深爪エリマキトカゲ
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たぶんかなりおいしいはなし[Microsoft]
のはずなんだけど,どれだけおいしいのかがイマイチわからない.

ってわけで誰か分かる人いれば教えて~☆

https://www.dreamspark.com/Default.aspx

マイクロソフトの会社説明会に行ってみようかなとサイト巡ってたら見つけた.

学生特権でいろんなソフトが無料で手に入るらしい.

なかつくんあたりが詳しそう…

情報求む.


ちなみに説明会はきっと行きません.
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by chee-choff | 2009-01-30 16:22 | Comments(4)
1.28typewell更新
基本常用語とカタカナ語。

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10.78 打/秒。

ミスが減ってきた。


布教用にマイリンクの一番上にtypewellのリンク貼ってみました。

タイピングに目覚めたい方はどうぞ。
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by chee-choff | 2009-01-28 22:04 | タイプウェル | Comments(2)
カゼひいた
おとといの夜.

油断した.

新聞販売のおっちゃんと玄関ドア開けて喋ってたのが恐らく原因.

なんかだるいなー,なんか肌が乾燥してるなー,

と思いつつ必要以上にふわふわしながら読書していたが,

ふとんに入る前にやっと気付いた.


発熱してる…!


体温はかると38度超え(平熱は35.9).

家にミネラルヲーターしかなかったので近くのコンビニにポカリを買いに行く.

2リットル一本330円てどんだけぼったくり…と思いながら3本購入.

その夜はひたすら飲んではトイレ行きを繰り返してました..


で,一晩で一本消費し,翌朝には平熱に落ち着く.

ポカリは依然おいしく感じられるので引き続きぐびぐび飲む.

(ポカリは普段不味いのだけど風邪をひくとおいしくなるという

「ポカリと風邪の相関関係」を発見したのが病弱であった小学生時代.)

立つと足がガクガクしてあまりまともに歩けないが,

ぽけーっとしながらも活字は読めるので新聞やら本やらをひたすら読む.

行動としてはいつもと変わらぬ週末.

行こうとしてたカフェに行けなかったことだけが残念.


いやーポカリさまさまですね.

発熱を薬やらビタCやら一切使わずに短時間で治めるという荒療治を

体得したのは確か大学3回の頃.

以後幾度となく早期回復に貢献してくれたこの療法に敬意を表して

 「ポカ療治(ポカリょうじ)」

と名付けよう.

治るのは確かに早いがいかんせん体に負担をかけるので,

「(せっかく)風邪ひいたんだからゆっくり休みたい」

という人にはおすすめしない.

そして当然だが,万人に効くとも限らないので要注意.


(どうも自分は特異体質な気がするので殊更この療法の一般性には自信がない.

例えば「柑橘(かんきつ)類を食べると頭だけ汗が出るほど熱くなる」とか.

あ,それ俺も!という人がいればぜひご一報を..)


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+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*


世はセンターですね.

朝刊に一日目の問題と解答が出てた.

ふと思い立って現社の問題を解いてみた.

→88点.

マージナル・マンとか久しぶりに聞いた.


全体的に自信なかったのだけど,

意外な高得点に少し驚いた.

まぁ現役時代よりは常識も備わってるはずで,

当時より下がってたらそれこそ記者志望だなんて口が裂け(ry

(高3時は無勉で68点かそこら.

ちなみに当時,世界史はセンター科目の中で一番時間を割き,

センター本番も80後半超えの手ごたえを感じたものの,

実際は現社を下回る57点で入試科目に使わなかったという

悲しい出来事は今でも鮮明に記憶にある.)


+*+*+*+*+*+*+*+*+*


以下センター現社の問題のネタバレなので

問題解いてみようと思ってる人は注意.






マズローといえば「自己実現理論」だった.

「マージナル・マン」を提唱したのはレヴィン.

記憶が曖昧だと一番引っかかりやすいパターンに見事に引っ(ry

Wikiると懐かしい図がでてきたので載せてみる.


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下から生理的欲求,安全の欲求,所属と愛の欲求,承認の欲求,自己実現の欲求.


当時の倫理の教科書(ローカルだがB5のエメラルドグリーンのやつ)は,

哲学者を開拓する際に入り口として使えるので今でも重宝しております☆
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by chee-choff | 2009-01-18 19:51 | その他 | Comments(0)
Totem oh, subby.
さーぶいっす。

京都の冬は寒いスね。

大阪と同じノリでは越せ切れんかもしらん。

ハロゲン1つでどこまでいけるか。

つか今日雪っすよ!


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一日数冊の併読に慣れてきていたが、

昨日は久しぶりに一気読みで森博嗣『数奇にして模型』を読了。

計10時間ちょい。

Fに次ぐ良作と感じた。

というのも、今作はサブキャラの知的活躍がめざましかったように思う。

→大御坊氏、国枝助手etc.

大御坊氏の絵は最後まで定まらなかった。。

(関係ない言葉面の連想だけど、大御坊→鶏牛蒡になぜか笑えた)

 型(Model)とは、形が成るまで(形成)のプロセスの継承。

成程。 


+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*


読み終えたのが今日の3時(昨日夜中27時)で、

今日一日外に出なかったから寝る前に外気を吸おうと玄関を出ると、

雪がしんしんと。

雪が「生」に思われるほど街は「静」。

「死」という感性的なものでなく。


逸れた。

雪はテンションが上がるもので。

というのも

「せっかくこんなに寒いんだからもったいぶらずに雪降れよ」

と思うから。


というのは単に(勿論個人的に)理解しやすい連想なだけであって、

ではなぜ雪でテンションが上がるのか。

感情的な理由と、生活観に寄り添った現実的な理由がある。

…考えてみよう。


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なぜこんなことを言い出したか。

(もといなぜこんな「思考提示」を言い出したか。)

犀川シリーズに限らず小説ならよく出てくる場面、

数ページ(もしくは数十ページ)にわたり主体の思考が綴られた後に

「…という一瞬の思考が彼によぎった」といった描写。

いや一瞬なわけあるかと初めは思っていたが、

どうやらそうでもないような気がしてきた。

思考は一瞬なのだけど、

それを言語化するには膨大な記号情報が必要なのだ。

いくつかの情景が脳裏にフラッシュバックしただけでも

順序立てが必要な文章に起こすには労を要するという、

(動画>)画像>文章という情報量の違いもその大きな要因なのだけれど、

それだけではない。

脳みそスゲェ。


+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*


最近ブログの記事が備忘録みたいになってきた。

未完結にも程がある。

とても人に読ませるものではないなぁと意識はしつつ、

まぁ意識してればいいかと…

違う違う、どのような思考の切れ端でも、

ビビッと読み手のインスピレーションを刺激することはある。

その表現が短いほど核心を衝く時の衝撃は大きなもので、

(ここでいう核心は例えば、読み手のタイムリーな思考とのリンクなど)

変なこと言うと期待値は等しいけれどより可能性は低く

しかしアタリはより大きくという宝くじ的発想ではありながら、

その宝くじや競馬その他賭博のように胴元の懐が常にぬくぬくといった

出来レースを期待するものでは全くなく、

還元率100%の勝負師にとっても優しい正に「真剣勝負」なのである。



つまりまとめれば、

「想定する被インスピ人間は少なくとも境遇の異なる他者ではなく

つまり未来の自分を想定しているからして、というわけで

それでもやっぱり備忘録」ということ。

なんだこりゃm(_ _)m




なんだこりゃ。

書いてる言葉尻から新たな連想が生まれるのはまぁ楽しいとして、

それにホイホイついて行って連想表現を繰り返すとあらまぁなんと

本人にも理解しかねる支離滅裂の文字の羅列が我が背後にびっしり。

そういった無秩序志向の芸術もあるが、別に芸術性は求めてない。

あえて修正しないで後で読み返して悶絶する自分が何ともm(ry

あれなんかデジャブ。


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やっと本題。

雪でテンション高いのでかふぇーまでいってきます☆

もう行きつけと言って差し支えなかろう「Veloce」へ。

ちゃんと数えてて昨年10月から行き始めて今日で16回目。

行きつけのカフェが徒歩50分というのは少々考える余地がありそうだが、

「考える余地」の補集合は「考えない余地」である。


「補集合」って日常会話で使えるようになりたい


いってきまーす
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by chee-choff | 2009-01-12 12:10 | 妄想 | Comments(0)
あけましてニューレコード
正月の間実家でパコパコやってたら新記録出た.

キーボードが違うということで非公式ではある.


速くなったという実感は1ヶ月前くらいからあったが,

それがやっと結果に出た.

トップスピード,行ラップタイムの更新記録とともにpick up.

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速くなったまたひとつの要因としては,

タイピングの先行トレース量が増えたことにある.

一打うってる間に一つ先しかトレースしていなければ,

得意な単語(キィ)が来た時にストレージが空になり明らかに減速する.

というわけで3つ4つの先の指の動きが常に頭にあれば,

得意ワードで変に勢いづいてつまずくことは少なくなる.

逆に言えば,変じゃない勢いづきを有効にタイム短縮につなげることができる.


タイムを縮める方法はまだ知ってるのだけれど,

奥の手的でありまだ早いような気もするので手を伸ばさないことに.

(変動HP,ワードごとに最適な運指,とか)
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by chee-choff | 2009-01-09 14:58 | タイプウェル | Comments(0)
ゆくとしくるとし08→09 (4)
おお…

これはキリがないぞ(笑)

書きたいことがどんどん溢れてきて、

かつ筆が若干すいすい進むようになったのは

本を読んできたおかげかも知れない。

が、まとまらない文章をいくらでも書けるというのは

この先必ずしも役に立つとは限らない。

つか役に立たない。

ということでまとめよう、まとめよう。 はぁ。


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とは言ったが、もちろんまとめる気はない(笑)

書きたいことを書くだけ。


07→08で何を書いたか。

 確認せずとも覚えている。

 というか、自分の書いたブログはわりと何度も読み返す習慣があり、

 ”ゆくとしくるとし07→08”の記事(実はタイトル改変した)は特に頻度が高かった。

 先に述べた「過去の自分は他人」という観点に立てば、

 案外「へぇー」と言えるものである。


「来るもの拒まず…」と書いたのは、

まぁ多少の不手際はあれ実践できたと思う。

そもそも「来るもの」があまりいなかったのもあるが、

「来るもの」に本も含めればまぁ上出来かと。

 読書については、本の選択には自由が利くものの

 選択した本を読み始めてから、それを読了するかどうかは

 「来者不拒」の精神が問われるところである。

 タイトルや前書きで想像した通りの本とは限らないため。

おかげで広いジャンルにおいて問題意識を持つことができるようになったと思う。


「見えないものを大事にしたい」とも書いた。

これは…確認するのは難しいが、

まぁ意識は保てたように思う。

それを言語化することに意味を見出せたことも大きい。

ただ、「人」という意味での生身の感覚は希薄になってしまったように思う。

就職活動や入社試験を迎えるにおいてこれは危険信号でもあるが、

どうもその感覚を取り戻す意志がいまいち盛り上がりに欠けるところがあって、

これは…会社説明会等を通じて勢いをつけていかねばと思う。


あとは忘れた。

ので、見返してみた。

「討論仲間を持ちたい」とも言っていたようだ。

これは…少しは達成できたのかな。

研究室で真面目な話を闘わせることのできる人ができたのは素直に嬉しい。

自分の考えを(自分が納得できるよう)言葉にすることがいかに難しいか、

さらにそれを他人にうまく伝えるよう表現することがいかに難しいか。

討論を通じて実感することができた。

自分では当然と思っていた事柄が実は浅薄な盲信であることにも気付かされた。

やはり他人と意見を生でぶつけ合うことは必要。

が、酒を入れ過ぎると丁寧さに欠けだんだんと主張至上(言いたいだけ)の姿勢になってしまうので

できればしらふか少しばかりの酒(美酒ならぬ”微酒”)を肴にやりたい。



振り返るのはこのくらいにして、さて今年はどうするか。

なんつーか…去年の意志の貫徹、てことで。

まだまだ発展途上の過渡期である。

ぶっちゃけ楽のできる環境にいるが、

決して怠けることのないよう、

言葉通り体に鞭打って思索に励もうと思う。

体は常に享楽を欲していようとも、

頭と心はそれを否とする。

「考える人間」を自負する者として恥じぬよう、

一日一日を本気で過ごしていきたい。


+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*


別に最後の方力尽きて手抜いたわけじゃないですよw

新たに言うことがほとんど無かっただけ。

形式的な意思表示になっちゃったけど、

まぁホントのことなんでこれを戒めとして頑張りたいですね。


+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*


書きたいことがあったことを忘れていた(汗

今年(から)常に意識しておきたいこと。

・常識、通念に合理的考察を加える

 …目指せマイノリティー人間!とは我がポリシーの一つであり、

  思考無用の物事を敢えて思考対象に据えることで

  昨年とはまた違った妙なオーラを発しようと目論んでいたり(笑)

  ただ「非常識」では社会に出て行こうとする上で話にならないため、

  常識を知りつつなんとか許容範囲スレスレでオモシロオカシイ事を

  企むスタンスということで「反常識」を実践する所存。

・演繹と帰納

 …ある出来事を抽象化し、又はその抽象をアナロジーとして現実問題に適用する。

  誰でも常日頃から(無意識のうちに)実行しているこの二つの所作を、

  敢えて意識化することで自分の考え方を思考対象にする。

  「考え方の考え方」とは内田樹が言っていた記憶があるが、

  そのようなメタ思考(もしくは”メタメタ思考”…というのか知らんが)を実践する。

・物事を相対的に捉える

 …これは一つ目とも関わりがあるが、

  何か無意識に思考停止を促す物事に遭遇したとき、

  そこに「絶対的なもの」を(もちろん無意識に)想定していることを疑う。

  思考の根本に対象の認識があるがゆえ全ては相対的である、

  という意識を持つ。

・考えることを楽しむ

 …特に上3つについては。

  無理してネガティブになる必要はないし、

  (無理しないネガティブというものはある)

  思考の結果、嫌な疲れ方をするようならそれはマズいと考える。

  (もちろん運動と同様、思考についても心地良い疲れ方はある)

・必要性と他者

 …かなりの暴論なので詳しくは省略。自戒を込めて表題のみ。

  敢えて一言で表せば「人様には極力迷惑かけんな」ということ。

  …というのはウソで(関係ないトコの本音ですこれ)、

  「必要性の起源は他者にあると心得よ」ということ。


3つと思ってたら5つに増えた(笑)

文章にできるのはこれくらいか。


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つわけで、

みなさんどうぞ今年もよろしくm(_ _)m

chee-choff



p.s. 今回はこの曲をリピート再生して書いておりました。

   100回は確実に聴いたな、うん(笑)

   原曲もよさげなのでゼヒ聴いてみてください☆

[pop'n music15]<撫子ロック>-凛として咲く花の如く-をピアノで弾いてみた
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by chee-choff | 2009-01-03 22:14 | 思考 | Comments(2)
ゆくとしくるとし08→09 (3)
昨日書いた文章を今日見返すと、

訳の分からない部分が沢山あった。

そう思い加筆修正を行うと、

前後の整合性に対する疑問が増えた。

…もう知らんw

とりあえず書き切り、正月が明けてから見直した時に

また修正すればよいという甘い考えを採用。

修正作業は当然のことながら筆の歩みを遅らせる。


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志望理由を書くのはやめた。

理由には公私の区別がつくものと考えているが、

(公がタテマエ私が本音、という意味ではなく、

公がある程度通念や常識に譲歩した表現であると考えて用いている)

今のところ私に対し公があまりにも貧弱で、

その差異をここでさらしたいとも思わないので、

もう少し頭の中だけで考えることにした。


ということで少し話題を変え…

工学部にしてなぜこのような考えに至ったかを少し考えてみる。

工学といえばものづくりであるが、新聞も発行される紙を販売する意味で

同じものづくりである、とどこかのフォーラムで聞いたような気がする。

ものづくり云々は多分そうだろうとして(その分類自体にはあまり興味はない)、

問題はその「もの」が何かである。

工学なら例えば機械(以下、モノとする)。形がある、機能をもつ、効果が目に見える。

新聞は情報。それ自体に形はない、機能はない、効果もない。

情報は形のあるものに価値を与える。

もちろん形のないものにも価値を与える。

実感を与えるのは? モノ。

機会を与えるのは? 情報。

欲望を増幅させるのは? 両者。

欲望を抑制するのは? …情報。



この先はまた思いつけば書く。

とりあえず違いを考えてみたかったので並べただけ。


さて。

工学部で様々な講義を受けるにあたり、

自分は恐らく合理的な考え方を学んだ。

科学の緻密さ、正確さ。

 モノがそこにある実感、モノが作られる現場の感覚。


不自由な、又は満足でない生活をする人々に、

どのようなモノを提供すればその生活が改善されるか。

使う側の身になり、開発において試行錯誤を繰り返す。

自分の持つ知識・経験を総動員させ、問題解決に取り組む。

完成した製品を、消費者が使う。

苦しかった生活が目に見えて変わり、それが身をもって体験される。

否定しようのない、幸福の増幅。

消費者の体験談をもとに製品の改善を行う。

よりよいものを作るために。

もっと多くの人の笑顔を見るために。

より便利な製品を通じて、社会生活が少しでも豊かになるように。


この製品の提供・改善サイクルの循環における、

前提とは何だろうか。

問われることのない、大前提。

それは、

「モノづくりを通じて、世の中をよくすること」

 モノづくりは、科学を否定しない。

 科学は、モノづくりを否定しない。

 (科学の在り方を問う科学哲学については、ここでは触れない。

 科学哲学が科学に含まれるか否かを知らないので)


工学部で学ばなかったこともある。

それは、

 「工学を否定する価値観」

これは、当たり前のことかもしれない。

何物かに価値を加え、それを商品として消費者に提供し、対価を受け取る。

その商品を作る企業。

その企業が商品に与える価値は、消費者にとって「いいもの」であるはずである。

そうでなければ商品は売れない。

そして、ほとんどの場合その価値は企業にとっても「いいもの」であるはずである。

要するに、

企業の価値観に即して製品(商品)に価値を与えるにあたり、企業は

 「自己言及」 はするが、

 「自己否定」 はしない。

「この商品、実は使い道ないんですけど、作っちゃったんで買って下さい」

と真面目に宣伝しても、誰もその商品を買わない。

(真面目でない宣伝=ブラックジョーク)


この「自己否定」を厭わない産業があるのではないか。

思うにそれは、マスメディア。

情報を商品とするマスメディアが、

なぜ「自己否定」を成し得るか。
           ネタにできるのか。      09.3.30訂正

それは、「自己否定」自体が情報だからである。

 「自己否定」自体が、商品になり得るからである。

もちろんおおっぴらにメディアの存在を否定するなんてことは

どの媒体もやらかしていない(はず)。

ただ、あからさまでなくとも、メディアの発する情報は

「自己否定」の余地を常に含んでいる。

それは「自浄作用」の一部のようにも思われる。

(もちろん自浄作用の大部分は、自己反省を通じて

公正さを担保するためにある)


ここで「メディア」とひとくくりにしたが、

なぜ自分が新聞に注目しているか。

ここではテレビとの比較のみで済ませることにする。

これらのメディアは自らが得た情報をいかなる媒体に託して社会(消費者)に提供するか。

新聞は、文字(文章)。

テレビは、画像(動画)。

どちらの媒体も利点・欠点を持つが、言いたいことだけを言うことにする。

画像も文字も、作成されたものは全て同じよう(=基本的に視聴者によって

内容・形式に差がない、という意味)に視聴者、読者に提供される。

画像は、見たままの情景を視聴者に伝える。

 あたかも、視聴者がその現場にいるかのように。

 (この際、撮影者の主観が撮影する映像の選択に入るのは周知の事実である)

一方で文字は、読者一人ひとりに違った印象を与える。

 ある小説に対する感想が一人ひとり違うように。

もちろん画像にも視聴者の受け取り方の差異はあり、

文章を書く記者に言葉を選択する主観も存する。


ここで問題にしたいのは、程度である。

メディア側の主観の入り具合はここでは言及しない。

むしろ視聴者、読者の受け取り方の差異に注目する。

情報を受け取る、つまり外界の情報を自らの所有に変換する過程に

いかなる余地があるか。

それは「考える余地」である。

言わずもがな、圧倒的に画像より文字の方が大きい。





疲れたので結論だけ言うが、

考えることに大変大きな価値を見出した自分は、

人によりよいモノを与えて幸福になってもらうのではなく、

モノの多寡に関わらず人が自ら、

モノの価値を見出してもらいたいと思うようになったのである。


あれ…なんか書いてるうちに志望動機っぽいものになってる気がするけど、

…まぁ中途半端だからいいや。

もっと洗練させるべく思考を怠らないようにしよう。


考えさせたいんなら本書きゃいいじゃないか、

という疑問に答える話がこの記事のどこにも書かれていないので、

それもまた考えとこう。
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by chee-choff | 2009-01-03 19:08 | 思考 | Comments(0)
ゆくとしくるとし08→09 (2)
主にどのような本を読んできたか。

基本的に、脈絡なく様々なジャンルを読みあさってきた。

「考える余地のある本」という条件つきで。

たまに息抜きに読むようなものを除けば、

思考を促す、または考え方を提示する(問う)本がほとんどであった。

ここで書評はしたくないので触れるだけにとどめるが、

思考を促す本としては内田樹の諸著作、

考え方を提示する本としては『考える快楽』(グレイリング)、『人生論ノート』(三木清)が

強く印象に残っている。


なぜ「考えること」にこだわるのか。

 それは、物事を知る、知らないの違いで、いくらでも人生が変わるから。

 そして、自分が手にしたい幸せの形式について、

 「知らないことで手に入る(保たれる)幸せ」は許せないと思うから。

思いつくままに並べてみたが、どうも言葉足らずのようだ。

まだ、明確に表現するには未熟である。

ただ、自分の根底にある「変化」に対する願望と、

先に述べた一年半前の自分の無知(無思考)の自覚は、

「考えること」への執着に大きな影響を与えているように思える。


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昨年一年を通してのハイライトは何であったか。

一昨年の年末には確か院試の前後で人が変わってしまったと書いた気がするが、

そのような劇的な出来事は昨年は何もなかったように思う。

一昨年の変化の程を確かめるべく、サインカーブの下り坂を転げ続けていた一年。

(サインカーブはテンションの波あるいは社交度合・活発度の波の比喩と捉えて欲しい)

新聞記者を目指すことに決めた事も、その流れに沿った小さな出来事の一つに過ぎない。


年間を通して一人で思考することを好んだ自分は、

年間を通して「できれば近づかないでほしいオーラ」を放出していた。

たまに人恋しくなったこともあったが、冷ややかに言えばそれも

習慣に基づいた形式的な欲求であったようだ。

それはある友人と共に居る時、図らずも言動に顕れてしまった本音が物語る。

(私信 その節はすまなかった。貴殿は小生が気を許せる数少ない友人であることを

 どうか心に留めておいてもらいたい。その方面では自信のある小生にも増して、

 貴殿は人の本音を引き出す物腰の柔らかさを有していることに間違いはない。)


ここからは更に言葉足らずで、いささか乱暴な展開になることを容赦願いたい。

(ここで長時間筆が止まり、悩んだが、厳密に表現しようとするのは不可能だと判断した)

なお、その都度ことわってはいるが、以下、スペースの入る段は話が大筋から逸れている。


自分は、他人あっての自分だと思う。

自分だけを見つめて(思考により)満足することは不可能である。

(思考なき満足は全く成長につながらないとは言わないが、

 自己成長を認識するためには思考を要する)

自分のことに最も興味がある、それは確かだが、

それは他人を通してしか把握することができない。

自己の存在自体は絶対的でも、その認識は相対的である。

世界に自分一人しか人間(もとい生物)がいなければ、

彼は自分のことを考えるだろうか?

(その意味で絶対的な自己というものに、

どのような価値を見出すことができよう?

価値は差異の認識から生まれる。して、価値は相対的である)

他人は自分を映す鏡である、とはよく言われる。

ここで言う「他人」には、本を含めてもよい。

本を読み、他人の意見を咀嚼し、好悪の判断を下すなりして

相対的に自分の意見を打ち立てる。

自分と他人の意見を並列することで、自分を客観視することができる。

その意味で、本も他人に含める。

 少し逸れるが、

 他人(人)と他人(本)のここでの違いは、臨場感と、持ち得る思考時間。

  臨場感あふれる他人との触れ合いを学部では膨大に経験してきたが、

  その経験に対する思考時間がほぼ無きに等しかったために、

  ふと落ち着いて考えた在るべき自己と現実との間に深い溝を感じ、驚き、

  思考時間を十分に得た(あるいは思考のツールを十分に備えた)自分が

  以前(学部時代)と同様の状況に放り込まれた際に何を感じ取ることができるか、

  その差異(成果)を期待し、為の準備期間として今の独りの自分がある。

  今の自分に対する他人は、本が大勢を占めている。

  もちろん現実生活として、人とも本とも大量に付き合っていくのが理想であるが、

  ひねくれかつ不器用な自分は、極端(他人=人)に極端(他人=本)をぶつける発想に至った。

  これは一つの、被験者を自己とした、実験である。

  このような好き勝手な生活が許される状況に感謝したい。

  すなわち、我が両親に。

疑うべくもない自分への理解の欲求がある。

そして、他人の理解なしに自分の理解も進まない。

 先に述べた「自分を客観視すること」が、自分と関係はあるが少し違うもの(意見)や

 関係も想定できずかなり違うものに対し意味づけを行うにおいて、

 どれだけ実行できるかによって自分への理解の程度が決まる。

 主観的な見方は、自己理解の糧には成りうるが、あくまで素材である。

 それだけでは理解は進まない。

 (客観視は周りと比較する自己も把握するため、主観を含むと考える)

 (主観のみで生きる人間が成長・変化しない、とは言っていない。

 変化はするが、それを自分自身で認識できないと言っている。

 そのような人間は基本的に空想の産物と思われるが)

 主観を発揮すべきは、他人(自分を含めてよい)の意志を奮起(操作)する際である。

 感覚的な影響力では、客観より主観の方が強いと思われる。

 失礼、逸れるが言いたかったので言った。

ここまでを前提として本論へ進む(本論が何かとは問わないでもらいたいw)。

先に、「自分のことについて何も考えていないと思われた」と述べた。

これは、「大学生活で数え切れない程の人々と関わってきたが、

(実際あるかは別として)彼らから得たものについて何も語ることができず、

彼らを語ることすらできなかった」経験が、そう言わせた一因でもある。

何か良い経験をして、それを言葉で表せないからといって、その経験から

何も得るものがなかったと考えるのはあまりにネガティブであり、

そしてほとんど事実でない。

だが、当時の自分はその状態に愕然としたのであった。

(これについての分析は(1)の後半に書いた)

この驚きが、自分の想像する目指すべき将来を、明確にしたように思う。


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ここから、記者志望の理由などを語る…流れにあるが、

実はあまり乗り気でなかったり(笑)

当初の方向性を取り戻したい思いもあるし、どうしようかな。

…寝て起きたら何かしら考えがまとまってることを信じて、

今日はここまで。 ういー目が痛い。
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by chee-choff | 2009-01-02 23:37 | 思考 | Comments(0)
ゆくとしくるとし08→09 (1)
1日は非常にまったりと、本を読んでた。

してることは普段と変わらないのだけど、

時間の流れがとても遅く感じられ、

なんともスローな元旦を過ごすことができた。

そのおかげで書くのが2日になってしまった。。


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初詣はどうなったか。

…間に合いませんでした(笑)

家を出たのが新年20分前。

年が明けるまでに神社にたどり着くべく

行程の半分以上を走ったのだけど、到着したのは0:03。

何の感慨もなく新年を迎えた。


鳥居を抜けてしばらくは人はぽつぽつであったが、

拝殿の入り口で凄まじい人混みを目の当たりにし、

賽銭を投げる気力もなく休憩所へ向かう。

もともと祈る気はなかった。


寒風吹きすさぶ屋外では幸福の象徴であるかのような

湯気をほわほわ舞わせる出店の並びを遅い歩みで素通りし、

普段無機質に思われるはずの自販機の煌々とした明かりに引き寄せられ、

缶おしるこを一本。


うまい。


休憩所のベンチで人間観察をしながら体を休め、

一息ついたところで下山。

帰りは去年と同じく電灯のない山道を歩く。

一日前の天気予報では雪が降ると言っていたが、

そんな気配もなく空もほぼ快晴。

月明かりのみならず、星々の光も夜道を照らすかのよう。


時々すれ違う参拝客の会話。存在音。

笑い。衣擦れ。のろけ話。木の葉を踏む。回想。拍手。

それらを全て呑み込む、静寂。

生活音の無さに乾いた空気も相まって、圧倒的であった。

 普段、耳を澄まさねば聞こえぬ、感じられる、静寂。かよわきもの。

 だが、そのかよわきものは今宵、如何なる違いを経て其処に有る。

 無い。 如何なる静寂に、相違は。

 有る。 如何なる時所に、静寂は。


山道を抜けてからはふらふら寄り道をば。

中学の通学路を懐かしく通り、学校が見渡せる高台にて無心。

いい加減体の冷え具合が我慢ならない時点で、帰宅に一心。

25時過ぎ到着、風呂に入ってさっさと寝る。ぐぅ。


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昨年度の総括と、今年度の抱負を語りたい。

もとい、語りを通じて思考を整理したい。語りは二の次。

というわけで昨年末の駄文をお読みの方はご存じの通り、

この先極めて脈絡のない文章が展開される予定。

 (実は自分の中でこれを毎年恒例にしようと目論んでおり、

 その意味で昨年と文書(の展開)形式を揃えようかとも思ったが、

 見直してしまうと今の思考が引きずられそうな気もするので、

 あとで見返した末にどうするか判断しようと思う)


昨年はどんな年であったか。

行動で言えば「とことん本を読んだ一年」であった。

4月からまともに数え始めたのだけれど、

8ヶ月でざっと90冊弱。

高校時代に読んだ本が読書感想文のための数冊だけ、

という過去を見れば驚くべき数字。


しかしその数字を見ずとも、自分は変わったと思う。

この一年半で。

一年半前に何があったかは詳しく言うまいが、

本をむさぼり読むようになったのは当時ある出来事があり、

自分が高校時代と全く変わっていないことを実感したことがきっかけである。

と言ってもその時一番ショックを受けたのは自分が変化していないことではなく、

自分のことについて何も考えていなかったことであった。

もとい、自分のことについて何も考えていないと思われたことであった。


ひたすら周囲の環境に適応し、何でもそれなりにこなす。

それを付和雷同、迎合主義と言われようとも、

適応の方法、その捉え方に、主体性を混ぜ込んで選択してきたと信じていた。

そのスタンス自体には何ら不満はなかった。

しかし、それを言葉で表現するにあたり、何も言えなかった。

何だかよくわからないが自分はいいものを持っており、

実感もあって(少なくとも自分の中では)誇れたのであるが、

それを客観的に表す術がなかった。

言葉にできなくとも育つものは存在すると思っていたが、

 それを言葉にできれば、もっと育つのではないかという考えが頭をもたげてきた。


人はその成長の過程で、自分の行動、成果の足跡を残し、

それらを過去の自分に見立て現在の自分と比べることで成長を実感する。

学校ではその成長モデルが、児童・生徒にとって無自覚のうちに適用される。

通信簿、定期テスト、学園祭。

科目の評価点が良くなる、テストの成績が上がる、

ばらばらだったクラスが一つになる。

よくわからないけど言われるままに始め、

何だかこうすれば面白そうという興味のもとに主体性が生まれ、

教師に誉められる、仲間の笑顔が増える、達成感が生まれる。


ご多分に漏れず全く無自覚であった俺は、

その成長モデルに面白いほどバカ正直(素直)に取り込まれ、

達成感を生き甲斐と感じられるほどの人間になった。

その達成感は主にテストの点数を上げる行程により培われたが、

それだけが価値のあるものではなく、

そしてそれだけが自分の成長を確認できる術であると

勘違いすることなく達成感のレンジ(適用範囲)を拡げられたことは、

考えること自体に価値を見いだす現在の俺にとって幸いであった。

もっとも、両者は鶏と卵の関係にあると言った方が正確であるが。


少し話が逸れた。

この成長モデルは小・中・高校に特有のものであるが、

その中で「成長を客観的に認識する」点は生涯にわたり

重要ではないかと気付いたのだ。

(今の自分はむしろ成長→変化としたいが。)

数字として、言葉として示される成長・変化の大事な所はなにも、

それが目に見えて分かりやすい、実感しやすいという点だけにあるのではない。

その示される記号自体が、新たに思考を与えるのだ、と。

(ここで言う「新たな思考」というのは、

「今回はテストの点数悪かったから次は頑張ろう」ということではなく、

「このテストの点数(の良さ、悪さ)は何を意味するのだろうか、

 この点数が表し切れないものがあれば、それは何だろうか」

ということである)


さっきの話とつなげると…自分は見えないものの価値を見出したいと言っていた。

見えないものは言葉で表現し切れない、感覚でしか捉えられないもの、と考えた。

その見えないものを感じるには言葉(→記号、記号表現)に頼ってはいけない、と思っていた。

しかしそうではなかった(と今では思う)。

記号に頼りすぎて感覚がおろそかになるのはいけない。

(例えば、合理主義が行き過ぎ論理の整合性が目的になるのは本末転倒であり、

それは要素科学の限界と、生態学の可能性との対照に見て取れる)

が、その陥穽の存在を理解してさえいれば、

記号を使いこなすことで感覚がより研ぎ澄まされるのだ、と。


この辺の話はもちろん一年半前から考えていたことではないが、

当時の自分を分析するとこのような思考の流れが当時の出来事前後の

自分の哲学(ものの考え方)の変化を上手く表せているのではないかと思う。

そして一番言いたいのは、この記号(→言葉)の力を実感したのが、

「本を読むこと」であったことだ。


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実は今年の”ゆくとしくるとし”に書こうと思っている事を

箇条書きでまとめたものが手元にあるのだが、

初っ端から無視してぶっ飛んでいることに気付いた(笑)

やはり書きたいと思ったことがそのまま文章に表れるなんてことはあり得ず、

それは頭の中で浮かんでいることには言葉以外に画像その他も含まれ、

それらが自分の思っていた通りに把握されていない(これはもし

そうでなければ、言葉として外に出した時点でその言葉に本人は何も

疑問を抱かず、新たな発想が生まれることもないことを考えれば実感できる)と、

つまり「言葉は常に言い足りないか言い過ぎであ」り、

「文章は自分との対話であ」り、                 

「過去の自分は他人である」のだなぁと思う。           


というわけで書いてる本人も最終的に何が言いたいのか分からないまま、

筆先を次の記事に移すとします。

あーたのし☆
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by chee-choff | 2009-01-02 18:21 | 思考 | Comments(0)