深爪エリマキトカゲ
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けるとけるとけるとける
さぎょうようけると

うほほい!
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by chee-choff | 2010-01-13 23:23 | Comments(0)
さすがにやばいので
修論提出一月前にして なんだこの進度は! てなくらいやばいのに,

なんか身が入らんなぁと思って卒論提出の時期を思い出すと,

そういえば今の生活習慣が通常と変わらんなと思い当たった.

そして他の欲求を断って邁進するというスタイルも思い出した.


というわけでしばらく(2月半ばまで)ブログはお休みします.

愚痴る気はないので前みたく逃避的投稿もないでしょう.


ではではみなさんごきげんよう.
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by chee-choff | 2010-01-08 21:01 | Comments(2)
タイムリープあるいは「旅の扉」
「ゆくくる」で書いた未来の一場面を具体的に想像する,という話.

既視感の種を植え付けるのを基本とすれば(だいぶ高度な所作にも思えるが),

応用もできると一つ思いついた.


過去(今のことだ)の苦しい時期に,ある未来の場面を沢山思い浮かべておくことで,

その未来が実現した時に過去の記憶が蘇るということ.

その記憶の内容は一般的な回想の類の具体性の無さではなく,

強大な想像力の行使によって「当時考えていたこと」すら復元できるのではないかということ.

それは僕が思考記録を付けるきっかけとなった

「過去の自分が何を考えていたか覚えていないって寂しいよね」という思いに対する,

一つの解決策となりうるのではないかということ.


思考体力は使うけれど,研究以外の時間で余裕のある思考ができない現状において

(そのまんま「余裕がないから」だが),今考えられる限りの「未来志向の現実逃避」の

スタンスを生かせる話だと思う.


以上,ふっ切れて研究をがんばらねばならない今における,思考めも.


p.s.次タカハシさん見かけたら話しかけてみよう.
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by chee-choff | 2010-01-06 14:52 | 思考 | Comments(0)
抽象思考の発露
前の話(「無限の具象化」だったか)の続きみたいなもの.

抽象的な言明はどのようにして形成されるのか.

そもそも無から何かが生まれるというのは頭の中の話であってもありえないのだけれど

(そう思ってもそれは「それが意識できた前触れ」に自分え気付いていないだけである),

その意味で(?)意識できるものであれできないものであれ,

抽象文が思いつく前触れなるものは,必ず「具体的な何か」ではないかと思う.

それを元をたどればの話で…と続くと「何でもそーやんけ」になってしまうのだが…

降参. いいたいことだけ言う.

僕が言いたかったのは「抽象は特定の具象に始まり新たな具象を生み出す」ということ.

「上位階層・下位階層」と「抽象文(内容)・具象文」は大体においてそれぞれリンクしているとは

イメージしやすいけれど,詳細はまた考えるとして今は省略.

で,抽象物の役得はまさに「多くの具象物をそこから引き出せる」ことにあるのではと思う.

それそのものが実生活・実行動で役に立つわけではないが,

抽象物を傍らに(「座右に」がよいか)置いておけば,

「思考の跳躍」のひと手間だけで,色んな場面でうまく振舞うための基軸にすることができるのだ.

それら抽象物の中でとりわけ使い勝手のよいものが「座右の銘」と呼ばれるものだろう.

そして「思考の跳躍」によって抽象物と具象物とを行き来することで,

(視点が,構造が,組み合わせが,…)新たな発想がそれこそ無尽蔵に生まれるのだ.

この感覚を「無限大の実体験」と呼ぶことができるならば,

この体験なくして具象世界(実際に五感で捉えられる物が存在する世界)の呪縛から

解き放たれることはない.

言い換えれば,「無限」なる概念を抽象物以上のものとして把握することが叶わないのである.

語感だけで言えば「頭を使わないリアリスト」がこの典型なのではないか.

僕は昔の日本人にはそのようなイメージ(「生活の知恵」の発達)を持っているけれど,

それでもってあの(江戸時代の庶民のような)素晴らしい節度を保った道徳を備えていたというのは,

やはり…


何言ってるかわかんなくなった(笑)

つづく.
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by chee-choff | 2010-01-04 14:59 | 思考 | Comments(0)
ゆくとしくるとし(’09→’10)3
さて,新年がきましたね.

みなさん明けましておめでとうございます.

今年もみなさんにとって良い年でありますように.

もちろん,僕にとっても.

m(_ _)m




さて.

昨年を簡単に振り返ってみる.

正味どうだったのかという話.


それはもう,最悪ですね.

「サイアーク」ですね.

研究環境が.


以上愚痴終わり.

研究はまだ終わってない(とゆーかこれからが本番)ので,

なんとか「出たものが最悪」にならないように頑張ろうと思います.


で,プラグマティストを名乗るべく精進してきた僕は,去年のある時期に

 「現実志向の現実逃避」

なるスタンスを編み出した.

これは自分がある状況にいて「何かおかしいな」と思った瞬間に,

その場の状況そっちのけでその構造に思考が飛ぶという

「知的な条件反射」(?)をそれはもう必要上の要請で反復,獲得したものである.

このスタンスは理不尽な環境にいればいるほど知性が活発化し,

かつその構造の解明は「理不尽な状況」を脱する糸口につながるものであり,

違和感からくる感情的邪念の増幅抑制と同時進行的に相乗作用を呈するのである.

 また,解決しないと分かれば単なる思考実験に終わるのだけれど,

 それを終えた時には「おかしいな」発生当時のわだかまりは

 思考そのものに対する満足と疲労により忘却の彼方へと消え去るのである.

 質の良い思考であったならば徒労感に襲われることもない.

言葉として矛盾していると思われるならば,

 「未来志向の現実逃避」

と言い換えてもらってもよい.


と書いて…

なんだか勝手にストイックになってるなと自分で思った.

去年のある時期から読書の耽り具合が研究そっちのけレベルに達し,

「まぁポカを起こさん程度に頑張るさかい」とゆるゆるテンションを定めて

ストイック宣言を取り下げたはずなのだが,

そういった思念がぐるぐる混ざっていつの間にやら

全体的にストイックになってしまったようである.

まぁいいんだけど.



昨年の回想はこれくらいにしといて(いやホントに何もしなかったんですって),

今年の抱負に移ろうかな.

何と言っても,今年は学生から社会人になるという大変革の年.

だからといっておっきいことをするつもりではなく,

ただ「環境の激変にどう対応する(耐える?)か」はしっかり考えといた方がよいと思う.

働きはじめてしばらくはがむしゃらに頑張るしかない気もするけれど,

その結果「入社3年後に初めて今までを振り返る」とかではなく,

常に自分の状況を把握しつつ振る舞いたいと考えている.

それはどこにつながるかというと,

「人を見る目」を常に敏感にしておきたいのだ.

今年は同期が特に多いだの会社は本社だけでみんな同じ所で働くことになるだの

サブ的な理由もいくつかあるけれど,

メインはやはり,「自分相応のオーラを常に放出しておきたい」に尽きる.

…なんか掘り下げると面倒な話になりそうなのでこれはこれでおいといて..


上で環境の変化に「耐える」と書いたが,

これは変化の対応の仕方について,自分自身についても「変える部分と変えない部分」は

きっちりしておこうという意味.

もっと言えば,その「変える部分」と「変えない部分」の境界は別に曖昧でもいいんだけど

(=変えないと思ってたけど変わっちゃったってのもまぁアリだろう),

変えない部分集合において「変わっちゃってもいい部分」と「頑として変わらせない部分」の

境界ははっきりさせておこうという意味だ.


その「頑として変え(たく)ない部分」の一つは,日常の読書.

先の記事で「読書は好きだから一生やめんだろう」などと軽口を叩いたが,

よく考えると全く断言できる話ではないことに気がついた.

今読書に励んでいる自分を後押ししている理由の,

実効果のとても大きな部分が学生生活を終えることによって消えてしまうのだ.

「ただ楽しいから読んでいる」という把握は実際は願望が強く入ったもので,

もちろん読んでいて楽しいことは後押しする理由がなくなっても何ら変わらないのだけれど,

日常において「本を読み始める」に至る確率は,「確実に下がる」.

それは僕に限らず人ってたいてい怠慢だし楽が好きだし

身の回りには楽して楽しめるものなんていくらでも転がっているし…といくらでも言える.

(僕にとっての決定的な理由はあるけれど,今はその存在にだけ触れて言わないでおこう…)

どんな「楽しい」にも没入前の体力,進行中の体力は必要であり,

実際の経験可能な「楽しさ」とその「必要体力の確保」は相関関係はあれど,

「必要体力の確保」の相関変数は「楽しさ」だけではないのだ.

そのあたり,深く考えずに社会人生活エンジョイみたいなテンションでいってると,

今は十分すぎるほどできている(ある意味「囚われている」)自省(あるいは自制)の念が

いとも簡単に消し飛んでしまうであろうことが予想できる.

それでもいいのかもしれないけれど,

今の自分のプランとしてはそっち方向には行きたくないなと…


あでも「事後的に遡及して過去を肯定する意志」を強く持ちたいと考えるかたわら,

究極的にはどっちでもいいのかもしれない.

この「遡及的肯定感覚」を人生選択の岐路でいかに発揮するか,

という話も先に出した奈良講演で聴いた話(を大幅に再解釈したもの)だが,

これは少々ややこしい形をしている.

というのは,例えば就職活動で自分がどの仕事を選ぶかというのは一つの人生選択だが,

その際に選択する基準として「将来の自分がこの仕事を選んだことを良しとできるか」を

もってくるというのがまず一つ.

それが実際行われたか否かに関わらず,いずれ仕事が佳境に入り公私ともに充実した生活を

過ごしている最中ふとよぎる「これでよかったのかな」の漠然とした感覚,

それを掘り下げれば先の職業選択の是非にも思い至るわけだけれど,

もちろんその場で良しとできれば過去の思いなど関係なしにオーライ.

でも,当時の職業選択の際に,ふとした思いにかられて不安になっている今の自分を

想像できていたとすれば,それはその今の自分にとってものすごい大きな力となる.

それも「なんかわからんが大丈夫そうやな」という類の論理性抜きの力である.

という二段階のお話.

この話をし出すと運命・既視感リンクの話をしたくなってきた.


何の話かというと,これもウチダ氏の受け売りでしかもひん曲がった僕の解釈を通しての話だけれど,

例えば自分には恋人がいて,何年か付き合った後に結婚に至ったとして,

二人で一つ屋根の下の結婚生活が始まるとする.

その時に,「ああ,この人と一緒になったのは運命なのだな」と思われることがある.

運命などと言えば通常は(通念では?)「決まり切った人生の道をただ歩んでいるのだ」とか

「今自分がここにいるのは最初から決まっていたのだ」とかそういう話になるのだけれど,

この「運命」という言葉を用いた人は実際のところどう感じているのかというと,

これまでの自分の選択を肯定する思いや,敢えて自然な成り行きに反発する感情を抑える思いなど,

総じて言えば「現状の肯定」である.

そう思いたくて「運命」を用いるのであれば願望にとどまるのだが,

自然と口をついて出たならばそれはまさに「今自分はとても満足している」ということなのだ.

で,実はそういった「自然と口をついて「運命」が出てくる」という幸福の象徴たる状況の,

下地作りの方法がちゃんとあるのである.

それは何なのかと言えば,「既視感を呼び起こすための細部にわたる想像」である.

理詰めの運命というのは,上で触れた「運命」とは違う.

(一月くらい前に引用した歴史学と系譜学の対比で言えば,「理詰めの運命」は歴史学の方ですね)

「なんとなく」が呼び起こす感覚がそれ.

そして「なんとなくどこかで見た」という既視感は,実は(理論的には)作り出すことができる.

実際に同じようなものをどこかで見ていなくても,

それを見た時に脳裏に焼き付くものと等価的な「想像」の経験によって.

新婚生活の例に戻ると,新婚夫婦が幸せな生活を送る秘訣の一つは,

付き合っている間に,ほんとに細部まで「二人が結婚してからの生活」を思い描くことである.

(あるいは,お互いが,さほど強いずともそういったことを思い描けるような相手を選んでいること)

それも,一パターンでなく何パターンも.

それはまた「想像もしなかったくらい楽しい」感覚とは別物だが,

その「想像しないことで意外性という刺激を求める」よりも,

「ふんだんに想像したおかげでなんとなく今の生活に満足できる」方が,

安定感があるように思う(期待値で言えば高い? ロマンのかけらもないが笑).

単に「想像通りの生活ができている」のとは違う.

それだけだと,その生活が少しでも想像とずれた際にダメージを被る.

そうではなく,上で「何パターンも」と言った通り,

実際に満足感を得て生活している際には,

「過去にこの画を想像した事実」は前景化してこないくらいの,

多パターンのうちのほんの一つのことなのだ.

それは「細部まで」の言葉通り,「具体的な生活の一場面」のことだ.

その「夫婦生活の一コマ」を結婚前までにいかに集積することができるか,

それはひとえに二人の想像力にかかっている.



ということで僕は想像力のある人と付き合いたいのだが(ひどいまとめ方だ笑),

それは特に何を言ったことにもならない.

何せ想像力は誰もが持っているものだ.

それを開花させるかどうかが,一番の問題.

…(この先続けるのはヤだからよそうか笑)

そうだ,それで思い出したのだが,

今年の抱負の一つに「人付き合いに力を入れる」がある.

一昨年にしろ昨年にしろ,ちと引きこもり過ぎたので,

意識せんと人波にもまれるようなことはしないだろうなと思う.

今まで培ってきた思考力・想像力は,

今年(来年度)からの人付き合いのためにあるとの意識を常に持っておきたい.

やっぱ人は好きやし.


あとはなんだな,「自分観察」をしっかりやろうかな,てのがある.

上では「会社入ってから何も考えずに染まるのはイヤ」みたいなこと書いたけど,

究極的にはどっちでもいいと言った通り,

染まってもいいと思う.

ただ,染まる前と後をしっかり把握して後々比較できるようにしたい.

学部3回から自分は変わった,と僕は何度も書いているけれど,

普通いきなり「自分は変わった」と言い出す人間は,

「変わる前の自分」をほとんど覚えていない.

この僕もご多分に漏れず,である.

変化を捉えるには変化前の状態と変化後の状態の把握が必要なのだ.

もし働き始めて,前回とは質は違えど径行直情型人間になった場合,

今の自分の分析がしっかりしていれば,ガツガツ人間になってからの

「変化前後の比較」は,僕が今と学部3回以前との比較でするよりも

何かしら明確にできる気がする.

まぁ「ガツガツ人間」が自己分析なんぞするかという問題があるが,

そんなこと今の自分が知るわけもない(笑)


と,なんだか自分のことを客観的に見れますみたいな話になってるけれど,

実際のところそんなわけはない.

ただ,思うのと思わないのとでは少しは違うんやないかな,

くらいの意識である.



「同じ現象を経験しても,

分節するための言葉を持たなければ,

経験の濃さは全く異なってくる」

今の僕を突き動かすのは,

この事実を知らずに大きな経験を無駄にした,

過去の苦い経験だ.


これは嘘かもしれない.

「経験の濃さ」とひとくちに言っても,

言葉を知らない状態の方が純粋な経験が,

より感覚に即した経験ができるかもしれない.

それは「豊富な言葉の獲得」を成したとしても否定できない.

でも,言葉を持って,このことは確実であると分かった.


言葉一つで,確実に何かが変わるのだ,

言葉一つで,今まで気付かなかった「差異」に気付くことができるのだ.


何がどう違うのか,そして「差異の価値」は将来その都度変わり,

決して収束することはないだろう.

「変わること」は生物の本質だ.

そして僕は,人間だ.



今年の「ゆくくる」執筆においても,

このBGMにお世話になりました.

[pop'n music15]<撫子ロック>-凛として咲く花の如く-をピアノで弾いてみた


みなさま今年も宜しくお願い申し上げます m(_ _)m

chee-choff
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by chee-choff | 2010-01-01 22:45 | 思考 | Comments(0)
716は二度見る
interlude.


はちまんさん行ってきました.

前回の失敗を復習して,40分前に家を出る.

去年と同じ道を通っていて人が少ないなーと思っていたら,

小学校低学年くらいの男児二人が二人だけで転がり回って遊んでいたり(いいのか両親),

女の子が連れてる犬が飼い犬のいる家の前を通るごとに吠え合っていたり(いいのか両親w),

活発な子どもはよいなぁと横目で見つつ早足で山を登っていたのだけれど…


間に合いませんでした(笑)

前回はレクセンの前あたりで新年を迎えてしまったのだけれど(ローカルですみません),

今回もほとんど変わらぬ位置でご臨終(前の年が).

そばを歩いてた二人組の中学生くらいの女の子が,

「ねぇあと30秒よ! もう間に合わんよね? …ああああと20秒!!」

「あんたねぇ. そーゆーのはお楽しみにとっとくもんよ」

とかひっきりなしに受け答えしてるもんだから,

もう年の変わり目なんかどーでもよくなって耳を傾けてました.

 (今年の大晦日は1時間前に家を出ようと思います.

 364日後の俺,この記事を要チェック!)


で,新年5分過ぎに八幡宮に到着.

確かにいつもより人が少なかった.

で若い人の比率が高かったように思う.

晦日から急に冷え込んだからかもしらんね.

門の前に並ぶ若い人らもわりと大人しく連れの人と喋ってた.

みんな落ち着いているように見えた.


今回は髪がバンバン長くてニット帽でなくハンチングだったので,

頭も耳も冷えて痛い痛い.

ってことで門前での人間観察もそこそこに

(もちろん並んで賽銭を入れる気はさらさらない笑),

いつの間にか初詣一番の楽しみと化した「缶ジュースお汁粉」を自販機で購入し,

外のベンチで冷え冷えしながらキュッと一杯.

缶の中に小豆が残らないように,半分飲んでからは缶をくるくる回し,

豆が浮いてるうちにくいっと傾けて飲む.

年に一回のことで別に熟練するわけでもなく,

やっぱり数粒残ってしまった空き缶を恨めしげに眺め,

缶を逆さにしながら缶と一緒に首もふりふり.

水平軸にふりふり,鉛直方向にもふりふり.

ふと目に意識がいくと月が綺麗.

まんまるで強い輝き.

「ふおぉ…」(のだめ風)


帰り道は例年通り,明かりのない山道.

でも今年は特に月が明るくて,足下にも困らない.

すれ違う参拝者にもライトを持ってない人が多かった.

「もうこの辺までくると足が棒になりそうだわ」

「そうよねぇ. くるよねぇ」

と楽しそうにやりとりしていた中年のおじさん方二人から,

「こんばんわ」.

会話が途切れるのではなく,

こちらが耳を傾けているのを把握していたかのように,

ごく自然なイントネーション(の起伏)の流れで交わされた挨拶.

周りの人を警戒心なしにすっと引き込む,境界の曖昧な穏やかなオーラ.

「ええおじさんやなぁ」

と正直に思った.


その山道.

足下に困らなかった僕はそれでも困りたそうにしていた両足君の意を汲んで,

月空を見ながら下山.

道の周りは竹林が覆っていて,

真上の月を笹の葉がうまく透かしの遮りのしてくれて,

見上げた画は影絵そのものであった.

その山道を抜けて空が開かれた時,

不思議な光景を見た.

まんまるの月と,その周りのオリオン座はじめ幾多の星々.

彼らを意識して通り過ぎるかのような,

絶妙に分かたれた雲の切れ端の群れ.

その月と星,雲々がひとつのまとまりと感じられた一瞬,

「ぴっ」となった.

…これは何だろう.

しばし考え,

言葉があとからやってくる.

そうか,あの一瞬,

僕は雲の上にいたのだ.

雲の上から,地上を眺めていたのだ.

雲の下に光る街の明かり(=星々).

…月は,何だったろう?


タイトルのこと.

これは「007は二度死ぬ」のもじりですね.

7→ち(ex.七萬=チーワン)で,

「ちひろ(→ちーちょふ)は(月を)二度見る」

と言いたかった.

では,その二度目とは.


竹林を抜けてのT字路.

しばらく立ち止まって空を眺めていたのがさっき.

一連の想念が過ぎて道に視点を戻せば,

もと来た見慣れた右と,通ったことのない左.

こういう風に意識してしまったが最後,

左の道を選んでずんずん歩く.

起伏が激しく,少し先も見えない,

未知への興味をかき立てる道.

 その先に何があるかではなく,

 その先に何があるだろうとわくわくする自分自身,

 その「俺」の躍動感に僕は興味がある.

 出先で道に迷った時もそう,チャリ旅で国道から逸れてふらふらした時もそう.

 もちろんその場でそこまで認識はしていないけれど,

 あとから思い返せば,いつも当時をそう振り返るのだ.

 そして,その中身はいつも謎に包まれているのだ.

 「へぇ,あん時の俺は何を思っていたのかねぇ」

寒い寒いと言いながら時々立ち止まり,空を見上げ,

はぁとかほぉとか言いながら知らない道を進む.

方向の検討はつけてるのでいずれ知ってる道に出てくるだろう.

そうやってふらふらしている間,

幅が広く薄い雲のひとかたまりが,

月に近づいていた.

僕はちょうど,月とその雲が重なり合う時に,見上げた.

月は明るく,雲のかたまり全体を照らして明るくし,

月自身も変わらず煌々としていた.

また一瞬,「ぴっ」といった.

ん,これは?

…,

あぁ.

雲と空が反転したのだ.

月に照らされた雲が空に見え,

そのまわりの薄暗い空が,雲に見えたのだ.

それでさっき,「ぴっ」となった後,「ぐるり」となったのだ.

僕の視界か,頭か,臓腑か,はたまた「世界」が.


これが「二度目の月」.


いいかげん寒さに耐えきれなくなってきて,

でも年賀状出さにゃ帰れんと思い,

でも帰り京都側ではポスト無かったよなぁと思って,

がんばってふんばって帰りに遠回りして大阪側のポストに投函して後,帰宅.

(実家がほぼ大阪と京都の府境にあるのです)

で風呂入って,今日初めてお会いした「くまさん湯たんぽ」と一緒に就寝.


くま氏はメガネが似合いますなぁ(登美彦氏風).

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by chee-choff | 2010-01-01 17:17 | 思考 | Comments(0)