深爪エリマキトカゲ
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カテゴリ:書くこと( 1 )
書くこと。
今日は久しぶりに駅前へ.
色々あって一月ほどご無沙汰していた.
(色々と言うのは…友人の結婚式とか?)
今読んでいる本に刺激されて「科学の本質」系の本を探しに有隣堂に寄ったのがイレギュラで,
その後はいつも通りブックオフで立ち読み→ベローチェで読書.
カフェではいつも手持ちの本を読むのだけど,
今日は少し気が変わってついさっき手に入れた古本を読み始める.

きりのよいところまで読んで,本を閉じる.
ふと前を見ると,高校生(恐らく3年生だろう)が受験勉強をしている.
何気なく眺めていて,ふと,自分の高校時代を回想し始めることになった.

「回想し始めることになった」経緯は以下のようなものだ.
下地には読中の2冊のとある文章もあるのだが(後述),
きっかけとしては,その高校生の「今勉強してます」という一心さを見て,
「そうだ,高校当時は自分もあのように勉強していた」と思い,
「でもそのかわり(?)何も考えていなかった」と思い,
(このことは僕が思い出すたび後悔を催すテーマとなっている)
それからいつもと違う方向に考えが行って
「当時の自分は何を見ていたのだろうか」と思い,
非常に細かい,そして遅々とした回想が始まったのだった.

手始めには目の前の高校生そのままの絵の自分が,
すなわち高3の時に授業をサボって学校の裏のスタバで日がな一日自習していた姿が出てきた.
Dr.グリップのシャーペンと「まとまる君」を同志に,
数学や物理の問題集をこりこり解いている.
(表紙の絵柄(青&桃や緑&橙色の残像を伴う横向き矢印)は浮かぶが名前がもう思い出せない)
幾何の証明問題ではみえみえの補助線を引いて「錯角」や「同位角」のツール(定理)を使い,
力学で物体のある地点にかかる力を求めるために反力や摩擦力の合力を求める.
その実際の解答をノートに書く自分は,何も考えておらず,そして充実している.
その充実の源は,正しい答えが書けているからかもしれないし,
間違っていても模範解答を見てその間違いを正せるからかもしれない.
その個々の充実を全体の達成感たらしめる拠り所は,今思えば,
「(受験生として)今やるべきことをやっているという正しさ」と,
「(正しい方向に)前進していることが確信できる充実感」にあったと思う.
だから,当時の僕はその正しさのために,そうあるべくして「何も考えていなかった」のだった.

そういった「ノートに書き連ねられる解答」の回想はほんの数十秒のことで,
続いて自分の学ラン姿を思い浮かべ(きっと卒業アルバムの写真だろう),
そこから「家を出てから高校に着くまでの通学路」に思いを馳せた.
この細部の回想のどこかで意味の分からない感動が訪れたのだけど,
その理由の簡単な一つは「卒業から今まで思い出したこともなかったことを思い出した」からだ.

ここまで何度か「細かさ」を強調してきたが,それはこれまでの僕自身の「高校時代の回想」が,
特別なイベント限定でしかもいいとこ取りの不徹底なものだったからだ.
(もちろん軽い気持ちで行う回想のだいたいがそんなところだろう)
しかし細部というだけに,描写できない箇所が多々あり,
また回想が進むうちに先に浮かんでいた回想が高校でなく中学のものであったと気付いたりもした.

・実は(と言うのは今の自分が「意外」だと思うからだが)家から駅まで自転車で通っていたが,
 それは(乗れるようになってから今まで自分が何度も乗り継いできた中の)どの自転車だったのか?
 また駅前の駐輪場(外壁が白地に黄緑の幾何模様だった)の2階の一箇所を借りていたはずだが,
 その駐車スペースはどうなっていたか?(これは今書いている間に思い出したが,
 今ある「自転車止め」(前後輪をレールに乗せるやつ)はなく通路を区切るポール以外は何も無かった)
・自分はどのような鞄を使っていたか?(ランドセルでないことだけは確かだ)
・定期券は「定期入れ」に入れていたが,その定期入れは自分のどこに身につけていたか?
 (ちなみに思い浮かべた最初は定期入れを改札にタッチして通っていたが,その記憶は明らかに捏造で,
 ほんとうは定期入れから定期券を抜いて(抜きやすいようにケース表面が長円形にくり抜いてある)
 改札の投入口に入れていた.そのやや硬質な通過感(?)も覚えている)
・当時の京阪は急行までしかなかったが,通勤時の急行の停車駅はどこだったか?
 (確か枚方公園と守口市は止まらなかったような…と書いて実はここは記憶が特に曖昧で,
 高2か高3の時に特急や通勤特急も走るようになって,「上り」の通勤特急は
 私市から枚方市までは各駅で枚方市からは一気に京橋に行けたのではなかったか)
・高校ではどのような上履きを履いていたか?
 (これも最初は「学年ごとに色の異なるサンダル」(と言ってカラフルなわけではなく,
 二つ上が青緑で一つ上が抹茶に近い黄緑で自分の学年がメタリックな緑だった)を思い浮かべたが,
 確かこれは中学校の時で,そこから想像し直してはいるが高校の時のは浮かんでこない)

といった感じでこれはカフェのテーブルの木目を見つめながら20分ほどやり,
途中から目のピントが合わなくなって去年の恐ろしい出来事をちらりと連想したりした.
そこは今触れる必要はないのだが…
上で書いた「意味の分からない感動」には別の意味もあって,
それは「このような細微にわたる回想は今の自分に欠けているものを取り戻すきっかけになる」
とその時同時に思ったことをも指している.

その感動が訪れた瞬間に「スイッチ」のイメージが浮かんだのだけれど,
何か精神的なフェイズが変わる時によく「スイッチが入った」などと言うのだけれど,
僕の今回の場合はその逆で「スイッチが切れた」のだと感じた.
(より正確には「スイッチを切るきっかけを見つけた」ということなのだが)

なんのことかと言えば,簡単に言えば,どっぷり読書に浸かってこのかた
「万事に過剰に意味を見出し続けていた」のだった,僕は.
何か自分を振り返って気付く時にはいつも思うのだけど,
やはり自分は何かにつけて極端なのだ.
 「ネジ」のイメージで言えば,
 「ネジが緩んで」いてその緩んだ箇所を締め直せば不都合が解消する,のではなくて
 「ネジが足りない」からどこかから締めるべきネジを探して来なければいけないのだけど,
 ネジ穴が噛み合なかったりそれでも無理やり締めようとして「なめて」しまったりする.
という思いつきがしっくりくるかはよく分からないけれど(ぽいっ),
要するに「阿呆」(「アホ」ではなく「あほう」)なのだ.
(さらに形容を許してもらえるなら「森見的阿呆」と言いたいところだが)

閑話休題.
上を少し言い換えて「意味に過剰に価値を見出す」ことの意味するところは,
ある意味で実体を軽視することでもある.
ある物が未完成でも完成していても同じ意味を見出すことができれば,
それが完成していようが未完成であろうが変わらない.
僕はそういう,いや,そう言える(しかも心底)ようなスタンスに憧れ,
「旅行記から想像できれば実際に現地に行く必要はない」と豪語し,
「想像力のある人間ならそれができる」と思っていたのだった.
(自分でこれを省エネ志向と呼んで持ち上げたこともある)
が,こんなことは敢えて言わずとも誰もが思うはずなのだが,
やはり極端である.
やはり阿呆である.


つまり何が言いたいのか.

つまり本記事は
「もう少し実体を大切にしてみてはどうか」
という自分自身へのアドバイスである.

そして現状から少しずつ価値観をシフトしていく具体策として,
文章を書く際に「細部の描写を大切にする」ことを提案する.
何か閃いた時に,その抽象化された内容さえ記せればよいと思って
閃いたきっかけやら過程やらをなおざりにしてしまうのが常であった.
それはそれで要点だけ押えられてよいのだが,
その時に失われてしまうものにも目を向けるべきなのだ.

自分がなぜ文章を書くのか(それは目的であり手段でもある),
ときどき原点に立ち返って考えることも大事だ.

+*+*+*

といったことを考えるきっかけになっただろう文章たち.

>>
言語化の領域を広げていく作業は遅々たる進展しかしてこなかった。これからもそうだ。(…)遅々たる言語化領域の拡張に比べて、テクノロジーによって人間の感覚の未知の領域を広げるような方法は次々に作り出される。(…)
 そのとき、<至福>とか<おぞましい>というような、感覚に基づいて経験の程度を形容する言葉は空疎になる(本当は昔からずっと空疎だった)。形容するだけの言葉は絶対に経験のリアリティを再現できない。言語はそこで起きたことを正確に記述しようとしなければならない。「読む」「書く」(と、それによる思考であるところの文学)が生きのびる可能性の一つは、言語がいまよりもっとずっと解析的に使われることのはずだが、人はそれを望んでいるだろうか
保坂和志『アウトブリード』p.33

僕がスケッチを書き始めたそもそもの目的は、ひとつには、異国にあって知らず知らずどこかぶれていってしまいそうになる自分の意識を、一定した文章的なレベルから大きく外れないように留めておくということにあった。自分の目で見たものを、自分の目でみたように書くこと──それが基本的な姿勢である。自分の感じたことを、本当に感じたように書くことである。安易な感動や、一般論化(ジェネラライゼーション)を排して、できるだけシンプルに、そしてリアルにものを書くこと。様々に移り変わっていく情景の中で自分をなんとか相対化しつづけること。これは、断るまでもないことだが、なかなか難しい作業である。うまくいくこともあるし、うまくいかないこともある。でも何より大事なことは、文章を書くという作業を自らの存在の水準器として使用することである。そして使用しつづけることである
村上春樹『遠い太鼓』p.19-20
>>

もちろんこれらの文章だけでなく現実の出来事もきっかけにはなったんですが,
そしてそれは些細な,とてもありふれた出来事ではあるんですが,
それがいつ「書かれる可能性の中におかれる」かを考えてみると,
恐らくそれを書けるようになった状態とはどういう状態なのか,
まずはそれを手の届く未来として想像できるようになるまでの時間が必要でしょうね.

仕事も相変わらず過渡期です.
あと少し..
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by chee-choff | 2012-05-27 00:21 | 書くこと