏の「なるほど写真論」を紹介.

>>
写真というのは運動するものを瞬間的に切り取って固定する「ストック趨向性」の非常に強い表象手段である。
若い人たちが使い捨てカメラや携帯でばしゃばしゃと写真を撮りたがるのは、変化するもの、移ろいゆくものを固定化し、分類し、タグをつけ、カタログ化し、「ストックしたい」からである。
フーコーは「ストック趨向性」のことを端的に「権力」と名づけた。
若く非力な人間は、当然のことながら、この世でもっとも権力的な存在である。(「権力的」であるだけで、実際の「権力」は持っていないので、その事実が前景化しないだけのはなしである)
だから、若い人が好むところの写真は権力的な表象手段である


私は他人に「タグをつけられる」のが嫌いである。
写真に撮られると、私のある種の「本質」がありありと露出する。たしかに、それは私である。でも、私は「それだけ」じゃない。
ある一点において把持されるということ、ある側面だけで眺められ、印象を固定化されるということに私は言いしれぬ不快を感じるのである

にもかかわらず、私が写真を撮られても「平気」という場合がある。(斎藤さんのウェブサイトに掲載してあるけれど)、それは「他の人といっしょに撮されているとき」である。(ここでは甲野先生と名越先生とのツーショットが掲載されている)
どうして、顔写真を撮られることのキライなウチダが、ツーショットはOKかというと、甲野先生といるときの私は「甲野先生といるときのウチダの顔」をしているからである。名越先生といるときの私は「名越先生といるときのウチダの顔」をしているからである。
ひとといるときの、私の顔は「誰かといる」顔をしている。
個別その人とだけコミュニケーションしようとしているので、顔のどこかに「開かれ」が確保されている。そこには「この人はこの人といっしょにいるときだけ、こういう顔をするけれど、ふだんは違う顔を持っている」という潜在的なメッセージが帯同している

それが「ストックされる」不快感を払拭してくれるのである。
誰かといっしょのときは、一人で撮るときよりも、表情が「あいまい」になって、どこか焦点のはっきりしない「とらえどころのない顔」になっている。
そして、その「あいまい」さ「とらえどころのなさ」は、相手によって微妙に違っている。
私はそういう自分の顔写真はキライではない。
そこには「ストックされること」に抗う「フロー趨向性」が現れている。

これまで撮られた写真でわりと好きなのは、朝日のカメラマンが撮った合気道のときのスナップである。
武道的な動きをしているとき、人間は「一点において把持される」というところからもっとも遠いところにいる(当たり前だけれど「とらえられる」ということは、武道的には「死ぬ」ことを意味している)
その写真は私の動きの中の「とらえどころのなさ」を探しだして、そこに焦点を合わせて、それを図像化していた。
そういう写真なら撮られてもいいんだけどね。
>>

五月の鯉の吹きなが思想家の冒険 2003年7月2日
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by chee-choff | 2010-09-21 00:56 | ウチダ氏 | Comments(0)
竿が無い ~ asian taste life-space ~
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なんかたのしい☆

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久しぶりにブックオフ行ったら大収穫.

もちろん全部105円.

・マキメさん第二作はもう古くなってしまったのね.
・Fは二冊目.一冊目が出向中なので.返ってきたらまた別の所に…
・キリノ本がたまってきたので読まねば.好きだけど基本暗いんよね…

もう「いい週末」でいいや.

※ちなみに厚木市であった「B級グルメグランプリ」は行ってません.
 同期が行ってきておこぼれに「ホタテ入り焼きそば」の麺だけ食べただけ.
 40万人はやばいね.人口密度3倍て..地盤沈下するよ(嘘
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by chee-choff | 2010-09-20 21:05 | 社会人 | Comments(0)
平行多自己トークスタイル
平行多自己トークスタイル

2010/07/15 22:44
『工学部・水柿助教授の解脱』を読了。
自由奔放さが満ち溢れていて、
その「自由奔放さの表現」の選択までもが
自由奔放で確かに放置プレイ感はあった。
まぁ取り出せる箇所はあとで取り出すとして、
読了ぎわに感じたことをまず書こう。

タイトルの話。
自分が何人もいて会話をする、という経験は
僕自身のなかではわりと日常になっているが、
それを文章で表す際には、
文章を書く自分を観察主体として、
別の数人の自分の会話を客観化して書いている。
それはもはや会話ではなく思考の展開であって、
思考内容の階層は上下あちこち移るのだけれど
想定している思考主体にブレはない。
まぁ今まで書いてきたのが随筆だから
それは当然なのかもしれないが、
思考段階での展開、階層の飛躍を
それぞれ個性を持たせた(別に持たせなくてもいいが)
複数の自分の会話で表現してみるとおもしろそうだ、
と本書の最後のほうを読んでいて思った。
本書ではかぎかっこを使わずに複数の自分の発言を
地の文でつなげているのだが、
そこになにか魅力を感じた。
というわけでやってみようか。

そういえば君は『工学部・水柿助教授』シリーズを読んで小説が書きたくなったと言っていたね。そうなのだ、まずもってその事実はもはや覆しようはない。と言っても今僕の周りにはサンダル履いてる人しかいないから「靴替え」しようがないわけではないし、別に誰からも靴を借りていないから「靴返し」ようがないわけでもない。そんなことは敢えて言わなくとも分かっている、ということも分かっているだろうから恐らく言いたいだけなのだろう。うむ、分かってるなら敢えて言わずともよろしい。いや、それは分かっていることを口に出しても繰り返しになるだけで何も発言における伝達は行われない、という点では確かに正しいかもしれないが、その一面だけを見て省エネをはかるなどとはいかにも浅薄なり。なんだその言葉遣いは。「なり」だけいかにも古文風に言っているが最後だけではないか。語彙の貧困をさらけ出すような中途半端な格好付けは自重するのが賢明であろう。ふむ、その発言も随分と消極的だな。…

わりと続けて書けることに気づいてしまった。
水柿シリーズを読んできたからこそだとは思う。
ある一つのきっかけをトピックに語り始めれば、
そのトピックの話を拡げるもよし深めるもよし、
拡げる過程の文章表現にツッコミを入れるもよし、
その過程から新たに生まれた別路線を突き進むもよし、
本当に細かい表現につっこむもよし
今まで語られた内容の構造をとらえてみたり
総括してみたりその総括がまた新たなトピックの
ほんの細微として芽吹かせるもよし、
もうホントにやりたい放題なのだ、これは。

人に読ませるためには森先生も言っていた「校正」
なるものが必要になってくるが、
自分で書くだけならば何の修正もいらない。
もしこれをブログに載せるとなれば勿論修正はする。
他人と何かを共有する(したい)場合は、
その他人がアプローチ可能となるような
「きっかけ」あるいは「撒き餌」作りに励まねばならない。
これは自己のねじ曲げなどではなく、当然のことわり。
他人と絡み合うのはこのように面倒なことであり、
面倒だからひたすらこもって本を読むだけとはいっても
このような書評を書くところ単に読書による
思考の整理を促すだけでなくいずれはもし機会があれば
誰か人様に読んでもらいたい願望無しと言えば嘘になる。
そしてその「他人と触れ合い」を求める兆候と
受け取られそうなものを、「だから人付き合いは
しっかりしておかなければならない」とまで
つなげてしまうとそれは拡大解釈になるのであり、
「人付き合いはその程度でいい」という「丁度良さ」を
表している可能性にも触れねばなるまい。

こういう流れになってくるといつも同じ結論に
導かれてしまうのだけれど今回も臆さず言えば、
結局のところ「行動・思考主体の裁量」に任される
部分が非常に大きい。
他人を頼ろうとする意思もそこに含まれるからだ。
その「裁量」そのものをコントロールすることに
疚しさを感じる必要ももはや全くないわけで
(もはや、と言うのは昔はそう感じていた時期があって
しかもそれが健全であったと言いたい、詳しくは後々)
ここから「その裁量をコントロールするための価値観」
の裁量という「無限の入れ子構造」が意識されはじめる。

ホント、こんな思考を展開させていて
「何をやってもいっしょだ、退屈だ」
なんて言える人が果たしているのだろうか。
確認する術は、まぁないのだけど、
実は考えればわかってしまう話でもあって、
そう言えてしまう人はその少し前までは
そんな際限のない思考を展開させてはいたとしても
その後に健全な思考ができる健康状態(身体性)が
損なわれただけのことなのだ。
 「病は気から」
 「健全な魂は健全な肉体に宿る」
これらはどちらも真である。
この二つのどちらかが正しい、と無理せず
思えてしまう状態は思考回路に何らかの不都合がある、
という健康状態のひとつのバロメータにできそうだ。
まぁ…このバロメータの使用自体を失念してしまえば
全く無力ではあるのだが。
壁に貼っとくわけにもいかないしね。
これも「絶対安心・絶対安全」はありえない、
という当たり前の再認識に一役買ったということで
許してあげることにしよう。
等々。。
2010/07/15 23:18
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by chee-choff | 2010-09-18 21:46 | 読書 | Comments(0)
師弟関係と恋愛関係
教師と教え子が恋をしたり,果てに結婚したりという話はよくある.

あれは別に悪いことでも何でもなく,

話が進んでしまえばあとは「どうぞお幸せに」てなもんである.

ただその始まりが「弟子のメンタリティ」と「恋愛のそれ」の勘違いにあるというだけで.

これは教え子側の勘違いなわけだが,

「尊敬のまなざし」と「含んだまなざし」の混同という教師の勘違いもある.

>>
 自分の目の前にいる人が「自分にはルールのわからないゲーム」をしている.自分には輪郭が見えない叡智を蔵している.そういうふうな構図で人間関係をとらえること,それが師弟関係の構造です.
(『死と身体 コミュニケーションの磁場』内田樹 p.53)
>>

高校時代は恋愛が何か全然分かっていなかった自分には

恋愛に対する憧れが単独先攻して,よくわからない妄想が日々育まれていた.

もしかすると,相手の言動に勝手に謎を創造して特定の人(もちろん女の子だ)を

「師匠」に祭り上げていたのかもしれない.

そうして構築された「師弟関係」を恋愛と勘違いしたかったのかもしれないが,

ただそれは数あるケースの1つであって他とそれを比べると

「勘違い」のハードルが高かったようにも思う.


卒業してから何の前触れもなく突発的に「師匠」にメールを送ることが

これまで幾度かあったが,自分がその行動に走った理由をきっちりと

位置づけることなく「相手の返事任せ」にして思考停止に陥って悶えつつも

でも考えないようにしてるもんだから「当初の突発」の何やら熱かったらしいものが

薄れに薄れて日常生活の主題からぽろりと転げ落ちてしまったその頃になって

ようやくメールが返ってくるのが毎度のことで,

任せていた返事どころか自分の「?」すらも解決の糸口が見つからず

振り出しに戻るという経験をかれこれ6年はしているわけで,

なるほどやはり大した「師匠だ」と思わないでもない,ことがあろうか.


あろうものか.

(_ _)?
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by chee-choff | 2010-09-12 22:58 | 妄想 | Comments(0)
死して屍シシカバ魔人ブー
ゴロがいいはずなのに意味不明.

というより「はずなのに」がもっと意味不明.


+*+*+*+*+*+*+*+*+*


今週はちと疲れ気味.

「今日はこれだけやった」という達成感があまりなかったのも疲れを増長させている.

仕事に慣れていくと任される仕事は増えるのだが,

その任される仕事の中に「生命維持活動」的な仕事もある.

日常生活でいう家事のような位置づけのもので,

当然やらなければならないしやりがいがないこともないのだけれど,

ルーティン要素があってしんどい時には「ああしんどいなぁ」と

思わず呟いてしまう類の仕事のことである.

なんだかぼかそうとして訳の分からない表現になっているな…

まぁそれはおいといて.


今週がしんどいのは週初め(月曜)に飲んだからでもある.

社会人になりたての頃は(まだなりたてだが)出勤前日に不安要素を残すまいと

「飲みは金土だけ」と思って律儀に守っていたのだけれど,

慣れてきて気軽に話せる同期ができてくると,

まぁ思った通りというか,「そんなのどうでもよくなった」.

いずれ二日酔いで会社を休むことになるのだろう…まだ大丈夫だけどね.

と言いつつ,火曜はつらくて一日中ほけーっとし(ながら仕事をし)ていた.

で火曜夜にたっぷり寝たはずなのに水曜はもっと体が重くて大変だった.

どうも色んな意味で頑張った日の疲れは翌々日にやってくるようになってしまった.

歳か…


いや別に愚痴が言いたいわけではない.

したかった話はむしろ「月曜の飲み」の方で.

院時代は鬱々と引きこもって人的交流がほとんどなかったと以前書いた.

そして「社会人になったら引きこもり時の思考を生かして活発になる」とも.

ふと思い返せば「今わりとなるようになってるなー」と思ったりするのだけれど,

その「活発さ加減」がなんだか面白いことになっている.

学部時代の比較的無思考な活発さとは対照的であるのが個人的に面白いのだが

(つかこんな話「個人的」以外の何者でもないが),

何が面白いのかを端的に言えば,

飲んで喋って楽しいなと感じる「自分が増えた」.

具体的には…

 酔いに任せてテキトーなことを喋る自分の調子の良さを楽しんだり,

 テキトーだと言いつつたまに「適当」な発言に自分でびっくりしたり,

 自分の発言による聴き手の反応の差異が感知されて興味深かったり,

 喋っている自分を見ている相手の視線に同期して「へぇ」と思ったり

 (ここまでなると「自分の喋りを聴き手と一緒に聴く」境地に達する)…

こういった多次元的な楽しみ方は「自分がまともなことを喋れているか」とか

「相手は自分のことを(広い意味で)どう思っているのか」といった思念に

邪魔されるとまるで叶わない.

逆に言えば「ある所ですぱっと割り切る」ことでいくらでも「次元を飛び越えられる」.


…あまり詳しく掘り下げるとアレなんでこの辺にしとくけれども,

要するに「社会人楽しいね」ってこと.


毎日を大切に過ごそうと思います.
自分だけのためではなく..
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by chee-choff | 2010-09-09 22:22 | 社会人 | Comments(0)
説教おじさん今昔
最近のウチダ氏ブログは肩肘張ったテーマが多いですね.

語り口もおじさんの(気楽な)愚痴から「警句」気味になっている.

周りに期待されて言っているのかなぁと思ったりするが,

「もうこの辺でやめるからね」の「この辺」が近いような気もして

(教授職は今年度で退官されるのだったか)寂しいなぁと思う.


最近というよりは著作や発言が注目されるようになってからとは思うけれど,

自分がそう言うのも近頃また「昔のウチダブログ」を読み始めたからである.

 院時代のメイン業務(=研究室で一番時間を割いていた)がウチダブログを読むことであって(これ事実),

 レーザプリンタと無尽蔵のコピー用紙これ幸いと当時(2010年春前か)以前の記事を

 プリントアウトしまくって,卒業直前には1999年の一番古い記事までを紙にした.

 それを綴じた20冊弱のファイルを社員寮に持ってきているのだ.

 ペーパーレスの電子書籍時代に逆行する所作とも思われるが,

 眼の弱い人には優しくない時代なので仕方が無い.


また話が逸れそうなので戻して.

昔ののほほんとした記事の紹介が意外と有用なのかなーと

勝手に思ったのでちらほら抜粋しようかしら,と.

やはり氏の言論の見るべきところは「テーマ」ではなく「語り口」にある,と

分かってもらえるような部分をうまく抜粋できればと思う.

>>
本日をもって「節酒」を決める。

ガンマGTPも75で、別に内臓的には問題はないのであるが、さすがに寄る年波、飲んだ翌日に肝臓がフル回転してしまうと、頭にさっぱり血が回ってこない。

頭に血が回らないと商売にならない。

「禁酒」ということになると、社交上の差し障りがあるので、とりあえずは「節酒」である。

飲酒の問題点はつねづね申し上げているように、「そろそろ盃を置く加減かな」という「みきわめ」能力が酩酊と同時に消失してしまう点にある

つまり、酩酊の本質というのは、「節度の喪失」ということにあり、それに尽きるのである。だから「節度をもって酩酊する」というのは、「死なないように殺す」というのに等しい論理矛盾なのである

その論理矛盾にあえて挑むのが「節酒」という難事業である

つまり「節度の喪失点」point of no return ぎりぎりの手前、ほんのり頬が紅潮した微醺(「びくん」と読むのだよ)というあたりで、さらりと杯を措いて、「これはちと、つい興にのって、過ごしましたようで・・・」と蹌踉と席を立つというようなのが、つきづきしくてよろしいのである。

こういうことができるようになると、男も一人前である。

ウチダもそろそろ五十路も半ば。いつまでも飲んだら最後「らりらりらー」というわけにはゆかないのである。
2003 五月の鯉の吹きなが思想家の冒険 8月3日
>>

飲酒を「難事業」と捉える所が楽しい.
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by chee-choff | 2010-09-09 21:39 | ウチダ氏 | Comments(0)
退屈アレルギー
これがルーティン好きの仕組みなわけですね.

>>
 養老先生も退屈に弱い人なんですよね.退屈アレルギー.退屈アレルギーの人は冒険を求めないのです.冒険家って,冒険しているとき以外の時間は全部退屈な時間なわけじゃないですか.でも,そうそう年中エベレストに登ったり,北極に行ったりして,スリリングな経験をするわけにはゆかない.そうすると日常生活が退屈になってくる.95%の退屈な日常と,5%のめくるめく冒険というような時間の割り振りにすると,生きている時間のほとんどが退屈な時間になってしまう.退屈アレルギーの人はそれに耐えられないわけですよ.だから,全時間帯において退屈しないような制度設計を考える.そのためには,日常生活のあらゆる細部が,「これすべて冒険」という読み替えをしないといけない
(『逆立ち日本論』養老孟司・内田樹 p.246)
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by chee-choff | 2010-09-05 11:13 | ウチダ氏 | Comments(2)
資本主義とその仲間たち
『貧乏は正しい!』(橋本治)シリーズ全五巻


雑誌「ヤングサンデー」誌上の

「17歳のための超絶社会主義讀本 貧乏は正しい!」

の連載をまとめたのが本シリーズ.

その連載が始まったのは91年6月のことらしい.


92年にバブルがはじけたと言われた当時の僕は小学校低学年であって,

バブルが何のことやらさっぱり分からないままその恩恵は受けていたのだと思う.

それが物質的な恩恵でとどまって考え方まで染まらなくてよかったというのは,

本書に書かれたバブル期の人々の振る舞いを読んで「そういうこともあるかな」と

理解は示しつつも自分が仲間入りしたいとは思わずにいられたからだ.


「資本主義は欠陥の塊だが,それよりましな概念装置はまだ存在しない」

というような言葉をどこかで聞いた記憶があるが,

それは「資本主義を全面的に信奉するとろくなことにならない」

と言い換えることができるかと思う.

現代社会を成り立たせているのが資本主義である以上それを全否定にかかるのは

「地球を放り出して月に移住する」ようなものなので(言い過ぎか),

資本主義の仕組みはきちんと理解して「ダメな部分はダメ」も分かった上で

資本主義と付き合って生きていくのが大事なのかなぁとこのシリーズを読んで思った.

まぁ僕にとってのその「実践」というのは例えば「お金の話を嬉々として語る人とは

少し距離をおく」という非常にスケールの小さい所から始まるわけだが.

そして実はそんなこと本シリーズを読む前からうすうす意識されてはいたのだが.

まぁ毎度のごとく橋本氏の著作というのは「自分で考える楽しさを教えてくれる」もので,

以前から持っていた感覚に「説得力のある思考」を付与してくれたのだと思っている.

「頭と体を同じ方に向ける」というのは実は至難なことであると同時に大事なことでもあって,

自分の行動や発言に自身が持てるし,空回りでなく感覚がそれを保証してくれる.

 なんでこんな話になったのかといえば,昨日読み終えた本のせいであった.
 気に入って付箋をつけていた部分を抜粋.
>>
 よく,「顔の悪い結婚詐欺師はいるけど,声の悪い結婚詐欺師はいない」って言いますね.声の悪い詐欺師はいっぱいいるけど,結婚詐欺師となると声が命です,と.
 声がいいというのは,「自分の言っていることを信じている」ということなんです.自分の言ってることに自分が同意していると,声帯以外の身体部位が共振するんです.養老先生もそうなんですけど,身体のいろいろな部分から多少の遅速をともなって複数の音がきこえてくるので,微妙にリバーブがかかった和音になるんです.どうして和音になるかというと,自分で喋っていることを自分で聞いても平気だから.嘘をつく人は,自分の喋った嘘がいつまでも空中にとどまるのが嫌だから,残響のする音韻を嫌うんです.(『逆立ち日本論』養老孟司・内田樹 p.197-198)
>>

その自分にとっての自信が他人からの信頼につながるかというと

必ずしもそういうことにはならないのだけれど,

自分の身体に保証された思考を認めてくれる人というのは

非常に高確率で「自分と馬の合う人」であろうと思う.


何の話だったか..

よく分からないけれど話を戻すと,

高校生向けに書かれた本シリーズはとても読みやすい.

それはあくまで「語り口が平易である」という意味でしかなく,

言っている内容は毎度のごとくぐちゃぐちゃしていて,

「本の内容を簡単にまとめよ」と言われてもまず不可能である.

が,理解しようと努力する者には助けとなってくれるのがその

「読みやすさ」であって,高校生であってもがんばればなんとかなる(のかな).

普段本を読まない人にぜひ読んでもらいたいシリーズ.

きっと考えることが面白くなります☆



刺激的な部分を一部紹介.

これらの言葉は前後の文脈があって初めて身に迫ってくるものではあるのだけれど.


…と言って今ぱらぱら読んでみたけれど,

その一部だけ取り出してみても本当に「なにがなんだかわからない」.

結局短い言い回しで本の紹介をしようと思うと背表紙のような書き方になるのだなー

ということでそれらをここに書き写す.

話題が古いから話題自体には興味が湧かないかもしれないけれど,

「考える」というのはその内容に関わらず面白いということを

本シリーズがしっかり証明してくれると思います.

>>
「貧乏は正しい!」シリーズは,若者が世紀の変わり目を生き抜くためのバイブルだ.もしかしたらバブルがはじめた後の日本を生き抜こうともがいているオトウサンたちのバイブルであるかもしれない(実はこのシリーズの正体は21世紀の世界を見透かす「誰にでもわかる新・資本論」なのだが).
 シリーズ第1弾であるこの「貧乏は正しい!」では,ソ連を中心とする社会主義体制崩壊からバブル経済の終焉までを,日本の若者のオナニーとリンクさせて語るという,いきなりの離れ業が展開される.しかし,そこに書かれているのは”当たり前の本当のこと”.
 シリーズ第3弾であるこの『ぼくらの東京物語』では,トーキョーの変貌と地方のトーキョー化の裏に潜む日本の本質を暴き出す.足下の定まらない急激な都市化の過程で,トーキョーは何を失い,日本は何を捨てたか.そして,ぼくらは何を取り戻すべきか.
 シリーズ第4弾であるこの「ぼくらの資本論」は,シリーズの核心.日本人にとっての金と土地と家について解き明かす.バブル後の金融破綻,官僚汚職,経済不況,などなどを見事に予言.今をどう生きていけばいいかを指し示す,日本人の必読書.
 シリーズ完結編『ぼくらの未来計画』では,日本の資本主義が終わりつつあることを検証し,ぼくらの新しい生き方を模索する.誰も責任をとらない日本社会で,過去の制度にとらわれずに自分の道を行くことがきみはできるか?
 これを読めば,人生が変わる.
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2巻目だけ紹介がないのは,僕が持ってるのが2巻目だけ単行本だからですね.
(2巻目の副タイトルは「ぼくらの最終戦争」.)
まぁAmazonに書いてあるようなことが書いてあるのだと思います.


+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*


と最後まで書いてから読み返すと,やっぱり「橋本治流の考え方」を
実際に見てもらわないと実感湧かないよねと改めて思えてきて,
もっぺんぱらぱらしてると「おっ」て所を見つけたので抜粋しておきます.
ああ優柔不断.


『貧乏は正しい! ぼくらの最終戦争』の
「第2章 オウム真理教篇」と
「第3章 きみ達にちょっと言っておきたいことがある」より.

 人間は,自分の頭でものを考える“個”なのだ.しかし,自分というものを集団の中にまぎれこませて生きている──それを当たり前だと思っている日本人達は,その“個”であることを,「へんなこと」だと思っている.
“個であること”が“へんなこと”なのだから,「自分の頭でものを考えたい」と思った人間が,うっかりと間違えて,“考える”よりも“考えずに信じる”でしかない宗教の方へ走ってしまっても,それをあんまり“へんなこと”だとは思わない.「個人の自由なんだろ」なんてことを言って,それでおしまいだ.
「信教の自由」は個人の自由だけれども,しかし,宗教というものが,「自分の頭で考えるよりも,他人の言うことを信じるもの」だということは変わらない.(p.64)

“宗教に関する誤解”というのは,やっぱりある.現代では別に”神”とか“超能力”だけが“宗教”ではない.こういう形の“宗教”だってある──つまり,「ある時まではまともで,とっても信頼のおける人だったのが,あるところからおかしくなってへんな方向へ行っちゃう」というやつである.これが現代ではけっこう多い.
 その人が一人で勝手におかしくなるのだったらいいが,おかしくなる以前のその人が,“まともで他人の信頼を集めていた人”だったりすると,その人は,その人の周辺ぐるみおかしくなる.もっとはっきり言ってしまえば,「その人が一人だったらそんなにもおかしくならなかったのに,“まわり”というものがあったがために,“まわり”によっておかしさが増幅されて,とんでもなくあぶなくなってしまった」ということだってあるのだ.(p.103)

 当人は,「絶対に正しいんだからみんなに信じてもらうんだ」と思っているのかもしれないが,しかしそうではない.信じようと思って,でも自分一人では信じきれなくて,それが本当に正しいのかどうかの判断が下しきれなくて,それで,“多数決”に持ち込もうとしているだけなのだ.
「あの人の言うことが,絶対に正しいのかどうかは分からない.でも,自分はあの人の言うことを正しいと思いたい.だから,みんなにあの人のことを話して,あの人の言うことが正しいということにしてもらう」と考えている.つまり,「自分ではまだ信じきれないが,しかし自分以外の多くの人が“あの人の言うことは正しい”と言ったら,それはもう“正しい”なんだから,自分も安心して信じることが出来る.だから自分は布教をするんだ」というのが,布教する信者の隠された論理だ
「正しいと信じる」は,“自分一人で判断を下す”ということだ.そんなことをするのは,けっこう心細い作業だ.だから,「他の人にも一緒になって,自分が“正しい”と思いたいことを肯定してもらいたい」と考える.現代の布教は,“信念があるから布教をする”じゃない.“不安があるから布教をする”なんだ.(p.104-105)

「この件に関して,あの人の言うことは絶対正しい」はある.しかし,どうしてそれが,「あの人の言うことは絶対正しい」→「あの人は絶対正しい」にエスカレートしてしまうのだろうか? それは,「あの人(A)は絶対正しい!」と言ってまわる人間(B)が,自分の言いたいことをすべてAに押しつけてしまうからだ.Aはまだそこまで言ってないのに,Bとしては“そのこと”をこそ言ってもらいたいから,「Aなら絶対そう言うに違いない」と,勝手な先回りをして,「あの人の言うことは絶対に全部正しい──だからあの人は絶対に正しい」にしてしまうのだ.“信仰”というのは,そういう思い込みで出来上がっている.
 BはAに,すべてを押しつけている.どうしてそういうことをするのか? 問題は,Aが本当にスーパーな人間であるのかどうかよりも,「BはどうしてAをスーパーにしたいのか?」なのだ
 つまり,Bにとって“スーパーなA”というのは,「そうでありたい自分自身」なのだ.自分に不満を感じているBは,“スーパーなA”というものを設定して,それをガンダムのモビルスーツのように着たいだけなのだ.(p.106-107)

「あの人は絶対に正しい」と信じたければ,信じればいい.実際にそうなのかもしれないが,それよりもなによりも,きみが「信じたい」と思っているんだからしょうがない.ただ,それをそのまんま言わない方がいい.言ったって,人は簡単に耳なんか傾けちゃくれないだろうし,理解なんかしてくれないだろう.
 それはなぜかというと,「あの人は絶対に正しい」ときみが言ったとしても,きみは,その人のどこが正しくて,それが自分にとってどのような意味があるのかを,一つも言わないからだ.それを言ってもらえなかったら,聞かされる方は,ただ,「ふーん,そうですか」と言うしかない.「ああそうかよ(なに言ってんだこいつは?)」と思われるだけだ.きみはもう“宗教”になっていて,きみはそれに気がつけない.
 そうなって,きみは当然“孤立”を感じる.「こいつら,なんにも分かっていない」とか.“孤立”を実感したきみは,「理解のない人間達に取り巻かれている悲劇」発見してしまうのだ.しかし,当然のことながら,それは間違いだ.それは,「理解のない人間達に取り巻かれている悲劇」ではなくて,「まわりに自分のことをきちんと説明出来ない,短絡した人間の悲劇」でしかないからだ.(p.108-109)


これらの抜粋を見て分かる通り,橋本氏の文章は非常に「括弧“ ”」が多い.
加えてここには記せなかったが「傍点」もたくさん打ってある.
括弧はその語の本来の意味に加えて何か含ませたり「普通とは違う意味」で用いていることを
意味したりするし,傍点も単なる強調以上の含意がある.
それらをそのまま臨場感をもって読みたければやはり本を手にするしかないわけで.
という「販促締め」でした.

ちなみに昨日は会社の部署飲みがあって,飲み屋の前で神奈川県警の目を恐れるほどの大声で
「一本締め」をするという訳の分からない伝統を引き継いでしまったのは僕です.
関東にゃ負けんよ(嘘
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by chee-choff | 2010-09-04 22:43 | ハシモト氏 | Comments(0)