深爪エリマキトカゲ
cheechoff.exblog.jp
Top
カテゴリ:思考( 133 )
六連休の四日目みたいな疲労
今週は月と金(今日)に有休をとって週休4日です.
が,「今日から3連休」という感じではない.
なんかもう出勤も有休も違いがないような.

会社の勤労管理システムに有休の理由を書くんですが,
いちおう今日病院行ったんで「通院のため」って書いたんですけど,
誤変換で「痛飲のため」にしたら笑えないなあとか.

今日病院に行ったのは花粉症のお薬をもらいに.
前にもらった1ヶ月分が切れたからなのだけど,
気がつけば恐ろしいスピードで1ヶ月が過ぎていた.
そう,気がつけば3月はもうおしまいだったりもする.
花粉症の時期は「自分を保つのに精一杯」なのはしょうがないけれど,
自分のことだけを考えて過ごす時間のなんと短いことか(体感が,ね).
これはきっと普遍的なことで,そして自分はあまりよろしくないなぁと思う.

風邪は快方に向かっていて,一方で花粉症は引き続き抑えられていて,
「この時期のベスト」と思われていた状態がどんどん上方修正されてはいて,
それでもタイトルに疲労と書くのは「蓄積されてる分」の話です.
今日は駅前の病院に行ったのでいつも通りブックオフにも行って
(『アウトブリード』(保坂和志)を105円でめっけた!これ定価2100円なのね…ハードだなあ)
ベローチェで読書もして
(体調的に軽い新書がいいなあと『<対話>のない社会』(中島義道)を読み始めたが,
 何を勘違いしたのかぜんぜん軽いはずはなかったけど不思議にしんどい今と波長が合い,
 隣でぺちゃくちゃ喋る中学生(話だけ聞こえてそう思ったが見てみたらたぶん大人)の話と
 本の内容がこれまた不思議に共鳴して不思議に(説明せい説明)思ったりした)
コーヒー1杯飲む間に水を8杯も飲んで不審がられたかもしれないが
(店内に90分いる間にグラスが2回割れる音がしたけどまさか僕のせいじゃないよね)
いろんなことを考えながら考えるだけに留めて病院行ってさっさと帰ってきました.

考えることを「考えるだけに留める」のは思考内容に感情移入しないようなことでもあり,
(この「感情移入する」は「当事者になる」といったニュアンス)
でも今日みたいな体調が悪い時のそれは別の意味も帯びているようで,
それはむしろ逆に「感情移入のための手間が省けた状態」を指しているようにも思える.
というのは簡単にいうと,
何やらしんどいことを考える時に没入しようと思うなら,
元気な時よりもしんどい時の方がやりやすいね,ということ.
で,「しんどいこと」はすごくおおざっぱな表現ではあって,少し具体的にするなら,
「直視しづらい本質的なこと」とか「今の自分の価値観を揺るがすこと」だとか.

という意味で(どれだ?)今日は外出から帰宅するまでの思考がなんだか「するり」としていて,
普段の自分ならしそうな躊躇がそこにはなく,それを振り返る今の自分は「おお」と思う.
きっと調子がいいのではなくてどこかが麻痺しているのであって,
でも思考をじっさいに回す部分は麻痺もなく疲労もなかったからでしょうね.

でいくつも思いついたことがあったので思い出せる限り再現しておく.

まず「2種類の可能性」について.
(1)「子どもに宿る無限の可能性」とか,僕がよく引く「可能が可能のままであった頃」という時のは,
その主体が可能性を発揮することはイコール主体の変化でもあるわけです.
選択肢はたくさんあって,その一つをいったん選んだならばそこから自分はどんどん変わって行く.
「選択を間違えた」と思った彼は選択した当時と変わっていないのかもしれないし,
ある程度変わったからこそ次の変化を求めていったん立ち止まることを「選択した」のかもしれない.
(2)一方で,消費主体としての選択可能性というものがある.
これは相応のお金と引き換えに商品や経験を得る選択肢の広さを言っていて,
選択肢の広さとは言わずもがなで「どれだけお金をもっているか」です.
この消費主体の特徴は何かというと(1)と正反対で,
「選択の前後で主体が変化しないことが前提」です.
これを実感ベースで説明するのは今思いつかない(か忘れてる)のでしませんが,
代わりに「経済活動」という枠で説明してみます.
お金を信用して経済が回っている以上「お金の信用」は何よりの大前提で,
これは経済活動の範疇においては何が起ころうが「変わらない」.
逆に言えばそこが変わる時に行われている活動は経済活動ではない.
消費主体はお金に信用をおいている限りは消費主体であり続ける.
お金で経験を買って「スキルアップする」とか「生活を充実させる」とか言いますが,
それは消費主体であることをそのままに自分を変えようとしているわけです.
それが上っ面の変化だと言いたいわけではなくて,
例えば消費主体が消費主体であることを(普段は意識しないけれど)忘れることは
「自分の根っこに変わらないものがある」ことを意識しないことでもあります.
それが足かせになることがある,と言いたいのだけれど,
これは「プロとアマチュアの違い」といえば分かりやすい.
「生活のために妥協しなければならない」ことは一つの足かせです.
仕事で稼いだお金で生活している人は,その意味で「その仕事のプロ」で,
その仕事が自分のプライベートを制限している(時間は減りますね)だけではなく,
生活がかかっているという意味で仕事に関わる行動に足かせがはめられている.
これは当たり前で,「それをわざわざ足かせと表現する意味はない」という声も聞こえそうですが,
僕は「意味はある」と思います.
これは前に書いた「生身の無常観」に通じる認識でもあり,
『薄氷の踏み方』(甲野善紀・名越康文)で名越院長が大切という「認識」の一例でもあります.
(この本についてはまた書きたい.書評として書くのは難しそうだけれど…文句なしの☆☆☆☆☆です)

話がずれてからいつも以上にずるずると引きずってしまったのは,
「戻るのにも体力が要る」からですね.
さて戻りますと,二種類の可能性の話でした.
(「変化を前提する可能性」と「変化を前提しない可能性」の二種類ですね)
そしてもんのすごいおおざっぱに言いますと,
「この二種類の可能性を混同したところに時代の早とちりがあったんではないだろか」
と思ったわけです.
これは「労働より先に消費を体得してしまう消費社会の教育における弊害」と
同じようなことを言ってるんでもありますが,
(あと「期待通りの自己実現」とかいう変な話もありますね)
帰りのバスの中で考えてる時はもっと広くというか違うことを考えていたような…
まあ,忘れました,はは.

そして一つのことを長く書き過ぎてあと全部忘れちゃいました.ははは.
たぶん『薄氷の踏み方』(今日読了しました)を読み返せばぽこぽこ出てきそうなので,また.
で,本書を読んで一つだけ気になったところを.
きっと他に指摘する人がいなさそうな話なのだけれど,
甲野氏は本書の中で何度も「(甲野氏の)生きる意欲(の有無)」について言及していて,
本書の内容もすごいけどこのことが示すこともかなり大きいんじゃないかと.

甲野氏の著書もいろいろ読んでみようと思います.
『剣の精神史』とか.

あと言い訳っぽいこといいますけど,
今日の筆致の疲れ具合は中島氏の著書の影響を強く受けているという自覚を持っています.
なんか丁寧語だしね(なぜ?)
おしまい.

+*+*+*

タイトルを見直して思う.
多分自分は連休があまり好きでないんでしょうね.
もちろんそれは会社人間だからではなくて,
「リズムが崩れる」から.
それは会社人間の言い分じゃないか.
違います.

+*+*+*

ああ思い出した.
上まで書いて一度送信して見直そうと思ったら思い出した(と書く意味は何もないんですが).

「自分のことだけを考えていられる幸福感」
というものを今日自分に対して感じたのでした.
それは体調的にそうせざるを得ない,という状況があってのことなんですが,
…これなんか分析しにくいですね.
まあ感想だけいうと,
周りが見えないで自分中心に振る舞えている人はその間は幸福で,
そしてそれに邪魔が入ると一気に不幸を体感するんだろうなあと.
自分は「不機嫌な顔をわざわざ露にする意味」なんて功利的に考えてもないだろうと
日頃から思っているんですが,そうせざるを得なくなる状況について
今日はうっすらと想像が及んだのでした.
まあこのことで自分の生活態度が変わることはなさそうですが,
今までにない方向の「想像の芽」を今後伸ばせる可能性を見つけられた気がします.
もちろんこの「可能性」は上でいう(1)の方です.

今度こそおしまい.
そしてきっと23年度もここでおしまい.
よいお年度を.
違うか.
[PR]
by chee-choff | 2012-03-31 00:07 | 思考
生と死のアモルファス
以前,同僚M氏とこんな話があった.

 人はいつ死ぬか分からない.
 身近な人が唐突に亡くなるという経験も30年も生きれば一度はあるだろう.
 あるいは医者に癌と言われ余命を宣告された時を想像してみる.
 きっと病室の窓から見える木々の緑が輝いて見えるだろう.
 だからこのことを念頭に生活していけば毎日を本気で生きられるのではないか?

 でも実際はそうならない.
 いつ死ぬか分からないとずっと考えていれば気持ちは暗くなる.
 「どうせ死ぬのだから」と気持ちが負に転化することも想像に難くない.

 ではそんなことを全く考えずに日々を過ごせばよいか?
 …重苦しく考えずともそれにノーと言わせる実感がある.
 今を一心に生きる姿が輝いて見えることはもちろんある.
 だが日々のコミュニケーションに垣間みられる「生の軽さ」の淵源もここにある.

 「人はいつ死ぬかわからない」.
 このことを忘れずにしかし同時に暗さを抱え込まずに生きる.
 それがきっと大事なことだと思うが果して可能だろうか?

確かそのような話の流れの中で,僕は「身体を敏感にしておくことが大事」というようなことを言った.
(その時はそのまま「脳化社会」(@養老孟司)の話に流れていった気がする)
日頃から身体性に深い興味を持つ身として自然と口を衝いて出た言葉だと思う.
それは一面では正しいはずだが,やはり言い足りないものがあった.


今日ある音楽を聴きながら本を読んでいて,唐突に「無常観」という言葉が出てきた.
「行く川の流れは絶えずして…」である.
この言葉には何やら冷めた感じがし,生の躍動から遠く離れた印象を持つかもしれない.
だがそれは無常観という言葉を「純粋な客観的視点」と捉えているからではないか.
裏を返せば,ごく主体的な,生身の一人がもち得る無常観というものがあるのでは,と思ったのだ.
(この話とウチダ氏のいう「不条理」(@カミュ)とも繋がる気がして大変興味深いのだが
 これはまたどこかで.『ため倫』をいつか読み返したいな…)

そしてその「生身の無常観」と自分の思考のポリシーが繋がっている気がしたのだ.
そのポリシーとは,「考えることから逃げない」こと.
何度か書いてきた通り,3回生の時に意志したこのポリシーにより僕の日常はがらりと変わったのだが,
これは極言すれば「考えてはいけないことなど何一つない」という静かな宣言でもある.
もちろん「あることを考えること」と「それを口に出す」ことの間には千里の径庭がある.
(その距離を埋める欲望を拒むこと,そのことから「ためらい」が生まれる)

ある種の思考を(無意識に)拒否したところから「生の軽さ」が生まれる.
もしそうなら,じゃあ考えればいいじゃないか.
そんな単純なことかもしれない.
そう,始まりはいつもシンプルなのだ.
(お,なんだか村上春樹っぽいぞ)


ちゃんと言葉にしてかんとな,と思う.
二人を流れる時間が今はゆっくりであると信じて.
[PR]
by chee-choff | 2012-03-17 17:01 | 思考
「定時帰りする程度の能力」
が失われて久しい.
最近まったく違和感なく残業時間が増えていて
(部署の扱うテーマの重要度がもう「雪だるま」),
頼る人も頼られる人も増えてテンテコ舞ってるといつの間にか夜な日々.
なにかが充実していてなにかがキャパオーバで,
帰ってすぐ寝られる程度に疲れてはいてでも寝ずに本を読み,
そうして文章を綴る時間も気力も底をつき,ベッドにて底に沈む意識.
ムダな思考が減っているわけではなく想像を弄ぶ余力はいつも通り別腹(?)で,
でもそれを文章化する時間がないので「脳内うp」で満足してしまう.
(ちゃんと投稿の手続きまで想像してるんですよ!)
なので「書きながら良く分からないものが出てくる」経験を最近は味わっていない.
まあ「別種の妙な想像力」が開拓されてきたということでよしとしますか.

で昨日は久しぶりに仕事終わりの週末飲みがあって,
かつてなく「日常を離れた雰囲気」に一人で勝手に生き生きしてたのだけど,
何言ってるかわかんないことばっか言ってごめんね>H氏
この手の話題を口にする経験が(日常的に考えてこそすれ)全く無かったものだから.
おいおい形になってゆくことでしょう,と他人事みたいに言うけど,
それは「怖くて恐ろしいもの」が飛び出てくるのは実はもう分かっていて,
でもそれを怖くなくす雰囲気作りに時間がかかると同時に
その雰囲気作りの主体は僕でも氏でもなく「場」であるという意味.
そして頭の中の思考を「その背景ごと会話で再現する」という壮大な実験(!)が始まったのであり,
「自分と背景を共有できる人間はまずもって変人である」ことに同意書名してしまった氏に合掌.
書いてから気付いたけど,これけっこう面白いかもしれない…

乞うご期待.
[PR]
by chee-choff | 2012-02-11 23:05 | 思考
続きは眼裏で
「活字を思い浮かべる」という話を聞いて自分にはできないと思っていたけど,
それっぽいことを最近していたことにさっき気付いた.

色々目に負担をかけない工夫をしていても当たり前に疲労困憊で,
どんどん進化するコンピュータ類ってば目の弱い人には目もくれない.
性格的にネット中毒に適性大アリなのに(引き蘢りだし)そうならなかったのは
ヘタレ目のお陰だと感謝しつつもこれは若干負け惜しみ発言.
あと3Dがわかんないってのも(遠視&近視持ちなもので)…まあ仕事上はおいといて,別にいいや.
身体感覚狂いそうだし(負け惜しみ)

という話ではなくて,
まあ日常的に目は疲れていてブルーベリー氏には大変お世話になっていて,
でも錠剤ガバガバ薬漬けという訳ではなく,顆粒タイプを妥協点(?)としている.
(毎朝ヨーグルトにふりかけて食べてます)
サプリってあれほんとに効くんだけど常態化すると抜けられなくなるもので,
つまりはサプリる(動詞)前になんとかやりくりしていた身体機能が低下する.
ビタミンとか栄養分って摂れば摂るほどいいものでもないし,
どれだけ摂ったかよりどれだけ吸収されたかが肝なので,
摂り過ぎると吸収力なまっちゃうんじゃないかな,と.
そのへん尿の色とかに如実に出ると思うんだ,ニョうだけに(死)

という話でもなくて,
まあ日常的に目は疲れているので本を読んでいても目を閉じたくなる時があって,
でもそれが本にわりと没入してる時だったらどうなるかといえば,
惰性で目を閉じても続きを読んだりしているわけです.
もちろん先の内容が分かるはずはなくて「続き」でなくて「少し前」かもしれないのだけど,
実感としてはなんとなくさっきまで読んでたのと同じような内容の文章が,
なんだか眼裏(まなうら)いっぱいにだーっと広がってる感じで(もちろん縦書き),
それをなんとなく「ふんふん」と流し読みをしている,らしい.
そこからはっと目を開けると,眼裏で何を読んでいたかなんて一瞬で吹き飛んでしまうが,
それは夢と似たようなものにも思えて,「けっこう読んだなあ」という満足感がぽつんとある.
夢の内容だって全然覚えてなくても面白かったな,なんか気味悪いな,という後味は残るものだ.
…単なるうたた寝?

うん,言いたかったのは「活字(の羅列)が思い浮かぶ」がいつの間にか実感されていた,ということ.
これをして「活字中毒士」としてスキルアップが成されたといえよう.
…クラスチェンジしたら何になるんだろう?(FFT的発想)
「カツジ・ソ・ノモノ」とか?
もはや人ではない(笑)

元ネタは以前書いたこちら
イトイさんってもう60過ぎなのね.おじいさんやね.
[PR]
by chee-choff | 2012-02-05 22:45 | 思考
ゆくとしくるとし('11→'12)3.1
ゆくくる3では勝手に指が動いて書き始めたが何を言いたいかも分からず,

結局まだまだ力量不足だと思われたので仕切りなおして「ゆくくる3.1」です.

(3.1と書くとwindowsですね. 古い?)


身体性について言語化するにおいては,やはり自分の身体的経験をもとにすべきと思われた.

その系統の本は読んでいて,なんとなく感じを掴めてはいても,

それを自分の言葉で伝えようと思うのに「枠組み」の話ばかりをしていては,

読み手に実感は訪れないだろうし,だいいち身体性の要諦は実感なのである.

だから力量不足というよりは,経験不足.

この経験はいくら本を読んでも積み増されるものではないのは分かっている.

が,それでも腰が重いのは,自分の言葉で表そうと思っていないのだろう.

「この本を読めばいいよ」という紹介を人には(普段の会話の少なさにしては)よくするのだけど,

自分の言葉で何か相手に納得してもらおうという気力があまり湧かない.

それは「伝えたいことを自分の言葉で伝えるより本を読んでもらった方が早い」という気持ちが

わずかにはあって,これを掘り下げると「”自分発の”自分の伝えたいこと」が日常の読書を

ベースに構築されたものであること,加えて「自分から”思い通りのコミュニケーション”を立ち上げる」意思が

極めて希薄であることが想定される.

まぁ「草食なのね」と一言で済むのだけれども..


さて,去年を振り返った実質があまりないように見えてそれでも気が済んだのは確かなので,

そろそろ今年の抱負等に移ろう.

社会人になると日々の変化が乏しいことはもう分かった.

もちろん職種にもよるけれど,きっちりと仕事をこなしていればこそ日々の変化は乏しくなる.

それを休日に目一杯遊んでメリハリを,というリズムの付け方はもちろんアリである.

が,もう分かりきってはいるが,僕はそれとは異なる位相でリズムを付ける.


日々の変化が乏しい理由は,実際分けられるものではないが要素として2つある.

簡単に言えば入力が小さいか検知系が鈍いかである.

お手軽なのは「入力を大きくする」方だと思われがちだが,

そのお手軽の意味は「検知系の存在を無視できる」ことだ.

両者は分けられないと言いつつも,少し考えれば原理的には

「入力を大きくする」のと「検知系の感度を上げる」ので同じ結果が得られることは分かる.

原理的にはそうだが実際はどうなのだ,と言われると僕に自信はないので,

とりあえず「自分を被験者にして実験」をしているのである.


つまり「今年も変わらず本を読みまくる」ということなのだけど,

(それで充実が得られるとして)何がいいかといえば,とにかくお金がかからない.

必要なところではバンバン金を使うという点で僕はケチではないはずだが,

多くのものに「必要性を見出さない」という認識レベルでは吝嗇なのだと思う.

そうしてどんどんお金は溜まっていくのだけど,貯めたいと思って貯めるのではない(だから「溜まる」のだ).

そして嘘だと思われるかもしれないが,

「今溜まってるお金が急に価値を失っても何の痛痒も感じない」ようになれればいいなと思っている.

内田樹の言う金持ちの定義は「お金に頓着しないでいられること」であって

(「健康のことを気に揉まずに済んでいる人が”健康な人”である」と同じ論理),

それに従えば金持ちかどうかと所有資金量とは全く関係がない.

ということで,その意味で僕はずっと「金持ち」でいられたらなと思う.


話を戻して(と言って戻す話があるのか?),

まあ会社でお荷物にならないようしっかり仕事はして,

でもプライベート(というか「一人の時間」)はしっかり確保して「考えること」を軸とした日常を過ごしたい.

で,気が向いたら散歩部の活動をしたり何かよく分からない流れを起こしたりして,

それに自分で巻き込まれてテンパるのもたまにはいいかな.


毎年同じことを言っているかもしれないけれど,

今年の心掛けを羅列しておこう.

 「考えることを諦めない,でも身体の言うことは聴く」
 …これが矛盾だと思えたら何かが極端になっている.
  考えるのも肩肘張らずに,しかし快感に溺れることもなく.

 「場の雰囲気に敏感になる」
 …誰かといる時に限らず,街中でも山の中でも,どこにいる時も.
  「空気を読む」もこれに含んでいるけれど,「遂行的KY」を恐れない.
  何かといえば,「空気を読んでも”読んだ通り”に行動するとは限らない」である.
  (巷で言われるKYとは「認識的KY」のことである)
  都市では鈍感にならざるを得ないというのなら,都市には近づかない.
  一気に敷衍すれば「何をしたいか」ではなく「どう有りたいか」を優先する.

 「来る者拒まず、去る者追わず」
 …これはもう言い飽きた.
  ので今年は加えて,「自分にそれと分からないように流れをつくる」作法を身に付けてみよう.
  前半部分の意味するところは,自分がプレッシャーに弱いということ.
  それをプレッシャーに強くなると言わないのは,これは僕の多分な偏見かもしれないが,
  プレッシャーに強い人は大体が「鈍感」なのだ.
  このあたりはよく分からないので深くは掘り下げないでおこう.

このくらいかしら.

あとは,いつも健康でいられたらと思う.

不健康になって健康のありがたみを知るのはいいのだけど,

不健康な時の思考がいかに惨憺たるものかはもう何度も経験した.

(それを考えるとニーチェは凄いなと思ったり…まだ全然読んでないですが)

だから不健康な時は(それでも色々考えてしまうので)考えたことに重大な意味を与えないことにした.

 人が何かしら不幸な時,その人がどんなことを考えようと「今ある不幸から脱したい」思いが

 その思考内容を侵食しているのであり,たいていの場合は思考の射程が極端に短くなっている.

  例えば風邪で寝込んでいる時に「会社を辞めたい」と思ったとして,

  その思いは間違いなく正直なのだけど,だからといって誰も会社を辞めたりはしない.

 すっ飛ばして言うけれど,「思考の射程を延ばす」ことは「個人に留まらず共同体を思う」ことにつながる.


うん,総括すれば「外部に開かれた思考を紡いでいく」ということで.


ではでは,今年も皆さんよろしくお願いします.

chee-choff
[PR]
by chee-choff | 2012-01-02 14:56 | 思考
interlude - しじま、つつくら -
紅白を見ていての感想が,

「松山ケンイチが笑い飯にしか見えない」

の一言しか思い付かないままだらだらと大晦日の夜を過ごし,

途中で卒業アルバムを見ようと思い立ち,

いつも高校のを見てるから今年は中学のを見ようと思い(なぜか小学校のは行方不明),

同学年の旧友を眺めていて「あーいたなぁこんなやつ」と嘆息すること多数.

しかし(少なくともクラスメイトになったことのある人の)顔と名前はバッチリ覚えていて,

その声まで再現できるのだけど,その人に関わる出来事が何も出てこない.

既に固定化した印象の強い出来事はいくつかあって,でもそれが登場人物を思い浮かべて

はじめて小学校だったか中学校だったかが分かるところに少し不思議さを感じる.


 体験が記憶としてそのまま残らず,意識化しにくい形に変わって身体の底に沈んでいる.

 僕は昔からたいへん寡黙だったらしいが(実家に戻る度に祖母がそう語ってくれる),

 僕の記憶というのは意識化しにくいのではなく,言語化しにくいのかもしれない.

 そして意識化のしやすさとは実は言語化のしやすさなのかもしれない.

 とすれば,「昔の記憶があまりなく寂しい」と自分の過去について僕が思ったのは

 言葉に触れる機会がぐんと増えてからのことだった(だから学部4回生頃か)はずだが,

 あれは「記憶を言葉に表現することができない」ことを嘆いていたのだろうか.


 言葉を使わずとも,昔の記憶が今に息づく瞬間を感じる手だてはある.

 そしてその手だてを導くことができるのは言葉であることを僕はもう知っている.

 言葉を信頼することで,言葉で表しきれない自分を信じる.

 言葉が,そして言葉と共にある人間が,そのアクロバシーを体現できることを僕はもう知っている.



記憶に残っていた同級生の顔とアルバムに載っている当時の顔との差を楽しみ,

みんなが中学生に見えないのは自分のアルバムだからだろうか…

などと物思いに耽っていると,いつの間にか時計は23時を過ぎていた.

大急ぎで着替えて防寒対策を身体に施し,運動靴を履いて外に出る.



 今年の大晦日はあまり寒くないな.

 空は全国的に曇ると言っていたが,視界の所々に星が見える.

 往復とも山道を歩こうか.


変わったところといえば,

山道の入り口近くの竹籔が切り開かれ,新しい家がいくつか(といっても数十件)建っていた.

そういえば散髪屋のおっちゃんも「人がどんどん増えている」と言っていた.

大阪・京都の両都市圏に電車一本で通えるベッドタウンとしてここらは住み易いと聞いたことがある.


山道は去年と変わりなくあった.

曇っていて月明かりが弱々しく,自分の歩いている道の起伏がほとんど見えない.

どこに段差があったか,どこから舗装されているか,といった道の特徴を,

そのパターン変化に足裏が触れて初めて思い出す.

歩くのが年に1回ではさすがにそこまで覚えられないらしい.

ただ経験から醸される安心感ははっきりとあって,

調子に乗って上を向きながら歩くと幾度か地面の凹凸に足をとられた.


山道の途中で参拝者のグループに追いついたのでゆっくり歩く.

家を出た時刻からするとぎりぎりだったはずだが,もう諦めて時計(携帯)は見ずに後ろをひっそりついていく.

「ここ段差あるよ,気ぃ付けな」

おじさんが母親の後ろを歩く小さな女の子に声をかける.

会話を聴いていると年輩方と親子連れは他人同士のようだ.

女の子の歩みをじっと見守り,声に気配りを隠さないおじさん.

「優しいおとな」だと思う.

 「大人には3種類いる.

 優しい大人はめったにいない.

 優しくない大人には近づくな.

 いちばん危険なのは,どっちでもない奴らだ」

 たしか『優しいおとな』(桐野夏生)で,双子の少年は主人公にこんなことを説いていた.


新年には間に合わないと途中から諦めていたが,

石清水八幡宮の敷地に入り,休憩所を見渡せる砂利の敷かれた広場に着いたところで0時を迎える.

どちらかといえば間に合ったと言ってよいタイミング.

放送が流れ,拍手がちらほらと起こり,新年の挨拶が入り交じる.

礼を交わす男女も何組かいたが,ある向かい合ったカップルがふと目に留まった.

人混みから離れて立つ二人は2メートルほど離れていた.

頭を下げる仕草に落ち着きがあり,表情は見えないが二人で柔らかな沈黙を共有していた.

見ているこちらも心が安らいだ.


参拝者が増えると予想されたのか,本殿へ通じる参道を仕切って順路が作られていた.

確かに人は多かったが,特に去年より増えたとは思わなかった.

長く立ち止まることもなく南総門をくぐり本殿の見える位置までたどり着き,

やはり賽銭は入れずに参拝者の観察を始める.

それが習慣付いてしまったのか,去年や今年について思い巡らすこともなく,

すぐに背景に溶け込んでぼーっとする.


色んな人の顔が,その表情が見える.

誰かと一緒にいる人も,独りでいる人も,周囲を見渡すことはない.

遠くに目を向けるのは,遠くに知り合いを認めて手を振る高校生や

母子の歩みの遅さを何ともなしに見つめる父親.

視線の遠さからして僕は異質であったが,居心地は特に悪くない.

 異質(特異点)が目立つ場合と目立たない場合がある.

 人々が周囲への注意を欠いていれば,異質は目立たない.

  人々が周囲への注意を欠くのは,個々に満たされているか,または個々に余裕がないか.

  両者の違いが顕れるのは,人々の間で,または人々と異質の間で衝突が起きた時.

  一方で人々が周囲に気を配るのも,個々に満たされているか,または個々に余裕がないか.

  両者の違いが顕れるのは,人々の視界に異質が捉えられた時.

 異質のままでいる精神の強さに憧れ,そして憧れでなくなった自分には,

 「時に”人々”になって異質を外から眺めるしなやかさ」が足りないのだと思う.

 つまり傍観者でいいと思っていた自分の視界に,まだ自分自身が入っていないのだと思う.

 そのしなやかさを獲得する第一歩として,いったん傍観者の視点を手放さねばならない.

 そして手放した自分の行く末を,先の見えないまま,信じなければならない.

  きっと,戻って来たいと思う場所は,戻るべき場所ではないのだ.


本殿の外周をひとまわりし,入ってきた門をくぐり出て,焚き火にあたる.

冷え切った腕から先の暖をとりつつ,ふと思い出して右目で火を見る.

火が,赤々と盛る炭が,なんだかリアルに見える.

なんだか熱そうだし,現に熱い.

しばらく見つめ,視点を左目に戻すと,しかしなんだか「帰ってきた」気がした.

ふむ,やはり右目が見るのは「夢」か.

 夢がその姿をはっきりさせてくると,現実は霞むのか? 

 それとも,より強度を増すのか?

 現実と夢の関係が,そのどちらかを決めるのだろう.


恒例の缶お汁粉を外の自販機で買い,

しばらく両手で弄んでから飲む.

缶の側面,アサヒの銘柄の上には「老舗の味を再現」とある.

これは缶で飲む状況も含めての老舗の味だろうか.

 もしそうだとして,この缶お汁粉をお椀にあけて飲んだ時に,

 缶のまま飲んだ場合より美味しくなかったら面白いなと思った.

 やはり味というのは食べ物と食べようとしている人の相互作用なのであって,

 「缶ジュースが”本物”より美味しいはずがない」という先入観を外せればそれは実現可能だろう.

  新商品がひっきりなしに生まれることで,こういった視点は失われていく.

  この視点が「自分の仕事の存在意義を疑う」,ひいては「自分の存在への疑問」に至るとしても

  (それに薄々気付いているからこそ誰も考えない),やはり寂しいなと思う.

   哀しみの先に喜びがあり得ることを知っていて,なぜニヒリズムを嫌うのか.

   感情と思考は相容れない? それを決めるのは思考ではなく,感情なのに.

  
帰りも山道を歩く.

前後に参拝客がいて,足下の明かりには困らなかった.

「下りたらホームセンターに寄ろう. 洗剤と…」

携帯のライトを手にした若い女性のペアが,ゆっくり歩く僕を横から追い抜く.

ライトを忙しなく動かし,会話も止むことなく足早に下りていく.

そこには「あるべき気配」がなかった.

 ライトによって周囲の風景が明滅し,周波数の高い音波が飛び交ってはいたが,

 それら以外に「二人の女性がすぐそばにいる存在感」を感じ取ることができなかった.

 密な竹籔に囲まれた闇の中で彼女らが異質であったのは確かだが,

 あるいは彼女らは「人の気配を消した闇」として周囲に同化していたか.

 …すれば,自ら闇と近しかったはずが,その「一体感」に慄いた僕はそこでも異質であったか.


山道を下りきり,行きに目にした新築の宅地周辺を歩いてみた.

去年の大晦日はここらは全て竹薮だったのだから,建って半年も経たないだろう.

それにしてはどの家も人が入っている.

隙間の多い庭や蔦壁(フェンスに蔦を絡ませるもの)が新築の象徴に見える.

建家や表札はどれも個性的で,窓の形・配置にもモダンなデザインを感じる.

シムシティ2000(Windowsの都市育成ゲーム)をやり込んだ者として,
 
この界隈のこれからの発展を楽しみにしておこう.



山を下りてからもあちこち散歩していていたが腕がまただんだん冷えてきたので,

途中からいつもの道に合流して足早に帰途につく.

全く時計を見なかったのだが,家に着いて見てみると1時半を過ぎていた.

ベンチに座ったのは缶お汁粉を飲んだ時の15分程度なので,

かれこれ2時間以上は歩いたり立ち止まったりしていたらしい.

 ブックオフ通いに加えて在宅天狗,それに散歩部まで始めたものだから一段と脚が鍛えられたのだろう.

 体が冷えただけでそれほど疲労を感じないところ,とりあえず健康ではあるようだ.

早々に湯船につかり身体を暖め,特に何を考えるでもなくぼーっとし,

水を少しだけ飲んで就寝.


年の変わり目をほとんど意識しなかったなあ…
[PR]
by chee-choff | 2012-01-01 21:03 | 思考
ゆくとしくるとし('11→'12)3
僕が読書に限らずふつうに生活するにおいて念頭にあるテーマがあって,

それは固い表現でいえば「身体性の復権」である.


内田樹を読み始めてから僕のブログに「身体性」という単語が頻出するようになったのだが,

言葉によって賦活されるものではあれ身体性を言葉で捉えるのは非常に難しく,

「脳は無限だけど身体は有限」という氏の言葉は総論であって,

各論では「どんな言葉で身体がどう反応するか」は人によって千差万別である.

 (個人の身体経験と言語活動の相互作用が有限であるとはイメージしにくい.

 あまり厳密に考えず「法則性を捉える」ことを主眼に据えるべきなのかもしれないが.

 うん,やはり「他者との身体感覚の共有」と言うならそう考えなければ話にならない)

自分で書いていて既に混乱しているが,要するに身体性は簡単に言葉で表現できるものではない.

けれど,幼少期に触れられる身体経験が確実に減っている現代においては,

「言葉による想像」から身体性を立ち上げる仕組みの方が現実味がある.

(本当は,というか過去においては身体にしっかり刻み込まれるだけの経験を小さい頃に積んで,

 それを言葉を細やかに扱えるようになってから言語化するという流れだったのではと想像する.

 ・幼少期の経験とは田んぼや原っぱや小川などの「手つかずの自然」の中での体験のこと.

  養老先生なら「きちんと手入れされた自然」と言うかもしれないが.

 ・その成長後の言語化の機会とは例えば情報社会に取り込まれて感じる身体の違和感に触れた時に訪れる)

とはいえ,行動力のある社会人なら稽古やサークルに参加して身体性を引き出す機会を自分で作るだろう.

だからここで言っているのは僕みたいな「出不精だが身体性に興味がある人間」と,

「そもそも身体に大した注意を払わない人間」(こちらが大多数だろう)を前提としている.


+*+*+*


…グダグダ中学のアルバムを見ながら紅白を聴いていたらけっこうな時間になってしまった.

上の書きかけはまあおいといて(多分続きは書かない気がする),

さっそく準備をして今年もはちまんさんにのぼってきます.

寒いけれど歩くうちにあったまってくることでしょう.

ちょっと(アルバムのせいで)頭がタイムスリップしてるけどどうなるか(まあどうもならんでしょう).


ではではみなさんよいお年を.

m(_ _)m 23:15


+*+*+*


25:45

戻ってきました.
腕が冷えた…ぼーっとした時間が思いのほか長かったようです.
特に何もなかったけれど,明日何か書くと思います.
ではとりあえずおやすみなさいー
[PR]
by chee-choff | 2011-12-31 23:15 | 思考
ゆくとしくるとし('11→'12)2
2011年はどんな年だったか.


と言って,「考え方」ばかり考えてきた自分には,

当たり前とされる問いの立て方に安穏とできない回路ができてしまった.

だからなんだといえば,「一年ごとに特徴付けて何になるか?」という疑問が,

「ゆくくる」を書こうとする傍から立ち上がってきて面倒だなと思う.


意味など何もないと言いたいのではなく,

意味があるのならその意味をきちんと把握した上で考えた方がよいと思う.

そうでないとその行為が上滑りして,何も残らず全て流れて行ってしまう.


「一年ごとに特徴付けてアルバムにしまう」のは,全てを水に流したいからかもしれない.

 今年は良いことも悪いことも沢山あったけれど,来年は心機一転頑張ろう.

 「君子豹変す」「朝令暮改」「心機一転」とぱっと思い付くだけでも「水流し作法」の言葉はいくつかある.

 (そういえば今朝か昨日の朝日社説のタイトルにも「首相は豹変すべき」とあった)

過去を水に流すのは,学習機制を削ぐというマイナスにもなり,過去の失敗に囚われないというプラスにもなる.

日本文化の伝統的な作法としてのそれは,後者を生かしながら,前者の発現を別のフェイズで抑え込む,

ということをしていたと思う(という印象).

でも,昔からずっと同じように水に流していて,プラスとマイナスの効果がそのまま維持されるか,

と考えればまあそんな筈はない.

つまりプラスとマイナスのウェイトがズレてきていると思うのだけど,

なぜそれがそのまま良しとされる(←特に指摘されない=「まあいいや」)のかといえば,

ここでいう「プラスとマイナス」の価値評価基準が昔のものだからだ.


当たり前だけれど,人は何かしらに(自分に,家族に,共同体に,国に…)良かれと思って行動するわけで,

仕事をするにも会話をするにも,明文化できないレベルを含めて目的があり,

その目的を括れる印象の名は「kaizen」である(マータイさん哀悼…あ,あれは「mottainai」か).

 たとえ「誰かを不幸に陥れる」という行為であっても,

 それは復讐心の達成あるいは自己精神の安寧化という「状況の改善」が目的だ.

だから主体的な視点に限れば誰も自分が悪いことをしているとは思わなくて,

そこにふっと影が射すのは他の視点(特定の他者の視点や常識・ルールなど個を離れたもの)が混じる時である.

…と言ってみたがこのモデルに当てはまる人は(日本人には?)あまり多くなくて,

実際は主体的な視点が「影そのもの」(=実体がない)になっている.

つまり(「ツマリよ回れ」),自分の判断だけではうっすらしていて頼りなく(そこには判断の可否もない),

他の視点をバックに据えて(あたかも太陽のように),やっと憂いが消える.

ちょっと話を戻せば,だからこのような人が多数を占める社会では,プラスとマイナスを決める実効力は

個人にはない(と個人は認識している).


さらに話を戻せば(なんでこんな話をしてるんだ…),そのプラスとマイナスの価値判断の変化の要因に,

「想定できる射程の長さの変化」があると思う.

これ以上掘り下げると一気に話が散逸してしまうので単語だけ並べると,

地域共同体の解体→家族の解体→個人主義の流れ(例えばテレビに始まる「一家一台から一人一台」)も,

今ここの欲望を満たすべきという刹那主義も,

子どもが学校で「子ども自身の価値判断に基づいて」何を学ぶかを決定する「学ぶ主体の自主性の尊重」も,

すべて「想定できる射程をいかに短くするか」に血道を上げた結果とも言えるし,

何が人々をそうさせるかと言えば資本主義の枠組みでしょうね.

 資源の限界を知らずかつ身体性が濃く残っていた高度成長時代は,

 資本主義社会を突き進むと言って物質的にも精神的にも余裕があるためにモラルが保たれていたが,

 環境問題が前景化し,脳内事象の実現(養老先生の言う「ああすればこうなる」)が最優先事項となった

 情報社会ではモラル(例えば今は悪く言われる「弾力的な措置」とか)の存在余地がなくなり,

 ルール原理主義への違和感が薄れてくる(もちろんやりすぎて法から逸脱すれば捕まるが).



どんどん話が大雑把になってきたので閑話休題.

何の話をしていたのか…そうだ,今年の総括をしたいのだった.

その総括の意味も考えろよと自分に言い聞かせる所から思い切り脱線したのだけれど,

そうすね,じゃあ「2011年を水に流すつもりはない」ということで話を続けよう.


社会人になってもうすぐ2年が経とうとしている.

一つの会社に勤めていて個人の生活に劇的な変化が訪れる理由はといえば,

社内事情の変化(昇進などの配置転換や転勤)か,その人自身に生活を変える出来事が起こった時だろう.

後者で想像できるのは結婚か身内の不幸(これは実家通いの人に限られるかもしれない)くらいか.


同期で今年結婚した人はけっこういる(同期同士も少しばかり).

院卒の人間が多いせいもあるが,年齢的にも結婚適齢期なのだろう.

一時期は「震災の影響で結婚するカップルが急増した」などと騒がれたが,

過ぎてみれば(そう,自然とこういった言葉が口をついて出てくる)そんなことはなかったように思う.

相変わらず自分はそういった話とは縁遠く,でも教育問題に興味があるというのは

(自分の子どもの話に結び付くし)結婚したくないことはないのだろうなと,

しかしそれを他人事に言えるところが大変微妙なのだけど,

結局は相手がいなければ何も始まらないのであり,それを縁任せにしているところが

「そういうの全く興味ないんでしょ」と同期から言われる所以でもあり,同時に

「でもいつの間にか結婚してて”子どもができました”とかいきなり言いそうね」とも言われる不思議さである(?)

結婚観を語る気はないのだけど,この手の話については

「感度は上げているが(実生活で)自分から言い立てないことを奥ゆかしさと見なしている」

というところで手を打つことにしよう(つくづく乙女だなあ…).


何が言いたかったといえば,「今年は生活に大きな変化はなかった」の一言である.

それは仕事もプライベートもひっくるめて社会人として安定してきたと言い換えられる.

かといって漫然と過ごしてきたつもりはなく,

ある程度の緊張感をもって(仕事はもちろんだが)読書に励めたと思う.


仕事について少し触れると…今は過渡期で,来年も動きが激しそうだ.以上.

仕事とプライベートの分別については,会社で少々淡泊に振る舞っていて(理由は社内事情),

それがプライベートにも反映されて「なんだか落ち着き過ぎてる人」になっている感がある.

 はじけて遊ぶ気がないオーラが伝わっているのか自分に近づく人が減ったことが一つと,

 あとは僕をそんなに悪く思っていない人は自分から近づいてこないことが一つ.

 後者はそれはそれで少し寂しくはあるが,僕の意をきちんと汲んでくれた結果でもあって「正解」.

 だからたまに自分からなにかを誘った時にびっくりする人とびっくりしない人の差がなんだか嬉しい.

まあ,場の雰囲気に敏感でおりつつ,流れをつくったり流されたりしていれば,

何かが始まることもあるだろうし,終わることもあるだろうなと思う(なんという意味なし発言…でもないんだけど).


読書の話に移ろう.

読書時間はこの一年で大きく変わったとは思わないけれど…

あでも後半に仕事が忙しくなって少し減ったかもしれない.

ということでソーシャルライブラリから読書記録を拝借して載せてみる.

d0044938_1739351.jpg

ジャンルを細かく分け過ぎて分類タイトルが見にくいが…

去年の94冊に対して今年は119冊読了(月10冊届かず)なので去年より読書時間が増えているのは確実.

でも今年後半の読了数が少なめなのは,仕事のせいもあるだろうけど,

読書スタイルが変わったことも影響していると思う.

いつか書いたことだけど,読了数を逐一数える習慣が消えた.

このチャートもずいぶん久しぶりに参照してみたのだった.

(それでもマメに記録をつけているのは習慣化したのが大きいが,きっとこういう時に俯瞰できるのが楽しいから)

ノルマ的な価値観が払拭されて,遅読をあまり厭わないようになった.

何を今さらと言われそうだが,読書が生活に定着したのだと思う.


統計データをいじるというのはあまり面白くないね(笑)

数字で分かるからわかりやすいのだけど,今の自分にあまり興味がないのだったと書きながら気付いた.

そういえば今(@年末の実家)父の本棚を漁っていて寮に持って帰る本を選別しているのだけど

(そのために空の旅行鞄を持ってきたのだ笑),タイトルで惹かれる洋書の翻訳本がたくさんあって,

でもパラ読みしてみると「どうだ」と言わんばかりの統計データ羅列本が結構あって,

やっぱ欧米の人はこうゆうの好きなのかなとか,そういえば最近翻訳本全然読んでないなとか思ったり.

そんな本の中に『木を見る西洋人 森を見る東洋人』なんてのがあって「これだよこれ」みたいな(何が).


なんだかこうして本に埋もれていると社会人生活なんてどうでもいいや,と思えてきそうな気配があって,

それは僕が一生を読書だけに懸けても読み切れない膨大さが個を希薄にしている所もあるのだけれど,

じっさい僕が日々読書をするうえでの緊張感は会社人であることによって保たれているという実感はある.

だから,今すぐ会社を辞めて晴読雨読の生活をしたいという願望がゼロではないけれど

その生活が社会(多分「多くの人々」)とのつながりの無さによって堕落極まる想像が簡単にできて,

自分自身に現実的な俯瞰の目を向ければその生活はしょせん都合の良い夢物語でしかないことが分かる.

(でも実はそれが「叶わぬ夢」であることが大事であり,

 荒唐無稽でなくどこか惹き付けられる「物語」であるところが,今の生活を成り立たせているかもしれない)

その緊張感の出所を詳しく述べようとすると危険な香りが漂い始めるのでこの件については一言だけ.

「会社人間にはなりません(なれません)」.

(そういえば新人の頃は「俺達は兵隊だ」とカッコイイこと言ってた同期と10月だかに飲んだ時に,

 「会社辞めても生きていけるようにしとかんとな」って一体何があった(笑)

 まあ,人を養うというのも大変だからね(ごほんごほん) )



なんだか話がぐんと戻ってしまうかもしれないけれど,

一つ思い付いたことがあったので書いてみる.


ある学校の教室で「よく考えなさいよ」とクラスのみんなに言った先生を前にして,

彼が全然考えているように見えない生徒が素直にとる応答には2種類あって,それは

 「”考える”必要なんてないんだな」



 「”考える”って本当はどういうことなんだろう」

である.

この応答をとる前の「全然考えているように見えない」という判断は,

その生徒が”考える”ことについてあまり知らなくてもできる感覚的なものである.

そして処世術に長けた子どもは前者のように考え,

何かしら偏った子ども(と大雑把に言ってしまうが)は後者のように考える.

そして恐らく今の社会で有益と見なされているのは,

前者のような判断を何の疑問もなく下せる子どもなのだ.


「ゆくくる」の最初で「地震は自然,子どもも自然」と並べて言ったのは,

どちらも本質的には「(大人たちが)制御できないもの」だからだ.

もっと科学技術が発達すれば制御し切れるとか,教育制度や施設が整えば制御し切れるとか,

そんな大前提から履き違えた無邪気な発想が何を引き起こしたか.

もちろんその責任を一個人に押しつけることができるわけがなく,

それが意味するのは「待っているだけでは何も変わらない」.


…「人の口を借りる」とするする言葉が出てくるのはやはり本当. 18:43
[PR]
by chee-choff | 2011-12-31 18:43 | 思考
ゆくとしくるとし('11→'12)1
雑記から話が全然進まないので気分転換に項を改める.


年末なので一年を振り返る.

今年は何があったか.


まあ何をおいても,東日本大震災でしょうね.

個人的な体験としても大きかったし,

やはり映画で見たような津波の恐ろしさをその目で(といってテレビだが)見たこともある.

実際に起こったのだ.


が,東北の日本海沿岸から離れて住む人にとっては,

ハリウッド映画で起ころうが日本で起ころうが「ブラウン管の中の出来事」であることに変わりはない,

という見方もできないことはない(ブラウン管はさすがに古いか).

 これは「テレビの中の話だから俺には関係ねー」という姿勢を肯定するわけではなく,

 状況を見ればそうだという話.

人前でそんなことを言える人間はさすがにいないと思うし.

そのような考え方自体が不謹慎であると大体の人は感じているのだが,

それにもかかわらず「みんな本音ではそう思っている」のである.


テレビや新聞で報道されるニュースを「世の中の動きにキャッチアップするため」に見る.

それはそれで間違いはなくて,ではなぜ世の中についていく必要があるかといえば,

「ニュースの出来事(=世の中の動き)と自分の日常が直接つながっているから」ではなく.

「みんなに置いていかれたくないから」である.

マスコミに所属する(実地で取材している)人間ですら後者に含まれる.

その例外は「各々のニュースの当事者」しかいない.

 だから例えば関東大震災が起こって神奈川在住のサラリーマンに訪れた生活の変化は,

 夏前に計画停電が幾度かあったこと,節電が叫ばれて会社の電力管理が厳しくなったこと,

 秋頃まで飲み会がほとんど開かれなかったこと,といった程度のことである.

 (被災地ボランティアは日常生活とは外して考えた方がよいと思われるのでここにはカウントしない)

 そこには日常生活のちょっとした支障が生じただけで,「震災による直接の痛み」は微塵もない.

ニュースでは日々,震災関連の報道がなされている.

新聞では一面から外れたものの,震災での死者数と行方不明者数の集計が掲載され続けている(朝日).

その報道を毎日目にする僕ら「部外者」は,油断すればどう思ってしまうか.

「ああ,大変だな」と.

震災の影響が実生活と結び付かない限り,他人事なのである.

上で「みんな本音ではそう思っている」と言ったのはこのことだ.

倫理道徳的な話を抜きにして,震災のニュースを他の「世の中の出来事」と同列に眺めた時に,

僕ら部外者は震災を無かったことに出来てしまう.

そして最も重要なのは,それが生活を着実にこなし自然に振る舞うことで達成される点である.

(日常を片手間に過ごせる人間は,社会人にはほとんどいない)

じゃあボランティアに行けばいいのかといえばそんな単純な話でもなくて,

ボランティアは(大多数の社会人にとって)あくまで「非日常」なのだ.


倫理や道徳だけで人はどこまで衝き動かされるか.

ここでいう倫理や道徳とは,特定の他者に対してもつ意識のことではなく,

つまりここで人とは「一般大衆」を指している.

 例えばマスコミが総出で盛り立てている絆という言葉「だけ」で,人はどこまで衝き動かされるか.

 絆が叫ばれなくなったら,それで終わるのか?

 あるいはずっと叫ばれ続けて,マンネリに陥らないのか?

 あるいは,それがマンネリに陥らないためにする努力が犠牲にするものとは何か?

 …少し前にも同じ話をしたのでこれはもう続けない.

言いたかったのは,「部外者が震災を内に留めるには努力を要する」ということ.


その努力が必要であるかどうかは,個人の価値観に因る.

個人の倫理・道徳観は,個人の価値観に含まれている.

つまり実生活においては,倫理・道徳観を天秤にかけなければならないのだ.

これは不謹慎でもなんでもなく社会の仕組みがそうなっているのであり,

「何よりもまず自分の日常を蔑ろにしてはいけない」と前に震災本の書評に書いた意味はここにあるのだと思う.


僕自身は,その努力は必要であると思うが,理由がある.

「震災を内に留める」そのことが目的ではないからだ.

ではなぜ「震災を内に留める」必要があるのか.

…これは僕自身の言葉ではまだまとまっていなくて,

それでも書こうとすれば養老先生の言葉をなぞるだけになると思われる.

そんなこと構わないから書けばいいじゃないかと言われそうだが,

端的に「それじゃ書いてて面白くない」ので,今は書かないでおく.

(ここまで真面目腐って書いてきたけれど,実は本記事の,というか本ブログの主旨がそうなのだからしょうがない)

一言だけ言えば,震災とは「自然」のことである.

養老先生の言葉を借りれば,子どももまた「自然」である.

…二言になってしまった.



さて,震災の話はこれくらいにして,

実生活のほうを次に振り返ってみるとします.

本の話ばかりになりそうだなあ…


BGMは最初は去年と同じく「凛として~」のneko氏ピアノ演奏だったんですが,

途中からうみぬこPのインストに切り替えています(いつもながらお世話になりますm(_ _)m ).

ソプラノ聴いてると吹きたくなるね(じゅるり).

まったり.

【ニコニコインディーズ】秋林に君を想う【インスト曲】
[PR]
by chee-choff | 2011-12-30 22:54 | 思考
ToSHiNOsE(仮)
今年も実家でゆるりとしています.


年末に特に予定はなく,年始に一つ.

区切りを意識するなら本当は年末が良かったのだけど,

年末年始を「年の境目」と捉えればどっちも同じ.

「気分でふらふら」の気分の醸成の仕方も慣れてきたようで,

話したいことを話せる時に話せればいいなというかつて抱いていた願望が変化してきている.

人と話をする時に「前もって内容を準備していく」姿勢が自分には合わないようで,

話したいことがあった時に「その内容を相手と話している場を想像する」ことだけは予めしておいて,

実際に相手と喋っている時にそういう雰囲気になれば自然と想像通りになるものだと思っている.

これが定着してくると「話したいことを話せる時に話せなかった」時に,

それを失敗とみなさず,「そうならないだけの理由がその時にあった」と自然に思える.

「(会話の)場への信頼」の一つの形と言えないかな,という今は実験段階.

 相手の話や,むしろ話し方(口振り,佇まい,目線,…)と接しているうちに,

 「この内容は今話すべきではないな」という判断が適切になってくることはあり得る.

 自分としては必要以上にそれを意識しているとは思うけれど,

 プレッシャーに弱い自分には「この話は今しておかないと」という意志も十分重荷になる.

 仕事上とか他人の利害が絡む場合はもちろんそんな悠長なことを言ってられないけれど,

 自分の対人関係に収まる話であれば要は「今(とこの先)の気分」が決定要因になる.

  「この先の気分」というのは例えば「後悔するかどうか」とか.

  そしてその気分には「相手が自分をどう思うか」も含まれる.

  もちろん自分の想像できる範囲内なわけで,相手からすればあってないようなもの.


実験というと軽く聞こえそうだけれど,自分を被験者として組み込む実験は当然だけど

自分が変わることを前提としているわけで,すると実験データを取る前と取った後での

解析者のスタンスが当たり前に変わってしまい混沌としてくるのだけど,

人間相手だからしょうがないし,そこが面白いのだと思う.


 という書き出しでどこへたどり着くか.

 今から散髪行ってきます.

 本当はまたストパーあてようと思ってたのだけど,

 珍しく本気で止めに入ってくれた友人がいたので.

 すっきりしてきましょうか. 12:53


+*+*+*


と言いながらすぐ帰ってきました.

何やら先客が新たに来たらしく,「3時に来て下さい」と言われた.

1時に予約したはずなのだけど…まあ予約した本人と認識されなかったか.


父親行きつけの散髪屋は大阪と京都の府境を越えてすぐの所にあり,徒歩3分ほど.

住宅街なので近辺は家やアパート・マンションしかないけれど,

土地がゆったりしているのか個性が家々にあって散歩していて飽きない.

普通の一軒家のような正面にエントランスがあって,

あれと思って横にまわるとアパートという洒落た建物が高台にあって,

住むならこんなアパートかなと思ったり.

 (状況が許せば「仮住まい転居主義」がいいなと思っている.

 「生涯賃貸宣言!」みたいな. でもこーゆーとなんかやーね笑)

近所をぐるりと散歩しつつ,年賀状を出してきた.

今年は(も?)自分から書くのは一枚だけ.

親が選んだ年賀状が空白たっぷりだったので,

ぎっしりコメントを書き込んでやりました(笑)

唐突で相手も迷惑するだろうけど,級友なので許してくれるかと.

 自分は昔からこんな人だっけな…よく覚えてないけれど,

 周りの視線を過剰に気にしてしまう性分はきっと全然変わってなくて,

 昔はその周りの視線の詳細まで気がいかずおどおどしていたのに対して,

 今はその方面への想像力を解放して勝手に納得できてしまっていて,

 その分自分の感覚に正直になれているのだと思う.

 「知らない(考えない)方がいいことがある」という聖域的概念を捨てたからだろうか.

 この話は大事なところなので後でまた考え直すとしましょう.

で,もらった分は(枚数の許す分は)きちんと返します.

 年賀状に対する意識もそういえば変わったなと思う.

 以前は(たぶん高校くらいから学生の間は)「なにかのきっかけになれば」という

 縦縞な(シマウマ?)思いというか「年賀状が相手に届くこと」自体に大きな意味を見出していて,

 それが昨日書いた時には「年賀状を書いている間にその人のことを思い起こすこと」が

 年賀状を書くことの一番の楽しみに思えて,「書くこと書いたし届かなくてもいいか」なんて思うから

 高校時代の名簿引っぱり出して住所を書き写しても特に不安はない.

 別に両者でコメントの内容が変わることはないのだけど,

 実はその変わらないことが「想像の中の具体的な他者に対する自分の姿勢」の一貫性を示していたりして.

 つまりその想像と実生活との折り合いの付け方が「極めて現実寄り」だという一貫性のことで,

 それからすると自分はまだまだ常識人なのだな,と(ホントかよ).


散歩しながら考えていた「ゆくくるトピック」をメモしておきます.

・森博嗣の(エッセイ)執筆スタンス
・自分の行動原理の「核」はどこにあるか
・空間の時間的把握

もちろん提示だけして触れられない可能性も大ですが…

では散髪(再)行ってきます. 14:53


+*+*+*


髪切ってきました.

何も言わなかったので文句もなにもないですが,

80年代風になりました.

うーん古いな…それだけですが.


…と,少し動画でニコニコしていたら晩ご飯の時間になっちゃいました.

てことで食べてきます.

うん,内容がもうついっただね.

まあいいや. 19:07
[PR]
by chee-choff | 2011-12-30 12:55 | 思考