深爪エリマキトカゲ
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カテゴリ:併読リンク( 16 )
静謐の源流
きっと、つながっている。

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 簡単に言うと、教師と学生のギャップの問題。(…)教師にとって、この闇の部分の問題を取りだし、光の部分を告発することは、その光の領域での使命感の発露であると同時に、生活の糧を得る手段でもあるのですが、これに対し、学生にとっては(…)それは、二重の意味で、自分の世界を否定し、それから隔てられること、この世界からの隔離の可能性なのです。学生は、光の領域で生活しつつ、その自分のあり方を否定、告発する形で闇の問題を考えるよう促されますが、それは彼らの生活の糧を得る手段とはなかなか結びつきませんから、現実との分裂が生じます。この現代社会像の描き方の中にある光と闇の分裂の問題性が、実は、環境問題における食物連鎖のような連関の果て、これを学ぶ学生の中で先鋭化されます。その結果として、真面目でかつ感性豊かな学生の一部が、非常に悩んでしまうという問題が起こっていることに、いまわれわれは、意識的であるべきだと思うのです。
「二つの視野の統合」(加藤典洋『可能性としての戦後以後』p.268-269)
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 生きていることが素晴らしいとかつまらないとか思うことが、どうしてできるのか、それが僕にはわからない。だって、それを思うことができるのは、僕が生きているからなんだけど、僕には、僕が生きているということがどういうことなのかが、わからないんだ。でも、それがわからなければ、生きていることが素晴らしいとかつまらないとか思うことが、どうしてできるんだろうか。(…)
 たぶん、多くの人は、彼の言っていることがうまく理解できずに、元の賑やかな議論へ戻ってゆくだろう。でも、素晴らしいとも、つまらないとも、どっちともわからないとも言っていないこの彼の考え方こそ、この議論では一番大事で、一番必要なものなんだ。なぜだと思う? この議論の中で、彼だけが、自分ひとりだけに正しいことではなくて、誰にとっても正しいことを、考えようとしているからだ
(…)
 だから、「誰にとっても正しいこと」というのは、「みんなが正しいと思っていること」ではないということも、もうわかるだろう。「みんな」、世の中の大多数の人は、当たり前のことを当たり前だと思って、わからないことをわからないと思わないで、「考える」ということをしていないから、正しくないことを正しいと思っていることがある。でも、いくら大勢で思ったって、正しくないことが正しいことになるわけではないね。だから、たとえそう考えるのが、世界中で君ひとりだけだとしても、君は、誰にとっても正しいことを、自分ひとりで考えてゆけばいいんだ。なぜって、それが、君が本当に生きるということだからだ

「3 考える」(池田晶子『14歳からの哲学 - 考えるための教科書』p20,23)
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by chee-choff | 2013-12-03 00:12 | 併読リンク
ポーチにて
先は長い。

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フロイトは、精神分析的治療を受ける患者が自分の疾患に対してとる態度は、決して肉体的苦痛に対するのと同じであってはならないと、いつも強調していた。患者は、その疾患現象を自分自身の一部と見なすようにならねばならない。かれは、症状とその原因を外的なものとして取り扱うのではなく、ある程度までその疾患に対する責任をひきうける用意がなくてはならない。フロイトは、この問題を、夢の内容に対する責任という類比的な事例において、次のように論じている。
言うまでもないことだが、誰でも自分の悪い夢の動きに対して責任を負わねばならない。……もしその……夢の内容が見知らぬ霊どもがそそぎこんだものでないとすれば、それは私の存在の一部である。(…)」
J.ハーバーマス『認識と関心』p.246-247

その流された血に対して、僕はたぶん責任を負うことになるだろう。自分が裁判にかけられているところを想像する。人々が僕を非難し、責任を追及している。みんなが僕の顔をにらみ、指をつきつける。記憶にないことには責任を持てないんだ、と僕は主張する。そこでほんとうになにが起こったのか、それさえ僕は知らないんだ。でも彼らは言う、「誰がその夢の本来の持ち主であれ、その夢を君は共有したのだ。だからその夢の中でおこなわれたことに対して君は責任を負わなくてはならない。結局のところその夢は、君の魂の暗い通路を通って忍びこんできたものなのだから
村上春樹『海辺のカフカ(上)』p.227-228
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by chee-choff | 2013-06-16 00:15 | 併読リンク
「事件は会議室で起きてんじゃな(ry
勉強中デス。

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 実証主義は、さまざまの違う伝統を持続的に追放し、諸科学の自己理解を非常に巧みに独占した。その結果、ヘーゲルとマルクスによる認識批判の自己止揚以来、客観主義の仮象は、もはやカントを頼りとしては打ち破ることができなくなった。それは、内在的に、自分自身の問題を追及しながら止むなく自己反省に達する科学方法論によってやっと打ち破ることができるのである。合法則的な構造をもった諸事実という即自態(アン・ジッヒ)が在ると諸科学に思いこませ、こうしてこれらの事実をあらかじめ構成する作用を隠蔽する客観主義は、もはや外から、つまり再建された認識理論の立場からは効果的に克服できず、ただ自己自身の制限を超え出る科学方法論によってのみ克服される
J.ハーバーマス『認識と関心』p.77-78

 倫理と科学の統合には、およそ二つの段階が考えられるだろう。ひとつは生物学的方法論そのものに、倫理が組み入れられる可能性。その根拠は「リスク」であり、より具体的に言えば直接人間に関わるリスクである。(…)
 ここにおいて、倫理は科学的方法の一部として明らかにされねばならないし、倫理はそこにおける「リスク」の性格を明らかにしなければならない。すなわち、わたしたち「生き物」が本質的にもっている多様性や変動性そのものが「リスク」であり、そのようなリスク(偶然性と言い換えてもよい)を評価して行動できるような指針を作れる科学でなければならないのである。倫理を科学の外部に求めるのではなく、科学の内部から倫理を提示する段階。科学が倫理とは何なのかを明らかにする可能性である。
港千尋『自然 まだ見ぬ記憶へ』p.98-99
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by chee-choff | 2013-05-29 22:57 | 併読リンク
動じない「同時性」と「共時性」の矜持<併読リンク13>
張り合ってる感じが微笑ましいタイトル.
ちなみにドージマムテキの馬主は大阪出身(嘘)

このカテゴリを使うのは久しぶりなのだけど,
併読中のリンク自体はいっぱいあるのだけどパターン化しているようで
改めて書き起こすこともないなあというものが多かった.
その意味では本記事は繋がり方が新しい.


>>
 最後に,おことわりすべきことがある.これから先は冒頭から巻末に至るまで,接続詞の使用を避けるよう心掛けた.文章を難解に仕立てるという不遜な狙いなどあるわけもないが,もし読者に若干の不便をおかけする場合にはご容赦を乞うしかない.あくまで<遅れ>の積極的な意味を,できるかぎり現前させようと力を尽くした結果であり,(…)
春日直樹『<遅れ>の思考』p.27
>>

>>
(…)止まっている雲もじつは「立ち去ることができない」のであって,ここでは運動障害に罹っているのである.カラスはただそこに「いる」のではなく,「遠出してきた」.運動の結果,おそらく相当に疲労し,なにかにとまって休んでいるのであろう.暗闇は人を吸い込まず,悪夢を「提供する」.ここでは暗闇すら「運動する」のである.(…)ここでは小説に「身を任せれば」いいのである.(…)身を任せていると,運動が心地よく伝わってくる.最後にはメマイまでしてきたから,奇妙なものである.頁から目を離して戸外を見ると,見慣れた風景が,すべて運動の途中経過に思われてくる
養老孟司「運動小説」(『涼しい脳味噌』p.197-198
>>

後者は時評集(新聞連載などをかき集めたもの)で,
この一節は島田雅彦の『夢使い』という小説の書評のようなものから抜粋した.
『夢使い』の本文の記述が動性に満ちていることを紹介していて,
最後の一文を見て僕は「面白そやな!」と思ったのが今日の20時頃.

でこの4ページほどの書評を読み終えて次に手を取ったのが前者で,
これは今日が読み始めで抜粋箇所は序章の最後の部分.
「接続詞の使用を避ける」みたいなこと自分もやろうとしてたな…
と立ち止まって頭を巡らすうちにふと後者の抜粋部分が浮かんできたのだった.

前者は後者の「動」に対する「静」というわけではなく,
(ちょっと趣旨を把握しかねてるかもだけど)記述における時間の流れを隠すための措置らしい.
抜粋部分の章では「こぎとえるごすむ」が時間順序のニュアンスを与えるとかカントがそこから
時間を抜き取った点が革新的とかデリタはドゥルーズは云々…みたいな話があって,
結局「まあそこはおいといて」で幕開けという面倒臭さプンプンの本なのだけど,
テーマが面白そうだし晦渋なんだけど本音が時々ぽろっと出てくるのでなんとか食らいついていく予定.
「考えることそのものを楽しむ」が底流にあればどんな本でも読める気がするので.
以上散漫メモでした.
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by chee-choff | 2012-03-21 00:00 | 併読リンク
「マナー」と「いい加減」<併読リンク12>
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かつてわたしは『<弱さ>のちから』(講談社)と題する書物のなかで,臨床における「専門性」というのは,事態の推移のなかでいつでも「専門性」を棚上げする用意があることだと書いたことがある.──「じぶんを他者の存在にインヴォルヴすることで,逆にじぶんが『乱れて』しまうということ.これを,他者本位と,留保付きでだが,呼んでもいい.他者本位に思考と感受性を紡ぐということ.そのためには,専門家ですらじぶんの専門的知識や技能をもいったん棚上げにできるということ.それが,知が,ふるまいが,臨床的であるということの意味ではないだろうか
鷲田清一『老いの空白』p.203-204
>>

「臨床=現場」という認識を持つ僕には,これらは「上位の臨機応変」の言い換えではないかと思われた.
その場の事態を勘案し,その都度の最適な行動をとる.
しかし,「これまでの経験」を活かしはすれど,それに囚われてはいけない.
経験が裏打ちする「事態の分類把握」とは別次元で,緩衝材を挟まない「剥き出しの勘」を駆動させる.
そのために,「自他の別」を取っ払う,境界をぼやかし曖昧にする.
「他者のことを他者のほうから見る(p.204)」.

 ケアとは無縁な生活をする自分が臨床に興味を持つ所以はこのあたりにあるのだろうな,と思う.
 ケアの場とは,自己の弱い所を他者に開示せざるを得ない場である.
 その自己は,老いるまで他者の目からは徹底的に秘匿されてきたものだ.
 しかし,このような「自己の覆いを外される経験」はケアの場だけのものではない.
 程度差はあれ,人が他者と関わる以上,必然的に起こる.
 その意味で自分の想像力(この駆動源は「引きつけやすさ」だ)の範疇にある.

この後ろに,さらに興味深い記述が続く.

>>
 天田城介が先の著書[『<老い衰えゆくこと>の社会学』]のなかで,きわめて示唆的な語源考をそのケア論のなかに挿入している.「知る」というのは「領(し)る」(=支配する)ということだというのだ.「知る」(=他者を理解すること)が「領る」(=他者を支配すること)へと反転するという落とし穴,それが「専門性」の理念にはある
同上 p.205
>>

この話の構造と「専門性」という言葉から,「アマチュアの物書き」を自称するウチダ氏の言葉を連想した.
ちょっと長いが一つのまとまりをそのまま抜粋してみる.

>>
「早い話」をしながら、かつオープンエンドで謎は謎として残しておくというのは、むずかしい。
本を読むことのむずかしさは、ある程度「分かったつもり」で読まないとそもそも話にならないということと、「分かったつもり」で読むと、自分のフレームワークではとらえきれない深い部分を見落としてしまうということのバランスを取ることである。
「分かっちゃいるけど、分からない」という理解のあり方を伝えるのはほんとうにむずかしい。それは要するに、自分の「頭の悪さ」をできる限り正確に、かつ雄弁に語るということに等しい。
でもね、「自分の頭の悪さ」を正確かつ雄弁に語るのは大変だよ。
だって、そうでしょ。「自分の頭の悪さを正確かつ雄弁に語ることが出来る」というかたちでたちまちそれは権能の語法に転化しちゃうんだから

私はこのように自分の知性の不能を言語化できるんだ、偉いだろ、というのはマナーとして最低だ。(だって不敗の語法じゃないか)
方法としては有効だろうけれど、マナーとしてはよろしくない。
ほんとうに大事なのはマナーだ。
これは原理原則があるわけではないから、むずかしい。
「読み手になんとなく信じられる」文体というものを探し出す他ない。
たぶん、その人の人間性の厚み以外に頼るものがない

11月19日(2001年 内田樹ブログ「夜霧よ今夜もクロコダイル」
>>
(似たようなことは氏は何度も書いているけれど,前にも抜粋した箇所だからかここを連想した.)

どちらも,
「物事を二元論的にとらえて一方を悪と措定し,もう一方に突き進むとどうなるか」
について書かれている.
価値観が一方向に偏り過ぎると,良かれと思われた価値が「反転する」のだ.
これに気付かないことがあるのは,色々言い方はあると思うが,
一つには「安心してしまう」からだろう.
 ある仕事をするにも,逐一「その仕事をする意味」を考えながらするのは相当疲れる.
 札束を数える銀行員が「お金って何だろう」と考え始めれば手が止まるし,
 マグロを捌かんとする板前が「魚も俺と同じ生き物だよな…」と思えば包丁は手から滑り落ちる.
 …なんか喩えが違うな(笑)
「水を得た魚」というけれど,「その水の出所を問わない魚」のようなものだろうか.

だから偏り過ぎるのは良くない,とは簡単に言えて,
しかしそれを実践するのはやはりとても難しい.
「こうすれば大丈夫!」という即効薬(ウチダ氏抜粋でいえば「原理原則」)はなくて,
しかし「その方向性でこつこつやれば見えてくる」という,
それこそ過去の人々の経験に裏打ちされたスタンス(姿勢)のようなものはある.
ウチダ氏の話の中でのそれは「マナー」であり,
ワシダ氏の話の中でのそれは「いい加減」である.

>>
聴くひとの前で話すひとは,聴かれるひとという受動者でもある.聴くということも,無謬性の理念のなかで極限化してはならないということ,である.「いい加減」ということが,だらしないという意味,そしてこれしかないという絶妙のバランスという意味,そうした対極にある二つの意味のぎりぎりの両立のなかでなりたつときに,「あれでよかったんだ」と後でおもえるケアがなりたつのだろう.「完全なケア」とか,「共感」の要請という,ケアの場での一種の強迫観念がもつ息苦しさも,こうした「いい加減」が視野に入っていないところからくるのだろう.
同上 p.203
>>

+*+*+*

実は二つ目の抜粋(「知る」が「領る」へ反転するという話)を打ち込んでいる時に,
別の連想が働いてしまったのでここに同時に書いておく.

>>
「最も深く,最も個人的に苦悩しているとき,その内容は他人にはほとんど知られず,窺い知れないものである.そのようなとき,人は最も親しい者にさえ隠された存在である.(中略)だが,苦悩する者と知られたときには,苦悩は必ず浅薄な解釈をこうむる.他人の苦悩から,その人に固有の独自なものを奪い去ってしまうということこそ,同情という感情の本質に属することだ.──『恩恵をほどこす者』は,敵以上に,その人の価値や意志を傷つける者なのだ」
ニーチェ『悦ばしき知識』三三八
>>

(この抜粋は『これがニーチェだ』(永井均)からの又引き)
これは「自分を他者に委ねる気の全く無い者の謂い」にも聞こえるが,
そういう思考もあり得ることはとてもよく分かる.
独りでいたいと心底願って止まない人間,
「おまえと今日という時代のあいだに,少なくとも三世紀の皮膜を張れ」(同上)と宣う人間からは
自然に発せられる言葉なのだと思う.

まあ,理解と共感はまた別次元の話.

+*+*+*

「措定(そてい)」の類語の多さにびっくり.
それだけ使いにくい語なのだと思う.
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weblioには毎度お世話になっております.
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by chee-choff | 2011-11-27 19:36 | 併読リンク
機能と構造<併読リンク11>
海で蒸発して雲となり,山あいで雨を降らし,川に流れて海へ行き着く.
その流れの中で植物を潤したり魚の住処を形成したりする,
という,水の「流れと作用」の話.

>>
(…)流れのあるところに作用があり,作用のあるところに流れがあるのではあるが,流れが作用するには手応えが要る.科学の言葉を借りれば,電気抵抗,流体抵抗というインピーダンスがこれにあたるが,いくら流れがあったとしても,手応えのないところに作用はない.手応えのない場合の流れを空流動という.
 どのような流れに対して,われわれがどのような手応えを示すかによって,時間的には未来が,空間的には世界が変わる.
森政弘『「非まじめ」思考法』p.207 流れの手応え
>>

この「流れと作用」の対から,別の対を連想した.

>>
(…)脳はたしかに「物質的存在」である.それは「脳」として取りだすことができ,したがって,その重量を測ることができる.ところが,心はじつは脳の作用であり,つまり脳の機能を指している.したがって,心臓という「物」から,循環という「作用」ないし「機能」が出てこないように,脳という「物」から「機能」である心が出てくるはずがない.言い換えれば,心臓血管系と循環とは,同じ「なにか」を,違う見方で見たものであり,同様に,脳と心もまた,同じ「なにか」を,違う見方で見たものなのである.それだけのことである
養老孟司『唯脳論』p.31 心は脳から生じるか
>>

養老氏の言うのは「構造と機能」の対である.
連想した時の印象としては「それはこれと同じじゃないのか?」だったのだが果して…


それぞれの対の後者(=「作用」と「機能」)は養老氏が並列しているように同じものだが,
前者(=「流れ」と「構造」)はどうなのだろうか?(1)
あるいは,「構造と機能」が,「同じなにかを違う見方で見た」ように,
「流れと作用」も「同じなにかを違う見方で見た」時の二つの名なのだろうか?(2)

まずは(1)から検討してみよう.
「流れ」も「構造」も多くの要素が集積して連関する様子の表現だが,
一般的に「流れ」には動的な,「構造」には静的なイメージがある.
だが,動的・静的を有時間・無時間と言い換えようとすると,それは違うと気付く.

 「構造」はものの仕組み(ストラクチャ)だけでなく,人間心理や社会現象など,
 ひろく要素同士の相互作用のしくみや原理をも含んでいる.
 それらを静的に捉えようとするのは脳の癖であって,社会現象などは本来,
 変化の徴候を見出すにも長い時間を要するものである.

 一方,無時間的なものを「流れ」と表現することはほとんどないが,
 決して一定速度でない「(体感の)時間の流れ」や,先の発言の意味が会話の進行に任せて
 解明されていく「コミュニケーションの流れ」といったものを考えると,
 「流れ」とは空間的に表象できないものの総称(それを時間的と呼ぶのだが)と言える.

このように考えてみると,「流れ」と「構造」を同じとは言わないまでも
(典型的な使用例でお互いを入れ替えるとやはり違和感がある,というか別の意味になる.
川の流れ→川の構造,学校教育の構造→学校教育の流れ,といった感じ),
抽象して並列させることは可能だ.
例えば「多くの要素が集積して連関する様子」といったように.
…あれ,最初に戻って来ちゃったな.

さて,次は(2).
これは「そう言えるかどうか」よりは「そう言えると何が起こるか」を考えた方が面白そうだ.
最初の対比を使えば,「脳(=構造)と心(=機能)」についてそう言うことで,
心脳問題があっさり解決した(!).
では「流れと作用」を同じものと見ると…?

「しくみ」に思い至れるわけだ.
森政弘氏の水の例えをそのまま借りれば…
川に魚がいて,魚を捕って食べて暮らすだけでは「作用(=魚がいる所)」しか見えていない.
あるいは川を「なんでも自分のところから流してくれるもの(=作用)」ととらえると,
川で洗濯をしたり排泄をすることに違和感がない(というか昔は普通だった).
それが川の下流に暮らす人のことを考えるに始まって果ての生態系に思い至るには,
「作用」に「流れ」をつなげて考えなければならない.
つまり「流れと作用」を同じものと見ることは,
「地球資源は有限だということが世界の共通認識」である現代では当たり前のことなのだ.
…うん,何も目新しいことはないな.

+*+*+*

『「非まじめ」思考法』(森政弘)を読了.
ものの考え方をいろいろ提示してくれる本は結構好きで何冊も読んできたが,
本書は読みやすいにも関わらず深い示唆に富んでいてとても面白かった.
「矛盾」がキーワードであるところ,自分の興味(内田樹とか)と一致したのだと思う.
(「非まじめ」とは「まじめと不まじめの超越」,両者の次元を上げる物の謂いである)
著者はロボット工学の人であると同時に仏教への造詣が深く,
「人」と「理」の両方に長けた視野の広さが驚くべき発想力の源となっているようだ.
偶然にして得難い出会いとなった(BookOffで森博嗣の文庫棚と同じ列にあって手に取ったのだ).
読み返してコメントを付したくなる箇所が多くあることは間違いないが,
「読み返し本」を溜めているので,今回は読了前にふと閃いた一点にのみ触れておく.
>>
 逆に物の世界では,生産が本流で,修理は付属的な一段低いものという通念がある.(…)日本は工業立国で,生産ができたから,どうしても作る者の立場が強くなっている.作ったからには,故障したときなおさなくてはならないから,仕方なくやっているという気持ちがあるのかもしれない.(…)
 ところが,なおすということは,非常に人間的なことなのだ.だいいち,故障というものは画一的ではない.作るときは自動化で大量生産できるが,なおすとなると,こわれ方は一律にはいかないから,故障品をズラッとならべてオートメーションでなおすというわけにはいかない.ひとつひとつ違うものを相手にするということは,人間的なことである.
p.193-194
>>
つい最近,「新しいものを創るよりも既存のものに新たな意味を見出すことに興味がある」と書いた.
この「新たな意味」とは昔に活かされた機能を現代に改めて発揮できるように読み替えた意味のことだが,
この抜粋でいう「なおす」ことと,「新たな意味を見出す」ことに似たものを感じたのだ.
 故障品を直すには,どのような過程で壊れたかを把握しなくてはならない.
 昔のものに新たな意味を見出すには,それが活かされていた時代を知らなくてはならない.
どちらも,知りたいことを直接知ることはできず,結果として目の前にあるものを見て,
あるいは文献を参照しながら想像するしかない.
そしてその想像の仕方が,案件ごとに個々別々,法則はあっても極意がない.
そんな「一般への還元し難さ」に自分は惹かれている気がする.
 いや「普遍を目指す」と前に(=上の「最近」)書いたことと矛盾しているように見えるが,
 この普遍は「誰もが個々の文脈を読み込める」という意味があってややこしい.
 人は"究極の個別"だと他者と分かり合えないし,"究極の普遍"だと他者と区別がつかない.
 その中庸というよりは「両者のいいトコ取り」を目指すのだけれど,
 うん,言葉で言うほど簡単でないのは,言葉で言えるほど簡単に分かる.
 うん? 何か言えそうだから言ってみたけど,この反復はあまり聞かないな…
まあ,その志向はいいとして,どこかでそれを社会と繋げないといけないんだけど.
あ,「それで食べていく」ならの話ね.

「非まじめ」思考法 (講談社文庫)
森 政弘
4061842552

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by chee-choff | 2011-11-19 23:08 | 併読リンク
「一般性の喪失」の両極<併読リンク10>
以前にした抜粋をもう一度.

>>
(…)日本の近代の散文のスタイルは,それによって書かれた思想のスタイルにも影響し,つねに特殊状況から離脱した抽象的シンボルからはじめて抽象的シンボルの形成におわるという,悪しきシンボリズムに停滞させる危険がつよい.私たちは,つねに身ぶりから象徴への線をたどることをくりかえす練習方式を考えたい.そして,その練習の中で,身ぶりを身ぶりとして向上させるという任務と,象徴を象徴としてよりよく結晶させるという任務と,二重の任務を負うことが今までよりは,たやすくなる.
鶴見俊輔『限界芸術論』 円朝における身ぶりと象徴 p.282-283
>>

これと同じ話なのではないかな? という箇所を見つけた.

>>
 自己(「この私」)の思いに固執して授業時間を空費させることもある.もちろん,わざとそうしているわけではない.だが,その生徒の考える「わからないところ(こと)」に一般性や公共性がないのである.生徒の一人ひとりの「この私」が思ったことを,一般的な「私」が思ったことに昇華させて提示してくれないからである. その生徒の固有の,「この私」が質問してくるような気がするのだ.
諏訪哲二『学校のモンスター』 「わからないこと」に一般性がない p.162
>>

ここでいう「この私」というのは,"決して比較されない自己についての,感情的な確信(p.171)"のことで,
「この私」を上から眺めている「私」の立場に立ててはじめて近代的自我を持っているとされる.
そして「この私」がむき出しのままでは他者との共感を一切望めず,誰にでも共通する
近代的なひとのあり方(「私」)の語法に乗せることで初めて交感可能となる.

今の子供たちは,時に「私」の視点を持たず「この私」の語法で公共の場(=学校)において振る舞うため,
教師は「教師」として対応することができないと諏訪氏は言っている.

>>
 高校の教師をやっていたとき,授業中(英語)に質問されると,だんだん困る事態が生じてきた.もちろん,教師は生徒の積極性として質問を歓迎するものである.また,質問がむずかしくて答えられない,といった類のことを言っているのではない. だんだんと「生徒」による「教師」への質問では,なくなってきたのである.その生徒の「この私」が独自な質問をするようになっていった.その質問の内容をみんなに開示して,みんなのためにもなるように説明することが困難になり,できなくなってきた.
諏訪哲二 同上 質問が質問でなくなるとき p.160
>>

子どもに「私」の視点が形成される以前に「自分で考えて,自分で行動しろ」と言ってしまうと,
周りとの比較の一切が不可能である「この私」でもよいということになり,
他者との協調性を備えた社会人として育つことができなくなる.
「子どもたちは自覚のないまま,なるべくしてそうなっている」という話に首肯しながら
「今の教育現場というのはホラーだな…」と子どもにも教師にも同情してしまいそうだが,
(と他人事風情を漂わせまくっているが,いちばんのホラーは85年から始まったとされる
 消費主義的社会の洗礼に僕自身が教育課程でどっぷり浸かってきたという事実だ)
ここでしたいのはその話ではなく.


最初に抜粋した鶴見氏のいう「悪しきシンボリズム」とは,両者の表現を借りれば
身ぶりの抜け落ちた象徴,「私」における「この私」の不在,のことだろうか.
何か崇高な事を語っているように聞こえて,全く実感が湧かない.
それを語る当事者ですら,内容を気に留めず形式に堕している.

一方で諏訪氏が語っている現代の一部の子どもの現状というのは,
「私」が未確立で「この私」がむき出しの状態,象徴に昇華できない身ぶりの氾濫といえる.
自分自身で考えろと言われて,考えてはいるが,それを他人に伝わる語法に乗せられず,
そもそもそのような語法の存在(必要性)すら認識していない.

どちらも他者の共感を拒んだ,「一般性を喪失した状態」として同等と思われる.
この同じ現象が,十分過ぎる教育を受けてきた知識層と,教育課程のまっただ中にいる若年層の
双方に見られるのは,なんだか現代特有であるような気がする.
いきなり大雑把な話になるけれど,科学(学問)にしろ労働にしろ細分化が進んで
物事の全体を見る能力に対する評価が下がり,その力を育成する方法が廃れ,衰えた結果ではないか.
分かりやすさが奨励され,複雑さを忌避する価値観もこの趨勢に加担しているのではないか.
しかし,「個人主義の隆盛」の当然の帰結であるような気もする.

このあたり矛盾で溢れているようで,矛盾など一つもないようでもある.
ただ,様々な現場で起こる現象が,その深い所で繋がっていることは確かだ.
そのリンクを見極め,一つひとつを解明していく作業は,
たとえ社会が必要としていなくても,その社会において全く努力の報われない行為であっても,
誰かがやらねばならない.

…これも「雪かき仕事」だろうか?
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by chee-choff | 2011-09-11 21:14 | 併読リンク
日本人の抽象力<併読リンク9>
2011/06/11 18:50
タイムリーに話が繋がった(=リンクが生じた)のでメモ。

『大不況には本を読む』(橋本治)を今日読み始めたが、
そこで「経済侵略」を「経済発展」としか言わなかった経済成長期の日本の話があった。

ここには「現在の世界的な不況は日本のせいだ」という今まで耳にしたことがない
衝撃的な論が展開されているが、Vシリーズ(森博嗣)の引用をブログに載せた自分は
(この1つ前の記事のこと)その中(=以下の抜粋)に一つのリンクを見つけた。

>>
 その地域のどこかには、一時的な繁栄があった。でも、その中心はかつての「経済の中心」からはずれている。外からやって来た大資本は「自分達とその周辺」を潤して、古くからあるその中心地域のありようを侵蝕してしまった。だから、そこは「寂れた」になるのです。日本の小さな地方都市や町を「小さな国」に置き換えてしまえば、これは立派な「侵略」です
 経済には、それだけの力がある。でもこれは、「軍隊」というものを出動させないものであるがゆえに「侵略」とは言われず、「戦争」とも言われないのです
橋本治『大不況には本を読む』p.60 「経済」だって「侵略」になる
>>

先にリンクが形成された結果の結論を言えば、「日本人の抽象力の無さが世界不況を招いた」のか、と。
「抽象力の無さ」は、よく言われる「実際的な日本人」と対を成している。
逆に言えば、「経済発展」を「経済戦争」と表現する、つまりかつて日本が犯した他国侵略戦争とそれを
同列に捉えることができていたならば、ハシモト氏の言う「日本車輸出過多とバランスを取るために
アメリカ製品を買え」というアメリカの要請(氏はこの要請に日本が応えた事が
経済発展至上主義→グローバリズムの台頭→金融危機という流れの元凶と説いている)を
「じゃあアメリカに日本車を売らなければいいんだね」と85年の日本は突っぱねることが
できたんじゃないかな、と思ったのだ。
 「同列に捉える」を具体的に言えば、(為政者の話はおいといて)個人が「経済戦争」に
 荷担するか否かの選択に迫られた時(上の話とつなげて例えるならば中曽根康弘が85年に
 「一人百ドル相当の外国製品購入を」と国民に訴えた時)に、大東亜戦争の悲劇を連想すること。
 …まぁ僕が生まれる前の話でもあるし、まるっきり机上の空論と言われればそうなんですが。

許されない他国の侵略。
無実の一般人が大量に虐殺される悲劇。
自国の被害からそれを実感した日本は、「戦争を二度としてはいけない」という共通認識を得た。
しかしそれが、構造を同じくする別の機会に生かされることはなかった。


という捉え方もできないだろうか。
そしてこういう分析を積み重ねることで、抽象の大切さを世に問うことができないだろうか。

全く実質がついてこない「大言壮語もいいところ」ではあるけれど…
考えるだけなら誰でもできる。
そして「誰でもできる」の積み重ねが「誰にもできない」を可能にすることも、ある。

いや、まだ「あると信じる」としか言えないが。


+*+*+*+*

23:54
自分が「抽象好き」なもんだから上みたいな話にもっていったけれど,
当該ハシモト本を読み進めていると「ちょっと無理したな」と感じた.

というのも,端的に歴史を繙(ひもと)けば「経済と戦争は繋がっていた」のだ.
ここでの経済は「貿易」と言った方がいいのだけれど.

>>
(…)結局日本は武力侵略を受けなかったので,このことはあっさりと忘れられていますが,「世界的な近代の初め」である十九世紀の貿易は,「貿易をしないと言えば武力侵略を受ける可能性があったもの」なのですね.「自由貿易協定」とか「WTO=世界貿易機関」とかいろいろ言っていますが,その貿易の出発点は,結構ヤバイものだった.そして,世界は今でもその尻尾を引きずっているのですね.だから,「世界一の輸出大国になってしまった日本への嫉妬」というものは,十分に起こりうるのです
同上 p.110 実際的な日本人が忘れていること
>>
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by chee-choff | 2011-06-11 22:02 | 併読リンク
同義反復的事態<併読リンク8>
2011/04/13 23:55
>>
 大衆とエリートとを区別するものは、だれにでも接近可能な、しかもそれ自体あまり価値がないと見なされている「受験知識」の多寡である。それがたとえ、頭のよさや努力の反映であるとしても、それだけでは、ひとつの社会層を構成するのに十分な文化的基盤を提供できない。一部の偏差値ランクの高い大学がそこに特有の学生文化をつくりだしたといっても、それは大衆消費文化に簡単に飲み込まれてしまうほどの文化でしかなかった。その意味で、学歴社会は、実体的な内容を伴った教養という文化の共有によってむすびつけられた学歴エリートの身分集団化を阻んだといえる。学歴社会のエリートたちは、文化的には自らを大衆から画する術をもたない、大衆の延長線上にある成功者と見なされたのである。
 学歴社会という私たちになじみのある社会認識のしかたがこのような見方を枠づけ、流布させていった。そうした見方にしたがって、人々は学歴エリートを見つめる。そして、その視線は、学歴エリート自身のものでもあった
p.143 第四章 大衆教育社会と学歴主義(苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』)
>>

階級社会であるヨーロッパでは通う学校も階級ごとに異なり、
入学試験による選別(そこでは教養が問われる)もそれを前提とされる。
そうして形成される「エリート」と比較しての、
学歴社会たる日本の「学歴エリート」の文化の無さを
説明しているのがこの抜粋部分。
ここはここで「たしかに…」と思わせるところであったので
多めに抜き出したのだが、併読リンクの抜粋である事から
ご察しの通り、本来の意図は別のところにある。

この抜粋部分を思い起こさせた文章がまた、
内容的には全く無関係であるところが面白い。
このリンクこそ「構造のつながり」であり、
「そういう読み方をしている」という自分の
読書姿勢を示す格好例となってくれる。

>>
山口百恵から中森明菜へ至るアイドルたちの変遷は、「スター誕生」というアイドルたちの駿台予備校から、ホリ・プロというアイドルたちの東京大学へという、アイドル生産の完結した様式の頂点をうつしだしています。そこでは、アイドルたちは、その魅力によってアイドルになるのではなく、アイドルになることを願う少年少女たちに、競争をくぐりぬけてアイドルとなったことによってアイドル視されるという同義反復的事態がおこっていたのです。
p.392 アイドルの「構造と力」(高橋源一郎『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』)
>>

 (本書は初版が平成元年。タカハシ氏だから、という理由だけで
  買ったM1当初はホントに意味不明さに参って訳の分からぬまま
  牛歩の遅読が続いて最近やっと読み終えたのだけど、
  タカハシ氏の凄さに気づいてから読み方が分かったような気がしたので
  もう一度読み直すのもアリかもしれない。
  私事ですが。
  背表紙の説明のイミフさで分かってもらえると思います。
  ということで最後に抜粋しよかしら)

もしか全く縁のないアイドルの話でありながら「受験のメタファ」を用いているから
苅谷氏の話を思い起こしたのかもしれない。
(実は僕は元駿台生だったりもする)
てかきっとそうだ。

二者に共通の構造とは、タイトルの通り「同義反復的事態」ですね。
前者はちょっと違うんじゃないか、と思われそうだが、
言い換えると前者では学歴エリートと(学歴を意識している)そうでない人々、
後者ではアイドルとアイドル予備群(の若者)が「目線を共有している」。
共犯関係、とも言えるだろうか。
祭り上げられた方は選別意識を持てず(前者でいえばそこに
「ノブレス・オブリージュ」が欠如している)優越感と居心地の悪さが共存しており、
祭り上げる方は劣等感を抱えながら同時に
劣等感を生み出す土壌を耕すことに荷担している。
両者がなにがしかの鬱憤を抱えつつもその状況にとどまれるのは、
「どこかで同じところがある」という思いによるのだろう。
たぶんそれは事実なのだ(というかその手の話は
「思い」以上のものにはならないのだが)。
この(不健康そうな)共依存関係が良いか悪いかは
(苅谷氏は確かよくないと言ってた気がするが)
ここでは触れない。
…。

そうか。
アイドル文化の構造も、階級社会でない日本の特徴である、
と考えることができるのか。
うん、じゃあこれ収穫ってことで。
2011/04/14 00:35


2011/04/14 23:10
同じ構造はいろんな所で見つけられる。

>>
 少なくともわが国では、「弱者」や「マイノリティ」の問題には、これまでいつも次のような空気がつきまとってきたのが感じられる。それは、マイノリティの当事者以外には、マイノリティの問題を語る資格はないかのような空気である。(…)
 このような空気はだれが作ってきたのか。一言で言うなら、特定のだれかというのではなく、まさにマイノリティに属するとされた人たちと、そうではない人たちとの関係がつくってきたのである。つまり、「弱者」と「非弱者」、「被差別者」と「差別者」という形で区別された既存のバリアーそのものが、ブレーキの役割を果たしてきたのである。
p.11-12 プロローグ(小浜逸郎『「弱者」とはだれか』)
>>

小浜氏はこのことを「遠慮の構造」と呼んでいる。
やはり、構造なのだ。
2011/04/14 23:16


忘れてた.
『しまうま〜』の背表紙の文句はこんな感じです.

カーヴァー、清原なつの、カポーティ、則巻アラレ、『別マ』、マルケス、中島みゆき、キャンディーズ、ゴダール、城みちる、ジム・モリスン、団鬼六、カルヴィーノ、しまうま、野田秀樹、西城秀樹、メンフラハップ、イーディ、三浦祐太朗、タカラジャイアント、ナウシカ、るそんすけざえもんのことが一冊でわかるのはこの本だけ。構想10年、伝説的百科全書エッセイ集、堂々文庫化なる。
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by chee-choff | 2011-04-27 19:34 | 併読リンク
成功譚が固定する「苦労」あるいは「我慢」<併読リンク7>
>>
 十五年ほど前,正確なことは忘れたが,ある新聞記事を読んだ.そこでは松下幸之助氏あるいは本田宗一郎氏のような,学歴はないが,世の中でたいへん成功した人が,若くて貧しいために就学の機会を失う若者が可哀想だと考え,そのために新たに奨学金を創ったと報じられていた.
 この記事を読んで,私は思わず「なぜそんなことをするんだ」と叫んでしまった.その場にいたのは家内だけだったから,たちまちたしなめらた覚えがある.「だれかがいいことをするんだから,あなたが文句をいうことはないでしょう」.そういわれて,そうかと黙ったが,それから長いこと,これが気になっていた.いまではなにが気になったのか,自分の頭のなかがやっとはっきりした.この人は自分の過去を肯定しているのか,否定しているのか.それが当時の私に浮かんだ根本的な疑問だったのである
養老孟司『あなたの脳にはクセがある』p.35
>>

本書を読み終えて1週間も経たぬうちにこの部分が呼び起こされたのは,
ハシモト本のある一部を読んでのことだ.

>>
「我慢は貧乏によって生まれた」などと考えられて,確かに「我慢」は「貧乏」からも生まれてはいるのですが,「貧乏だから我慢をしなくちゃいけなかったんだけど,でもその我慢自体はそんなにいやじゃなかった」という種類の「我慢」もあるのです.「我慢」の問題は,「いやか,いやじゃないか」というファクターの方が大きくて,その「いやか,いやじゃないか」は,人間関係に起因することが多いのです.
「やなやつから強要される我慢には堪えられない」──これは本当のことでしょう?
橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』p.205-206
>>

もちろん想起された理由あってのことだが,
ヨーロー本(そろそろ慣れ親しんできたのでこう呼んじゃいます)の該当箇所を探し,
何度か読み返してからやっとその理由が前景化してきた.

養老氏の挙げた成功者が自分の過去を全く肯定していれば,
自分と同じ苦労をさせないための奨学金設立という発想は持たないだろう.
もちろん肯定できるはずもない苦労をされたからこそ,なのだと思う.
その成功者の苦労と成功からくる善意には疑うべき所はない.
養老氏はその曇りなき慈善行為の裏面を見ている.
すなわち,「苦労はしないに越したことはない」というイデオロギーが,
ここでは何の疑いもなく肯定されているのである.
そうすることで失われる視点とは,ハシモト氏の言う
「貧乏だから我慢をしなくちゃいけなかったんだけど,でもその我慢自体はそんなにいやじゃなかった」
という類の苦労=我慢なのだ(勝手にイコールで結んじゃいますが).
言い換えると,「我慢」を構成する「良い我慢」と「悪い我慢」のうち,
「良い我慢」がそこからすっぽり抜け落ちる.
 「良い我慢」と「悪い我慢」の別については良い記述がある.
 「良いか悪いか」よりは「タメになるかならないか」の方がいいかな.
  >>
  (…)だから,「我慢は現状に抗する力である」というモノサシがあれば,
  「ああ,自分がするのは,“強要されるしたくない我慢”ではなくて,
  “この不愉快な現状に抗する我慢”なんだな」ということが分かります.
  橋本治 同書 p.205
  >>
  この辺りには「ガマンなんてするもんじゃない」という安易な快楽主義を
  戒めるに十分な論理が展開されていて,「我慢できることは能力なのだ」
  と納得させてくれる.考え過ぎる一部の子どもには朗報となりそうな箇所.
この手の論に「苦労しない人間だから言えることだ」という反論がしばし投げられるが,
(余談だが,ウチダ氏はよくそのテーマで標的になっている)
それは「無垢に言える言い易さ」の問題であって本質は誰が言っても変わらない.
ずばっとまとめれば「短絡はものごとのいち側面を覆い隠す」.
単純化のメリットももちろんあるけれど,「単純化によって隠れてしまうことがある」ことを
みんなが忘れると当初のメリットを大幅に上回るデメリット(しかもこれはすぐには見えてこない)が
生じるという構造の存在は確認し過ぎて困ることはない,ということでこれ今回の結論.

上でのヨーロー本抜粋の続きにはこうある.
>>
(…)しかしともあれ,私にとっては,この話のある一面だけが気になった.つまりそれは,人々は自分の過去を一般にどう評価しているのだろうか,ということである.それがなぜ問題かというなら,その集約が日本人の歴史に対する態度を決めるだろうと考えたからである
養老孟司 同書 p.36
>>
ここからスケールがぐんと大きくなって話が面白くなるのだけれど,
それは本書を買ってのお楽しみ☆
というシメで本記事は見事に書評へと昇華するのであった…
やった!(ツッコミ不在)

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これ書いてる途中ですっげ揺れた.
震源地が静岡東部で6強だって.
近!
しかし今回のでコツを掴んだ.
震源地が近いと最初に縦に高周波で揺れるんね.
意識せずとも身体に刻み込まれてしまった…
ちょっと疲れるね..
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by chee-choff | 2011-03-15 22:56 | 併読リンク