深爪エリマキトカゲ
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カテゴリ:思考( 133 )
自責と他責/脳とのおはなし
恐らく『「不自由」論』(仲正昌樹)に触発されて書いたであろう文章.
本書のあとがきの「思想と実践の分離」の話が核になっている(はず).
書評は以前アップしたのでここにリンク張っておきます.


「不自由」論―「何でも自己決定」の限界
  • 仲正昌樹
  • 筑摩書房
  • 756円
Amazonで購入
書評


+*+*+*+*+*+*

自責と他責

2011/08/25 21:54
前に、ある話の発言主体によってその内容判断が変わってくることがなんだか悔しい
(そういう一連の心変わりに「騙された」と思う)、というような話をした。
(「前の話」はリンク先の上9行だけです.あとは別の本のお話.)
それから少しして、今はそのような経験をすることが全く無くなったなと気付いた。
それはなぜだろうかと考え、思考の芽が伸びてゆく。

今の自分が「話の出所の修正を受けて特に感じるところもない」のは
どんな話であれ自分に引き寄せて考えているからだ。
自分の感覚(身体)に基づいてある判断を下せば、それが何か別の基準によって否定された時に
「判断基準が違うのだから当然だ」あるいは「自分がそう思ったからしょうがない」
との考えに自然と流れる。

逆に同じ状況で「騙された!」とつい憤ってしまうのは、
主体的な判断を下していなかったからだと思われる。
「あの人が言うから」と言い、当のあの人の詳細さえ思い浮かべずに
とある意見に与すると、それが間違いであった時に「裏切られた」とつい思ってしまう。
最初から判断に責任を負っていないのだから、
それに続く言葉が他責的であるのは道理である。

この「自分のものさしを使わない」態度は、
主にメディア発の情報に対してとられるのだろう。
情報源が自分から遠くにおり、その具体的なところを想像しづらい、
または端的に手間であると感じる。
自分で考えてみたところで意見が変わるわけでなし、
周りも同じことを思っているなら無駄な労力は省くべし、
と思えばこの態度は合理的といえる。
同じように思う人が増えれば増えるほど、この態度の合理性は強化される
(それが先鋭化するとデマゴギーに結びつくと言える)

身近な人の意見に対しては、その人の性格や行動を加味したうえで可否の判断を下す。
この「その人の性格や行動を加味」することが、
上で言った「自分のものさしを使う」ということ。
面と向かったコミュニケーションが取られる限り、この振る舞いが自然となる。
(この点が意志疎通の成立確認項目筆頭だからである。
 「妻のご近所ゴシップを話半分に聞く夫」を想像すればわかりやすい)

ここまで書くことで明らかになるのだが、
メディア情報への接し方と身近な人々との接し方は、
各場面で自然に振る舞っているはずの一個人の中では矛盾した態度となってしまう
のである。
それをそのまま引き裂かれることが苦でなければ個人の内では何も問題は起こらないのだが、
実際に問題なのは「社会の価値観がそれを良しとしない」ことである。

「ものごとは分かりやすく、人は己の行動において首尾一貫していることが望ましい」という常識。
この常識と、氾濫するメディア情報とが、
個々のコミュニケーションにおける自然な振る舞いを侵食しているのだ。
そして、人の身体感覚は鈍ることになる。
これが情報化時代における脳化社会の、ひとつのありうる流れだと思う。
2011/08/25 22:21


+*+*+*


 もとは自然たる身体の一部である脳。
 脳という自然が人工(=理想・幻想)を生み出す、
 アクロバシー。

 そのアクロバティックな原体験を、機能構造を、
 脳は忘れる。無視する。なかったことにする。
 つまり、脳はその出所からしてアクロバシーを嫌う。

 だから、
 脳だけでは「矛盾を抱える」ことができない。
 脳だけでは「引き裂かれている」ことができない。

 脳化社会とは、人工の社会だ。
 理想の社会、幻想の社会だ。

 「それでは、幻想の社会は、何にとって、良いのか?」
 「…脳にとって、良い」

 「では、脳は、人か?」
 「…」

 「これにイエスと答えるのは、人か?」
 「…」

 「それも、脳ではないのか?」
 「…」

 脳は、沈黙する。
 自分を疑う姿勢の前に、ただただ沈黙する。

2011/08/25 22:35
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by chee-choff | 2011-09-14 00:34 | 思考
言葉にしてから,それを内に留める意思について
+*+*+*

「言葉にならないもの」について書こうとしたら,
でてきた言葉が詩になってしまった.
いや,文字の並びが詩的というだけで別に詩ではない気がする.
それはまあよくて…

「なんだかもやもやした思い」を自分なりに言葉にして,
それが「うん,そういうことで合ってると思う」と言えるような言葉だった時に,
「これを人に言えば自分が分かってもらえるんではないか?」と思うのは自然なことだと思う.

ただ,その「言葉にする試行錯誤の過程」が完全に個で閉じていれば,
でてきた言葉に他者の(生身の)存在が関われているかどうかは分からない.
この「完全に個で閉じている」かどうかは,その考える時のその人の状況によるのだと思う.
だから独りでいる人はいくら考えても,
「一人でいるその人自身にとって納得できるもの」しかでてこない気がする.
例えばその考えに「いつも誰かと一緒にいる人」が触れたとして,
「一人でいるその人」が明確にできたと思われた思いをそのまま受け取れるのかどうか.

言葉が先か,人が先か.
その問いには明確な答えがあると思われた.
人が先だ
人を求めようと思って,言葉から入るのは少し違うのだろう.
だから今一人でいる人が考えることは,
「他者を求めるため」ではないのだと改めて思う.
「他者を求めるための言葉」は,その当の他者が表れてから,
悩み始め,悩み抜くことで,その場(=その人とその他者との関係)に合った形を成していくのだと思う.
ただ,それは今一人でいる人が考えていることが他者と結びつかない,ということではない.
具体的な対象を持たずとも,その枠組みを把握することは可能だ.
それは構造主義の役得でもあり,「考える動物としての人」の器用さでもある.


うん,やはり「いろんな自分がいた方がいい」.
(なんだかものすごい話が飛んだような気もするが…)
決して一つの状態に留まる(=常態化する)ことのないよう.

一人でいるのは,本当に独りでいたいからではない,かもしれない.
この「かもしれない」が,常態化を防ぐ一つの手段.
右にも左にも傾けるよう,重心を高めに設定しておく.
そして傾いた時に踏み込む足を,その時に機敏に反応し動くよう整えておく.
あるいは足を踏み込めずに転んでも,くるりと回って受け身を取れるような身軽さを.


最初に書きたかったことから少し違っていた気がするので最後にちろりと触れる.

人に伝えたら自分が分かってもらえるだろうなと思えた,何か核心的な思い.
しかしそれは言葉にした瞬間,つまり意思疎通の流れに言葉として乗せた瞬間,
その核心が消えてしまうものであるかもしれない.
「言わないで心に留めておくこと」がその内に秘める意味を最も輝かせる,
という思いもあるのかもしれない.
(ひとつ思いついたが,「以心伝心」というのは「言わないでも伝わる」状態だけでなく,
 「言わないからこそ伝わる」状態(関係性)も含むのではないだろうか)
『いいひと。』(髙橋しん)の20巻でリストラ部に配属された北野優二が悩んでいたことである.

その「もどかしさ」を内に抱える.
それを言ってしまえば,もしきちんと伝わらずとも,自分は楽になる.
しかし決してその妥協を許さずに,「自分がよいと思ったもの(形)」を捨てない.
それが伝わるか伝わらないかを,相手に,場に委ねる強さ
その姿勢が伝わる人には伝わるという,相手への,場への信頼
(いきなり話は飛ぶのだが,これは内田樹の言う「言論の自由」(@日本国憲法)の意味そのものでもある)

その意味で,僕は彼に憧れる.そして強くなりたいと思う.
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by chee-choff | 2011-09-10 19:01 | 思考
非まじめ思考
2011/08/29 01:05
『「非まじめ」思考法』(森政弘)を読み始めた。
いつもブックオフで森博嗣の棚はチェックするのだけど、
たまたまその近くに目をやって見つけた。結構古い。

おもしろそうな思考法、それを見て思いついたことをメモしていこう。

<切るかつなぐか>
…両者を入れ替えてみる。
 ・繋がってる道路を切る、とは?
 ・体毛の毛先が全部繋がったら…

<同に異を見出し、異に同を見出す>
…新しい発想はここから。

<「四句分別」とその理由付け>
 ・距離と遅刻
  1.家から遠いので遅刻した(=家から近いので遅刻しない)。
   ←乗り継ぎに時間がかかった。
  2.家から近いので遅刻した(=家から遠いので遅刻しない)。
   ←油断した。例えば今朝に限って髭剃りの電池が切れていたとか、洗顔してて鼻血が出たとか。
  3.家からの距離に関わらず、遅刻した。
   ←間に合う気がもともとない。あるいは総務のあの子に叱られたい。
  4.家からの距離に関わらず、遅刻しない。
   ←社会人。

<ありもしないことを考える>
例えが…

<??>
OOには位置がない。
質点には長さがない。
線分には横幅がない。
平面には厚みがない。
矩形にはOOがない。
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by chee-choff | 2011-09-04 00:44 | 思考
世俗と宗教を分かつものについて
こつこつ読んできた『太陽を曳く馬』(高村薫)もいよいよ終盤.

「世俗の言葉で宗教を語る」様を見て愕然とし,
自らの浅薄な宗教観を改めねばなるまいとは思ってもいいのだけど,
そこから「宗教にのめり込もう」とは思わない.
それは現今宗教を語るにおいて付きまとう胡散臭さのせいではなく,
自分に引き寄せた時に「宗教を完遂(という表現をしてよいのか分からないが)して得られると想像されるもの
(それが本当に「想像し得るもの」であるはずはないのだが)は自分が求めるものではない」と思われるからだ.

現段階の理解が正しいかは心許ないが,宗教というか「宗教性」というものは最後には個人で極めるものだ.
「あの子と一緒に涅槃三昧」などという言葉は耳にしたことがない.
(敢えて似せた表現をすれば「仏と一緒に〜」だろうか?)
別に冗談ではなく,これは「世俗の言葉で宗教は語れない」ということ.
とすると最初に書いたのは「語る」でなく「翻訳する」が正しく,
「世俗の言葉で宗教を(世俗に引き寄せて)語る」という表現がより正確となる.

きっと,僕は世俗の人でありたいのだ.
(物凄く当たり前な発言だが.何せ今まで知り合った人は全て(少なくとも表面的には)世俗の人だったのだ)
なぜそう思うのかというと,恐らく正しく「宗教の人」である人は他者の排除を厭わないからだ.
それは決して他者の排除を積極的に遂行することを意味しないが,
世俗の人がそれにどうしようもなく持ってしまうはずの後ろめたさや気後れを一切感じないということ.

そういう「閉じ方」をしたくないと思った.
自分を世間から遠ざけ固く閉じるかのようにも聞こえる日々の思考の泡沫が,
決して他者とのつながりを断つ手段に用いられることのないように.
そう改めて言わしめるほど,宗教は恐ろしく魅惑的なのだと思った.

(追記:ここで「世俗の人」「宗教の人」と呼んでいるのは,人間の性質の名である.
 いかなる人も「世俗の人」「宗教の人」の両者の一面を持つ,と言ってよいと思う)

果してこれは「世俗の言葉」か「宗教の言葉」か?

>>
「なぜ? 無論、鏡が正しく鏡であるようにするため。深淵が正しく深淵としてあるようにするため、でございますとも。その鏡とは、すなわち意味する作用としての<私>が霧散しないためになくてはならない外部。<私>の声が届かなければならない相手。その声が届く限りにおいて、<私>がなにごとか発し続ける動力にもなる、その当のもの。あなたがいま仰ったとおり、まさにそれなくしては語る声としての<私>が成立しないようなものとしての言語なのでございますから。そしてほら、人間に存在の意味を与えるものが言語であるなら、その言語に向かって有る<私>は決して消えてはならないのです」
高村薫『太陽が曳く馬 下』p.321
>>

+*+*+*

ま,カタい話ばっかもなんなんで,息抜きにひとつ.
スタイリッシュ成仏.

【初音ミク】般若心経アシッドジャズ を歌ってみた by UmiNeko
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by chee-choff | 2011-08-29 23:44 | 思考
日常へただいま
5日間家を空けただけで生活が狂う後遺症がちと長引いた.

今日いつもの「駅前巡業」をやって,やっと「戻ってきたなあ」と感じられた.

昨日までまる3日引きこもって苦にならないほど「活動」したらしい.


駅前巡業とは「図書館→BookOff立ち読み&購入→読書@Veloce」のこと.

今日は図書館へは行かなかったのだけど,

それも「読むより買うペースの方が速い現状」を更に促進させてはマズいと思ったから…

のはずなのだが,久しぶりにBookOffへ行って思いのほか収穫を得てしまって複雑な溜め息.
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しめて735円也.
なんという暴落.
これじゃ1ページ1円以下.
いやそれ以前に古本は印税にならないんだっけか.
出版界に全然貢献しない本好きって疎まれそうだな…

「沼地〜」は文庫で持っているのだけど,ハードカバーを見てるうちに欲しくなってしまった.
てことで文庫欲しい方はあげます.
「ヘヴン」は書評かブログかで下手に川上氏に触れてしまったという縁で購入.
ちら読みしたのだけど本書は関西弁でないかもしれない…あれは「乳と卵」だったか.
「ウィーン家族」は最近(自分の中で)流行りの中島氏著作.こわいなぁ
なんかもうヤな予感がぷんぷんするのだけどやめられんねこれ.
「下流志向」は一度読んだけれど手元になかったので置いておこうと思い購入.
ウチダ本がちょこちょこ105円棚で見かけ始めたのは今年だが,何か意味あるんだろうか.

+*+*+*

ちと「天狗」になろうと思う.
TENGO!!

+*+*+*

宮城ボラ記事で触れた「日本人は水に流す」話と関連する話.

>>
 日本が平和国家として立ち直るに当たって利用することのできる日本の真の強みは,ある行動方針について,「あれは失敗に終わった」と言い,それから後は,別な方向にその努力を傾けることのできる能力の中に存している.(…)彼らは戦争によって「ふさわしい位置」をかち得ようとした.そうして敗れた.今や彼らはその方針を棄て去ることができる.それはこれまでに受けてきた一切の訓練が,彼らを可能な方向転換に応じうる人間に造り上げているからである.
『菊と刀』第十三章 降伏後の日本人 p.373
>>

能力なんですね.
が,この能力は長所にも短所にもなる.
「機会主義的である日本」というのも同じ意味だと思われる.

>>
日本の行動の動機は機会主義的である.日本はもし事情が許せば,平和な世界の中にその位置を求めるであろう.もしそうでなければ,武装した陣営として組織された世界の中に,その位置を求めるであろう.
同上 p.387
>>

この感覚が欧米人には全く理解できない(と本書にはある)と言われて,
でもその内実を論理的に記述することはできるのだから,
それをして欧米人は「日本人は観念的だ」と…言うのだろうか.
日本人にしてみれば正義にあれほど拘れる彼等の方がよほど観念的に思われるが,
この両方が正しいとすれば「観念的」という表現の中身は発話主体の体感によってころころ変わる,
ということになる(自分の身体が納得しなけりゃ「そら頭ん中の話よね」て言いたくなる,と).
してみれば「観念」とは主観なのか.
「論理」と一緒くたにしたくなりがちだけど,違うものなのね.

ああ,オチが…

+*+*+*

と書いて思い出したのだけど,
東北出身の会社の先輩(7年上なのに3歳差で妙な近さがある)に「関西人は話のオチに敏感だ」
という話をして,「それって恐いね」と返されてしまったことがあった.
話にオチがなくていきり立つ大阪人もいないとは言わないがまぁそれはネタであって,
それで考えたのは「話のオチの有無」の違いについて.

「話にオチがないと損をした」という感覚はまずあるかもしれない.
オチのない話は端的に「使えない」のだ.
その意味では関西人はケチなのだろう.

でもそもそもオチがあってもなくても会話に意味はあるはずであり,
それは「情報伝達」である以前に「コミュニケーション」である.
と考えると,オチのある話よりオチのない話の方が「純粋なコミュニケーション」と言える.

(で,ここまでは今考えたことであって,最初に思いついたのは,)
が,ここで1回ひねりを加えて,
「オチを気にする会話形式」をコミュニケーションの延長と捉えることもできそうだ.
一般的に(というか関西以外で)思われているよりこちらが実情に近いと僕は思うのだけど,
関西人にとって話にオチがあっても無くても実はどうでもいいのであり,
単にオチを気にすることで「ツッコむ機会が増える」のである.
関西弁は語調がキツいこともあって「なんやオチないやんけ!」と言われると
異文化圏の人が怖がるのも無理はないとは思うのだけれど,
実はあれは愛情表現なのである.
ということを相手が気付いていないと知りながら敢えて怖がらせる関西人も確かにいるなあと思い,
うまいことやれば魅力的に映らないとも限らないけど,基本的に面倒臭がられそう(笑)
…要するに「空気読めるけど敢えて読まない人」は公共の場では鬱陶しい以外の何者でもない,と(笑)

とかいう話は関西人には全く興味ないだろうなあと思うのだけれど,
そんな僕は「生粋のエセ関西人」だったりする.
(いや,「エセ“生粋の関西人”」か.どっちでもいいや)
何せ上の話で触れた先輩に「東京の人かと思ってました」て言われたくらいやしね..

いいんす,気にしてないす,自称「境界人」なんで.
まあ,あれですよ,境界って言わば鏡みたいなもんで,
屈折率の異なる境界で入射角が寝れば全反射するんだから.
そんで鏡は「媒介者」でもある.
鏡面アルミの反射スペクトルを思い起こすだけで,像がそのまま映っているわけではないことには気付ける.
もちろん表面の凹凸でスペクトルは変化するし,凹凸の原因はキズに経年劣化に色々ある.
意外と楽しいもんすよ,媒介者は.

なんか変な話になったなあ…
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by chee-choff | 2011-08-09 21:29 | 思考
低温わかさ
ある話がその話し手によって嘘に聞こえたり本当に思えたりする,
という経験が,その通りだと思いながら癪に障るものが昔はあった.
(人づてに聞いて)話し手が実は違った,となったら「騙された!」としか言い様がないからだ.

が,それは次元の混同が原因であった.
ここでいう「嘘か本当か」は情緒レベルの話でしかなくて,
話の内容自体はいってしまえば「物語」なのだ.

情緒の判断を経ずして話し手を思考に巻き込みたいと思った時には,
「なぜ彼(彼女)はこの話をするのか」
という問いの設定が不可欠だ.


…という話を,『正しく悩むための哲学』(小浜逸郎)を読んでいてなぜか思った.
その理由になるかどうか分からない話をすると,
小浜氏はバランスのよい論者だと思ったのだ.

なんだか自分の流行り以外のものでない気がして恐縮だが,
「結論がよく分からずくだくだ話を続ける」語り口に信頼できるものを感じる.
その「くだくだ」が実りあるものであってこそのことだけれど.

「哲学」と銘打つからにはそうでなければいけない.
かといって本書は純粋に思弁的というわけでもなく,色んな所で実生活と結びつく.
まあ想定読者は「社会に馴染めない若者」らしいのだけど.


で,最初に書こうと思ったのは…現状認識は大事だなあと思わせる部分があって,
それは客観的な思考をするための重要な素材であるから.
正しいか間違いかはまずおいといて,今自分はこういう時代に生きているのか,と
日常と枠組み(の一例)を照らし合わせる知的作業は面白いものだと思う.
正誤のこだわりをその後にもってくれば,そのこだわり自体も相対化できることに気付いて
「ハッとする」経験をするまでの一連の流れはわりと想像しやすくて,
その時の若者(高校生くらいですかね)の表情の変化を見てみたいな,と思ったり.

なんだこれ,教師になりたいのか自分は.
まあいいや,抜粋だけしておこう.
>>
(…)近代社会は,個と共同性の分離,家族の独立と子ども時代の固定化,性的成熟と社会的成熟とのずれ,長い教育課程など,それぞれが相互に影響を及ぼし合うような複雑な構成のもとにあります.そしてそれらの多くには,簡単に乗り越えるわけにはいかないそれなりに歴史的必然な根拠があります. p.143
>>
個々の論理展開を読んだ上でのこのまとめを読むと,ものすごくすっきりしていることがわかる.
ここでいちばん大事なのは「歴史的必然な根拠がある」というところだろう.
誰かが既に考えてまとめてくれてる,と思うかもしれないが現実はそんなに甘くはなく,
そもそもここを押えていれば,性急な社会改革が必要なんて話は出てこないはずなのだ.
いやちょっと違うか…単純な予想をすると,このあたりのことを把握しちゃった人は最終的に
「世間から逸脱しない程度に現状肯定」に落ち着いてるんじゃないかなあと.
で,その人は政治の表舞台には出てこない,と.

ああ,隠居いいなあ…隠居.


という「爺オチ」.
落ちてねえ…


p.s.
いや,意味なしタイトルは後で自分が一番困ると分かってはいる.

小学校で「キャップめくり」が大変流行っていたころがあり,それは
給食の牛乳瓶の蓋を集めて昼休みに廊下で勝負相手とお互い何枚かずつ出して,
じゃんけんで勝った方から先にキャップを床に「倒れたドミノ片」みたいに並べて,
その横から床を平手で打って生じた風でめくった分だけ自分のものにできるという遊び.
 三階建ての2つの校舎をつなぐ二階の渡り廊下が主な試合会場だったが,
 昼休みは渡り廊下を通る隙間もないほど「勝負師」でごった返していた.
 あとは中休みとか授業間の休みには教室の机の上でやったりとか.
全盛期は片手で20枚,両手でその倍くらいは一度にめくれた.
手のひらの皮は当時が一番分厚かったに違いない,
何せ暇があれば机やコンクリの床をバンバン叩きまくっていたのだから.

あまりにのめり込み過ぎて家の部屋がキャップで散乱していたり,
電車で遠くへ出るたびに行き先の駅の売店でビン牛乳を飲んだりしていた.
 「低温わかさ牛乳」というのがたしか通っていた小学校の給食で毎日出ていた牛乳で,
 「酪農3.5牛乳」とか「蒜山ジャージー牛乳」とかそりゃもう他に無数のキャップがあったのだけど
 それらと「低温わかさ牛乳」とには独自の交換レートがあって(それらを「めずら」と呼んでいた),
 学内では腰にキャップを大量に入れた巾着袋を常時ぶらさげたりしていて,
 そうかあれは通貨だったのかと今さら思う.
 何か別の価値あるものと交換できたわけではないが(いや知らないだけで「闇市」があったかもしれない),
 年の差など関係なしに「持てる者への羨望のまなざし」があったことは確かだ.

なぜ昔話に花が咲いたのか…
いや,「若者→わかさ」だなんて口が裂け(ry
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by chee-choff | 2011-07-22 00:46 | 思考
孤独
新しい示唆を与える言葉.

>>
 私一人がここにいて,ここからどの方向へも抜け出すことができない.魔法瓶の中に入れられた自分を想像することができる.魔法瓶の内側は鏡のように中身を歪めて映し出すだろう.だが,歪んでいるのは現実の方かもしれないではないか.どちらが正しい姿なのか判断ができない状態,すなわち単一の視点,それが孤独というものの中心である.(…)
「まあ,そうは言っても,結局のところ,孤独を感じるためには,孤独ではない状況を知らなければならない.そうじゃありませんか? その対比があってこそ,孤独だと感じるわけです.(…)」
森博嗣『少し変わった子あります』 p.130-131
>>

僕は孤独が好きな人間であって,
プライベートでは圧倒的に一人でいる時間が多く,
好き好んでその状態を保っていると自分で思っているが,
たまに,人と会って喋りたいな,と思うことはやはりある.
その心境の解釈として「根は寂しがり屋なのだろう」と簡単にまとめていたが,
そこからは「四六時中一緒にいても苦痛でない人がいるなら居て欲しい」という推論が導ける.


が,この抜粋は逆のことを言っている.
たまに人と会いたくなるのは,「孤独を再確認するため」だという.
ずっと一人でいると,孤独であったものが孤独でなくなるのだ,と.
ここでは孤独を「落ち着き先」とは捉えていないようだ.
常に対照物がちらつき,それに惹かれはしないがどこかしら不安定な状態.
その不安定が恍惚と結びつく,というのが,分かるような分からないような….

『恋恋蓮歩の演習』(森博嗣)から以前引いた言葉で,
「自由を問えることが自由である証しだ」
というものがあった(多分そのままではないが).
自分は自由だろうかと悩む姿は何やら思考の束縛を受けている印象と思われたりするが,
自由に振る舞う無垢な状態では不自由を想像することはできない.
「思考の自由」を考えるならば,自分の自由を疑う,
すなわち自分をひたすら対象として思考に繰り込める状態が
「自由」だと保呂草は言っているのだと思う.
それが安定か不安定かは人によって捉え方も変わろうが,
最外殻を包含できるのは「不安定」だろうなと僕は思う.
(こんな言い方をするのは,思考の自由は安定と不安定の両方から成ると思っているからだ)


その一方で,昔4週間ほど自転車旅行に一人で出掛けた時,
その理由を道中や帰阪後に考えてこう書いたことがあった.
>>
自ら人と離れることによって、
人の暖かみを感じてほしい
人の暖かみによって自分は生かされていることを
欲しくても手の届かない所へ行き、切に感じて欲しい
そんな心の声が、
人知れず自分の頭に語りかけているのではないか…
>>
孤独になることで,人の暖かみを再認識する.
人々に囲まれて生活し,慣れきってしまうことで失われたものを取り戻す…


むむ,どれも本当のように思える.
それぞれの場面を思い起こせば,切実な感覚にリアリティが込もっている.
ケースバイケース,という無味乾燥な落着に今は意味を見出したくないが…
あれ,この状態,これこそが「孤独」か?
>>
どちらが正しい姿なのか判断ができない状態,すなわち単一の視点,それが孤独というものの中心である
>>
「孤独というものの中心」?
孤独とはイコールではない…からこその表現だと思える.

「孤独の中心」とは何だろうか…
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by chee-choff | 2011-07-07 23:03 | 思考
紅子と四季
>>
「自分の前に立ちはだかる邪魔ものを取り除く」彼女は頬杖をつきながら,目を細めて話した.「端的に言えば,それは問題解決です.その邪魔ものが科学的な謎であれば,解決した者は科学者として成功し,その邪魔ものが技術的困難であれば,解決した者は一流のエンジニアになる.その邪魔ものが,たまたま生きた人間だったときには,解決に成功した者が,殺人者と呼ばれるのです」
(森博嗣『赤緑黒白』p.215)
>>

抽象がもたらす卓見は,時に恐怖を身に纏う.
だが,その恐怖は本質でない.
そしてその卓見の本質は「当たり前」にある.

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by chee-choff | 2011-06-11 15:52 | 思考
今日の「コペ転」
今日の,と言って間違いはないが,
頻度の表現をそこに含めるならば「今年の」と言っても大袈裟になる.
というくらい珍しい出来事が(頭の中で)起こった.

「コペ転」とはコペルニクス的転回のこと.
価値観がぐるりと変わる,まるで天動説が地動説で覆されるように.

学部時代に付き合っていた(らしい)応理のI氏について,
彼女とは始まりがよく分からないままグダグダやっていて
今思えばなかなか酷い言動を(もちろん僕が)繰り返した挙げ句,
その意趣返しか素晴らしいフりっぷりを見せつけてくれた彼女のことを
「あんな非道い人間はヨニマレだ」「四天の工学系女子に碌な奴はいない」
とか今まで思っていたのだが(これまた酷いね),
さっきウチダ氏の文章の一節によく分からないまま立ち止まって考え込んでいると,
何の脈絡か,「今の(いやもしかすると“当時の”)自分にとって彼女は理想の人であった」,
との認識に至ってしまった.

このことをコペ転と言いつつも特にびっくりしたわけではない.
「あれ,そうなるよね.そうなっちゃうよね.ふーん…」くらいなのだが,
フられた当時の自分からすれば「んなアホな!」と怒り狂うことは想像に難くない.
けれどそれをして「自分は変わった」と言いたいわけではなく,
むしろ「当時の僕は自分のことを分かっていなかった」が大正解.
院の時に新垣君に言われた通り(言われたその時は相当ショックだったが),何も変わっていやしない.

びっくりしたというか,へえ,と思ったのは別のことで,
「もっと早く出会っていれば良かった」はよく聞くセリフだけれど,
「もっと遅く出会っていれば良かった」こともあるもんなのね,と.
ハハ.


一つ確実に言えるのは,
「活字に目覚めなければこの認識に至ることはなかった」こと.
ああ…引き蘢りがまた酷くなりそうな予感.
週末はなるべくカフェに行こう.

当のI氏については,小野原から京都へ居を移す時,
箕面の小学校(居酒屋「新世界」の近く)前の歩道をとぼとぼ歩いている所を
冷蔵庫を乗せたトラックの助手席からたまたま見かけたのが最後.
その時トラックを運転していたのはぽ氏で,
彼に彼女の話(多分愚痴だろう)を喋りたいのを我慢したことまで覚えている.
懐かしいなあ,今も元気にしてんスかね…


上で触れた「立ち止まった一節」を載せておく.
思考過程はもちろん載せない.
記さなくて残らないのであれば,その程度のものだった,と.
>>
 家が制度的な単なる「入れ物」であるかぎり,
 中にいる人間同士のあいだには距離があり,
 それぞれに自由がある.
明日は明日の風と共に去りぬ 5月17日
>>

+*+*+*+*
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by chee-choff | 2011-06-05 20:33 | 思考
「きょとん」として
日常を取り戻した,と言っておきながら,

心がぜんぜん落ち着いてなかった.

お休みの月曜一日を読書に費やしたら,

院時代の「飯を食べるのが面倒症候群」が再発し

(=読書を止めるのが面倒になるという凄まじい怠惰),

無思考で僚友の晩飯を頼るなんてダメダメですね.

いやあすみません…おかげで助かりましたが☆


そんな無思考状態でいて余計なことを言わずに済んだのは

(我が出ると最近の僕は余計なことしか言いません),

僚友氏の「確固としたオーラ」のお陰でした.

流され易い人で良かった.僕が.


+*+*+*+*


合宿から戻ってきても相変わらず余裕がなく,

今週で終わるのは分かってはいるが「マルチタスクが多すぎててんやわんや」状態が

日に日にひどくなっていくのは確実にして今日のあの様(詳しくは言わない)は無いなぁ…

といろいろ諦めてさっき遅くに帰宅したのだけど,

朝食用のリンゴとサラダの準備をしていたらなんだかほんのり元気になった.


いつもの音楽を聴きながら,

いつものように買った2個のリンゴをそれぞれ6等分して4つに分け,

いつものように買った4種の草をそれぞれ刻んで4つのお皿に盛る.

あーこれが日常だったねそういえば.

「同じことの繰り返しがしんどい」と日常生活に対して思ってしまうのは,

日常生活からいったん逸れて,そこから戻ってくる時に思ってしまうんだなあと再認識.

ルーティンの愛おしさに気付ければ,それがちゃんと戻ってこれた証拠.


野菜を刻んでいる間に思ったのは,

「自分が何をしたいのか」に思いが及んだ時に,

頭でそれをひねり出して納得しようとするよりも,

身体にお伺いを立てた方が適切な時があるということ.

それは「自分で考える」というよりも「自分に聞いてみる」.

さっきの自分は日常に戻りたいと思っていた(らしい)が,

それはやりたい具体的な事があったのでなく「落ち着くべき状態」があったということ.

それがなんだか…いや変なことを言うと…

「きょとん」として頭には「???」(「………」だったかな)を浮かべながら野菜を切っていて,

思考が進んだわけではなさそうだったのだが「あ,そうか」に辿り着いた,のだった.


たぶん「いつも通りに動く身体」が「ふぅ♪」となって頭がそれに同調したのではないのかな.

脳と身体は対立することが多いけれど,脳も身体の一部なわけだし.

ふぅ.
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by chee-choff | 2011-06-01 01:17 | 思考