深爪エリマキトカゲ
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カテゴリ:思考( 133 )
ゆくとしくるとし('12→'13)4
続かなかった(ぴしゃり)
この「ぴしゃり」は座敷の襖を(正座して一礼の後、両手で)閉める音ですね。
いらない解説。

先に謝辞をば。
今「年末年始」も良き音楽に和みながらこの文章を書き進めることができました。
まず、毎年ホントにお世話になっているneko氏のピアノ演奏による「撫子ロック」。
→ [pop'n music15]<撫子ロック>-凛として咲く花の如く-をピアノで弾いてみた
そして昨年読んだ『ジョン・レノン対火星人』に絶妙な雰囲気を与えてくれた不始末氏の第一作。
今の僕の「静謐のイメージ」そのままです。八幡さんに行ってる間もずっと頭の中を流れていた。
→ 【初音ミクインスト】ちいさい音ダイアル
そしてそして、この年末に偶然出会ったスズナリ氏カバーの「秘境系カフェインJazz」。
動画コメントを拝借した「秘境」の、僕のイメージは『水惑星年代記』(大石まさる)だろうか。
「大地には床暖房がある」。いいなぁ。
→ ふわふわハサミ (カバー)
みなさま、ありがとうございます。

+*+*+*

さて、シメにとりかかろう。
と言いたいところだが、書きたいと思っていたことをいくつか思い出したので最初に列挙しておく。

①物理時間と生理時間
②「多様性の話」の続きというか枝葉
③「感受性を下げない」ために

ひとつめ、これは先月読み終えた『毒にも薬にもなる話』(養老孟司)にあった話。
物理時間tとは時計の刻む時間のこと。
生理時間Tは体感時計のことで、「思ったより時間経ってるなあ」という時の「思った」の部分。
経済動向の指標(というか目盛か)にも科学実験にも当然のように使われる物理時間は、誰しもが客観的な指標として共有可能であるためにそうなっている。
その目的そのものを疑う必要はないし、その客観的な指標はその使用を前提としないと現代社会がまわらないほど重要な要素である。
養老氏が指摘していたのは「客観化可能でない分野にまで物理時間を適用してもよいのか」という点だ。
「経済の動きは脳の動き」という言い方もしていたかと思うが、つまりお金の動きは人の思惑によって動くということで、お金の流れを支配する時間はtではなくTだろう、と。
数学的な表現では生理時間はT(x,y,...,t,...)と様々な変数の関数であって、もちろん物理時間も含んでいる。
時間はあらゆる関数の変数であり時間そのものが関数であるべきではない、という性質は物理時間のものだ。
その感覚からすれば生理時間などという関数を式に組み込む意味なぞありゃしない、と思うのはまあ自然な思考で、なにしろ「客観的でない時間」と銘打って生理時間を導入しているのだからそれは当然なのだ。
だから数式を簡便にするための概念でなくて(だから敢えて関数式で書くのは本質ではなく雰囲気だけの話)、「ものを具体的に捉えるための抽象概念」として生理時間はある、と考えてよいと思う。
「何かに夢中になっていたらいつの間にか長い時間が経過していた」
この時間感覚が生理時間で、それを物理時間に換算するのではなく(しかし当の言明に実はもう換算というか比較が含まれていたりするのだが)、この感覚を軸に「生理時間を生きる」コツを掴んでいけるのではないか。
(逆に「物理時間を生きる」例には、腹は減っていないが12時だから昼飯を食べるといったことが挙げられよう)
とはいえ会社はもちろんのこと街中での社会的生活を律するのが物理時間であるから、日常的にそれを実践することはまず不可能である。
(ラオスやミャンマーで虫取りに励んでいる時の養老先生なら可能かもしれないが)
だから抽象から入らざるを得ないというか、まあ「そういう話もある」と念頭においといて、要所で生活の方向を微修正する安全弁(?)にでもなればいいかな、というのが正味の僕の感覚。

ふたつめは、2つ前の記事で展開した多様性の話の派生的話題。
と、上に列挙したときは内容が頭にあったのだが、はて。
…思い出した、「多様性を守ることを第一に考える選択」のメタファーを思いついたのだった。
それはすなわち「R&D」です。
研究開発、だけど技術に限らず発明というのは一般的な感覚として「万に一つが当たればオッケー」である。
研究開発を主とする企業が、自社で扱う分野を本命テーマだけに絞ることは自殺行為である。
というのも「どれが当たるか分からない」からこその革新的技術なのだからして。
もちろんこれは通常というか平時の経営指針であって、「選択と集中」の局面は別に必ずある。
で、これをメタファーと言っているのは、自分の人生…は言い過ぎかもしれないが、ある一時期の生活指針をこの平時R&Dの1テーマになぞらえてみてはどうかということだ。
(「人生は実験だ」というのと通ずるところがあるな、これ)
当たればめっけもん、外れりゃまぁしゃあないか。
で、生活指針を1テーマになぞらえつつもその生活をやりくりする個人の視点は「R&D企業経営者」なのである。
視野を常に広く保っておく、健全な経営状態を続けるために、本命テーマのまわりには数多くの博打的な、ある意味遊び半分の、またある意味使い捨ての小テーマが独自の活動を営んでいる。
そして健全な経営状態と言った通り、「一発当ててガバっと儲ける」ではない経営方針のR&D企業の主なのである、僕らは。

みっつめは、「感受性を下げない生き方」の具体例をいくつか書いておこうと思った…のか?
あまり自信ないけど過去の自分には聞けない(もはや他人の領域やし)のでとりあえずそれを書こう。
ざっくり言って、まず「脳の活動領域」と「身体の活動領域」をきちんと見分けること。
前者を言い直すと「脳の活動によって場が制御されている生活領域」で、後者は脳を身体に変えればよし。
会社は前者。
近所の散歩は後者。
満員電車は前者。
読書は前者(と、定義上はそうなるはずだけどきっとこれは考え始めると難しい。後回し)。
人と喋る時は、どちらも混ざっているのだけど、人によってあるいは場によって両者のバランスが変わる。
このバランスの見極めはまあ当然難しくて、見誤ってどちらに振れても相手の不快感と場の違和感を引き起こす。
そしてもっとややこしいことを言うと「全ての人に対して見極めたバランス通りに喋る(やりとりをする)必要はない」のも大事なことで、前に認知的KYと遂行的KYの違いについて書いたことがあったけど、ここでの話は「遂行的KYでいこうじゃないか」ということで、これまたざっくり言えば「好きでもない人に好かれてもしょうがないでしょう」という。
だから大切なのは認識で、「分かっててやる(=行動する)」こと。

それはもちろん結果が予測できる行動しかとらないのではなくて、もちろん予測が外れても構わなくて、自分の人に対する振る舞いにきちんと意思をもっておくということ。
(「自然な何気ない振る舞い」ができなくなる? と書きながらふと思ったがそれは多分違う話。後でできれば…)
その意思を持った振る舞いとフィードバックの経験を通じて、自分の感覚を信頼できるようになると思う。
そうか、何気ない振る舞いというのは、それをあまり意識せずにできている状態、なのではないかな。
「誠実な態度」という時、それが「相手のことをよく考えていること」そのものでなく「相手のことをよく考えており、それがうまく表面からは隠れていること」を指していることと同じ。
相手のことをよく考えているそのことを前面に出すとどうしても相手は「こいつ押し付けがましいな」という思いを抱かずにはいられない。
これは実際そう思う人がどれだけ自分の周りにいるかという話(を考えることは実際的に意味があるにしても)ではなく、原理的な話をしているのであって(←あ、そうなんだ)、コミュニケーションにおいて言葉のやりとりが情報のやりとりとイコールになっていない限りにおいて当然起こりうる事態なのだ。
人と人との面と向かっての言葉のやりとりは、その言葉の意味だけでなく「言葉を発する身振りの意味」も同時にやりとりしている。
僕は後者の抜け落ちた会話が健全でないという認識でいて、その認識が健全であるかはともかく(これをアナクロだと指摘することもできよう)、このような認識を共有できる人(を見極める判断はもちろんこんな堅苦しい話を面と向かってやる必要は全くなくて(というかその必要性を感じてしまう感覚こそが一種の「言葉を発する身振りの意味」が抜け落ちている状態と言えるのだが)、当のコミュニケーションを通じて言語を介さずに感得できるものだ)とは最低でも誠実なやりとりを通じて仲良くなりたいと思う。
で、ちょっと戻って上の「もっとややこしいこと」の続きなのだが、遂行的KYというのは周り(というか僕が距離をおいておきたい方々)からはKYに見えてしまうもので、所属する集団によっては簡単に孤立することができる。
だから「孤立してあたりまえ」という認識がそこには必要となる。
誠実に対応したいと思える人間を限定しておきながらその彼らを探そうともしないのだから。
まあ、さびしくなったら、探せばいいんじゃないかな。

…さて、具体例をいくつか、と上では言ったのだけど、他に何かあったかなーと。
あ、これにしよう。
「意味の価値関数は身体の状態を変数にとる」
しんどい時に重いこと考えるのはやめましょうね、と。
もう何度も書いてきたけどつい書いておかずにいられないのは、この真理(って言っていいと思いますホントに)がしんどい時には全く実感として響かないからで、こういう時に格言の役割ってあるんだなあと健康が回復した時にいつも振り返って思うからだ。
「思考停止を嫌う」が基本姿勢の考える人には格言を格言とする(通じるかなこれ)ことに忸怩たるものがあるのだけど、身体への信義を誓うものとしては清濁併せ呑む(?)しかないのである。

だんだんてきとうになってきた(笑)
そろそろ実家をおいとまする時間なので。
後で読み返して修正するところはしよう。
もう「ほぼ満足」なので最後の〆は寮のPCで書くとしましょう。
では、帰る前にうまいもんもうひと食いしてきます。 17:48
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by chee-choff | 2013-01-03 13:55 | 思考
ゆくとしくるとし('12→'13)3
2の続き。

「感度を下げない生き方をしたい」という話だった。
しかしそれは大自然の中でワイルドに生きたいわけではない。
街中に住む以上、人目を気にせず無法に振舞うわけにはいかない。
人と社会的に接しながら、感度を下げないでいられる方法があると思うのだ。
 一緒にいると、心を開きたくなるような人。
 そこにいれば、五感を研ぎ澄ませてのびのびとしたくなる場所。
理想を言えばそのような場所に暮らし、そのような人と一緒にありたい。
もちろんその理想を実現することは大変難しく、膨大な努力を要することだろう。
生き方として言うならば、「今いる場所」でそのような理想に近づける努力をしたい。
そしてその努力は、とても抽象的なものだ。

どうも抽象的な話は脳の専売特許というイメージがつきまとう。
けれど僕は、抽象的な思考が身体の感度を上げることにつながると思っている。
ただそれが直接つながるわけではない。
脳-身体間の重心が脳に偏っている時、そのバランスを整えるのは脳の仕事だということだ。
そしてその仕事を日常的にこなしつつ、生活圏の大部分を占める「ああすればこうなる」をルールとする領域から時には距離をおく必要がある。

話が戻ってきた。
つまり、通常の社会人一般の生活を保ちながら、(その価値観の全てを自分の生活に適用すると感度を下げざるを得なくなるという個人的な危惧のために、)どこかに感覚を開放できる回路(アース?)を通しておきたいのだ。
…どうも話が分かりにくい。
維持すべき「感度が高い状態」を語るのではなく、なるべく避けたい「感度を落とした状態」を語ったほうが分かりやすそうだが、それはやめておこうと思う。
恐らく、その先が続かない。
というより、単純に面白くない話になりそうだから。

簡単に言えば、自分なりに気分良く生きたいということだ。
この「自分なりに」の意味は、あまり心地よくない場所に自分がいたとして、その場所に居続けて自分が気分良くなれるよう努力するのではなく、さっさとその場所を離れる解決法をとるということ。
場合に応じては自分から環境を変える努力をする可能性ももちろんあるだろう、と思いたいところだが、過去に同じことを言って、その通りに振舞って、何度か失敗した経験が僕のその認識を揺さぶっている。
極端な表現を使えば、僕は「気分良く過ごせる場所を求めてひたすら逃げ続けたい」と言っている。
(この「逃げる」も抽象的に使っている。例えば簡単に会社を辞めるようなことはしない)
けれど、字面を眺めるに極端だと思えるだけで、実際やってみると案外そうでもない気がするのだ。
逃げるという言葉がネガティブに響くが、感度を上げてこそ自分が今いる場所の居心地について自信が持てるのだし、囲まれている価値観が通念的であればあるほど、そこから逃げるためには勇気がいる。
その勇気は、現に居場所を移す際の行動力の源でもあるし、逃げおおせた後に自分の感覚を正当化する源でもある。
話が循環しているが、この勇気は「自分の感覚に対する信頼」と言い換えられる。
五感の感度と、この信頼は正の相関関係にある。
結局のところ、気分良く生きたいとは自分の感覚を信頼できる状態でありたいということ、自分の感覚が信頼できていればたいていの場所で気分良く過ごせるということかもしれない。

すっきりしない展開になったがこれはこの辺でおしまい。


読書のこと。
本を読む時間は去年一年間では安定していたと思う。
一方で読むスピードは、だんだんと遅くなっている。
読む本のジャンルで速度は変わるのだが、遅くなったのは小説を読むスピードだ。
森博嗣氏のエッセイに何度も出てくる話だが、森氏は読むスピードがとても遅い。
本人曰く、小説を書くスピードよりも遅い、らしい(書く方は確か10分で原稿用紙1枚分だったはず)。
その理由として「文章を映像に起こすのに時間がかかっている」ことを挙げている。
小説を書くのは、頭の中に描いた映像を文字に変換するだけだから速い、と。
そういうものなのかなと読みながら思ったが、そこで僕は文章のイメージ化の大切さを感じた。
今まで自分が読んできた小説で、印象的だった場面は全てイメージとして自分の中に定着している。
それは断片化されて脳内のイメージ保管庫に雑然と散らばっているようなのだが、そのイメージの断片の「強度」は、自分がその場面の描写を文章で読む時に想像したイメージの強度そのものだろうと思った。
だから、小説を読んでいて「ここぞ」という場面ではたっぷり時間をかけようと思ったのだ。
 追記)速く読めるほど良いという価値観は以下に続く話以外にも結びつくところがある。
 その一つは「効率主義」だ。
 何かを得るとき、それを得るためにかかる時間は短い方がよい。
 これも、得るものが最初から分かっていれば疑念をさしはさむ余地はない。
 (学生の頃に速読法を会得しようと試行錯誤したことがある。フォトリーディングとか。ダメだったけど)
 ある種の読書で効率主義が邪魔をする時というのは、読書を通じて「謎」と相対している時だ。
 単語の意味を調べる時は紙の辞書よりは電子辞書が速く、周辺情報も欲しければ検索がより適している。
 それは手に入れたい情報が明確である時のこと。
 小説を読む理由は情報を得るためではないし、速く読み終えることでももちろんない。
 けれど実際のところ、「速く読み終えないと」という思いに囚われることがある。
 単に積ん読量が膨大だからかもしれないが…
 と、これは下にも書いてるな。

去年のゆくくるでも読むスピードが遅くなったことを書き、それは量(冊数)をこなす義務感から開放された(というか「量が質に転化する」という価値観の束縛が解けた)からだと書いた。
しかしそれは、完全には解けていなかった。
おそらく完全に解けることはないと思う。
なぜなら「量が質に転化する」経験を幾度となく積んできて、そこから得られたものが今の自分の一部を構成しているから。
例えば受験勉強。
いや、義務教育のほとんどがそういう価値観を原理としているかもしれない。
だからそれが悪だというのでなく(という言い方もなんだか消極的だが)、その価値観の拘束を逃れたいと思った時には長い時間と大変な努力を要するという認識を確かめておきたかったのだ。

その価値観はメリトクラシー(努力至上主義、だったかしら)とほとんど等しい。
努力をすれば、した分だけ技術が身につき、恩恵が受けられる。
努力の開始条件が平等である限りにおいて、平等な概念である。
(遺伝的要素もあるだろう、と言われればそうかもしれない…ええと)
メリトクラシーは努力を正当化し、努力する者に意欲を与える。
それ自体は善でも悪でもない(無条件で善とされることも多いけど)けれど、「何によってそうなるか」を失念してしまうと厄介なことになる。
つまり、この価値観が努力に価値を与える根拠について忘れてはいけない。
その根拠とは「結果」だ。
よってメリトクラシーは成果主義と容易に結びつく。
この両者のタッグが教育現場(また大きく出たな)における盲目を作り出すというのは、つまりは過程がなおざりにされてしまうということ。

…自分の話をしていたはずだが、何が言いたかったかといえば、本は読みたいように読みたいし、読みたいという自分の欲求(の内容というか詳細)にきちんと目を向けるということ。
だから、時間をかけて本を読むことはもちろん悪いことではないし、「自分はこの本をどう楽しめばよいのだろう」という思考に落ち込んで読書が中断されることも、時には必要なのだ。
後者はパッと見で「何もしていない状態」に思われてしまうことになっていて、それは空白の時間をなんとか作るまいとする現代人特有の宿痾(=持病)によって忌避される状態とされている。
その宿痾の根源は消費至上主義だと思われるがまた話が無闇に広がりそうなのでおいといて、結局のところ「今自分は何をしたいのか」を常に把握できている限りにおいて無為の時間も消費行動も健全なものとなる。


そしてまた話は違う所へ向かうが、「今自分は何をしたいのか」を知るにはどうすればよいかについて。
これは僕自身については、「今自分はどういう状態でありたいのか」という問いにシフトさせてよいと思っている。
今まで何度も書いてきたが、人は何かをする時、「何かをすること」自体を目的としているわけではない。
その行動の過程に重きをおく場合、あるいは結果を重視する場合があるが、「過程」も「結果」も行動そのものではない。
それらは状態なのだ。
つまり、人はある(安定した)状態に至るために行動する。
この、状態を直接志向するのではなく、行動を媒介させて迂回的に求める理由とは何だろうか。

まず一つの簡単な解としては、「(消費)社会の要請」がある。
 金は天下の回り物。
 経済が成り立つためには、「回転」そのことが必要とされる。
 行動が全て回転に寄与するわけではないが、「行動の伴わない状態の志向」は回転に結びつかない。
社会の要請であるということは、それは個人の意図とは別に考えなければならない。
また、社会の要請は「(身近な)他者の要請」とイコールでもない。
社会の要請と呼ぶものが具体的でないと言うのではなく、それは消費社会という「数ある社会の一つのあり方」に過ぎない。
「金が無ければ何もできない」という表現が拝金主義の魔力を帯びるのは、ここから連想させる対偶が間違っているからだ。
論理学(だっけ?)の対偶の定義は、「AならばB」に対する「反B(=Bでない)ならば反A」である。
「お金がない(A)」の否定は「お金がある(反A)」で、「何もできない(B)」の否定は「何でもできる(反B)」である。
すると定義通りに対偶を言えば「何でもできればお金はある」となる。
これは「お金があれば何でもできる」ではない。
命題の対偶は常に真だが、命題の逆は真とは限らない。
つまり上で「連想させる対偶が間違っている」と書いたのは正確には、「命題の対偶」だと認識しているはずのものが実は「命題の対偶の逆」であって真ではない、ということ。
最も身近な話(つまりカネの話)に抽象からのアプローチとなっているが、この時点で実感が伴うかどうかはおいといて、ここでまず「なるほどね」と思えるところから、拝金主義の呪縛を解くプロセスを始めることができる。

何の話をしているのだろうか…
まあいいや。話をちょっと戻して二つ目の理由としては「状態を直接志向することが抽象的だから」を挙げる。
18:31
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by chee-choff | 2013-01-02 00:23 | 思考
ゆくとしくるとし('12→'13)2
内田樹氏のブログを読んでいて、英文があったので思いつきで発声しながら読んでいた。
英語は大学受験科目としては好きな方だったので、仕事やらの必要性がなければわりと好きに読める。
気楽に読めるのは、書いてある単語の全てを理解する必要がなく、大体の(というか把握できる限りの)文脈をつかめばよいからである。
それで高校時代は英語の発音にこだわっていたので、文章の意味が分からずとも読み上げるだけでちょっとした楽しさがある。
上の記事は日本文のあとに英文が続いていて、もちろん日本文と同じスピードで英文を読むことはできないので、「まあここは読み上げとくか」という気分になったのだと思う。
で、英文がわりと簡単だったのもあるが、読み上げると英文の内容がするすると頭に浮かんできたのである。
あとで下の和訳を読んで、大きく意味を訂正するような箇所もなかった。
これが自分にはなんだか意外な経験に思えて(というのも、読むべきものとして英文を読んだ時はいつも「理解の及ばなさ(勉強すればもっと分かるはずなのに)」ばかりを気にしていたから)、ふと気付く。
そう、日本語を学んでいた時も最初は音読していたのだった。
語学としての英語を学んだのは中学校から大学2回生までの8年で、8年も勉強しておきながら「音読しないと意味が頭に入ってこないレベル」というのもどうかと思うが、たぶんこれは自分だけでなくみんな同じようなものだろうという思いがあって、つまり語学教育に根本的な欠陥があるのだろうなといったことはまあどうでもよくて、「自分の読みたい本を音読しまくれば英語も上達するだろうな」とブログ英文を読んで考えたのだった。
もちろん英会話のためでなく、英文読解のために。

内田氏のブログは日々の更新分をリアルタイムで読んでいるほかに、過去分を紙媒体に印刷して読んでもいる。
大学院にいた頃に研究室のプリンタで印刷しまくった分(99年~08年を時を遡って読んでいた)は読み終えて、最近は(ちょっと公には言いにくい所で紙媒体に起こした)09年分から時系列順に読み進めている。
読むのは部屋でご飯を食べる時でかつ新聞がない時で、だいたい土日の昼間か日曜の夕方である。
著作もさんざん読んでいるので「どこかで読んだ話」がもちろん多いのだけど、内田氏の扱うテーマは「いっぺん読んだらだいじょうび」なものがないというか読むごとに受け取れるメッセージが変わるので、いまでも飽きずに読んでいる。
というか、文章の内容から何かを得るというよりは「頭の調子を整える」ために読んでいる節もある。
実効性のあるお守りみたいなものだろうか。
あまり思考がスムーズに運ばない時に読んだ方が効果があるのだ。

で話を戻せば、内田氏が確か09年分のどこかで「外国語学習の意義」について書いていた。
覚えている部分だけ起こせば、コミュニケーションのための(一例として)英語は伝えることが主眼で文法よりは身振り的メッセージ(伝える内容と意志とその表現)が大事であり、逆に文法をきちんと学ぶべき理由は「膨大な知のアーカイブにアクセスすること」にある(あらゆる他者に開かれた文章はきちんと決められたルールつまり文法に従って展開されているから)、と。
(その知のアーカイブの比喩として「ボルヘスの図書館」と書いていたが、これは古典小説に出てくるんだろうか?それとも実在する?)
外国語を学ぶ目的がはっきりしていて、その目的と学習内容がしっかりリンクしていれば(このリンクがはっきり見えないのが受験英語で、リンクだけはっきりしていて目的の薄っぺらさが意志を阻害しているのがある種の英会話ではなかろうか)、きちんと時間をかけることで外国語を習得できるはずなのだ。
と思ったので、どこかの節目で英語をちゃんと身につけようかしら。
(ほんとうにまとまった時間がとれるなら読むためのフランス語を学びたいのだけど)
どっちにしろ今の会社にいる間は外因がなければやんないだろうな。

ゆくくる本題に入る前に一区切り。
ちょっと大掃除してきます。  17:02

+*+*+*

さっき続きを書き始めて5行くらい書いた時に、いきなりPCがシャットダウンした。
何事?と思ったら「Windowsキー」をシフトと間違えて押してしまったらしい。
運悪くそのすぐ次にU(終了)かL(ログオフ)を押してしまったために、落ちた。
しかし運悪くと言いながら実家でブログを書いていてもう何度かやったことがあるので、キーボードのキー配列が良くないのだと思う。
自分のブラインドタッチがてきとう過ぎるのかもしれないが。
タイプウェルでがむしゃらに鍛えてたからなあ…
そういえば自分の打鍵速度はタイプウェル上では10打/秒でけっこう速いと思っていたのだけど、会社に入ってからみんなふつうに速いことに気付いてから自然とタイピング熱がおさまってしまったのだった。
若い人にとってはスピードタイプも当たり前なのね。
隔世の感ですな…という加齢発言はさておき、本題に戻らねば。
あ、こまめに保存しよ。

+*+*+*

今年の出来事はこれくらいにして。
いきなり話が大きくなるけれど、自分の生き方について書いておこうと思う。
今の自分が思う、これから生活していくうえでの、方針の大枠のようなもの。

 ①多様性を守る生き方
 ②感受性を下げない生き方

まずひとつめ、多様性について。
選択を迫られる機会は生活のいろんな場面においてある。
その選択の結果が個人で閉じる場合と、他人に影響を与える場合がある。
個人で閉じる場合にはこのテーマが問題となることはない。
というか、この問題を考えることが個人で閉じる選択肢を狭めるようなことはない。
複雑なのは後者の場合だ。
会社で仕事をする時はまずもってそうだが集団で行動する時、ある選択に対する価値観は一人ひとりが違っていても集団全体として一つの選択をしなければならないことがある。
例えばワンマンの社長が仕切る会社であれば、社長の経営方針の選択に全社員が同意するということ。
2人以上を集団とすれば、そのような選択はサラリーマンが仕事をするにおいて日常茶飯事である。
その選択の際に、選択権が集団の中の特定の人間に委ねられていることもよくあるが、では権限のない構成員は選択の場にいる意味がないのか? といえばもちろんそんなことはない。
ないはずなのだが、それが建前止まりで実際は意味がないことも多い。
下っ端が何を考えたからといって仕事の方針ががらりと変わるわけではない、結局は上司の気分次第だ云々。
それは事実かもしれないが、それを事実と認めて思考が終わって、得るところは何もない。
人間の脳は「頭の中で考えた通りの現実になる」ことに一定の快楽が得られる仕組みになっていて、その快楽はこの事実認知で確かに得られるだろう。
自分はそれでは物足りないと思う。
考える甲斐がないというか、思った通りのことが起こって何が面白いのかと思う。
想像内容を実際に目で見て確認できることに、価値があるのだろうか(あるのだろうけど)。
技術が未熟であった時代は、ある種の想像が夢と呼ばれ、技術の進歩によって夢が現実となったとされた。
そのメタファーだろうか。
その昔の「ある種の想像」は簡単には実現できなかったからこそ、実現する過程を思い描くことすら困難であったからこそ夢と呼ばれた。
簡単に実現できる、あるいは「ああすればこうなる」と過程が容易に思い描ける想像をそれと並べてよいのだろうか。
「満足感を得るためだ」と言い切れるのなら反論も何もないが、それ以上のものを求めてしかしそれは原理的に得られないから恒常的に不満を感じているのが現状ではないのか。
…この話はちょっと具体的にしにくいし、話が逸れてしまった気がするので戻る。

多様性を守る、という話だった。
この一見抽象的に過ぎる標語をそのまま行動指針にしたいと思っている。
すなわち、「ある選択をする際に多様性の維持を第一に考える」状況をありうるものと想定している。
(たとえば…と例を書こうとして全く思いつかない。ディテールに興味がないとここで躓く、と分かっているのでしょうがないとは思うけど、人に理解してもらおうと思ったら「分かりやすい例示のストック」もせんといかんのだろうな。正味そうさせんとするインセンティブもないのでやっぱり放置するのだけど)
多様性を第一に考えるというのは、極端にいえば「内容そっちのけで」である。
もちろん(合理的な、またはある感覚に基づいた)選択の根拠が必要なのだけど、その根拠についての思索を大事にしたいのだ。
多様性を守る、とは「少数派を守る」と言い換えることもできる。
少数派の意見が、少数派というだけで切り捨てられることのないよう尊重されるのが民主主義の原理だ。
それはつまり、少数派の意見の遇され方によって、民主主義が機能している度合い(「成熟度」とよく呼ばれる)を測ることができることを意味する。
多くの人が考えもしないことというのは、決して考えてもムダなことでも、考える価値のないことでもない。
周りの目を気にしながら意思決定が行われる社会(つまり日本社会ですけど)では、「思考の穴」が、他の社会も同様に存在するかもしれないが、その存在が明確にされない、つまり「なかったこと」にされやすい。
だから、もし市民社会において民主主義が維持(されていなければまずは「確立」)されなければならないというのなら、そのような社会においてこそ少数意見の存在そのものが重要となってくる。
…僕自身はいちおう(と書いてしまうのは「定義を言え」とか言われるとまともに喋れないからだが)民主主義は維持されるべきと考えているのだが、それは「思想の自由」のためだ(もしかすると関係ないかもしれない…うむ、自信がない!)。
 21:44追記 そういえばこの辺で書こうと思っていたことがあった。
 上の話を少し言い換えると「選択の際に少数派の尊重を第一に考える」となる。
 この発想は村上春樹のエルサレムでのスピーチ(「壁と卵」の話)がもとになっている。
  もとは人がつくったが、人そっちのけで膨張を続ける(政治)システムという壁。
  その壁に対し、個人という卵は時にあまりに無力である。
  僕はどれだけシステムが正しくとも、個人が間違っていようとも、個人の側につきたい。
 内容の一部を要約すればこんな感じだったと思う(スピーチの文章は内田氏のブログで読んだ)。
 正しさに関係なく、という部分が一見過激に見えるかもしれない。
 けれど、戦争も虐殺も迫害も、全ては正しさの名のもとに遂行されたことは歴史が物語っている。
 「人の命は何より大事」と言ったその口で、何の違和感もなく人を殺してきた。
 抽象すれば、同じ過ちを人は何度も繰り返してきた。
 その一回一回において「同じ過ち」という自覚がなかったのは確かだ。
 そうであれば、同じ過ちを繰り返さぬためには、同様に抽象的に考えなければならない。
 それは例えば、言葉の正しさ(論理性をその原理とする)を乗り越えることだ。

と、勝手に話が難しいところに向かってきたところで晩御飯の時間となりました。
おせちです。わくわく。
しかしこれ続くのかな…  19:28

続きません(ぴしゃり)
言いたかったことだけ、もう一度言い直しておく。
ある選択の根拠についての思索を大事にしたい、と言った。
それは、とある大きな流れがあるとして、この流れに乗らない方がよいとなんとなく感じた時に、その「なんとなく」を形にしようという努力をまずはしたいということ。
何も考えずこの流れに乗ってしまうのでなく自分が立ち止まりたいと感じている理由を言葉にしようとするのだが、それは言葉にできるまで判断を保留するという意味ではなく、むしろ言葉にしたいという思いを胸にその大きな流れとは別の流れに乗るという能動性に繋げたい。
能動性と言いつつも、これは大きな流れとの対峙がスタート地点であるからして受動的であるとも言える。
とはいえ、たぶんその表現はどちらでもよくて、大切なのは「行動は思考の放棄ではない」という認識。
決断というのは、一連の思考が結論に至ったからできるというような生易しいものでは本来ない。
選択の判断基準が明確でなく、確固とした理由付けが確立できぬままに選ばねばならない時に、それでも「なにか」を根拠に方向性を決めることを決断という。
その「なにか」は、決断して行動してから、事後的に言葉にできるのかもしれない。
その可能性を捨てないこと。
逆に判断基準の明確な選択というのは、結果のフィードバックにたいした意味がないのではないか。
結果が予想通りにせよ外れたにせよ、選択前の水準の思考で話がまとまるのではないか。
「跳躍」がなかったのだから。
つまり、選択の前後で主体はなんら変化しないのだから。
…抽象的過ぎるかな、うん、この辺で。


ふたつめ、いきましょう。
「感受性を下げない生き方」をしたい。
これは分かりやすくて、五感の感度を下げないで過ごせる生活がしたい、ということ。
ざっくり言えば、人は脳が支配的となる活動領域においては感受性を下げる、鈍感になることを強いられる。
まずは都会がそう。
全てが「ああすればこうなる」で設計された場所では、秩序の形成が全ての前提にあり、確実性が尊ばれる。
五感が確実性を嫌う、とだけ書けば分かりにくいけれど、確実性を「一定の入力」と言い換えればいい。
触覚も嗅覚もそうだけど、それらを構成する器官が検知できるのは客観化可能な絶対値ではない。
 裸であれば皮膚が身体の最表面だが、服を着れば身体の最表面は布地になる。
 臭いの異なる部屋に入ってその臭いが気になるのは、部屋に入った瞬間に限られる。
刺激の検出器そのものが可変的であるために、惰性にとても弱いのだ。
違うか、正確に言えば、検出器が受け取る刺激(の次元)が「絶対量」(物理で「位置」と言えばすぐ分かるのだが)でなく「変化量」なのだ。
抽象的な意味で、都会では「絶対量」は乱高下(らんこうげ)までするにしても「変化量」は変わらない。
だから、原因結果の完全なる予測で覆われたシステムの中にいると、五感の閾値はどんどん下がる。
僕は、そのようなシステムを居心地がよいと感じるようになりたくはない。

その理由について、そういえば掘り下げたことがないかもしれないが、恐らく話は込み入っている。

という続きを、書く前に、ケーキを、食べようかな?
山登るんで、エネルギィ補給をば、ね。  22:14


あ、ゆっくりしてたら時間がやば。
永ちゃんはいつまでも若いね(あんましらんけど)
てことで、行ってきます。

みなさま、よいおとしを。 23:05

+*+*+*

無事、下山してきました。
ウデが冷えた。。
下半身の方が薄着やったのに、足はへいちゃら。
腕振って歩かんと上半身はあったまらんのかね。

特に何もなかった気はしますが、気が向けばゆくくるの続きの前に何か書こう。

ということで風呂入ってさっさと寝ます。おやすみです。  26:15
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by chee-choff | 2012-12-31 17:03 | 思考
ゆくとしくるとし('12→'13)1
帰ってくる時の話。

普段から時間を気にするという生活をしていないため(朝起きてから出勤前と寝る前以外はほぼ成り行き任せの時間感覚。仕事中も然り。まあそういう職場です)、電車とかバスの時刻表にはめっぽう弱い。
帰阪しようとなんとなく思ってからバスの時刻表を見て、次のバスには時間があまりないと気付いて準備をてきとうにして出てきたせいで、新幹線でと思ったのに読了済みの本を持ってきてしまった。
こういう時にならないと新品で本を買う勢いがつかんのだなあとその時思って、まあそれはブックオフの羽振りが良すぎるから悪いのだけど(費用対効果の話をすると。たとえば105円で1週間が面白く過ごせるなんてこと知ってしまったらもう…ね、いろいろあほらしくなる。もちろんモノサシはたくさんありますが)、小田原駅の三省堂書店で文庫棚を購入前提で眺めることになった。
そうすると「今自分が最も読みたいと思う本」を探さねばと気張ってしまうのが普段の行動パターンなのだけど、今日は何冊も候補を挙げて逡巡するようなことはなく、手にとって「あ、これやな」とほぼ即決したのが鶴見俊輔の『思想をつむぐ人たち』。
軽めの本で、と思っていたのが鶴見俊輔という名前に惹かれてしまった。
そして読み始めてから「今自分が読むべき本だ」と気付く。
考えすぎは良くないね、時によっては。
年末年始はこの本とお付き合いすることになりそう。

+*+*+*

今年一年は、自分にとって、どのような年であったか。
もちろん自分のこと書くつもりだが、本ばかり読んできた生活から出力されるのは「(他)人の話」ばかりになりそうな気がする。
こういう小説を読んで、あるいはこんな評論を読んで自分はこう感じた、こう考えた、というのは読書感想文あるいは書評であって、一部そんな話にもなるとは思うが、やはり個々の作品に対してというより読書生活の総体について、振り返ったり客観化したり、他の生活要素との関連や「その先」について考えたりしたい。

「その先」という言い方は読書の目的とか進む方向性みたいに聞こえるけれど、そんなことは考えていない。
別に考えてもいいけど、それも一つの前提を満たしてからのことである。
なにかといえば、「今の自分の充実に繋がること」。
これを自分は「純粋刹那主義」と呼びたいと思う。
刹那主義とは後先考えずに今現在を享楽的に生きることであるが、「今現在の充実」を追求するという点で純粋刹那主義と刹那主義は共通するものの、「今現在の充実」の中身が両者で異なる。
純粋刹那主義は「今現在の充実」の中に過去の思い出も、将来設計も含んでいる。
つまり、過去と未来を、その形の確定・不確定を問わず現在の充実に繋げるような生き方のことだ。
刹那主義は暗澹たる未来が予測できたとしても、その予測を完全に忘却して今の充実のみに目を向ける。
それを「視野を狭めることによる充実の追求」と捉えた時に、純粋刹那主義はその逆のスタンスとして、すなわち「視野を広げることによる充実の追求」と表現することができる。
 なぜこのようなスタンスに「純粋」とつけるかについて触れておく。
 ある種の人間は、今を純粋に楽しもうと思った時に過去や未来を含めて考えることを避けられない。
 それは自分のことだけを考えようと思って他者を考えざるを得ない人と似ている。
 (後者のような人間にはノブレス・オブリージュという性質が備わっている)
 今の今だけを見ていると不安になってしまう人、彼は今だけを考える技術(気楽さ?)が足りないのでなく、
 未来や過去も含めて考えて初めて安寧が得られる人なのだ、という捉え方もアリだと思う。
 もしかするとそれらは「未来や過去のコト」というだけで、時制は全部現在と考えてよいのかもしれないが。
過去の失敗にしろ、未来の懸案事項にしろ、余計なことを考えて今が塞ぎ込んでしまうこともあろう。
だが、それは「過程」なのだ。
幸福な状態が永続しないことと同じ理由によって、不幸な状態も永続することはない。
しかしその「永続することはない」という事実を素直に受け入れることで、「ひとつうえの静かな境地」に立つことができる。
「それもまた過ぎ去る」
つまり、そういうこと。

常にとまでは言わずとも、然るべき時に、「静謐」とともにありたい。


という書き出しになりました。
とりあえずすき焼き食べてきますーうふふ 21:00

+*+*+*

ふたたびウィスキーにはまりました。
実家にはそれはそれはおいしいお酒があって、「マッカラン13年」というらしいのですが、ストレートで1ショットをちびちびなめるように飲んでおりますと、これがなかなか香りが良くて、スーッときてカーッときてくーっという感じなわけであります。
「ストレートでちびちび」は寮でも濃い目のお酒(生薑と林檎のお酒、老酒など)でやってるんですが、来年からはウィスキーも仲間に入れてやりましょう。
きつけには一番効果がありそうな気がいたします。
「次の日にどれだけ残るか」をまずは実家で試しておきましょうか。
(今『海辺のカフカ』(村上春樹)を読んでるから寮でのウィスキーはジョニーウォーカー氏にしよう)


はい、てなことでレコ大見ながらマッカランをちび飲みして(運び屋ぱみゅ氏は歌手やったんすね)、今はジャックダニエルを飲みながら書いてます。

話を戻して…純粋刹那主義、はもういいか。
今年を振り返るとしましょう。

+*+*+*

今年は何があったか。
上と書いてることと早速違いそうだけれど、まずは読書以外の、主に対人的な出来事を振り返ってみる。
と、一番最初に思い付くのは10月はじめごろ(ちょうど所属グループが変わって仕事が落ち着いてきた頃)から始まった「とある流れ」なのだけど、これについては思うところがたくさんある。
たくさんあってでも書けることがほとんどなさそうだと思うのは、言い直せば「書かない方が良さそうなことがたくさんある」ということ。
それはとても人目に晒せない私秘的な話というわけではなく、言葉として定着させない方がよい曖昧な思いがある、ということ。
曖昧を曖昧のままにしておきたいのは、冷静で客観的な視点に基づいた分析対象にしたくはないということ。
だからほんとうはこの話題にすら触れない方がいいのかもしれない。
けれど、その「とある流れ」は日常的に自分の念頭に一定の位置を占めており、一定と言いながら可変的に膨縮を繰り返していて、読書の時も何か考える時も完全には無視できない要素となっている。
そんな重要な要素を、これまた日常生活で大切でもはや欠くことのできない言葉とのやりとりに、参加させないでいられる道理もない。
 ちょっと逸れるが「言葉とのやりとり」という表現に、言葉は使うものではないというニュアンスを込めている。
 そうでなく「言葉と対話する」のだけど、そうすると僕は何を用いて言葉と対話するのか?
 対話というからには言葉のはずだが、言葉は対話相手であってツールではない。
 用いるのは「イメージ」だ。(続きはたぶん後ほど)
ただ僕が望むのは、その「とある流れ」 のただ中に、まさに現場にいる時は、その流れに余計な思念を介在させず身を浸すことであり、「とある流れ」から少し離れた時にその現場での振る舞いを振り返って後悔しないようにすることであり、現場での自分の自然な振る舞いを妨げないように思考をしていくことだ。
そして後悔しないようにするということは、きっと「結果を口にしない」ことだ。
流れの中にあって、総括なんてできるわけがないし、してはいけない。
その流れの中にいて、自分が苦しいのであれば、別の認識を得るために総括(意味付け)をする意義はある。
しかし、これも確かなことだが、「とある流れ」そのものに対して、僕は心地よさを感じている。
勝手に引き寄せられている、と言ってもよい。
その「とある流れ」のただ中にいる時と少し離れて一人でいる時の思考が、いやそれに加えて身体感覚も全く違っていて、ただ中にいる時の自分はその(全く違うという)認識を経験する毎度ごとに嬉しい驚きを感じるし、少し離れた時の自分には的確に把握し切れない未知のものがそこには溢れている(未知そのものは少し離れた時の自分にとって格好の分析対象ではあるのだが、それは上記の通り自制すべしということだ。未知にも種類があって、「解明すべきでない未知」というか「未知なる未知」とでもいえばよいのか。まあ後者のように言って、では「既知の未知」とは何ぞやと聞かれれば、さあ何でしょうね笑)。
流れには敏感に、決して感受性を閉じることのないように。
(ガッツのある人は何の話題か想像してみて下さい。面倒くさい書き方ですんませんー)

さて、次。
上の話とつながりがあるのだけど、自分に素直になることにした。
この一つ前の記事でさわりだけした話。
なにかといえば、自分の渡世スタンスとして「流れはつくらないが、そこにある流れが自分を巻き込む予感があって、それが面白そうなら流れにのる」というものがあるのだが、この中の「自分を巻き込む予感」が今まで何度か暴走したことがあった。
簡単に言えば、本来自分に関係ない話に「自分がお呼ばれしている」と思ってふらりと顔を覗かせてしまったのだ。
しかも好奇心旺盛な顔で。
飲み会でもそうだが呼ばれてないのに来る奴というのはたいてい鬱陶しいもので、それは本人に自覚がないからこその厚顔無恥なのだが、ご多分に漏れず自分もその一人を演じていたことになる。
それを本気で演じていたかどうかは周りの人には関係がなくて、もちろんそれは本気にしろ冗談にしろ鬱陶しいことに変わりはないからだ。
ここでいう冗談とはおそらく「かまをかける」といったニュアンスになるはず(呼ばれたわけじゃないことは分かってるけど、仲間に入れてもらえるなら加えてよ、という感じか?)だが、これが相手の目に調子良く映るか不誠実に映るかは、ひとえに「もともとの自分と相手の距離感」に因るのであって、この距離感を僕は軽視していた。
だんだんと縮めるべき距離をいきなり飛び越えてやってきた人間に対して、人はまず驚く。動揺する。
その驚きが好意に化ける場合というのは、ほとんどない。
当然。
で、当たり前が面白くないとかほざいていた自分は「流れに乗っただけ」と無責任発言をなんとも無垢にほざきながらびよーんと不誠実な跳躍を披瀝し、何人かの善意の人間を困らせた。
やれやれ。
…これは(ハルキストとして)使い方が悪いな。
反省。そんでこれも含めて重ねて反省。
そう、話を戻せば、なので(ここで順接はおかしいかもしれない)実は↑は全然素直な振る舞いではなかった。
というのも、ありもしなかった流れをつくって乗り込み、ある節目にたどり着いて相手の困惑を目にする前から「あ、これはないな」との自覚を得ていたのだ。
自分の心を冷静に見つめていれば、その展開は予想できたはずなのだ。
そして、ある種の流れの判断をする時の自分がとても「軽い人間」であることが暴露されてしまった。
…これは「素直すぎるといけない」と語っているようにも聞こえるが、実はその方が表現が近くて、そして今思い至ったのだが、この節で言いたかったのは「相手とのコミュニケーションは地道にやる」ことの方だった。
自分と相手との関係は、普段の直接の言葉のやりとりの中で形成される。
大事なところでメールに頼っていた自分は、はっきり言って中学生レベルだ。
普段から想像力を暴走させている人間がメール中心でコミュニケーションをはかればどうなるか。
うん、失敗します。確実に。
ということで、メールはあんまり使わないことにしました(あーほんと中学生レベルだ)。
携帯電話の使いどころは、もっと先にある。
(というような生活をしています笑)

+*+*+*

反省ばっかしてるな自分。
それにとても眠くなってきた。
ウィスキーのせいだろうか。
ということで今日はここまで。  25:00
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by chee-choff | 2012-12-30 21:05 | 思考
四度目の祝福
かろうじて思い出した一月前の伏線(さいごらへんの「ちょこっと」)の回収記事です.


二度の地元遠征が終了し,一段落しました.
何かといえば,高校時代の友人の結婚式でした.
その二次会の余興で歌うという話がきたので練習をしていた.
歌うというのは「アカペラ」である.

高校の時に「ハモネプに出よう!」と誰かが言い出して結成されたバンドの,
その一人が今回の結婚式の新婦なのであった.
全員が地元大阪にいるわけではないので合わせの練習は数度限り.
しかも人前で歌うとなっては十年ぶりのこと.

まあ,結果だけいえば大成功でした.
ドッキリに彼女が気付いてなかったかどうかはおいといて,
ボロボロと涙を流しながら「ありがとう」と言われてこっちももらい泣き.
(歌ったのは当時のナンバー「宇宙戦艦ヤマト」に新譜「ありがとう」(生物係)の二曲)

僕は新郎との絡みは当時ほとんどなくて(新郎新婦とも僕と同学年の理数科でした),
二人が当時から付き合っていたこと自体今回はじめて知ったというていたらく(?)でしたが,
そんなことどうでもよくて「あしかけ十年」というのはスゴい.
当時の出会いが運命的であったということですね…末永くお幸せに.

+*+*+*

ということでこの出来事が色んな意味で一つの節目になった.
寒かった大阪から帰ってくると一気にこちらは初夏もよう(でも風はまだほのかにひんやり)で,
仕事も大事な時期で転換期を前に慌ただしくなり始め,
そして僕自身は浮いていた心が少し落ち着く(といって「小休止」だけれど).

 そういえば話がそれるけれど地元から帰ってくる新幹線の車内で興味深いことがあった.
 自分の前の席にいた母親のお子さんが何かの拍子に突然泣き始めたのだけど,
 いつも読書中なら「うるさいな…」と思うところ,なぜかその泣き声に聞き入ってしまった.
 意味を聞き取るというより単純に物質的な,息遣いとかそういうものを聞いていたのだけど,
 赤ん坊は息を吐く(=声を上げる)ことに夢中で息を吸うことを全く意識していないように感じた.
 (吐く息がなくなったから吸う,あるいはしゃっくりのように息を吸っていた)
 生理学用語を使えば「不随意的に息を吸い,随意的に息を吐く」といったところだろうか.
 この呼吸のアンバランスは「母親に訴えかけることの危急さ」によるのかもしれないが,
 もしかすると平常時においても赤ん坊はそれがデフォルトなのかもしれないし,
 あるいは赤ん坊に限らず人は「吐くより吸う方が意識的」なのかもしれない.
 コミュニケーションを形成する「発話」は息を吐くことで成され,
 息を吸うこと(これから意味を読み取ることも可能ではある)は補助的になる.
 また(特に子どもやお年寄りが)喉に異物を詰まらせるのは息を吸う時がほとんどだろう,
 とか連想できることは他にいろいろありそうな気がする.

で話を戻しまして…
「浮いている」時の自分はあまり好きではないのだけれど,
それを好きでないという自分は例えば今この記事を書いている自分に近い存在であって,
つまり「浮いている」自分をその場で見ている自分は浮いていなかったということ.

といったことを実感するには一度「浮上」しなければならないわけで,
その意味でこのふた月ほどはなかなか良い経験になりました.
自分とはやはり他者の他者であり他者なしに把握することはできず,
強度の差ではなく質の差として,本と人は違うわけです.

なんだかわけのわからないことを相変わらず呟いてますが,
簡単に言いますと「自分の立ち位置がわかってきた」ような気がします(飛躍).
何(誰)にとって,またはどういう意味での「(適切な)立ち位置」かというのは,
まだ言葉にできないし,あるいは「言えば消える」ものかもしれない.

もっともっと簡単に言いますと(という言い方が既に胡散臭い),
在りたい状態がわかってきて,それに向かってするべきことが分かってきて,
その「するべきこと」が手段であるとともに目的でもあるような在り方が分かってきて,
まあそんなこんなでわりと好き勝手にやらせてもらいましょう,と.

うん,別に何も変わっちゃいない.
つまり節目というのは当の出来事が一段落した後に意識するものであり,
しかも意識如何で節目かどうかが決まるもので,
人間どこかで一度落ち着かないと「変わらない」のだ.

あれ,言ったそばから矛盾してる?
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by chee-choff | 2012-05-14 14:02 | 思考
技と道具の分水嶺
久しぶりにポメラで書いたらコラムみたいになった.
起承転結,ではないけれど,
4行でひとまとめにするとリズムがついて良い.
意識し過ぎるとダメなのだけどね(後半はちと失速ぎみ).

+*+*+*


技と道具の分水嶺

2012/05/06 14:00
便利な世の中になった。
その一方で、体力や免疫力の低下が指摘されている。
極端に言えば、今僕らは縄文世界から電脳世界への過程にいる。
縄文は未開過ぎるが電脳だと身体の居場所がない。

ということで利便性とどこかで折り合いをつけたい。
市場は「おせっかいの先回り便利」を押しつけてくる。
言いなりになれば電脳世界へ「猫まっしぐら」だ。
猫はカルカン(古い?)に飛びつく脚力が育つからまだいい。

 僕はコーヒー豆を小分けに冷凍庫に保存している。
 だから豆を挽く前に軽く炙って解凍する。
 その時フライパンからミルに豆を移すのが少々不都合で、
 添えた手が熱かったり豆を数粒落とすのが日常であった。

 この場合漏斗を買えば不都合は瞬時に解決する。
 気を使わずかつ豆を落とすことなくミルに移せる。
 だが面倒臭さが先に立ってぐずぐずしているうち、
 不都合が習慣化し、その後に豆を落とさなくなった。

といった顛末を迎える事が日常には割と多いのではないか。
便利さを求めて買ったモノが余分だったと後で気付く。
最初は不都合に思われたが慣れれば案外そうでもない。
そう、市場に溢れる「便利さ」は自分専用ではないのだ。


生活に何らかの不都合があり、それを解消したいと思う。
その思いは自然「今の自分のままで」を前提してしまう。
それは利便性の獲得が購買行動に因っており、
購買行動の前件が「消費主体の不変性」にあるからだ。

これは消費礼賛社会の「定型」と言える。
上で挙げた自分の例はこれに対置させるためのもので、
つまり「不都合を購買行動で解消しない」、すなわち
「不都合に自分を合わせる」解決方法である。

「不都合に自分を合わせる」には2種類あって、
「自分が変化して不都合を解消する」場合と、
「不都合に慣れて不都合という認識を捨てる」場合。
言葉で分けてみたものの、両者の境界は曖昧ではある。

もちろんこの両者が時間をかけても叶わないこともある。
その時は「道具によって解消すべき不都合」とみなして、
適切な購買活動を行えばよい。
この判断を適切にするのは「時間」である。


「無時間モデル」の横溢する脳化社会への馴致拒否、
あるいはブリコルールの実践と言ってもよい。
ブリコルールとは「ありものでなんとかする」ことで、
ここでは「ありもの」に自分の身体を含めてよいと思う。

自分の例では「変な面倒臭さ」が「技」を選択させた。
(これを変と呼ぶのは、ふつうはさっさと道具を使って
 不都合を解消する方が「面倒臭くない」と思われるため)
この可否はおいといて、駆動源は何でもいいのだと思う。

ここに「ムダなものを買わない知恵」が提示されている。
日常に不都合を感じた時、解消に向けて即断即決しない。
まずはその不都合を「塩漬けする」時間を設ける。
浅漬けでも古漬けでも、美味しければしめたもの。

…話がズレた、「身体に染み込ませる」時間を作るのだ。
不都合が不都合のまま身に染みれば道具を買えばよい。
逆に慣れてしまえば、それは不都合ではなかったのだ。
気がつけば、最初に不都合を感じた瞬間から何かが変わった。
2012/05/06 14:51
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by chee-choff | 2012-05-07 23:05 | 思考
再会にして際会
土日月,と今日まで地元に帰ってました.
用向きはいろいろあったんですが,主に元高の人々に会いに.
もう,みんな顔がそのまんまで,これを懐かしいと言うのか,まあ高校ならそんなもんでしょうか.

うーん,そして中身は変わったのかそのまんまなのか,と言えば,
正直こっちも「そのまんま」という印象でした.
理数科のメンツは大体みんな世渡り上手なので元々スれて(「世間擦れ」の意)いたんですが,
さらに角が取れてまんまるつるぴか☆

というのは嘘で,みんな苦労してるみたいですね.
そんな彼らを見て「がんばれ!」とエールを贈りたくもなるんですが,
その後に続く言葉が…ここは本音になっちゃうので伏せますか(笑)

本音と言えば850氏&ぽ氏と飲んだ日曜の夜では僕はほんとうに本音ばっかり呟いていて,
明らかなウソは「社員寮の最寄りバス停は毎時1本」とかいう瑣末なものだけ.
日中は2〜3本あるし,路線も3種類くらいあってバスの便は非常によいです.
「田舎だしねー」と言えば自動的に「バスが一時間に一本でね」と口からこぼれてしまう時は
僕が地元にいる時ならではの「スキだらけ状態」なのであって,
スキだらけだと現実的な頭が回ってないのでしょうもないウソをついてしまうことになる.
まあ,そこはご勘弁下さい…後に引きそうなウソがぽろっと出た場合はその場で訂正しますので.

で,会社から離れてこそ会社についての本音が語れるということで
日曜の夜は好き勝手言い過ぎて2氏も時に理解に苦しまれたようだけど,
その事実がその場で語られた本音を本音たらしめるという「メタ視点」が理解のヒントです(何の?)

まあ分かりやすい話をすれば,
帰省中も風邪が治らず人といればぽわぽわし一人でいれば憂鬱な状態だったのだけど,
社会の趨勢に抗って脳を身体に従属させてる僕が正直に語る話というのは,
「ぜんぜん客観的でないし計画的でもないし共感を呼ばない」代物だということ.
むしろ共感できたら…あ,ここも伏せよう(笑)


さて,今回の帰省はなかなかいい刺激になったのだけど,
戻ってきてから溜まった家事をしてる間に身体の調子も良くなってきて,
(これは家事のおかげでもあり,下駄のおかげかもしれない)
脳みそ君も身体につられてくるくる回り始めたようで,
いくつか気付きがあったのでメモしておきましょう.
まあ自分の話なんですけど…

まずひとつは,自分の行動原理は「現状肯定」の一言で表せそうだなということ.
一人でいる時は「一人って楽だなあ,幸せだなあ」と思い,
でもみんなでわいわいやってる時は「一人だと寂しいなあ」と思うのだけど,
これは後者が前者を否定しているように見えるけれどそうではなく,
後者は「みんなでわいわいやっている“その時”」を肯定しているのだ.
だから落ち着いた時に両者を並べれば矛盾しているように見えて,
どちらも「その思いを抱いた場面」を思い浮かべればしっくりくる.
これはある程度身体に生活(の中での思考)を委ねてこそ気付けることではないのかな,とか.
だから「僕が本当に誰かと一緒にいたいと切実に思うだろう状況」というのも,
ここから類推することができる.
ま,それを今採用してはいるけれど成果が出てないので詳細は控えますが.

「現状肯定」のいちばん根っこには「じぶんのからだの存在」がある.
シェイプアップとか筋トレとか「身体改造」とか言ったりするけれど
それは身体を所有物とみなしてこその発想で,
実は身体を所有していると思っている脳は身体の一部で,
その身体は「所与のもの」であって発生に何ら主体性は関与していない.
起源と現在の効果(意味)の同一視は「そもそも論」が時に暴走する考え方でもあるのだけれど
(それは進化論の教えるところだ),
それは思考のゴールにした時に暴走と見なされることがあるのであって,
思考のスタートとするにはむしろ王道と言える.

つまり何が言いたいかといえば,
過去は単に過ぎ去ったものではないよ,と(かなり飛躍したな).
昨日の朝日書評に鶴見俊輔氏のこんな言葉が引いてあった.
現在の中に未来の種子として生きつづけている過去を、ほりおこすこと
僕はここに,鶴見氏とハシモト氏の深いところでの繋がりを感じる.


あ,タイトルの話書いてない…まいっか.
また当人と会った時にその時の驚きを伝えることにしましょう.
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by chee-choff | 2012-04-30 23:38 | 思考
Not wanna do, but wanna be/モダンウゴウゴ
『キッチン』(吉本ばなな)を読了.

今の自分に自然と溶け込む本だった.
紹介してくれたM氏に感謝.
おりにふれて他の著書も借りてこうと思います☆

最後の短編「ムーンライト・シャドウ」を読む前に偶然聴いたこの曲が,
頭の底をずっと流れ続けていた.
 【猫村いろは】ヨルに帰る花【オリジナル曲】
喪失の.

+*+*+*

最近言葉を綴る意欲が減退している.
読んだ分吐き出したいと,思う時もあったが,
今は思わない時,らしい.
どうも書こうとして前に同じことを書いた予感がすると書きたくなくなるようで,
別に無理に書く必要はないのでそれはそれでいいのだが,
そこから「自分は優しい人ではない」と以前思ったことを思い出した.

「やさしい人だね」と言われる時はたいていホめられているわけではないニュアンスで,
僕は何度もそのニュアンス(つまり「優柔不断」とか「意志薄弱」)で言われたことはあって,
でも上で言ったのはその「やさしさ」ではなくて,
良い意味での,人と長く付き合う上で大切な「優しさ」がない.
それはその「優しさ」を(さりげなくしかし確固と)持つ人と出くわすといやおうなく感じるもので,
でも昔の自分にそれはきっとあったもので意識して時間をかければ取り戻せなくはないと思うものの,
「でも今はいいや」とバッサリ切り捨ててしまえる自分はやっぱり「優しさ」がない.
そうやってどこかに追い込もうとしているのかもしれない.

 ああ…書く気がないと言いながら書き始めるとズバる言葉がどんどん出てきて困るのだけど,
 (ズバリ言う,本質を衝くという意味「ズバる」と書いてみました)
 そしてそれをボカすと途端にズバらなくなって(それを面白いと思う僕以外は)困るのだけど,
その「追い込み先」に至る過程を自分は良しとしていて,
それは「のっとわなどぅばっとわなびー」な自分の価値観に則った流れで,
それを「追い込まれた」と思った時にはそこからの脱出が切実となり駆動力となって
自分だけでなく人をも動かす力となりうると期待するいっぽう,
「追い込まれた」が「来るべくして来た」になってしまうと凄いが怖い.
どちらへ転んでも今の自分とは違う存在になっているという想定なのでどちらがよいとも言えず,
成り行き任せと言いつつ任せているのが成り行きではない何者かという混沌.

自分がどういう場面にいるかで同じ日の中でも「わなびー」の内容ががらりと変わっているというのは,
ある意味狂気かもしれないですね.
僕はそれを素直と呼びたいですが.

+*+*+*

「ウゴウゴ文学賞」で検索したらModern Livingというサイトに行き着いた.
(という一文の因果関係は「経験的事実」以外に何もありません)
とってもシュールで久しぶりの種類の感激を味わったのだけど,
たしかにモダンだと思って,でもそれはきっと「モダン・タイムス」のモダンなのだと思う(つまり?).
全部は見てないけど,僕は87の射的みたいなのが好きです.
あと94の隊列行進の「有無を言わさぬ」感とか…COPPELIONの「死の行軍」を連想した.
紹介がてらにスクリーンショットを載せておきます.

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by chee-choff | 2012-04-22 18:55 | 思考
安心毛布と独裁者
スヌーピーと仲間たちの心と時代―だれもが自分の星をもっている
広淵 升彦
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黄色にひかれて「犬」にひかれ,装幀にひかれてあまり中を見ずに買った.
奥付(「おくつけ」と読んでたけど「おくづき」なんですね)だけは手に取る本全部で確認はしていて,
「テレビの人かぁ」とは思って,読んでみたらしごくテレビ的で,
「装幀通り」だけでよかったのに想定通りでもあったというオチ.
しかし思い返せばコーンフレークの表紙絵と小学校時の文房具でしか見たことなかったので,
僕みたいに原作を知らない人にとっては良い紹介本かと思います.

「心の相談室」の猛烈少女ルーシー・ヴァンペルトとか,
3メートル以上高く飛ぶと鼻血を出して失速する小鳥ウッドストックとか,
みなさん愛らしいキャラクタですね.
スケッチ風の描線で簡素に描かれてこそ,無表情に近い表情にも深みというか
こちらの受け取り方に幅が出てくるのだなとあらためて思って,
はて何か懐かしいなと思ったら「マザー2」が浮かんだ.
まあそれはよくて.

安心毛布(security blanket)とはルーシーの弟ライナスが肌身離さず持っているもので,
天才少年もこれがないと手が震えて夜も眠れない(って麻薬かいな).
なるほど役割としてはもっともで,
リトル・アリョーヒン(@『猫を抱いて象と泳ぐ』)の祖母でいう布巾のような,
(あ,というか小森霧(@絶望先生)がまんまやな)
高校時代の自分でいうカラータオルのようなものだろう.
 たしか卒業文集のクラス別写真の一言コメントのお題が「これがあれば生きていける」で,
 「バスケ」と書いたバスケ一筋のT雅氏の隣の僕は「カラータオル」と書いて,
 100円ショップで買えるそれを確かに自分は年中肌身離さず持っていて
 (アルバムを見ると集合写真で頭にタオルを巻いている頻度が異常に高い),
 夏の授業日に忘れたと気付いた時にゃ絶望で頭がくらくらしたものだった.
 何せ微動だにせずとも汗が噴き出る汗かきだった…って今も大して変わってなくて,
 そろそろ社食でみそ汁を飲むのが苦痛になり始める季節だ.
 夏にあれ飲むと飲んだ分は全部汗で出てるんじゃないかってくらい…いや冗談でなく.
この安心毛布という名前がなんだかステキだなあと思って,
思ったそばから別のところでこの言葉を見かけてびっくりしたのだった.

というのは今日から週末用に読み始めた『キッチン』(吉本ばなな)の表題作でのこと.
「ライナスの安心毛布」と書くだけで一般に通じるんですね.
なるほど僕はばなな氏の文章が好きな気がする(唐突)
別の文脈もあるのだけど…まあ,それも楽しみながら続きを読んでいきましょう.
もちろん秘密です☆

あ,ひとつ気に入ったセリフがあって,たしかこんな感じの.
「本当に一人立ちしたいのなら何かを育ててみるといい」
その育てる対象は頭の中のことものではなく一言でいえば「自然のもの」で,
今の自分には全く欠けているのであった.
これは目を背けず,ありのまま「欠如」と認識しておきましょう.
きっと(←どころじゃないよ)身体性とも深く関わりのあることだから.

+*+*+*

いっしょに並べる言葉でもなかったんですが,
いつも通り過去のウチダ氏ブログを読み返していてタイムリーな話を見つけたので.

>>
私はまえにこう書いたことがある。
「独裁的な権力者は、理不尽な暴政を行うほど呪術的な威信を帯びる。殷の紂王からスターリンに至るまで、独裁者はその理不尽さゆえに畏怖され、憎まれる。もっとも独裁的な権力者とは、定義上、その没落を彼以外の全員が切望するような権力者のことである。」(『現代思想のパフォーマンス』)
独裁者の権威は、その「理不尽」さ、つまり「彼が次に何をするか分からない」ことを淵源とする。
(…)
今回の行動で、彼はむしろ北朝鮮金王朝の玉座を継ぐ資格が十分にあることを内外にアピールできたのかもしれない。
何を考えているか、何をするのか分からない人間」が、東アジア政治情勢の「鍵」を握っているという「恣意性の恐怖」こそ、金正日が手持ちの政治的リソースを国際政治で最大限効果的に発揮するために見出した奇策だからである。
夜霧よ今夜もクロコダイル(内田樹ブログ2001年)5月5日
>>

これはこの頃あった,金正日の長男(らしき人物)が偽造パスポートで日本に入国しようとして拘束された,
という事件についてウチダ氏が書いたもの.
最近のミサイル騒ぎが念頭にあってこれを引いたのだけど,
北朝鮮のふるまいはわけがわからないがその「わけのわからなさ」は
「独裁者の政治的駆け引き」という文脈におけば常道であるという話.
これを「理に適う」と言えるためには,論理の自己言及性を頭に入れておく必要がある.
…というか逆に言って,
「合理的な行動」と呼ばれるものが時に空疎で現実的でないのはこれが抜け落ちているせいかな,と.
予件のない正義論は「きれいごと」でしかない.
「ケースバイケース」が「そりゃあたりまえ」で終わってしまう人も抜けている.
投げやりな言葉ではなく,戒めの言葉として使われてこその「文脈次第」だろう.


ウチダ氏記事を肴にマジメに考えていると説教調になるのは偶然ではないな…
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by chee-choff | 2012-04-08 23:08 | 思考
思考の灌木を辿りなおす/BigHandGossip
この「灌木」は「生物の進化は梯子ではなく灌木」という進化論のお話からの拝借.
ガリレオ,ニュートン,ダーウィン,フロイトの「科学界四大激震」の3番目の経緯が
グールドエッセイ1巻目に書かれていて,科学観がいかに政治に左右されてきたかが分かる.
最前線にいる科学者はみんなそれを実感はしていて,でも世間に伝える手間を惜しんできた.
(そのメッセンジャー的役割は科学者の職業倫理に悖ると思われていた)
科学信仰はきっと研究の最前線から離れたところに発祥したのだろう.

学部生時代に科学哲学に興味を持ったのも「科学の無謬性」に疑問を持ってのことだったのだけど,
(科学哲学っつーと,クーン,ポパー,ファイヤアーベントらへんがうっすら記憶に残ってる)
今はきっと科学哲学というより「科学についての物語」が必要なのだろうと思う.
『鉄腕アトム』でもいいのだけど,それをお話で留めとくんじゃなくて「本気にする」のが必要.

また逸れた話を広げて元の話を忘れそうになるので戻る.

+*+*+*

昨日の記事で「2種類の可能性」の後者の説明を,
「経済活動の枠で」とか変な方向に持ってってしまったのが気にかかっていて,
少し時間をおいたら「実感ベース」のところを思い出した(思いついた,ではない)のでここで接ぎ木.


消費活動における可能性の行使は「選択の前後で主体が変化しないことが前提」という話でした.
ある物をお金を払って買う時に,お金を払う人はそれを欲しいと思って買います.
それを何に使うかを既に想定していて,払う金額も妥当だと思って買います.
つまりそれを買ってから「これ何に使うんだっけ」とか,
「あれ,お金払い過ぎたな」と思うことは基本的にないわけです.
逆にそういう経験をしてしまった場合,その消費活動は「失敗」とみなされます.
「最小の対価で最大の価値を手に入れる(そしてその価値は交換前から分かっている)」のが,
理想的な消費活動のあり方です.

上記が基本としてあって,次に「未知なる経験を手に入れる」場合を考えてみます.
様々な体験,スポーツ,アウトドア,海外旅行などとしましょう.
こういった体験を「やる前から(何が得られるかが)分かっている」ことは多分少ないと思います.
それを想像していて,実際やってみて想像通りになったことを喜ぶことも有り得ますが少数でしょう.
多くは「なんだか面白そうだ」という興味や現にそれをやっている友人の面白そうな話が最初にある.
そして,お金を払うことでその体験をすることができる.
もちろんこれも消費活動です.

そうして興味本位でその体験をして,思いがけなくはまり込んだとしましょう.
自分が想像していた以上に面白い体験をした,もっと深めてみたい.
このとき,その体験をした人は,体験する前から変化したと言えるでしょう.
さて,ここからが肝心なのですが,
この一連の活動は,「消費活動」としては「失敗」にあたります.
消費主体(の価値観)が消費の前後で変わってしまっているからです.
「でも彼は楽しい思いをしているじゃないか,それも想定以上に」
もちろんそうで,そのこと自体は何ら否定する余地がありませんが,
消費活動としてのそれは「たまたま」であって,賢い消費であったとは言えません.

何が言いたいかといえば,
「思いがけなく楽しい」「想像以上の価値を得た」「意外に得をした」
こういう「棚からぼた餅」的消費活動は理想的な消費主体にとって全て「失敗」であることです.

ここで「2つの可能性」の前者を思い出してみると,
それは「選択の前後で主体が変化することが前提」された可能性のことでした.
この可能性の行使が過たずなされる時,その主語を「消費主体」に想定してしまうと,
しつこいですが全て「失敗」であるとみなされます.


実感ベースと言いながら全然実感の伴わない話をしていて恐縮ですが(書いてから気付いた),
ここからはさらに自分の想像の範疇外の話になります.
上で何度も書いた「失敗」は,論理的にはそう言えるかもしれないけれど,
本来の失敗に伴う苦しみや挫折感とは程遠いものだろう,
と読んでいて大半の人が思われるはずです.
その点は僕も同意します.

しかし僕が怖いと思うのは,
この「失敗」を本来の失敗と全く同じように感じてしまう人がいるかもしれない,ということです.
僕はそのような人の存在は話でしか知らないし,その人の内心も想像できない.
ただ,「どういう教育を受ければそのような子どもが育つか」については,
話を聞いただけでも想像はできます.
その教育がすなわち「       」です.

+*+*+*

別に最後を穴埋めにする意味はなくて,
そしてここは最後じゃなくてもっと話の展開があるんですが,
まあ今回はこの辺で.
ううむ,これだけをするすると書けるのは「同じ話」を何度も読んできたからですね.
自分のことばであって,自分のことばでない.
面白い.

+*+*+*+*+*+*

というわりとマジメな話に続ける話じゃないんですが,
(まあむしろそうすることでカムフラージュ効果を狙ったということで)
「大手前のオセロ」と呼ばれた(なんつうてブラバン連中にしか分からんが)お二人が,
どうやら「メデタクごおるいん」なされ(てい)たようで(「黒い方」は速報レベル).
このたびはおもでとうございまひ.
しかも全く予想外にマジメに社会人をやっておられると聞き及び,
やはり地球が回ると何でも起こりうるのだなあと感慨に耽りました次第.
そりゃ地軸もズレてくわ,みたいな.
北極点も真っ青よ.

ヒドい話や(扱いが…)
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by chee-choff | 2012-04-01 00:29 | 思考