深爪エリマキトカゲ
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カテゴリ:思考( 133 )
価値観試用と習字
2011/04/28 22:27

両者が同じだと気付いた。
般若心経を書いていて、
「あれ、こうすればするする書ける」
と思って、「こうすれば」の内容も分からずに
なんとなくつらつら書いてみて、
書き続けるうちに
「これってこういうことかな…」
と「こうすれば」を言葉で表現していく。

今日の「こうすれば」は、
指先に力を入れるのではなく、
もう少し(心を中心としての)内側を支点にして、
指先は筆を保つだけにして書くというもの。
これを別の言葉で
「筆を信じ、紙を信じる」
とも思いついた。
「自分がこう書こうとしているそのままに頑張る」
のではなく、
「なんとなく書きたい字はイメージしていて、
でもあんまり力は入れずに、
筆が紙に対して"こう"滑ってくれたら書けそうだな」
といった感じ。
それでイメージ通りの字が書けなかったら
(=書かれなかったら)、「なにか」を修正して、
もう一度「委ねる」。
あるいは、イメージした字に近いかどうかだけでなく、
「筆の滑り、筆の運び」の良し悪しも感じた。
書く時の効果音にある「さらさら」というやつである。

といった細かい話はここではおいといて、

前に「ある価値観を試しに採用して、
自分の考え方が、判断がどう変わるかを見る」
という話をしたことがあった。
どういう文脈だったかは…
ハシモト氏の本を心地よく読む心得みたいな話だったか。
で、思念先行で現実味がないなぁと思っていたが、
良い例がこんな所に転がっていた。
いっしょなんですよ。

具体的には、ある納得できない結論があって、
「それはそういうもんなのかな」と思って、
それに合う論理を新たに組み立ててみる。
「結論に筋道を合わせる」などと言えば
ふつうは良いイメージを持たれないけれど、
極論を言えば論理とは全部そういうものだし、
「あんまり論理的でない」と思われる日常での
些細な判断なんて全部「後付けの英断」なのである。

「ある固執から離れて自由になる」
という点では両者は全く同一だ。
上の例でできるかは分からない(これからだ)が、
両者の具体的な対応関係を考えるのはおもしろそう。
2011/04/28 22:41
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by chee-choff | 2011-11-12 22:41 | 思考
とんとことんことこんとん
いやはや…
旧友のことをぽけーっと思い浮かべていたその日に,
その人と会話することになるとは.
その会話が予想外に唐突に始まったため,
電話口で「あれ? …あれれ?」とか言って5秒くらい混乱してしまった.
頭の中にあったことをそのまま言うわけにもいかんしで(何考えてんだw),
しどろもどろに始まり,しどろもどろに終わる.
まあなんとも,器用には生きれないもんすね.
とりあえず元気そうでよかった.

あ,あといつも話し終えて時間が経ってから気付くのだけど,
旧友と話してて自然に出てくる関西弁がなんとも奇妙だなと.
喋ってる時に自分では違和感ないのだけれど,
そして相手もこの「エセ関西弁」に慣れてるからもう何も言わないのだろうけれど,
いちおう正規の関西弁(?)が頭では分かってるからか,
自分(の身体)にとっては自然であってもやっぱり何かがヘンなのだ.
その何がヘンって,うーん…なんでしょね.

+*+*+*

言葉がなおざりにされている今,
言葉には実感が伴わないという"常識"が幅を利かせている.
先立つ言葉なくして「実感を分節できない」のが実際のところだが,
それを実感するには「言葉から始める」以外に方策はない.

産業主義はコンテンツそっちのけでメディアの開拓に忙しいが,
"時代の求めるもの"と「コンテンツの質」に相関はない.
多様性が"多様を知らぬ画一の集積"に堕さぬために,
「言葉の豊穣」に触れる機会をどのようにして得るか.

生に占める言葉の影響力に,どう気付けばよいか.
言葉と共に,どう生きていけばよいか.

>>
 人がなにかを考えたり思ったりするとき,そこにはかならず言葉がある.いちいち言葉なんか必要ないよ,というのが日常的な実感かもしれないが,言葉なしには人間はほとんどなにも出来ない.そして自分が自由に使うことの出来る言葉,つまり母国語の構造と性能の内部で,そこから多大な影響を受けつつ,人は日々を生きていく.いつもどのような言葉をどんなふうに使っているかによって,思考の程度や範囲そして方向などが,母国語の性能の守備範囲内で決定的にきまっていく
片岡義男『日本語の外へ』 p.425 母国語の性能が浪費される日々
>>

+*+*+*

>>
偶然が必然にというのは,九鬼[周造]のいう「定め」としての偶然の内面化でもあるし,わたしたちが先ほど述べたように,じぶんの存在を必然性の糸で縫い上げること,仮構することでもある.他方,必然を偶然にというのは,わたしが<わたし>として生まれたよりももっと遠いところ,「そこではまだ可能が可能のままであったところ」へとじぶんを送り届ける,つまりは<わたし>を存在としてほどいてしまうということである.つまり自己同一への強迫から下りるということでもある.九鬼のばあい,それは他なる者との「出逢い」のなかに賭けるということでもあった.
鷲田清一『死なないでいる理由』p.193-194
>>
「偶然を必然に」する技術は世に溢れているが(主体性云々,個の尊重云々),
「必然を偶然に」する技術も同時に必要なのではないか.
後者のそれを技術と呼ぶことが憚られようが,
きっと"主体が確立した"現代ではそれを技術と呼ばねば認識できず,涵養され得ない.
「必然と偶然を共に内面化する」こと,それはきっと二律背反と呼ばれるのだろうが,
両立不能だと思われてしまう価値観の足場の名は「義務論的倫理学(deontology)」(p.173)だ.

>>
それ[=「負債」という観念を道徳の根源的契機とみる考え方]は道徳や正義の起源を商業や算術の論理に見いだす議論として,歴史の長いものだ.(…)価値の平衡についての算術的・幾何学的な観念──平等・比例・代償,幾何学でいわれる方正・規則正しさ,そして天秤で量られるかのような償い・報い──との関連の中に正義の概念の歴史的起源をみてとったベルクソンの議論も,そういう系譜のなかにある.ベルクソンの論点に近づけてもうすこしいうと,カントの道徳論は,自己矛盾を犯してはならぬという無内容な形式的必然性へと人間の責務を還元するもの,道徳を論理の尊重のうえに基礎づけようとするものであり,つまりは「不道徳のもとは不合理に存する」と考えるものである.
同上 p.182-183
>>

 論理だけではダメだと論理立てて言う.
 その論理に整合性はあるのか?
 そもそも論理なんていらないのではないか?
 …そうではない.
 論理が論理自身を疑えること,その性質があって始めて,
 人間が論理を身近なものとして(「使い使われて」,その境界を曖昧にして)扱うことができる.
 反証可能性が科学を科学たらしめているのと同じ.

書き忘れていたけれど,本書は今日Veloceにて読了.
今日はハロウィン祭(「鮎まつり」でした)だったらしく駅前公園近くのカフェはごった返していたが,
特に思考を乱されることもなく,読んでは止まり,読んでは止まりをつらつらと.
本の中に今のその自分の状況が書いてあってまた現実と頭の中が混ざり合ったり.
>>
他人とともにいながら他人に見られないですむ,あるいは他人を見ないですむ,そんな空間.(…)他人が間近にいるのにだれとも話さないでいられる空間,そこでひとりっきりになれるという想いが,知らない喫茶店のドアを開けるときにはあった.
同上 p.202
>>
人が近くにいる安心感と,余計な想念を打ち消すに丁度良いノイズとなる会話.
(「ホワイトノイズ」と書こうとして違うかもと思い調べたら面白いものを見つけた)

 頭の中のことは現実に含まないという考え方がふつうだと思われるが,
 現実が「今の自分と関わり形作っているもの」だとすればそれはとんでもない考え方だ.
 とここで「小説は小説家のリアリティを形にしたものだ」というタカハシ氏の話を思い出した.
 小説はフィクションだけれど,リアルでないことはリアリティを少しも損なわない
 小説家がリアリティを感じた小説の源泉たる脳内ストーリィは,やはり小説家の現実なのだ.
 >>
 そしてカルヴィーノさんはこういうのだ.
「文学ではリアリティそのものはわからない.
 わかるのはレベルがあるということだけだ.
 異なったレベルの現実があるということだけがリアルなのであって,
 それ以外に現実的なことはなにもないのだ
 リアリズムというのはそういうことなのだ.
 だが,これは哀しむべきことなんかじゃない.
 文学以外にこんなことを教えてくれるものがあるとでもいうのか?」
 高橋源一郎『文学じゃないかもしれない症候群』p.52 (改行は引用者)
 >>

話を戻すと,現実と夢(頭の中)の混同があると言って,
その混同は両者の距離を縮めることになるのかなとか,
いやその「現実と夢の距離」なるものは意味のあまりない抽象であって
個々の現実の出来事と夢の内容との距離がそれぞれにあるだけだとか,
実は最近「右目で見る」=「夢で(←手段)見る」という発想が浮かんでいて
「右目の成長」は「夢が現実に近づく」のだろうかとかとりとめなく考えている.
(下線の話はまた記事を改めて詳細に書きたい)
…多分話を戻そうと思ってまた逸れた.もう忘れた.

>>
 プライドというのは,普通おもわれているのとは逆で,自己のうちから生まれるというより,他者から贈られるものだと,わたしはおもう.じぶんがなにか他人にはない特別なものをもっているからプライドが生まれるのではない.他者にとことん大事にされた経験がなければ,ひとはじぶんの存在にプライドをもつことができない.だれかに大事にされているという経験が,これほど大事にされる存在なんだから粗末にしてはいけないという,自己感情の支えになる
同上 p.218
>>
生を肯定する誇り.
他者との深い関係なしには得られないもの.
自己に閉じこもっていて油断すると忘れてしまうが,忘れてはいけない.
個人の尊重(憲法13条)と言って,個人は自己だけではない.
…独りがデフォルトな自分が偉そうなことは言えないが,
(読書を通じて)常に「ここにはないもの」に思いを馳せる志向が,
まだ見ぬ(あるいはその人と居る時の)他者の思いに繋がっている,
と信じる.

これを断定出来ない理由は,「独りがデフォルトだから」だ.
詳しくは言わない.
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by chee-choff | 2011-11-06 01:25 | 思考
というわけで、
>ひろゆき氏
いい機会だから少し考えたらいいと思います.
井戸の中とか,いいかもよ.

+*+*+*

『ねじまき鳥クロニクル第2部』読了.
止まったねじを,誰が巻く?

+*+*+*

「思考館」にて300キリ番が達成されました.
こまめに更新するとか言いながら全然更新してなくてすみません..
どうやら最近の自分はインプットに偏りたいようです.
どうも「積極的なインプット」「消極的なアウトプット」という
あべこべ(パッと見て,ですよ)が成立しそうな雰囲気があって,
消極的はいかんなと後者を控えるとそうなるわけで.
何言ってんだ?

+*+*+*

と書いてHP作成ソフトを立ち上げたら更新する気が湧いてきたので,
少し更新しました.
しかし思考をまとめる気が更々ない散漫記事になってしまったので,
毎度のように先に「ごめんなさい」.

広義の「連想」について書きました.
単に面白いから,脳の躍動が楽しいから,でもあるんですが,
目指す先を敢えて言えばどうなるか,
みたいなものを書こうとしたんですが,
まあないものをあると言えば漠然としてしまうのも当然かしら.
「ない」とは「形になってない」だけかもしれませんが.
という希望的観測.

思いつくまま打ち込んで読み返してすらいないので相当読みにくそう(他人事)ですが,
興味があればどうぞ.

ちひろ氏の生活と意見

次のキリ番は500です.
お祝いアニメーションを劇的なものにしてみました.
お楽しみに.
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by chee-choff | 2011-11-03 00:06 | 思考
「苦痛の先取」で平穏を保つ
昨日はいろんな(しょうもない)いきさつがあって晩飯が
「カップ豚汁うどん+ポテトチップス」
だったのだけど,それを食べてから今日の昼前後までとても不安だった.
 ちなみに今朝はいつも通りの納豆トースト+4種サラダ+…,昼は紅鮭とあとこまごまとした
 身体に良さそうなもの(えー)で,昼食後しばらくして,だんだんと不安が薄れていったのだった.

その不安というのはもちろんヤな出来事があるとかの精神的なものではなく,
肉体が栄養(あっさり成分?)に飢えているという身体的なものなのだけど,
なんというか「精神的な不安と見紛う」ようであった.


という話の関連で思いついたのだと思うのだけれど,
「何もないことを良きことと思う」という静的安定は
何かが起こった時に「考えてみれば…」という形で認識するのが常だが,
(例えば病気になってから「健康ってのはやっぱ大切だな」と言うような)
何か良くないことが起こらないと静的安定に思い至らないのは単純に
起こったことに「懲りてない」だけであることも多いのではないだろうか.

平穏無事な生活を保つ秘訣というのは日常をそつなくこなす器用さだけでなく,
しかるべき時に「平穏が乱される時の苦しみ」を先取りして想像してしまう,
というある種の臆病さ
も含まれるのではないか.
 だからその臆病さは他人に自慢できるとまで言うつもりはないが,
 少なくとも自分の中では大切にあたためておいてもいい気がする.
 あるいは自身の臆病さを恥じる友人に「や、いいんじゃない」とほんのり肯定するような.

「その場その場でそつなくこなす」ことが「長い目で見て安定を確保する」ことと
完全に一致する,と自信を持って断言などできないのであり,
「長期的に捉えると常軌を逸するような方向性」を(微)修正する機制(仕組み)が
「計画的」でなく「なんとなく」というところがミソなんではないかな,と思った,なんとなく.
…もう少し言うと,そこが「計画的」だと「短期的なそつなさ」と抵触するのかな,と.

 静的安定の反対はここでは「面白いことが立て続けに起こる」という動的安定.
 これを安定というのは,精神が躍動している・快いという「傾きaの安定」のこと.
 先に触れた静的安定を対置させるならこちらは「位置xの安定」だろうか.
 このaとかxは高校数学のノリで使ってます.

+*+*+*

という記事のタイトルを考えていてまた別のことを思い出したのだけど,
前に「地震が起きた時に壊滅的被害を想像する機制」について考えたことがあったが,
あれは改めて考えるに「不幸の先取り」なのだと思う.

「思ってもみなかったことが起こる」よりは
「思った通りのことが起こる」方が,
当の「起こったこと」がどれだけ酷くても「まし」である.
だから「やばいことが起こりそうだから頭の中で先に起こしちゃえ」というような.

多分これは気持ちとしては共感の得られやすい話のはずで,
でもこの気持ちを間違えた表現で言ってしまうと
「不謹慎」と断罪されてしまうのだろうな,と思う.
確かなのは,不謹慎に思われることを言う方だけでなく,
それを受け取る方にも「その表現が不謹慎である」という認識に加担している,
という認識が必要なことだろう.
断罪したくなる気持ちもまた共感できるのだけれど,
何事に対しても「文脈を汲む姿勢」は常に保っておきたい.
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by chee-choff | 2011-10-24 22:41 | 思考
“差異”は投げられた
- 始まりの言葉 -

2011/01/08 18:32
今日は久しぶりにカフェで読書。
そして懐かし(お馴染み?)のベローチェ。
やっぱりカフェはいいね。

で、久しぶりだったからか、
思考がスムーズに混沌としていてよかった。
その混沌の中から記号にしておきたい話が一つ。
(といっても帰りのバスの中での思考だが。)


物事には二面性、あるいは多面性が備わっていて、
良い風にも悪い風にも見方によって見える。
それはそうなのだけど、
一面が決定的に見える物事に対して、
別の見方を探索する時に、
「その逆もあるんだ」と最初に決めてかかる姿勢に、
何か疚しいものを感じていた。

だがそれは、一般性に囚われていただけかもしれない。
逆に考えれば、その志向性は、
「物事を多面的に捉える姿勢をもつ」という
古くから伝わる格言(のようなもの)の実践とも言える。

単に自らマイノリティを目指す「無茶な個性の発揮」
ではなく、連綿と続いてきたある種の思考の「作法」
に忠実な態度であった、とも言えるかもしれない。
そうふと気付いて、その方がいいと思った。

差異から始まる思考。

"差異"は投げられた。


2011/10/21 16:21
続きを書いてみる。

上にある「逆もありき」思考を、
「身体を言葉へ投げ込む」実験と呼んでみる。
「言葉の世界を遊弋する」と言っていいかも。

身体と言葉のどっちが先にある、と言われて
それは西洋的実存からすれば身体なのだけど、
今回の場合は「言葉から身体をつくる」方向。

まず「論理的にこうなるな」と頭で納得して、
その納得を生活に適用してしばらく過ごすと
単なる論理が身体性を獲得する事はあり得る。
これは「自分の中の何かの納得」と「習慣」の
作用の結果であり(前者が後者の成立を促進する)、
論理性はここでは数ある触媒の一つに過ぎない存在だ。

以上の話は一人で閉じていても成立するのだが、
人とのコミュニケーションも勘定に入れれば、
「(相手の)身体が(自分の)身体をつくる」方向性は
日常生活の中でざらにある。
結婚生活(「一つ屋根の下」)はその典型。

もちろんその夫婦は言葉のやりとりによってお互いに
納得し合いながら生活を作り上げていくのだけど、
両者の距離が近いほどその内容よりも「言葉の語り口」が
否応なしに相手に伝わるものであって、
二人が共に形成する身体(=身体性…共身体?)は言葉よりも
身体(=日常の振る舞い全て)に依るところが明らかに大きい。

そして「言葉が身体をつくる」のと「身体が身体をつくる」
のは「身体をつくる」点において同じという視点に立てば、
前者を後者に生かすことは可能である。
つまり「身体をつくる」ことを知ればよい。

そしてその「身体をつくる」ことは、
「時間的な隔たりをおいて自分の中に差異を発見する」
ことである。
ここで、差異と身体が共鳴する。
何せ「差異」は時間軸におけば「変化」のことで、
変化しない身体は存在しない。

おしまい。

+*+*+*

脳を時間軸におくと,何が起こる?
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by chee-choff | 2011-10-21 23:06 | 思考
『前口上』
+*+*+*

「本を書く」とは実に恐れ多い行為であって,
出版される本という形態そのものがある種「著者の文章に対する自信」を
読み手に自然と沸き起こさせる作用を有し,
本の内容に「これは出版会で流通が許可されたものです」という
権威が著者の意図と関係なく勝手に付加されてしまう.

そして本を世に出す意図は著者によって千差万別ではあれ,
文章という表現手段を用いるからには「ことばで伝えたい何か」がある,
という共通点はそこに確固としてあるとも思える.
その「ことば」を有限か無限かのどちらで捉えるかは
これまた捉え方によるのかもしれないが,その具体的なところを言えば
日本語であれば漢字・ひらがな・カタカナを合わせ数千種の文字を組み合わせて
文章をつくるわけだけどその順列組み合わせを単純に計算すれば
「これはペンです.」といった英文法例文的な長さの一文をとっても
既に天文学的数字に至るのである(ざっと見積もって10の30乗だが,
これが天文学的数字かどうかは実は良く知らない),という話に持っていけば,
人一人が生活の拠り所とする実感に対して「ことばは無限である」と言える一方で,
人の思いの全てが言葉になることはなく,心底自分の内側から出てきたに違いないと
思われた言葉が既に昔誰かに語られた言葉と同じものであるという想像に囚われ(じっさい
これは完全な妄想ではない),ことばによって生きる人間の歴史は大なり小なり
歴史の繰り返しであると断言してしまえば,そして言葉を扱ってきた人間の総体,
すなわち時間的な集積を判断基準とすれば(しかしこの判断主体は誰なのだろう?),
「ことばは有限である」と言うことも可能だ,といったところであろう.

だが同時に「有限であることば」から無限の解釈…と言えばまだ「言葉の側」なので
解釈ではなく感覚を引き出すことができるのも意識をもつ人ならではであって,
そこのところを加味するならば,本を書く人の全てが「自分の思うところを過不足なく
きちんと受け取って欲しい」と願っているわけではなく(本音を言えばそれは少数派だろう),
「読み手一人ひとりの生活実感を用いて自分の文章から読み手その人に合った感覚を引き出して欲しい」
という思いを抱く書き手も同時にいるはずなのだ.
ここでは自分を後者に数えるという前提に立つが,ではそのような書き手は
読み手の何を目指すのだろうか?
自分の本を読んでもらうことがいちばんの目標であるのは確かだが,
自分の本を読んだ結果について,書き手は具体的な想像をするのだろうか?
もちろんするのだと思う.
読み手が手に取りたくなるような本は,その読み手のことを考えて作られねばならない.
当たり前である.
と自分で言ったそばから何だが,それは本当だろうか?
それは「有限であることば」から有限の解釈を引き出しての想定ではないのだろうか?
(…)

といった様々なことを考えながらも,結局のところは本書のどこか一文でも,
「立ち止まり,自分に引き寄せて想像せざるを得なくなる」
ような箇所が本書を手に取った全ての人にあることが著者の一番の願いである,
という告白をもって前口上とさせて頂きます.

+*+*+*

というような「まえがき」で本文のページが終わる本というのも面白そうだなとふと思った.
何が面白そうかと言えば,「そういう本を書くのが」なのだが.
こういったジャンルの本(が実際ジャンルと言えるほどあるのか知らないが)の特徴は,
まず本当の意味で「内容のない本」であり(だから本当は本ですらないのかもしれない),
「始まりを予感しながら読み進め,結局始まることなく終わる」所にあり,
すなわち「始まる予感をずっと抱えながら進み」,「始まることなく終わる」所にある.
それがなんなんだと言われると…
「未練が予め内包され,確約された本」だということだ.
だからなんなんだ…

の続きは,また考えます.


しかし…保坂氏の文章の一文の長さに最初は驚きながらもすぐ慣れてしまったのだけど,
それは自分がそういう文章を書くからであり,そういう文章を書くのが楽しいことも知っているからだ.
そして読み手にとって迷惑であることが多いことも慣れる前の僕自身の感覚から分かった.

文章が句点を嫌い長々と続くというのは,解釈の多様さを生み出すと考えることもできる.
この言葉がどこに係るかという論理関係がどんどん曖昧になるからだ.
その曖昧さをなくそうと思えば一文を短くして文章ごとの関係を適切な接続詞で繋げばよくて,
敢えてそうしないのは書き手のリズムがそうさせるのが大部分ではあれ,
どこかで「別に読み違えてもいいんだよ」という書き手の投げやり感が作用しているかもしれない.

例えば,そういう人は法学には向かないですね.
僕も法に憧れた時期は確かにあったんですが…もう戻れないですね.
なんでいきなり法の話に..
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by chee-choff | 2011-10-08 01:40 | 思考
触れる
という作り話.

+*+*+*

11.10.01 @Veloce

「触」という漢字には「虫」が入っている.
「触角」という言葉もある.
「触れる」とは主に「対象とのゼロ距離」を示す言葉だが,
(そして"異文化に触れる"というように,物理的に留まらずに
 自分の境界に外のものが侵入してくる比喩に用いられる)
もともとは虫(生物)の一器官を示す言葉なのだ.
そしてその器官とは,「生物の最も敏感な部分」なのだ.

大雨の前に燕が低く飛ぶように,
地震の前に鯰が身を翻すように,
現代人からすれば超感覚的に現象と相対することが,
器官から所作に転化された「触れる」ことの本来なのだ.

だから僕の,牛蒡を掴んだ時に土の滋養が手のひらから染み込んでくるような,
裸足で地に立った時に同じこの地面を踏みしめる誰かの鼓動を感じ取るような,
このような想像は妄想ではなく「自他の区別なき原初への回帰」だ.

+*+*+*

以下実話(?).

学部生の頃,豊中キャンパスの食堂裏の池を囲む木々を眺めるのが好きで,
いちど幹に見惚れた一本の木の前に立ち,
気を鎮め,息を整え,辺りの空気との一体化を図ったことがあった.
猫と会話する(←昔はできたんです)ような感じとは少し似ていたようで違って,
その時は自分から何かを発する意志が全く無かった.
あの場における主体は何だったのか…

「そんなんSiH4やわ!」

と,ウチの会社では解説なしで通じるシャレ.
いや言ったことはないけど…
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by chee-choff | 2011-10-01 22:56 | 思考
5つめの情/メタフォ…
このブログのアクセス解析を見ていて,
シンガポール在住の方が流れ着いたらしいブログ開設初期の記事を読み返してみた.
(どういう経路で迷い込むのか,たまに海外からのアクセスがある)

ブログが(僕のまわりだけ?)流行リ始めたのは僕が大学1年の時で,
その頃はバトンなるものが流行っていたらしい.
(バトンってのは「小説家への100の質問」みたいなやつ)

で,わーこりゃ自分だなと思いながら見ていて,
面白いところがあった.

>>
11:最近の喜怒哀楽を教えてください

 うーん

 最近たぶん喜怒哀楽○の○(5つめ)な感じなので
>>

なんだ5つ目って(笑
深いようでたぶんなにも考えてない.
今考えれば面白そうではあるが.

>>
20:お気に入りのブランドを教えてください。

 何の?

 とりあえずユニクロ
>>

わーww
何も変わっていない(笑
ユニクロってブランドだけど,そういうブランドじゃないんだよね.
だが断る(え

+*+*+*

ブログについて,

それは昔の自分が一覧で残っている,という言い方ができて,
それを読み返すことは過去をひきずるという言い方ができて,
だからといって「誰だこいつは?」と読み返しながら思えればいいわけではなく,

今となってはほとんど文字列以上の意味を成さない過去ではあるけれど,
その文字列から「あったはずの過去」を,
再現するのではなく想像する(「思い出す」とはこの後者である),
そしてその想像の糧が身体的な感覚経験ではなく(生身の経験としてはもう残っていない),
過去の自分だという「意味の次元での身近さ」であるような想像が,
固着でない過去への接し方としてあり得るのではないか.
(すなわち同じような身近さが感じられるならば過去の自分である必要はなく,
 例えば今の自分に近しいと思える小説の主人公と過去の自分を並列させることもできる.
 「そんなたいそうなものではない」と憚られるのは自分の過去が卑近であったというだけで,
 自分の中で自分に対して謙遜する理由はどこにもない)

とはいえ,過去に執着するいちばんの理由は「そのようにさせる現在」にあり,
それに気付いていないからこそ過去に執着するのであり,
加えてもちろん「自分の過去との接し方」なんてものに執着中の彼は目もくれない.
今このこと(つまり「過去に執着する自分」の姿)をそれなりに深く考えておけば,
その時に至って既視感をおぼえ,既視感からの連想でこれらの一連の思考を
思い出すという「心的フェイルセーフ」機能はわりと現実的ではないかと思える.


とその場の流れで変なことを書いていたら思いつきを思い出したのだけど,
「メタ思考」のメタはmetaphoricalのことだと最近気付き,
なんでもメタメタ(=次数を上げて考える)が流行りな自分のさまを,
メタボにかけて「メタフォリック症候群」と呼んでみようかな…
という思いつきだったのだけど,略して「メタフォ」と口に出すと
「メタフォ…」と後に発音が続かないとなんだか落ち着かなくて,ややね.
書き言葉としてはいいんだけど…まあ別に誰にも言わないからいいか.
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by chee-choff | 2011-09-28 23:21 | 思考
意識の先を
信じる.

覚えておくのではなく,おとしこむ.
執着ではなく,開放.

執着は過去を見ている,
開放は未来を見ている.

執着は見えなくなることを恐怖する,
開放は見えなくなることを許容する.

大切なのは,今の今.
今の今を感じ,おとしこみ,おとしこんだら開放する.

そのために必要な認識は.

今の今は,現在(現存在,今ここにいる自分)だけではない.
過去を意識し,未来を意識し,
今ここにいながら,ここではないどこかに繋がる.


執着ではなく,開放を.
あるいは,
執着を包み込む,開放を.
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by chee-choff | 2011-09-27 00:38 | 思考
我に「帰る」
2011/09/06 23:51
ロイディの前で奔放に振る舞うミチルを見ていて、
ふと思いついた。(森博嗣『迷宮百年の睡魔』)

何かに熱中していて、ふと「我に返る」ことがある。
僕なんかはそんな経験をした時に、
「せっかく集中していたのに切れちゃった…」
と思うことの方が多かったように記憶している。
何かに没頭できてないことを、今抱えている懸案事項が
気になってしまうことを、残念に思う気持ち。
わりと一般的な気がする。

でも、この「我に返る」経験をある例えで示した時、
むしろそれは「安心の訪れ」ではないかと思われた。
あるいは、この例えの方が原型なのかもしれないが。

 母親の傍で子供が手を動かすことに夢中になっている。
 自分が何を考えて手を動かしているのか、
 そんな気にする風が全く感じられない集中。
 しかし、ふと、手を止め、あたりを見回す。
 不安な表情と共に、きょろきょろと首を振る。
 母親の顔を見つける。
 満面の笑み。
 そして再び自分の手の動きに集中する。

これが「没頭と正気(に戻ること)」の原型ではないか。
つまり、集中が途切れる瞬間として「我に返る」のは、
「自分を見守っていたはずの人を再認識する」
ということではないのだろうか。
すると一人で作業をしていて見守られてなどいない、
という話になろうが、そこからこう考えが及ぶ。
「自分で自分を見守っているのだ」と。

大の大人が一人で奔放に振る舞う。
自然の中ではしゃぎ回る。
その所作に無垢さえ表れているような時、
彼は「見守られている」のだ。
自然の中で、と言ったから「自然に見守られている」
とも言えてしまうが、ここで言いたかったのは、
「自分の中に自分を見る目を持っている」ということ。
このことを意識し過ぎると、作業に集中できない。
しかし、このことが全く意識されていなければ、
もしかすると人は不安で不安でしょうがなくなるのでは


ロイディの存在はミチルにとって、
「そういう存在が自分の中にいればいいな」
という理想なのではないか。
敢えて内面化したいとは思っていないかもしれないが、
ミチルがロイディを自分の一部だと思っていることは
きっと確かだ。
自分の一部を外に出してこそ、よく見える
そう、みんな自分が見えなくて不安なのだ。

少し話を戻す。
だから、自分を客観的に見つめすぎて淡泊に見える人、
というのは、表面では感情の起伏が観察されないかも
しれないが、本人の中では「ほんわか暖かい」ことに
なっているのかもしれない。
きっと、彼(彼女)が一人でいる時の振る舞いを見れば、
そのあたりの機微を感知できるような気がする。
一人でいて落ち着いた雰囲気を醸す人は、
自分で自分を見つめることができる人なのだ

きっと、そうだ。
2011/09/07 00:11
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by chee-choff | 2011-09-25 00:03 | 思考