深爪エリマキトカゲ
cheechoff.exblog.jp
Top
<   2009年 12月 ( 14 )   > この月の画像一覧
ゆくとしくるとし(’09→’10)2
さっきまで飯食いながら紅白見てました.

子ども司会って何(汗

恥ずかしくて直視できなかったんだが(汗

なんだかどんどん学芸会的になっていくなぁと

久しぶりに見たのにそんな風に思った.

自分(の趣向)が老けたか.

多分そっちやな.


+*+*+*+*+*+*+*+*+*


今年はどんな年であったか.

これはもう単純明快.

今年は「読書の年」.

(もしか去年も同じことを言ったかもしれないが)

今年は自分の読書スタイルが定着したんではないかと思う.

去年はわりと「色々なジャンルの本を読まなくては」という意識を持って,

そうでなければ絶対手を出さないような外国の古典文学を読んだりしていた.

(メルヴィルとかドストエフスキーとか)


今年はその縛りがかなり薄れたのかな.

春過ぎか夏前か忘れたけれど,

内田樹のブログをプリントアウトしてファイリングして本格的に読み始めてからは,

氏の趣向や付き合い(対談とか)に沿って読書の幅を広げていった.

それを今思いつく限り並べてみると…

 橋本治
 養老孟司
 鷲田清一
 春日武彦
 平川克美
 苅谷剛彦
 諏訪哲二
 池谷裕二
 …

まだいた気もするけど, 

古本屋で彼らの本を見つけたら問答無用で購入する,

とかやってたら本棚におさまりきらないくらい本が増えた.

 どうしよう…寮行ったら今より確実に狭くなるんだけど.

 テレビは当然いらないとして,PCもノートにせにゃいかんかな..

さておき,そういってある意味一つのテーマ(「ウチダ氏がらみ」)に沿って本を読んでいくうち,

自然と自分の好みと,理想とするスタンス(世間に対する構え方)も形成されてきたように思う.

キーワードは今年の記事で何度も触れてきた,

 「節度」 「身体性」

あたりかな.

「節度」というのは,自分がある意見を言う際に

「棚上げにすべきでない部分はきっちり述べる(あるいは表す)」姿勢のこと.

「身体性」を備えた言論というのは,

「自分の体で(通常の意味で)責任が取れる」範囲で語られる言論のこと.

この二つはとっても深くリンクしていて,

「節度」の保たれた言論には「身体性」が備わっている.

逆も然り.

等価…と言えるのかもしれないけど,

「節度」の具体的な発現の一つとして「身体性」の担保がある,

くらいなもんだろうか.

これは言論の内容の問題ではなく,語る姿勢「語り口」の問題.

いくら本の内容がどれだけ常識から外れていても,

それを著者は当然認識していて,かつ理路もきちんと示されていて,

その「外れ方」にこそ意味があることが読み取れれば何も問題はない.

(その読み取りが可能なリテラシーのハードルが高すぎると

「本がほとんど売れない」という意味では問題かもしれないが.

その意味で橋本治は損してますね.

もちろんその損得勘定は彼に言わせれば俗世の感覚なのだろうけれど)

(あるいは,そういった「生半可に読めば腹立ただしくて不愉快な」本,

以前はほとんどメディアに注目されていなかった本が近頃売れているという事実は,

明らかに世間の意識の変化を示していて,養老先生もウチダ氏も,

自分の出してきた著作の売れ行きの変化でそれを感じ取っているのではないかと思う)

上に挙げた著者らは僕の感覚からするとみんな,

その「節度」と「身体性」を備えているように思う.

(ウチダ氏の受け売りと言われればそれまでですが)

僕はそういった著者の論の提示における「節度」にこだわるようになった.

まぁこれも正確に言うならば,

「意識してそうしている」というよりは,

「身体に耳を傾ければそうなる」という感じだろうか.

「なんかこの人ヤダ」と言った時の「なんか」に対する信頼度が,

この一年で随分培われたんではないかと思う.

 この話にも注釈をいくつか付けないといけないのだが…

 そしてついでに(おい笑)一年を振り返る本来のテーマに戻ろうと思うのだが,

 まずこの信頼度が発揮されるのは今の僕は完全に「本を読む時」に限定されてしまっている.

 それはご多分に漏れず今年もろくに人とからまず本ばかり読んできたからであって,

 さらにこれも自覚していることなのだけど,そのコミュニケーション形式の偏りによって

 (もちろん読書も本とのコミュニケーションです),

 たまに人と会話する時に「自分の頭の回転に口がついてこれない」のだ.

 別に自慢ではなく単に相対的なものであって,そして生活習慣に問題があって

 まぁ簡単に言えば「いくら難しいことを日頃つらつら考えてるからといって

 同じ内容が口をついて滔々と出てくるわけではない」.

 むしろ普段喋らなさすぎて日常単語ですら詰まるという事態も幾度かあった.

 (今日実家で母と会話してて「セーター」が出てこなくて愕然とした笑)

 やはり口は体の一部なのだ. 

 同じ「言葉を操る」と言っても,頭(脳)と比べれば口は明らかに身体性のウェイトが大きい.

  以前「思考年齢,作文年齢,会話年齢」というものをふと思い付いたことがあって,

  ここでいう年齢とは主に用いる言葉の種類(趣向・語調・論理性etc.)で判定できるとしたもので,

  例えば最近もっぱら文章では「僕」と自称するけど,

  会話ではタメ口なら「俺」しか使わない,

  この点だけで見れば作文年齢の方が会話年齢よりも高い,とか.

  で,その思い付いた時にあまり深く考えずに数字を入れると,

  思考年齢:35歳 作文年齢:25歳 会話年齢:15歳

  ってなった.

  だからなんだと言われそうだけれども,

  要するに「てめぇ引きこもりすぎなんだよちったぁ陽当たれコラ」

  ということなのだ(いいのかそれで笑).

話を戻すと(どこに戻すかはおいといて),

その「身体性」は今ホントに大事なんじゃないかなと思うのだ.

僕個人だけの話ではなく,という意味で.


秋口にウチダ氏の講演を聴きに奈良まで行ってきた.

90分ほど氏が喋った後に質問タイムが設けられたのだけど,

二番目に質問した最前列の若い(2,30代の)女の人の質問が印象的であった.

 「なぜウチダ先生はそんなに自分の身体(の感覚)に自信が持てるのですか?

 物事の正しさを考える際に,その正しさと自分の感覚がずれてしまった時,

 私はどうしても正しさの方になびいてしまいます」

それに対してウチダ氏は一つの例を挙げられた.

 「学生運動が盛んだった頃に,ある先生が言っていました.

  「あいつは利口だが,あいつとは革命したくない」と.

 自分が危険な状態の時に助けてくれる人間かどうかは,

 その人と出会った瞬間に判断できます.

 というのは,それが本当に「死活問題」だからです」


今の僕らは,「危険な状態」には滅多なことがない限り遭遇しない.

けれどその「平和な世の中」は確実に僕らの身体性を蝕んでいる.

もちろん平和だからこそそれでも大きな問題はないけれど,

普段から抱えている小さな不安が精神を病ませている可能性は否定できない.

そして,その「小さな不安」が「身体性の欠如」によって認識できていない可能性も.

奈良講演での女の人の質問,いや己が不安の表出は,

ウチダ氏の身体性溢れる語り口に誘発されたのではないか.

そのような不安は彼女に限らず,若い人の誰もが抱えているのではないか.

そういった連想があの時,一瞬の内に脳裏をよぎったのは多分嘘ではない.

今の僕が保証します(うそくせぇ笑).


まぁ僕は別にそんな平和ボケに危機感を持ってむにゃむにゃしてる(?)わけではなく,

自分の身の回りの人(特にこれから長いこと付き合っていくだろう会社の人々)が

全体として何か一つの方向に染まっていきそうな時に(よくわからん表現だけども),

それを少し離れた場所で冷静に眺めることができればいいなぁと,

そしてもしその方向に何かしら危険な何かを感じたならば(「何か」ばっかだな笑),

自分と距離の近い人から頬をぺちぺち叩いて目を覚ます役割を担えればいいなぁと,

妄想も甚だしいですがまぁそんなことを考えたりしているわけです.

…まぁこれは言い過ぎかな,

少なくとも本当に自分が好きな(あるいはずっと長いこと一緒に暮らしていくような)人とは,

それこそ頭も体も全力で付き合っていきたいと思いますね.

その下準備ですかね,今は.

いや,この準備は多分一生終わらないんだと思う.

だって本好きやし(笑)


んー今年はどうも「ゆくくる」的なノリになかなかならんね.

話題から外れる楽しみを見出してから一貫性のある文章が書けなくなった(笑)

こういう時は打ち切りが一番!

というわけでまたまた続く…

時間的に次の投稿は明日になるかもしれないですね.

今年も石清水八幡宮に,徒歩で登ってきます.

去年の記事(の該当部分だけ)しっかり読み返して,

悠々と神社の中で新年を迎えるようにしたいと思います.

そして恒例の缶ジュースお汁粉を…じゅるり.


ではではみなさんよいお年を.
[PR]
by chee-choff | 2009-12-31 22:44 | 思考 | Comments(0)
ゆくとしくるとし(’09→’10)1
いつのまにやら年末.

というのは9割方嘘で,

あっという間だったのはこの3日ほどだけ.

それ以外の時間はひたすら,

遅々として進まぬ,という感じでしたね.

それは良くもあり悪くもあり…というのは後で触れるとして.


実家には今日の昼に戻ってきて,

野菜度の高い鯡入り年越しそばを戴いた後,

たてつけの悪いドア(笑)をごまかし修理したり風呂場を掃除したりして,

今に至る.

家事楽しいね.


子どもに家事やらせるにはやっぱ家事が楽しいと思わせないといかんなぁと思った.

体を動かすこと自体の楽しさは誰もが感得できる.

でもスポーツならゲーム感覚であれこれ動くうちに楽しさが分かるだろうが,

家事だと一度手伝っただけで「目覚める」なんてことは滅多にないだろう.

レイバーの発想で家事を強いると最初からもうダメ.

「やってて楽しい家事」を親が見せれば,とっかかりとしては良し.

子どもはその楽しさに吸い寄せられ,

「なんで楽しいんだろう」という疑問が湧き,

親は直接は答えずニコニコと一緒に作業する.

そのうち,子どもが自分で楽しさを見つけだす.

解を自分で求める動機には,自分発の「?」が必ず要る.

子どものうちは,その「?」を意識して自分の中に発生させることはできない.

大人のしていることを真似て,大人が笑うように笑ってみて,

無意識のうちに「?」が芽生える.

その「?」の発生と(意識にしろ無意識にしろ)解決の経験を通じて,

やがて自分発の「?」を自分で呼び起こすことができるようになる.

それは,どんな状況でも楽しむために,

どんな状況でも好奇心を絶やさずにいるために,

どんな状況でも自分を閉じず周囲を取り込む姿勢を保つために,

大いに発揮されるであろう根源的な力.

そういう力がしっかりと根をはって育つような教育を,

自分の子どもにはしてあげたいなと思う.



と全く達成予定のない話はおいといて,

さて年末ですね.

この「ゆくとしくるとし」も3年目,かな?

年末年始は腰を落ち着ける生活をしよう,というのが定着した模様.

今年の年末年始ははっちゃける気分が全くないのは事実だけれど,

この先も落ち着いて年の変わりを迎えていくのかなという予感もある.

あーやっぱ(趣向が)変わったなと思う.

それも「”変化が激しい”を好む」から「”変化が乏しい”を好む」への変化.

でもそれは正確に言えば「変わらぬ日常から変化を感じ取る佇まい」

に対しての憧れが持てるようになったのだと思う.

これは以前触れた,変化の認知を構成する二要素,

「周りの環境」と「自分の意識(感受性)」の話とつながる.

周りの環境というのは住む所とか勤務地だけでなく,

趣味や仕事や友達付き合いもろもろの行動を含む.

そういった環境から刺激を受けてビビッと来るのはやはり自分であって,

二者は並列的関係ではなく前者より後者の方が「上位階層」にある.

でも周りの環境が変われば深く考えずとも刺激が得られるわけで,

直情径行型の人というのは前者になびきやすい.

1~3回生時の僕はそんな人だったように思う.

自分がそんな型だとは思っていなかったが,

予定をばんばん詰め込んで結果的にそう振る舞わざるを得なくなっていた.

きっとどこかで「深く考えてはいけない」と自制をかけていたのかもしれない.

それは多分,当時としては正解だったと思う.

突き進む時はひたすら突き進む.

変に哲学的な知恵をつけたりシニカル心が芽生えたりすれば,

勢いだけで保っていた行動力なんて簡単に挫ける.

で,まさに型どおり挫けたのが,4回生の時.

今思えば,3回生の後半からLECに通って弁理士を目指し始めたのも,

勢いのみの成せる業だったのかもしれない.

破滅的に忙しかったサークルと学科の単位との両立が解けたのが,

3回前期の終わりであった.

その時,心のどこかにぽっかりと穴が開いて,

わけも分からず「こうしちゃおれん」といきなり将来のことを考え始め,

努力と成果の相関の高い資格なるものに飛び付いたのではあるまいか.

それが,3回後期が終わって春休み,周りに人がいなくなって,

一人で考えるしかない状況になって,

自分の過去と現在と未来を初めて一緒くたに考えて,

愕然となってモノレール終点の彩都駅まで走ったりしたあげく(走ったのは事実です笑),

資格の勉強を簡単にやめてしまったのではあるまいか.

それら思考の流れ,前後関係は今や定かでないが,

「直情径行の熱意」が完全に冷めて,思考の泥沼に陥る中で,こう思ったことだけは事実だ.


 もう「考えない」ことからは逃げない.


その詳細は去年か一昨年の「ゆくくる」に書いた気がするので割愛するが,

というかそれはつまり去年も同じようなことを書いてるってことであって,

どうも本格的に過去を振り返る時には「思考偏重の人」になった時期を

ついつい思い出してしまうのではとふと今思って,

それはある種いっぱしの「呪縛」だよなぁと思い,

逃れるべきなのかはたまた「初心忘れるべからず」なのか,

判断がつかないので今(今年?)は保留.

年毎に振り返るんなら振り返る内容はその一年であるのが順当であり,

というわけでさっさと本題に戻るべく項を改めようと思います.


こんだけ書いたら「予告編」じゃないよなぁ.

去年の「ゆくくる」をちらりと見たのだけど(ガチで見返すと形式にとらわれそうなので),

新年を迎える前は「予告」で,年をあらためてから「本文」を書いていたようですね.

今年はもう本文的になっちゃったし本文にしちゃおう.
[PR]
by chee-choff | 2009-12-31 18:52 | 思考 | Comments(0)
優柔不断のIFOBH高生
>他人が私について抱いている(無根拠な)幻想や(驚嘆すべき)洞察を「込み」で「そういう人間です」というふうに私は名乗ることにしている。
>だって、実践的には「他人がそういう人間だと思っている人間」としてしか社会的に機能しようがないんだから。
(2009.12.28歓待の幕屋)


これを見て「ああ,言い切るとこうなるのか」と思った.

基本的に流れに身を任す姿勢の裏にあるものを正に言い当てているなぁと.

「他人あっての自分」なんてのはもちろんそうなのだけど,

それを表に出しすぎると,「自分がない」「無責任」と言われる.

誰もが納得しているはずなのにうまく言えないこと.

それがさも当たり前のような口調でぽろっと出る.

うわーいいなあ



で,思い出したのは僕の出身高校のクラスの人々.

(タイトルはしみっちゃん(剣道部)命名の頭文字をとったのだけど誰も分からんないよね)

僕含め彼ら(主に僕とつるんでた人々だが)は「優柔不断・付和雷同の猛者」であった.


京橋のコムズにご飯食べに行っても店が決まらない.

梅田の三番街にご飯食べに行っても店が決まらない.

「どこでもええやん!」と誰かが言い,

「ホンマにどこでもええんやな!?」と別の誰かが選択権獲得の意を決しても,

そこからまたレストラン街の今度は「五割増し」の吟味が始まる.

「もーえーやん」と投げやりになっても,その「やりを実際に投げた」人はいなかった(「やり」違い).


あれはあれで楽しんでたのかもしれないし(青いねぇ),

僕が当時「みんな責任持つのがイヤなんやなぁ」と思ってた通りかもしれないし(ありゃ俺だけか),

将来節度あるジェントルマンになるべく忍耐を養成していたのかもしれないし(これがありうるんだな),

はたまた人間観察の格好の場として内心バチバチやってたのかもしれない(今の俺ならそうする笑).





昔の思い出に浸ってたら言いたいこと忘れた(笑)

単に連想しただけかもしれんね.

うあー年末やね.

今年も年賀状書きます.

高3の時「同じクラスのやつランダムで二人だけに出そ」とか言って

サイコロ振った覚えがあるけれど,

(うち一人がほとんど絡みなかった人でもらった相手はびっくりしたやろなー)

またそんなおちゃめなことをするのも風流かもしれない(何が).


うわー脈絡ねぇ

地が出るな,平常心でないと.

落ち着こう.


研究しよ.
[PR]
by chee-choff | 2009-12-29 13:56 | 妄想 | Comments(0)
模範解答
前髪が邪魔なんですね

d0044938_1429217.jpg


d0044938_14293443.jpg

||


もうおわかりですね?
[PR]
by chee-choff | 2009-12-27 19:30 | その他 | Comments(0)
小発明
d0044938_15525116.jpg

[PR]
by chee-choff | 2009-12-26 15:53 | その他 | Comments(2)
ねりなりね
やっと研究やる気出てきた.

頼れる者がいなければ,人は強くなれる.

ならざるを得ない.


小鳥遊練無のセリフを思い出した.


いいよ,一人でやるよ.

実験装置使えなくても.
[PR]
by chee-choff | 2009-12-24 20:59 | Comments(0)
無限の具象化
無限の解釈が可能な文章.

それはただ抽象的というだけでなく,

読解することを通じて自分の生き様が見えてくるような文章.


そんな文章を(=これはそういう文章なのではないかという認識のもとで)読むと,背筋がゾクゾクする.

それは(そういう認識を持たせる過程というのは)自分の経験が読むことを通じて蘇るという経験に加えて,

別の経験を持つ主体が別の解釈をもたらすという具体的な想像がそうさせる.


さらに想像を加えて,ではそのような無限な解釈を可能にする文章の書き手には,

いかなる想像力が備わっているのか?

一人の読み手が想像したいくつかの具体像,その一人のあらゆる集積が書き手の想像対象である.


抽象的な無限とは単なる一つの概念であって,

その無限たる何かを損なわずしてかつ具象化させる知,

それこそが畏怖の対象となる知である.
[PR]
by chee-choff | 2009-12-21 15:42 | 思考 | Comments(0)
『ああでもなくこうでもなく』 橋本治
久しぶりに読書タグを使う.


最近読んだ本で☆☆☆☆☆が出たので(mixiのソーシャルライブラリの話です),

mixiで書いた文章をこっちにも転載.

夢中で書いてたら思いのほかいつもより長くなった.


+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*


橋本治は凄い人.
何がって,「徹底的に自分で考える」ことのできる人だと思う.
理解するとは(頭で分かった後)自分の言葉で語れること,
を金科玉条としてあらゆるジャンルに手を出している.
彼の書く文章は,分野の話でなく本質として,
「雑学」ではなく「教養」である.

一つのトピックの中でくどいくらい同じことを言い続けるのだが,
理解する過程を頭に描きながら読むと,くどくない.
つまり,あらゆるトピックについて「理解するとは
こういうことだよ」の実践解答がこの本には示されている.
だからそりが合わない人にはかなりうざったり文章であり,
似たような感覚を持つ人には「おおおすげー!」となる.

検索してみるに橋本氏は膨大な量の本を書いている.
その著作の中で大売れしたものが少々と,
あとはあまり売れていない(絶版になるって
そういうことですよね)ものが多々あるように見える.
まだ彼の本を数刷しか読んでないので予想だけれど,
「徹底的に自分の言葉で」のスタンスは彼のほとんどの
著作で貫かれているはずで,それでいてこんな凄い文章が
書いてある著作のほんの一部しか売れていない事実は
一体なんだろう,とこの本を読んで考えてみるに,
彼は「本質を突き過ぎる人」というのが理由の一つではないか.
内田樹も同系の人だと思われるが,内田氏の場合は
絶妙なレトリック(誠実さを多分に含んだフマジメ)が付随している.
そのレトリックによって文章の物腰の柔らかさがある程度
演出されているからこそ受容層も厚いのだが,
橋本治はその点では辛辣と言えるほど容赦がない.
それがあらゆるトピックにおいて貫かれているがゆえに,
ひとたびあるトピックで違う意見を持つとなればその当人は
橋本治の文章全体を嫌う,という場面が割と想像しやすい.
つまりは(長々とすみません),橋本氏の文章を読むコツは
論の正当性やら立場やらを気にするのでなく,
論の展開の仕方を楽しむ,「氏の頭の回転のようすを
想像しながら」読むのが良いのではないか,と
たかが一冊の読了後に僭越ながら思い至った次第です.

「ああでもなくこうでもなく」シリーズは全部で6冊あるようなので,
全部読む所存でおります.間違いなく.
氏の存在を教えてくれた内田氏(のブログ)に感謝!

(内容の話が全くないですね.
これ書評じゃないですよね.
今さらながら失礼しました.)
[PR]
by chee-choff | 2009-12-18 19:28 | ハシモト氏 | Comments(0)
type better!
半年ぶり,コンマ2秒更新.

d0044938_2055131.jpg

d0044938_206156.jpg

d0044938_2061190.jpg

[PR]
by chee-choff | 2009-12-13 20:07 | タイプウェル | Comments(0)
(v13)めぐるひととせ<ちえP×リョータイ×秦野P>
ボーカロイド作曲者(P)紹介⑬.
 この丸囲い番号をうつ度に「これ二十までしかないんだよなぁ」と
 思うのだけど(余談だがその理由ってもしや競馬では?),
 その連想で20回で終わるという手もあるなぁと.
 今みたいな生活は今年度で終わりやしそのあたりでキリがいいのかも.


本タグ「V概論」の序論の序論として
ちらりと最後の方に書きましたが、
ニコニコのボーカロイド動画の醍醐味の一つに
作曲者・作詞者と聴き手の距離が近いことがあります。
動画説明文には作曲者が曲へ込めた思いや、
使わせてもらった歌詞やイラストの作成者への
感謝の言葉が綴られます。

聴き手はそこから曲の完成過程を知り、
曲自体に編み込まれた物語に加えて、
物語と現実をつなぐ背景も俯瞰することができ、
物語にも厚みが増し、自分(聴き手)との距離を
ぐっと近づけることができます。

あるいは、作曲者同士の交流も生まれます。
ある曲を聴いて「一緒に曲を作りたい!」と
別の作曲者が感じれば、コメントやコミュニティを
通じてコラボレーションが誕生します。
個人的にはこの(金銭の授受を介さない)純粋な発表の場が、
作り手同士の距離も縮めているのではと思います。
 (もちろん何かしら利するものを糧として広がる
 輪があることは全く否定しません。この辺りは
 僕自身の好みの問題ですが、際限のないネット空間に
 何らかの制限(例えば今の僕の流行に沿って言えば
 「身体性が確保できる空間」)を加えずして膨張し
 続ける欲望を自制できないものと僕は考えていて、
 「無償」をそのひとまずの枠組みとして設定している、
 ということです。社会人になれば大いに変わる余地が
 ありそうな気もしますが。)

話を戻して…
そういった作り手側のコラボの形の一つを今回は紹介。
同じ歌詞に感動した二人の作曲者がそれぞれの
曲を作るというのは、なかなかロマンチックです。
(拍子も違うし、サビの位置も違う!)

作詞者はリョータイさん、
対しての作曲者は、以前紹介した秦野Pさんと、
「コードの魔術師」ちえPさん。

月花ノ姫歌 【初音ミクオリジナル】 (ちえP)
ちえPは数曲聴けば「ちえP節」が分かる程の
独特のコード進行の使い手。
その意味ではとちPさんも似ているのかなと思いますが、
同じように聴いているうちに自然に感じてきます。
この曲は本人も触れている通り、ポップンの
「撫子ロック」に触発(?)されて作られたようです。
個人的にちえP節全開なのはこの曲。
【初音ミク】ロケット宅宙便【オリジナル】

【鏡音レン】月花ノ姫歌【オリジナル】 (秦野P)
一方の秦野Pは変拍子。
ドラムもベースも存在感たっぷりでありながら、
ピアノと調和して和風が心地よく醸し出されています。
歌い手さんも同時紹介。
「月花ノ姫歌(秦野P ver.)」歌ってみた*mitten
[PR]
by chee-choff | 2009-12-13 18:30 | V概論 | Comments(0)