深爪エリマキトカゲ
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印字後地平線
水柿シリーズ読んでたらオヤジギャグ的思考回路が定着してきた.

そして一人笑いの頻度も高くなる(やべぇ楽しい).

社内で脈絡なく一人で「マジか…」と呟いた時,

大方内心自分の思いつきに爆笑していると思って差し支えない.

 難しいことを考えている顔と同じ顔で内心大笑いできる技術は

 社会に出てからかなり重宝すると気付いた.

 「取り返しのつかない事態を招く気付き」とならないことを祈る.


と言いつつ(話のつながりが見えないが無理矢理繋いでみた),

ATの人とロット担当者にしか分からないコアなネタだったりする(タイトルのこと).

あ,スピッツは大丈夫ですよね?


+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*


食事情.

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サラダの草の種類が固定化されてきた(一部草ではなく根だが).
→水菜,レタス,キュウリ,ニンジン.
トッピングはベーコンもどきとクルトン.
ドレッシングだけはなくなる度毎回違うのを買う.


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一見いつもの朝食に見えるが,実はこれ夕食.
土日は朝が面倒臭かったり食欲なかったりして
グラノーラだけ食べることが多いのだけど,
そん時はいつもの朝食メニューが昼か夜に振り替えられる.
でこれはたまたま夜の時間のある時に振替があって,
偶然細ネギ(切断済)の処理にも困っていたので,
細ネギは炒めて納豆に混入させ一緒にぐねぐねしたのだった.
というわけで右下のは「納豆ネギチーズトースト」であったりする.
ゲテモノ度が上がった感が否めないが,
案外おいしかったりする.
あくまで「案外」である.
偶然とは恐ろしい…


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スパゲティと一緒に野菜が茹でられるという発想がツボで,
スパゲティのバラエティがフエテイイ(無理すんな).
これはほうれん草をスパゲティと一緒に茹でて,
長ネギとマイタケともやしを炒めてペペロンチーノの味付け(レトルトです,はい).
スパゲティも具が増えれば全然手抜きじゃないね!


+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*


そして引っ張る.

→法螺依存

(1)ブブゼラに負けない日本魂.
(2)オオカミ少年のココロ.

そいやまだブブゼラの音聞いたことないな.

ヨーロッパのテレビ局がWCサッカー中継映像から

ブブゼラの音だけカットする技術を開発したってニュースあったけど,

そんなに五月蝿いんすかね.
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by chee-choff | 2010-06-27 22:25 | 社会人 | Comments(0)
hosyo
が明日出るそうです.

〜♪


+*+*+*+*+*+*+*+*+*


写真は語らないので,

写真で語る.

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田植えは終わり,苗は伸びる.

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「実はご飯炊きながらじゃがいも茹でれるんですよ!」って同期の人が言うのを聞いて,
スパゲティを茹でながら他のものも茹でれるな,との発想に至った(O川さんGJ).
明太子ソースに合う野菜を探していたので,さらに茹で系という条件を追加して,
じゃがいもとほうれんそう.
…ふつうにいける.
ビバ手抜き☆

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併読中の本たち.
平日と休日で読む本を分けたり,
一日に二冊以上手をつけようとか思ってると,
脈絡なくどんどん積まれていく.
下に行くほど頻度が下がってると一目で分かってしまう仕組み.
(一番下の『悲しき熱帯』はまだ1節しか読んでないw)
負けない☆(何に?)

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もいっこ本たち.
今までで初めて見た「男性論もの」の小浜氏著作(左)を読み始めて,
ふと背表紙裏の著者紹介を見るとなんと氏が書いた小説の紹介があって,
反射的にAmazonで検索をかけてしまった(中).
(小浜氏は評論はたくさん書いてるけど小説は聞いたことなかった)
見ると初版は91年で帯にはこう書いてある.
 「語られることなく生きられている<生>の諸相を,微視的に,
  そして徹底的に内省した思想小説.」
思想小説!
そんな魅惑的なジャンルがあるんすね.
というわけで今読んでる小説のシリーズが終わったら手をつけようかと思う.
(今は森博嗣のGシリーズを途中で止めて「水柿&須摩子」シリーズ読んでます.
 つかこれ小説やなくて9割5分エッセイよね)
で,右はその小浜氏の小説を買うついでに注文した本.
最近また出版のペースが異常なウチダ氏.
たまには出たてで買うのもよかろうと思って購入.
でも購入はしたけれど,すぐには読まない予定.
ウチダ氏の本は(小説も含めて)他の本よりするする読めてしまうので,
固め読みはせずペース配分を考えることにしようかと.

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なんという夕焼け!
あまりにキレイだったのでベランダから飛び出して(!)パシャリ.
部屋からこんな景色(=田んぼ×夕焼け)が見られるのはいいなぁ.
しかし空の赤さよりも畑の赤さが目立っているのは…
なんとも卑怯な「夕焼け補正」を使ってるからですね.
普通の風景モードだとこちら↓
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赤がない.
空もよかったけど,田んぼに張った水に反射した赤がホント良かったのになぁ…
こゆの再現しようと思うともっといいカメラ買わないとダメなのかな.
Hmm..
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by chee-choff | 2010-06-23 20:18 | 社会人 | Comments(0)
『レトリック感覚』 佐藤信夫
レトリックの問題は,いつも,たちまちレトリックを越えてしまう.言語をめぐるすべての悩みがたちまち言語を越えてしまうことを思い出そう.(p.314)

レトリックは単なる言葉遊びではない.

常識からの逸脱による驚きや癒しの効果も無論ある.

が,その逸脱はいつだって浮ついた言葉の本質を抉る可能性を秘めている.

美と醜,大と小,優と劣,支配と服従……といった,標準的な対義の型が,ふだんの私たちの記憶のなかに,安定した制度のように,たくわえられ,維持されている.それらは,クイズのように対義語をたずねられた場合,ほとんど自動的に答えが出てくるほどに安定している.いや,そう思っているだけなのかもしれない.安定が安住になり,固定化し過ぎると,やがてそれらの対義語群はたがいに隣の語群と,近隣のよしみでなじみすぎ,やがて境界があやしくなる.近所の対どうしが換喩的に混同されはじめ,いつしか私たちの無意識の世界では,美と小,大と劣,優と服従……といった,うさんくさい対義関係がひそかにうごめきはじめる
(…)
たぶん,対義語は,つねに私たちが発見につとめるべきものなのだ.そして,つねに新鮮に,生き生きとした状態をたもつよう,手入れをおこたってはならぬものであろう.どう固定しようとしても,それが決して固定化されることのないものであるなら,むしろ,いつもその弾力性に注目しつづけ,変なところに定着しないように,かえってその弾力性を生かしつづけるべきなのだ.私は,そう思う.(p.313-315)


なんだか堅苦しい部分を抜粋してしまったけれど,

本書はこういうマジメ要素ばかりで構成されているわけではなく,

古今東西の名作文学で用いられているレトリックを素材として

学問的な厳密さも備えつつ読み手の認識を第一にその素材の解剖を試みるという

まことにユーモアあふれる作品である.

著者自身のレトリックも巧みで(過去のレトリック論にとらわれず引用を全て自身で

選択していることからも納得できるが)引用作品に負けない魅力を放っている.

そして「これは書かれた文体ではなく,語られた文体である」と解説者も述べているように,

非常にリズミカルな話の展開や好意的な脇道への逸れ方が心地よいし,

作品の印象を語る場面で読み手を自然に引き込み「私たちは」と当然のように

記述するところをはじめ嫌みを全く感じさせない.


一度途中まで読んだ時にもちろりと書いているのでそちらも見て頂いて,

興味を持たれれば,ぜひ.

引用している数々の名作がホントにキラキラしていて,

きっと「読書数珠繋ぎ」の核になる本だろうと思います.
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by chee-choff | 2010-06-20 16:37 | 読書 | Comments(0)
歌うインスト
番外編1.

【オリジナル曲】bAd Companyz【PV付】

イケイケUK.

ルンルンで街に出掛けたくなる☆
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by chee-choff | 2010-06-19 17:43 | V概論 | Comments(0)
「定義」の定義と「比喩」の比喩
「定義」の定義と「比喩」の比喩

2010/06/14 22:34
「定義」の役割を考えると、
「常識」と同じような側面があることに気付く。

コミュニケーションにおいて、
お互いが了承している言葉を用いる。
本質的に解釈が違おうとも、
重要なのは会話主体が「通じていると思える」こと。

「コロコロ変わる定義」というのは
なかなか扱いにくい。
上記の役割を考えても分かるかと思う。
だが、その役割を考えるからこそ、
定義には更新(改変)されるべき時が厳としてあるのだ。
(ごめんいろいろすっとばした)

前に「比喩」の話をした。
「ある語のイメージを分かりやすくしてハイ終わり」
ではなく、
「新たな解釈、発想の萌芽」と捉えるべきだ、
ただし思考が健全にはたらく時は、
という話。
ここで言いたいのは、
「定義」もそれと大体一緒ということ。

違うところはちゃんとあって、
それは半導体の比喩を用いれば(なんだこの発想w)、
「比喩」という電子は普段から「伝導帯」におり、
「定義」という電子は普段は「価電子帯」にいる、と。
「定義電子」はしかるべき時に「励起」される、ということを把握しておくだけでよい。対して「比喩電子」は小さな「電界」がかかっただけでぴゅーっと自由に動き回る。それを動かないものにしようと「アクセプタ」を「ドープ」して「比喩電子」をその「結合手」に捕らえることができたとしても、結局のところ「不純物」の「ドープ」は「伝導帯」に存在する「キャリア」数を増加させてしまうのであり、すなわち捕らえた「比喩電子」ばかりを見ていても結局は実効的に「電流」に寄与している「比喩正孔」が動き回っているのである。だから「半導体を流れる電流の仕組み」はきっちり理解しておきましょうね、という「比喩」の比喩と自己研鑽への指向を同時に達成させるアクロバティックな論理展開が今(知らないうちに)ここに成立するのである。

で、比喩と言ってるからには「」でくくられた語は全て
対応する言葉(とか文とか、はたまた
シチュエーションとか)があるはずであり、
それを考えるのもまた楽しそうだけれども、
その楽しみは次回にとっておこう。


しかし…家では半導体のことは考えるまい、
と思っていたのにこうやってするする言葉が
出てきてしまうというのは、
喜んでいいのか悲しむべきなのか。
わかんない時は「少しプラス方向に保留」ということで、
とりあえず喜んでおく。


p.s.得意顔でつらつら書き散らしたのだけれど、
半導体の話で間違ったトコあったら指摘してください。
間違ったまま書いてったらこの先どんどん
「かいちゃう恥」が増えてくのでw →同期の方々
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by chee-choff | 2010-06-14 23:21 | 思考 | Comments(0)
「共生」は「愛」の原基的な形態 (p.276)
『ひとりでは 生きられないのも 芸のうち』(内田樹)を読了.

今回は自分が読んでてビリッときた部分を名言集風に紹介.

そこだけ取り出してもわからんだろ,てトコを敢えてのっけてみた.

それにコメント付けても余計ややこしくなるだけかもしれないが…

興味が喚起されればさいわい.


芸術は「アタマハネ」であるが,労働は「ダブロンあり」なのである.(p.101)
>麻雀用語で深淵を語られると無性に麻雀をやりたくなる.
 しかもその欲望がまっとうだという認識もプラスされてしまうというw
 実はフツーに同期だけでメンツ揃うので…危険.

「市場の淘汰圧」にさらされるということは,言い換えれば読者に「興奮する素材」を
絶えず提供し続けなければ生き残れないということである.(…)
「読者の鎮静」を求める情報をマスメディアは提供することができない
.(p.147)
>「マスメディアのエスカレイションに踊らされる」ことの良否とはは関係なく,
 そういう構造は厳としてある,と.

あらゆる他者のうちでもっとも遂行性の強いメッセージは死者から送られてくる.
「死者からのメッセージ」はその定義上「書き換え不能」だからである
.(p.265)
>まだ論理的な理解しか得られないけれど,
 いずれ理解が訪れる機会がやってくる気がする.
 それまで大切に胸にしまっておくべき言葉だと感じた.

逆説的なことだが,コミュニケーションは「それがまだ成立していない」と宣言することで成立し,
「それはもう成立した」と宣言したときに消滅するのである
.(p.269)
>これはまさに「ホンネ」と「タテマエ」でいうところの「ホンネ」の方.
 仕事の場面で全く必要ないとは過言だが(ん?),
 やはりプライベートで(重点的に)発揮したい心構えではある.
 「公私をすっぱり分ける」ってホント難しい….

「あなたがいなければ生きてゆけない」という言葉は「私」の無能や欠乏についての事実認知的言明ではない.
そうではなくて,「だからこそ,あなたにはこれからもずっと元気で生きていて欲しい」という,
「あなた」の健康と幸福を願う予祝の言葉なのである
.(p.282)
>対比させれば,後者は「行為遂行的言明」ということになるのか.
 同じ言葉でも解釈によってこれだけ変わるのだという実例(散文ちっくだなぁ).
 だから自分がこの言葉を発するだけでは足りず,
 相手にも後者の解釈を採用するよう要求する必要がある.
 いや,要求ではなく「ツーカー」で通じてこそか.


忙しい日常から少し距離をとって,
自分や周りの人や事について見直したいと思った時に,
助けになってくれる本かと.
ぜひ.

+*+*+*+*+

となんだか書評(ではないな,相変わらず)がいつもに増して布教活動ちっくなのは,

最近まさに同期の何人かにウチダ氏本を貸している現実が一方にあるからですね.

みんな興味をもってくれればいいなぁ…

ウチダ氏の言を借りれば「五人に一人」で十分な成果なのだろうけれど.
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by chee-choff | 2010-06-12 22:59 | ウチダ氏 | Comments(0)
思慮する週末
今週は長かったー

イベントが色々あると,その間は時間が経つのは早いが

一段落した時にどっと疲れが出て「あぁまだ昼過ぎやん」てなことになる.

まぁ日々の業務自体もまだ慣れてない感じなので

(けっこうとりとめのない部署だと最近分かった),

「イベント発生」がわりと頻繁に楽しめたりはする.

その分週末はぐったりですかね.

今日もゆるゆるダウナー雰囲気で引きこもり読書.

ぐだぐだ考える頭だけはしゃっきりしてるので.


ちょっと暑くなってきた.

少し動いただけで汗がでてくる.

が部屋で全く動いていないと肌の露出部分がちょっぴり冷たい.

まだ平気ですかね.


+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*


読書の趣向をひとまず変えてみようと先日書いた.

書いた日の週末は結局読書予定なんぞは考えなかったけれど,

ふと本の選定を音楽にゆだねるということを思いついた.

いつもは本を手に取ってから,その本に合う音楽を脳内BGMとして採用していたが,

今回はその逆の試み.

たまたまハマった曲があったのでそれに合う本を本棚を眺めながら見繕う.

本棚の前面はほぼ読んでない本で構成されているので,こゆ時便利.


曲の方はこれ.

【初音ミク】 思慮するゾンビ 【オリジナル】

ゆるゆるの午後のコーヒーが合いそう.

つまり今ですね.

…ではなくて本の話.


背表紙で相性判断したんすが,読み始めるとなかなか合っててgood.

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 『不毛論』澤野雅樹

まだ一章しか読んでないけど,
この本はまさに不毛.
役に立つ話を求めて読んでも清々しいほど何も得られない.
ここでの「役に立つ」とはあくまで通俗的な意味である.
用途や有用性に執着し過ぎると純粋な思考の快楽は得られない,
という意見はもちろん賛成するけど,有用性を全否定するほどではないんではと思う.
と言うのは思考の入り口,楽しさを知るとっかかりとしてはアリなはずだからだ.
その点序論で「役に立つことのみじめさ」をひたすら述べ立てる本著は
哲学の入門書ではない(哲学のジャンルには入ると思う).
まぁ汲み取れるところを汲み取って,文章として昇華できる余地があれば何か書きます.


+*+*+*+*+*+*+*+


そいえば上で紹介した方もそうだけど(「ゾンビP」を採名されたようです),

ボーカロイドを使った曲を発表する音楽人がどんどん増えているように思う.

音楽人とは趣味でやってる人からプロまでさまざま.

ニコ動を見る暇(というか眼の体力)がなくて見逃してる分も多いが,

ランキングだけを見ても曲の質・多様性ともに発展を続けているように見える.

やめると言ったはずのV概論もまた書きたくなってきたので,

また作曲者(P)をどんどん紹介していこうと思います.

別に文章書かずともリンク貼るだけでもいいんだけど,

記事をアップするからには何か(編集画面上で発生するものを)書かねばという意思は

大事にしようと思うので.

それもこのブログが日記ではなく「思考録」であり,

日々考えたことを連ねるに加えてその「思考履歴」を文章に起こす際の

「化学反応」をもゆっくり味わうことが最上位の目的だからだ.

「化学反応」の反応物としては,当の思考内容はまずメインに据えるとして他には

「発酵を促すであろう思考時から執筆時までの経過時間」,

「思考時から執筆時までに自分の周りでおこった出来事」,

「その出来事と当の思考内容をつなげる可能性のある手持ちの思考ツール」,

などが考えられる.

パッと思いついてこれだけだが,これは分類であって,

具体的なトピックとしてはそれこそ無数にある.

そのトピックが多ければ「化学反応」の質が向上すると言い切る気はないけれど,

未知も含めた方向性の選択肢が増えることには間違いなかろう.


また気が向けば.
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by chee-choff | 2010-06-12 12:28 | 社会人 | Comments(0)
きたばま
休刊日
→朝刊がお休みの日.
 月曜日が多い.
 つまり日曜日たまにはやすみたい記者さんたち.

休肝日
→肝臓がお休みの日.
 平日が多い.
 でももらえるのは「相対的な」お休み.

休眼日
→目がお休みの日.
 基本的にない.
 だが基本あるところあまねく応用あり.

というわけで目のおはなし.

+*+*+*+*+*+*

寮の前に広がる畑の向こうにはコンビニがあり,

隣の本屋と中でつながっている.

よってコンビニが24時間営業であるために,

本屋も24時間営業である.

だからといって夜な夜な立ち読みしに行くわけでもなく,

出掛けない週末があると歩くことを第一目的に夕方頃足を運ぶ.

要は毎日歩きたいから歩く.


最近仕事で顕微鏡を一日中見るようなテーマをもらい,

MTG報告用のスライド作ったり日報書いたりしてPCを見る時間も多く,

それでいてブログを書いたりするものだから目が疲れるのなんの.


歩きながら,

目を瞑ったまま歩ければいいなぁと思う.

 
歩くのは好きだが,

理由はいろいろある.

景色を眺めるのも好きだが,

そして立ち止まって見る景色と歩きながら見る景色の違いも楽しいが,

それは歩くことそのものの楽しみではない.



目を瞑りながら歩く方法を考える.

目を開いて進行方向を眺めていて,

ふっと目を閉じた瞬間,残像が残る.

その残像は,薄れはすれど,

地表での空間移動に追随しない.

残像を見ていてはいけない.

一度目に焼き付けた景色を,

なんとか工夫して後方に流れさせねばならない.


網膜が光を感知するために,捍体と錐体というものがある.

それがどういうものかは調べれば分かるので,

これから書くテキトーなことの真偽も読み手にお任せ.


目を瞑った時に,あるいは明かりのない場所で目を開ける時に,

すなわち網膜への入力信号が無い時に,

見える(ように見える)赤や青の粒子.

背景には濃度の異なる灰の四角が無数に浮遊している.

光を受け取って「見ていることにする」細胞が見えるというのもおかしな話だが,

赤や青の粒子が錐体,灰色の四角が捍体に対応しているように思われる.

仮にそうだとして.

寝る前によくこの「赤青灰」をぐもぐも遊ばせるのだが,

それを思い出してふと気付いたのだけれど,

こいつら,少しばかり制御できるんだ.

「少しばかり」もまだ強調してるほどで,

実際何か絵が構成できるほどではなく,

WindowsMediaPlayerのグラフィックイコライザーのようなイメージで,

例えばスペーストンネル的なものを宇宙船でくぐり抜けるとして,

その進行方向を選択できるくらいのものである(この例えで分かる人いるのかw).

でもまぁ少しとはいえ制御できることに可能性が見出せるわけで,


前の話とつなげれば,

訓練次第で「目を瞑る前に焼き付けた景色」をあたかも目を開けて歩いているかのように

動かすことができるのではないかな,と.


まぁでもそれをがんばりすぎるとつまずいてこけること必定なので,

ほどほどにがんばりつつ同時に「足の裏の感覚」も鍛えねばなるまい.

というのも目を瞑る分だけ身体情報に敏感になるわけで,

率直に言えば,おそらく足の裏が何を踏むかで「赤青灰」は簡単に変質する.

その対策としては,その変質の大きさは意外性によるものと思われるがゆえ,

目に焼き付ける景色において,この先に踏みしめるであろう地面の凹凸を

重視することが考えられる.


といったことをつらつら考えたうえで,

ひとまず「まばたきの逆」をやって歩いてみた.

何が逆なのかというと,「パチパチ」は同じなのだけれど,

「開→閉→開」ではなくて「閉→開→閉」をやると.

つまり基本は目を瞑りながら歩いて,

「なんか不安だなー」と思ったら一瞬だけ目を開いて,

でまた目を瞑って歩き続ける.

人通りの多い所や交差路でやるととても危険なので,

不確定要素がないことが確認できるだだっ広い田んぼを抜ける道で実践する.


慣れると楽しそうなので,

ちょこちょこ練習しようと思う.



ヒマ人とか思わないでねw

事実やけど.
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by chee-choff | 2010-06-06 18:27 | 思考 | Comments(0)
「小田部」は滝とタメを張る
朝と昼が充実すると夜はこれくらいでもいい,という一例.

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左下は「もずく」.


あ,ちなみに「ドアストッパー」うしくんの筋トレの話だけれど,

両足(?)に両面テープ貼付という「増強グッズ」適用に落ち着きました.

一気に頼れるタフガイに.


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りんご→バナナ.

りんごの季節じゃなくなったのかー

小さくなったし高いし甘みも減ったし.

そしてなぜか最寄りのスーパー2件ともみかんが見当たらない.

オレンジ≠みかん…よね?

朝のフルーツに新しいの手出してみようかしら..

タイトル解題
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by chee-choff | 2010-06-05 19:19 | 社会人 | Comments(0)
一つの節目(「ああでもなくこうでもなくシリーズ」を読み終えて)
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橋本治の「ああでもなくこうでもなく」シリーズ読了.

六巻で十二年分の広告批評(という雑誌)の「時評」.


ソーシャルライブラリーを参照すると,

第一巻を読み始めたのは去年の11月末であった.

その最初から,「このシリーズは最後まで読み通さねばなるまい」との思いを固め,

大きく間をあけることなく日々こつこつと読み進め,

気がつけば「ページがなくなった」という感じ.

第一巻(写真の左端)でちょうど500ページであり,

1ページに文字がぎっしり埋まるという紙構成も手伝うのだろうが,

橋本氏の最初から最後までぶれることのない

「ぐちゃぐちゃした」「とりとめのない」「あらゆる事象を関連づけて」,

「位相(具象・抽象の階層)を軽く飛び越え」「節度と常識を備えた過激さで」,

書かれた文章を読み通すというのは,氏の文体が読み手の性質と合わない限り

かなり難しいのではないかと思う.

別に自慢でなく単なる相性の問題でもあり,

実際相性が良いと言ってもそれは氏の言いたいことが的確に分かるという意味ではなく,

むしろ逆に「何を言っているのか,何が言いたいのか」がよくわからなかった.

と言えるのも氏自身が文章の中で「自分も何が言いたいのかよくわからない」と言っていることの

受け売りであって,氏の意思はおいといて読み手たる自分の中で考えるにおいては

「論理レベル」では「ぐるぐるこねくりまわしてすげーな楽しそうやな」程度であって

決して意識的に氏の論理体系を間借りできるほどの理解が得られたわけではなく

(「意識的に」と断りを入れたのは勿論「意図せずして入り込み発揮してくれる」ことを願ってのこと),

「解釈レベル」では「ああこの辺りなら今の自分でも何となく理解できそう」と言ってしかも

「今の自分で」と「何となく」が強調で,すなわち「時間が経つと自分ですら当時の理解が

再現できる保証がなく」,「もとより理解した時点でも他人に説明できる自信がない」くらいである.

まぁウチダ氏の著作も数多く読んできた経験とも合わせて言えば,氏の著作は

そういった理解と言っては語弊とも思われるような何らかの「獲得」もさして悪いことではないことの

お墨付きというか,精神安定剤(表現は適切だけどこう書くとヤやね)としての支えとも

なってくれるとこれは自分で勝手に思っているだけ.

「あるものの確証をそのものの存在自体に見出すのはトートロジーだ」と以前どこかで

書いた気がするが(『ためらいの倫理学』を読んだ時やったかな),その「こころ」は今思えば

少々違っていて(という印象しか残っておらず元々どう思っていたかがここに書けないのは

至極不親切だが),確証を得る主体の視点にはその「あるもの」しか映っていないが,

確証を見出す過程には思考が,いや少なくとも暗なる「感覚」が(直近の小浜氏著作から借りれば

「情緒」が)関与しているのであり,主体の外に出ればそれは同語反復ではなくなるということ.

…と書いてこの一文を読み返すと少し違うかなと思えてしまってどんどんややこしくなるけれど,

あくまで「主体の視点」に立つならばそれはやはりトートロジーなのだと思う.

とすると問題にしなければならないのは,あるものの確証を得るためには「主体の視点」を

固持しなければならないのか,あるいは主体の思考の枠組みを捉えるべく一歩外に出なければ

ならないのかであろう.いつかウチダ氏も言っていたが,「己の枠組みをとらえ,その振る舞いの適切さを

保証する審級は誰(何)が保証するのか,そしてその審級を保証する審級は…」という無限ループ

(「無限の入れ子構造」もしくは「フラクタル」と言えば形としてとらえやすいか)からは

如何なる主体も抜け出せない構造になっていて,結局のところプラクマティックな観点から

どこかの階層で折り合いをつけなければ現実的に生きて行けない.

つまりはこれも「答えのない問い」の一つであり,「えいやっ」と決めることはできても

それはそれだけのことで暫定解以上のものにはならず,「それが暫定解である」ことが

一つの真実なのだと思う.


…久しぶりに話が大逸れして楽しかったのだけどそろそろ戻る.

僕の印象からすると「ああでもなくこうでもなくシリーズ」は「読み手の解釈の自由さ」を

担保してくれていて,氏の頭の中をこれでもかと開陳するのを見せつけられて普通は

「こんな勝手な解釈の押しつけを迫る本も珍しい」と思うかもしれないが,

その「解釈の押しつけ」はやはり厳然としてそこにはあるが親切にもその土台として

「この解釈を成立させるための素材(当の解釈対象たる社会問題と関連するであろう出来事など)と

ツール(要は氏の「脳みその構成」)」も同時に据え置かれている.

その土台に気を配りさえすれば「解釈の押しつけ」という発想には至らない.

書き手の「思考の土台の公開」と読み手の「書き手の土台を理解しようという姿勢」が,

健全な言論空間を構成するのでは,とふと思った.


…また逸れたので逸れたついでに言いたいことも言うと,

こんなことを言うのもおこがましいのだけど,

こういった「卑近な話を突然大きくぶち上げる」手法は

「ああでもなくこうでもなくシリーズ」に限らず橋本氏の得意技である.



もう最初に何を書こうとしたのかも忘れてしまったので,

タイトルを見ながら改めて考える.


最終巻のあとがきからの抜粋.

「言葉のあり方」や「言葉の意味」,あるいは「言葉の力」といったものを問題にしたい人は問題にすればいい.しかし,それを疑い出すと,私の職業の前提が崩れてしまう.私に必要なのは,言葉を「有意味なもの」として使うことで,そのために必要なのは「人のあり方を書く」ということだけだから,私は一貫して「人のあり方」しか問題にしていない──1989年に於いても,それ以前に於いても,それから20年近くが過ぎたこの2008年に於いても.
(橋本治『最後の「ああでもなくこうでもなく」 そして,時代は続いていく──』p.337-338)

こう言われて,「ああ,なるほどな」と思った.

僕は,自分も他人も含めて,「人」に興味があった.

日々の生活でどう振る舞うか,の次元だけでなく,一つ繰り上げて,

「なぜ彼はあの場面であのように振る舞うのか」を考えるのが面白い.

そして一度次数を繰り上げるとその構造上,何度も繰り上げざるを得なくなる.

思考のツールを持ち合わせていなかった昔の自分は,その「繰り上げの繰り返し」を

単なる反復としか捉えられず(というよりはそんな「次数の繰り上げ」という概念すら

把握していなかったのかもしれない),頭で考えるということを好まず,

「感覚が大事だ,直感が大事だ」と言っていたように思う.

それでも,本なぞ全然読まなかった昔の自分であっても,

この「ああでもなくこうでもなく」シリーズは読み通せたのではないか.

読んでいる間に特に意識してはいなかったが,

あらゆることを「人のあり方」と結び付けて論じる,という筆致に惹かれ,

熱に浮かされたように字面を追い続けていたのかもしれない.


さて.

このシリーズを読み始めてから橋本氏に心酔し,

氏の著作を色々とかき集めて未読のものが10冊以上もあるけれど,

とりあえず一段落したということで趣向を変えてみようかな.

小説も森見登美彦と森博嗣以外はご無沙汰やし,

カタそうな哲学書は本棚に並べているだけで全く手を付けていない.

「手当たり次第」がここ最近偏っていたようなので,

しばし「読書予定」的な思考に耽ろうかしら.

そういう週末もいい.
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by chee-choff | 2010-06-05 18:53 | ハシモト氏 | Comments(0)